2012年09月27日

城下町へ行こう!「犬山の城下町」

岐阜県と愛知県の県境に流れるのは木曽川。
そこにあるのは国宝・犬山城です。

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犬山城は、愛知県犬山市にあります。人口7万5672人、面積74.97㎢、特産はげんこつ飴、アユの甘露煮・・・

「木曽川を制する者は天下を制す」

信長・秀吉・家康・・・軍事・交通の要所であることと美しい城であることで、奪い合ったとも言われています。

犬山城が建てられたのは1537年、信長の叔父織田信康が築城しました。
以来、数々の武将が城主となりましたが、江戸時代城主となったのは、小牧・長久手の戦いで活躍した武将・成瀬正成でした。

正成が、尾張藩附家老として入って以来、250年にわたって成瀬氏によって治められてきました。


日本最古の城・犬山城・・・別名・白帝城とも言われます。
三層四階の望楼型天守閣です。

この犬山城は、1871年・明治維新の時に国に返され、愛知県の所有となりましたが・・・
1891年に東海地方を襲った濃尾大地震で城が崩壊・・・
当時の明治政府にその修理のできるお金はなく・・・
城の廃棄を決定しました。

そこで・・・その修理を条件に成瀬家と犬山の人たちが立ち上がります。
修理代を負担し、2004年まで成瀬家の所有となり、12代400年にわたって、成瀬家が守ってきました。

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木曽川は、鵜飼で有名です。
8世紀から、行われていたといわれ、3代城主・成瀬正親が保護しました。

からくり人形と車山。

毎年4月に行われる犬山祭。
1635年に始まった犬山城下の針綱神社の祭礼です。
城下の町ごとに13の車山を出します。

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高さ8m、重さ5tの車山を人の手で回転させるどんでん・・・
山車の上では、からくり人形が舞いを披露します。
どんでん館で、その様子を見ることが出来ます。

漆の塗り直しで3000万、幕を新調しても3000万・・・
時価3億円の車山もあります。

当時徳川家は7代徳川宗春が治めていました。
宗春は、派手好きで知られています。
わざわざ京都からからくり人形師などハイカラな人たちを呼び寄せました。
以前からあったお祭りを、推奨したのです。

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しかし、当時は8代将軍吉宗が、質素倹約を推し進めていました。
祭りは規制の対象になっていました。
宗春は、真っ向から対立、規制緩和政策をし、お金のかかる祭りを推奨したのです。
そのおかげで経済的に発展、金回りがよくなって、尾張藩自身が発展しました。
茶運び人形には、セミクジラのひげが使われています。


有楽苑には・・・
国宝茶室「如庵」があります。
全国に3つしかない国宝茶室です。
織田信長の実弟で、千利休の七哲の一人“織田有楽斎”が建てた茶室で、有楽斎のクリスチャンネーム“ジョアン”からきています。
江戸時代初期に京都で建てられ、昭和に入って故郷の尾張に移築されました。

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犬山には、「桃太郎伝説」があります。
桃太郎は岡山では???

桃太郎神社。
昭和5年に創建されました。
犬山に、桃太郎に関する地名が多いということだそうですが・・・

毎年5月5日には、桃太郎祭りが開催されます。
この地名は犬山ですが、他にも猿洞、雉ヶ棚、鬼が島、桃山・・・と、そして、村々を桃太郎が守ったという伝説が残っています。


豪華絢爛な祭り、伝統のからくり人形、そして、鵜飼・・・
日本最古の城に抱かれた犬山は、人々が歴史と文化を大切にしている城下町でした。



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2012年09月19日

城下町へ行こう!「水戸の城下町」

水戸と言えば、水戸黄門。
今回は、城下町に残る水戸黄門の不思議です。

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茨城県水戸市。
人口26万9335人、面積217.43㎢、特産は納豆・梅・あんこうです。
常陸国水戸は28万石、徳川御三家のひとつ水戸家が長くその地を治めてきました。

水戸藩初代藩主は、家康の11男・徳川頼房。
頼房が、城下町の基礎を造りました。
それを発展させたのが、二代藩主の徳川光圀でした。
この光圀が、名君と呼ばれた水戸黄門です。
幕府の中で絶大な発言力を持つ副将軍として活躍しました。


水戸城は、東西およそ3.5qの広大な敷地を誇っていました。
しかし・・・石垣は一か所もありませんでした。
400年にわたり、土塁が城を守ってきたのです。

でも、どうして石垣を作らなかったのでしょう???
石垣にお金をかけるなら、水戸藩の伝統として、学問に・・・人間教育にお金をかけようとしたのです。
というのも・・・

水戸にはお殿様はいませんでした。
御三家は、諸藩の中でも最高位。中でも水戸藩は定府制を取っています。これは、江戸時代において、参勤交代を行わずに江戸に常住し、将軍や藩主に仕えるのです。
そのため水戸の殿様は、いつも江戸にいたのです。

