2012年12月19日

「米沢の城下町」

戦国最強と詠われた義の戦士、上杉謙信・・・上杉の城下町。
米沢は、上杉家が代々治めてきた土地です。

山形県米沢市・・・人口8万6885人、面積548.74㎢、特産は米沢牛・鯉・米沢織

代々、上杉家によって治められてきた米沢藩・・・
祖は、自らを毘沙門天の化身とし、戦国時代に無敗を誇った上杉謙信です。

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その武勇は数知れず・・・しかし、有名なのは、川中島の合戦です。
毘沙門天の軍旗を掲げ、信玄との一騎打ち・・・それは、まさに伝説。
越後の龍と呼ばれ、生涯義を貫いた名将です。

その謙信の跡を継いだのが、米沢藩初代藩主・上杉景勝です。
豊臣政権下で五大老のひとりとなり、越後39万石から会津120万石の大大名となった上杉でしたが、関ヶ原で西軍についたことで米沢30万石に転封・・・わずか1/4となってしまいました。

幕府の脅威に立ち向かいながら、守ってきた米沢の城下町です。

米沢城・・・今は、石垣が少し残っていますが・・・
お城はもともと天守はなく、三階櫓と藩主の館のみの平城だったそうです。
非常に質素な城だったそうです。

これには、やむに已まれぬ事情が・・・
120万石から30万石へ・・・家臣だけでも6000人も入りました。
誰一人切り捨てることなく、米沢へと連れてきました。
だから・・・お金がなかったのです。

そこには、景勝が謙信から受け継いだ義の精神がありました。

そして、米沢城が・・・謙信のお墓になっています。
その謎は???

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お城には、“上杉謙信御堂跡”があります。
そこに、謙信公の遺骸が安置されていました。
謙信の遺骸は、甲冑を着せ、漆で固めて保存したと伝えられています。

家臣たちは、謙信の言いつけを守り、越後⇒会津⇒米沢へ・・・お国替えをする度に、お謙信公を移したのです。

毎日謙信に手を合わせること・・・
戦に負けなかった・・・義によって働く謙信を信仰していたのです。
明治になるまで、謙信は御堂で眠り、家臣たちを、米沢を見守っていました。
米沢城は、謙信そのものになっていました。

上杉謙信―越後の龍、戦国に飛翔する (新・歴史群像シリーズ 16) [ムック] / 学習研究社 (刊)
上杉謙信―越後の龍、戦国に飛翔する (新・歴史群像シリーズ 16) [ムック] / 学習研究社...
上杉家廟所・・・1623年景勝逝去の際・・・初代景勝から11代斉定までこの地に埋葬されています。
今は、謙信公もこちらに移されて、歴代藩主と一緒に眠っています。

上杉謙信公墓所

謙信は、31歳で関東管領職の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定に努めました。


「龍」と「毘」

八海山・法音寺は、越後時代から1200年以上の歴史のある真言宗のお寺で、菩提寺です。
お寺に掲げられた毘沙門天の旗・・・
これは、毘沙門天を信仰していた上杉謙信が戦で掲げていた旗印です。

ここには実際に謙信公が拝んでいた毘沙門天の本物の“泥足毘沙門天像”があります。
軍神と呼ばれた謙信公が、深く信仰していた毘沙門天です。

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謙信公は、戦勝祈願をして戦に行ったと言います。
ある時・・・謙信が越後・春山城で祀っていた毘沙門天像が、戦から戻るとその足に、泥がついていたという伝説が残っている毘沙門天です。

上杉家は・・・謙信公から14代は米沢で過ごされました。
現在は東京で暮らしているのが17代・上杉邦憲さんは・・・
“はやぶさ”の開発にも携わっているJAXA宇宙工学博士だそうです。