その中でも、光圀は唯一、水戸で産まれた殿様でした。
そこは・・・水戸黄門神社となっています。

水戸光圀は、とってもイケメンでした。
「桃源遺事」には・・・
 御色白く 御像高く
 世情にて美男の聞え有り
光圀のいるところには人垣ができ・・・江戸のスターだったようです。

黄門という名は、中国の官職名で、「黄門侍郎」の略称です。
皇帝に仕え、家臣たちに仕事を伝える中納言です。


水戸黄門は7人いた???
歴代藩主の中で、中納言になった人は7人いましたが、水戸で生まれ、隠居後水戸で過ごしたのは黄門様だけです。
人々は、特別な親しみを込めて、水戸黄門様と呼んだのです。

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弘道館・・・は、水戸藩9代藩主徳川斉昭によって創設された藩校です。
1857年開館。

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斉昭が人材育成を目指して建設した水戸藩の藩校で、5万4000坪の敷地は全国一を誇る広さで、総合大学のようなものでした。
徳川慶喜も、この弘道館出身で、エリート養成校でした。

学んでいたのは、究極の歴史学「水戸学」。

水戸光圀が編纂したのは「大日本史」。
これは、光圀最大の功績とされています。
全397巻、目録5巻からなっています。
これは、天皇家から地域の歴史まで、日本の歴史を網羅したものです。
水戸藩の一大事業として1657年に着手し、1906年に完成したものです。

これを基本としたのが水戸学でした。
水戸学は、尊皇敬幕(天皇を頂点に幕府が政治を行うのが望ましいという考え方)でした。
しかし、弘道館が建てられたころには攘夷思想が蔓延していました。

1853年黒船来航・・・これ以来、日本の鎖国政策が崩壊してしまいました。
井伊直弼は開国を決断しましたが・・・水戸藩は、尊皇攘夷を貫きました。それは、水戸学によるものです。

この水戸学を学んだのは・・・吉田松陰ということは、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文、藤田東湖・・・この東湖に影響を受けたのは、西郷隆盛でした。
明治維新・・・この礎になったのは、水戸学だったのです。

武士の世を終わらせた明治維新は、水戸黄門から始まっていたのかもしれません。


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偕楽園。
そこは、日本三大庭園のひとつです。
天保13年、徳川斉昭によって水戸随一の場所に作られました。
江戸時代には、庶民にも開放されたそうです。

千波湖には黒鳥がいます。
が・・・白鳥もいます。
この白鳥は、彦根藩からもらったものです。
でも・・・?水戸藩と彦根藩は、桜田門外の変なんかで犬猿の仲なのですが・・・?


安政の大獄、桜田門外の変なんかの歴史のわだかまりを解くための白鳥が水戸へ、彦根には梅が贈られました。
水戸と箱根は今では親善都市となりました。


水戸黄門伝説には・・・
北海道探検をしたというものがあります。
1666年、7000両をかかて大船を建造します。

「快風丸」・・・この船で、蝦夷地探検を行ったと言われています。
未開の土地・蝦夷に探検隊を派遣しました。
その目的は交易と言われていますが、もう一つ、義経伝説の調査を大日本史に載せるために調べていたようです。
が、その真偽は定かではありません。


黄門様はどんな夢を見ていたのでしょう。
黄門様と一緒に歴史を歩いてきた水戸の城下町でした。

水戸光圀は暴れん坊副将軍だった 真説水戸黄門
水戸光圀は暴れん坊副将軍だった 真説水戸黄門

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posted by ちゃーちゃん at 09:02| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

城下町へ行こう!「岡崎の城下町(愛知県)」

岡崎は、家康と三河武士の故郷です。
その魅力と不思議とは???

愛知県岡崎市は、人口37万8827人、面積は387.24㎢、特産は花火と石製品です。
矢作川と乙川が合流する物資輸送の要であり、東海道で3番目に大きい宿場町、江戸時代から大きな賑わいがあり交通の要所でした。

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岡崎城は、徳川家康出生の城です。
岡崎城の歴史は古く、現在の地に城が築かれたのは、松平宗家三代目当主・松平信光です。
松平氏の発祥は、三河国・松平郷。現在の豊田市です。
戦国の時代から代々松平氏によって治められていました。

そんな松平宗家八代目当主松平広忠に1542年嫡男誕生。これが、武千代・・・のちの家康です。

しかし時は戦国、周りには・・・
今川義元23歳・武田信玄22歳・上杉謙信13歳・織田信長9歳・豊臣秀吉7歳・・・
隙あらば天下を!!と、天下を狙っていました。
時代に翻弄されながら、激動の人生を生きた家康の原点が、この岡崎にはありました。

岡崎城・・・
今から470年前の12月26日、岡崎城で生まれたのが、天下人徳川家康。
家康は、待ち望まれた英雄でした。

家康誕生伝説
家康公が生まれたときに、井戸から竜が立ち上ったといわれています。
龍城神社の社記には・・・
「英雄児の生まれいずるを待つが如く
 城楼の上に雲を呼び
 風を招く金隣の龍を見たりと云う」

龍の立ち上った伝説の城“龍ヶ城”とも呼ばれています。
龍伝説は英雄の証。。。
家臣たちから、それだけの期待を受けていました。

しかし、岡崎での生活は短く・・・
6歳のころから近隣の国の人質となることになります。
織田で2年、今川で11年・・・人質として過酷な少年時代を過ごしました。


岡崎城の土塀の瓦には・・・
変わった三つ葉葵がありました。これは、岡崎にしかない徳川の家紋です。

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そもそも三つ葉葵は松平家を合わせると・・・30種類ぐらいあります。

有名な徳川宗家・水戸徳川家・尾張徳川家・紀伊徳川家

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葉脈の数や形に違いがあります。
比べてみると様々です。

しかし、岡崎城の三つ葉葵は、シンプルさが際立っています。
これは、家康が自らデザインされたものだと言われ、後の三つ葉葵のルーツとされています。


城下町には、八丁味噌屋さんが。。。
八丁味噌は、名古屋のモノではなく・・・岡崎のものです。
岡崎城から西へ八丁のところにある八帖町(八丁村)で作られていたから八丁味噌なのだそうです。
江戸時代から八丁味噌を作っているのは、“まるや”さんと“カクキュー”さんです。
昔から変わらない製法を守っているそうです。

[まるや八丁味噌] 赤だし味噌 化粧樽詰 AK-30 / 株式会社まるや八丁味噌
[まるや八丁味噌] 赤だし味噌 化粧樽詰 AK-30 / 株式会社まるや八丁味噌

家康公も、子供のころに食べたといわれています。
杉桶の上にたくさん積まれた石・・・
杉桶に6トンの味噌を仕込み、3トンの重石を乗せるのだそうです。
二夏二冬・・・二年間じっくりと熟成させます。
重石を円錐状に積み上げることで、味噌に均等に圧力が加えられます。
代々受け継がれてきた技の遺産です。

家康は、八丁味噌で天下を取ったといわれています。
戦国時代、天下統一を目指す家康率いる三河軍団は、戦いに明け暮れていました。
その戦場で八丁味噌が、戦の栄養補給源として配られていたのです。


寺町では・・・
家康公ゆかりのお寺がありました。
三つ葉葵を抱いた荘厳なお寺・・・大樹寺です。
永禄3年5月19日桶狭間の戦いで・・・
この時家康は19歳、今川の家臣として参加していました。
義元が討たれたことを知り退却します。

敗軍の将となった家康が向かったのが、大樹寺でした。
家康が、ここを死に場所と決め、腹を切ろうとしていたまさにその時・・・
寺の住職・登誉上人が現れ・・・

「厭離穢土 欣求浄土」

意味は・・・
苦悩の多い汚れたこの世を
厭い離れたいと願い
心から欣んで
平和な極楽浄土を冀うこと」

それは、家康の運命を変えた言葉でした。

戦のない平和な世を創ること・・・
その言葉に救われ、天下統一の道を進むことになります。
戦のない、天下泰平の世。天下人その原点がこの大樹寺なのです。
そして、この大樹寺の山門から総門を通して岡崎城をみることが出来ます。
およそ3キロの直線、ビスタラインと呼ばれています。

山門が完成したのが、1641年三代将軍家光のころでした。
以来、この眺望は、市民によって守られ続けています。
400年近く守られた眺望・・・それは、家康が今も愛されているからです。

そしてここは、江戸花火・三河花火の発祥の地です。

天下統一後の家康は、鉄砲や火薬の製造を厳しく制限していましたが、三河だけには生産を許していました。
平和な世になって、鉄砲や火薬を作っていた職人たちが、花火職人へと変わっていったのです。
人を殺めるものが、人を喜ばせる花火へと変化したのです。


私は関西の人間なので、どうしても”太閤さん”ですが、この岡崎の人たちは、神君家康公を愛し、家康公とともに400年も過ごしていました。
そう、岡崎での家康公は、狸おやじではなかったですよ。黒ハート

名古屋限定まるや・八丁味噌饅頭(小)【お土産に】【名古屋土産】
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【まるや八丁味噌】山ごぼう味噌漬 170g【お土産】【みそ】【その他】【岡崎・額田】【RCP1209mara】【Marathon05P05Sep12】【マラソンsep12_東海北陸甲信越】
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