米沢藩の危機を救った救世主登場・・・上杉鷹山。
鷹山公が藩主の時、日本中が大飢饉(天明の大飢饉)・30万人の餓死者でした。
上杉家も財政破綻寸前・・・

第9代当主・鷹山は、飢饉のときの食べ物として城のお濠で大量の鯉を養殖。
お城には、鯉の供養碑も残っています。

さらに、鷹山が奨励したのが、一汁一菜。
ご飯・おかず・お味噌汁だそうです。

財政再建策に取り掛かった鷹山は・・・
米沢織・・・生糸の生産に力を入れます。
これは、大ヒット商品となり財政を救います。
自分たち、奥女中から始めた倹約でした。

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は、とっても有名です。

自分が率先してする・・・
藩の立て直しに一生をかけた人だったのです。

米沢の公立小中学校では、謙信と鷹山の肖像画が掛けられ、鷹山の功績を今に伝えています。
上杉鷹山は、米沢を救った救世主として今も人々に語り継がれています。

上杉鷹山?二百年前の行政改革?
上杉鷹山?二百年前の行政改革?

米沢は食べられる城下町???
武家屋敷・・・原方衆=下級武士の家は、城下の外にあります。
減封してやってきた際に、入りきらなかったのです。

そんな武士たちの任務は、藩境警備と荒れ地の開墾でした。
藩士半農の生活・・・
石高の少ない米沢藩の武士は、自給自足の生活を送っていました。

その為、下級武士の家のほとんどに畑がありました。
町全体に、柿・栗・胡桃の木を植え、屋敷の生け垣は、食べられる“ウコギ”の木にしました。
このウコギは、トゲがあるので侵入を防ぎ、新芽をてんぷらやお浸しとして食べるそうです。

町の至る所で食べられる食料を作り、飢饉に備えていました。
また、鷹山時代には“糧者”(かてもの・糧になるもの)として、82種類の山菜や果物の食べ方などのサバイバル本を無料で配布していました。
これは、戦争中に復刻版が出たそうで・・・今も、ヘルシーブームとして復刻されているそうです。

郷土料理は、柿の白和え、ウコギ、ひや汁・・・ひや汁は、一汁一菜から生まれた郷土料理だそうです。


義に生きる大切さを説き、武士の生き様を教えた謙信と、民を救い助け合う心を広げた上杉鷹山、米沢の城下町は、二人が残した逞しさと優しさがにじみ出た町でした。



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2012年11月30日

「角館の城下町」

みちのくの城下町 400年変わらないその町へ・・・

秋田県仙北市人口2万9684人・面積1093.64㎢・特産品はあきたこまち、いぶりがっこ。
陸奥の小京都と呼ばれています。


慶長七年秋田藩角館所預り・芦名義勝がこの地へやってきて・・・。

古城山にあった角館城を中心に、城下町を築きました。

芦名氏三代ののち、佐竹北家・・・明治時代に至るまで、この佐竹北家が治めることとなります。
しかし、芦名義勝が作り上げた城下町は、400年もの間、変わることはありませんでした。

古城山城跡(角館城址)・・。
標高168mある古城山にあった城です。
しかし、1620年の“一国一城令”によって廃城となりました。
山頂から見ると・・・その城下町を眺めることが出来ます。


城下町は・・・
武家屋敷で有名で、武家屋敷通りは・・・角館を象徴する黒板塀が連なります。
400年の時を経てなお、変わらないその町は、とても趣があります。

どうして変わらないのか???
昔から11m・・・六間の幅がありました。
そこには、江戸・京都と張り合った街づくりがありました。

当時、徳川家康が、東海道を整備するために申し付けた幅が六間でした。
でも、この道、東北には必要だったのでしょうか?
芦名義勝は、かつて会津70万石を治めた大大名でしたが、関ヶ原で中立の立場をとったことから徳川家康によって角館1万5000石に転封。。。
再び大大名へとのし上がるために・・・作ったのが、この六間幅の道だったのです。

そして、400年間この城下町を守ったのは、この六間幅の大通りでした。
大通りのおかげで無防備なその作りは、徳川幕府に従う印。。。
現在まで戦火に見舞われることなく続いてきました。
町にはモミの木が植わっています。
このモミの木が、雪国の厳しい環境から町を守りました。
殿様のプライドと知恵が、400年もの間この城下町を守ってきたのです。

石黒家は今も唯一、人が住んでいる武家屋敷です。

秋田県は、美人の宝庫と言われています。
地元では“秋田おばこ”と呼ばれています。
江戸時代、日本を襲った大飢饉・・・東北地方の被害は凄まじく、餓死する人もたくさんいたとか・・・
そんな飢饉から角館の人を守ったのが第八代所預り・佐竹義術です。
義術は、米の備蓄政策をいち早く行い、飢饉の影響をほとんど受けなかったと言います。
他国の女性や子供たちがやせ細っていく中で、ふくよかな秋田の女性・・・

そんな女性たちを秋田美人というのです。

いぶりがっこは、この地方のお漬物です。
その歴史は江戸時代と、とても古いです。

青柳家も武家屋敷として有名で、いろいろな展示を見ることが出来ます。
そこには主以外は入れなかった400年間開かない蔵“不開の蔵”があります。
一般公開されていないこの蔵には・・・

陶器類・絵画・古文書などが収納されています。
この蔵からは、他藩の諜報活動をした報告書など・・・機密文書がいくつも発見されています。
その中には、「解体新書」の初版本もありました。

蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (著); 一穂社 (刊)
蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (...

この解体新書の附図を書いたのが、角館出身の武士・小野田直武だったからです。
他にも、明治維新の人たちを使った「カルタ写真」、蓄音機・・・いろいろなものがありました。

ちなみに、角館は、日本で初めて西洋画ブームが起こった町でした。
第六代佐竹義躬は、武道より学問・芸術を好みました。
自らも絵を描いたほどです。
新しい文化の情報収集を積極的に行ったそうです。

秋田のきりたんぽ鍋、その歴史は古く、その昔、猟師がかりをして獲物と持参したご飯を煮炊きしたことに始まるそうです。


400年変わらない城下町・角館。殿様のプライドが作り上げたのは、陸奥の小京都・400年変わらない美しい街並みでした。

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2012年11月15日

城下町へ行こう「松山の城下町」

「松山の城下町」

いで湯と城と文学と・・・

「松山や 秋より高き 天守閣」

これは、正岡子規の詠んだ句です。

愛媛県松山市。
人口51万7042人・面積429.05㎢・特産はみかん・鯛めし
城下町を見下ろす標高約132mの勝山山頂に建てられたのが、難攻不落・鉄壁の守りの松山城です。日本を代表する連立式平山城・四国最大の居城です。

見るものを圧倒するこの城を作ったのは、秀吉子飼いの武将・加藤善昭です。
豊臣秀吉と柴田勝家が闘った賤ヶ岳の戦いで、秀吉の七本槍の1人でした。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍として参加、武勲を上げて松山をもらいました。26年の歳月をかけて作り上げたのが松山城です。
しかし、城の完成を前に会津へ転封、蒲生氏を経てその後230年にわたって松平氏が治めることになりました。

20081117122821[1].jpg

松山城には、ロープウェイで登ることが出来ます。
ロープウェイを降りて、歩いても歩いても・・・やっとのことで門にたどり着きますが・・・次々に門が現れます。

しかし、天守閣に登ろうと思っても、とっても複雑です。
そして、あちらこちらに狭間があります。
松山城の櫓にはたくさんの狭間があり、ひとたび門をくぐれば侵入者は四方から集中砲火を浴びることになります。
そして、究極の防衛・・・複雑な連立式天守となっています。
逃げ場も死角もない敵は頭上から攻められることになります。

山の上にあるお城の天守からは、海からやってくる敵さえも見逃すことはありません。


天明4年(1784年)落雷により天守を消失してしまいます。
再建工事が終わったのは70年後の1854年、すでに幕末を迎えていました。
黒船が来航する時代・・・このお城は、最新にして時代遅れの天守なのです。

そして時代は開国と攘夷に二分されていきます。
倒幕か佐幕か・・・
将軍家と親戚にあたる松山藩は、長州征伐に参加、これに敗れます。
戊辰戦争では、官軍に仇なす朝敵となってしまいました。
長州・薩摩が実権を握っていく中、松山藩は苦難の時代を迎えることになりました。
時代に乗り遅れた松山藩・・・。


松山の人は、個人としてのし上がる方法を考えていきます。
そして、明治の才能が・・・英雄が誕生していきます。

松山で生まれ、その後日本史に登場する軍人・秋山好古・真之兄弟と正岡子規です。
同じ時代に生まれたこの3人の交流を描いたのが司馬遼太郎さんの歴史小説「坂の上の雲」です。

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫) [文庫] / 文藝春秋 (刊)
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松山藩士の家に生まれた秋山兄弟、明治37年2人は日露戦争に参戦。
当時、ロシアの国力は、圧倒的で日本が勝つことは不可能とされていましたが、その戦いの英雄とされています。
陸軍大将となった秋山好古、日露戦争では騎兵隊を率い、当時最強とうたわれたロシアのコサック師団と渡り合った日本騎兵隊の父です。

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弟の真之は、連合艦隊の作戦参謀として・・・日本海海戦での戦いでバルチック艦隊との戦いを立案、撃破しました。
日本を勝利に導いた天才参謀と言われています。

正岡子規・・・
ホトトギスなどで活躍、近代俳句を確立した日本文学会の巨人です。
秋山真之とは幼馴染の親友でした。
日本の激動の時代を引っ張っていった3人です。

図解「坂の上の雲」のすべてがわかる本 [ 後藤寿一 ]
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愛媛県立松山東高校の中には・・・明教館があります。
この明教館は、第11代藩主松平定通が文武両道の振興を図り設立した藩校です。
松山中学校となり、松山東高校となりました。

ここにゆかりのある人は・・・
秋山兄弟・正岡子規・高浜虚子・・・
軍人から文化人までたくさんいます。
そして教えた先生には、夏目漱石。
「坊ちゃん」は、この松山での経験だと言われています。

どうして松山は、こんなにたくさんの英雄を輩出したのでしょうか?
松山藩は、維新の時の負け組みです。たくさんの勉強をして頑張らなければ上には上がれなかったのです。そんな不屈の精神で、新時代を切り開いていきました。


三津浜・・・
ここは古くは源平合戦の壇ノ浦の戦いなど、鎌倉や戦国時代に圧倒的な力で制圧した伊予水軍が拠点とした場所です。
秋山兄弟は、伊予水軍を学んでいました。
日露戦争で秋山真之が作戦参謀としてロシアのバルチック艦隊を撃破したT字戦法、この戦術は、伊予水軍も昔から使っていました。
ここにヒントを得ていたのかもしれません。


正岡子規は、肌身離さず松山城の写真を持っていました。


有名な食べ物は五色そうめん。
今から290年前に長門屋が作ったと言います。
将軍家に献上したものです。
正岡子規も
「文月の ものよ五色の 糸そうめん」
と詠っています。


道後温泉・・・
聖徳太子が浸かったとも言われている道後温泉は、3000年の歴史がある日本最古の温泉です。
お茶と貸し浴衣があり、ここは殿様が考え出したスーパー銭湯です。
湧き出るお湯を溜めるだけだった道後温泉、本格的に整備したのは1638年松山藩主松平定行が温泉整備に着手し、身分によって浴室を分け、入浴料を徴収しました。
そのお金で、藩の財政を賄ったと言われています。


今の本館は、明治27年に建造、馬や牛も、昭和の半ばまで使っていました。
神の湯は、正岡子規も夏目漱石も浸かったと言われています。

日本唯一の皇室専用の湯殿“又新殿(ゆうしんでん)”もあります。
昭和天皇もお使いになられました。

伊予・松山・・・
朝敵と呼ばれながら、若者は勉学に励み、優秀な人材がここから巣立っていきました。
松山は、逆境をばねに花開いた、まさに青雲の志が似合う城下町でした。


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「坂の上の雲」に隠された歴史の真実 [ 福井雄三 ]
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『坂の上の雲』の時代がわかる本 [ 歴史の謎を探る会 ]
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