2013年01月24日

鹿児島の城下町 前編

島津800年の歴史の城下町です。

鹿児島の有名人は・・・西郷隆盛。
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西郷どん・・・軍服をびしっと着こなした軍人です。

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明治維新最大の雄藩となった薩摩藩・・・その魅力と不思議は・・・???

鹿児島県鹿児島市 人口60万7800人、面積547.07㎢、特産は黒豚に芋焼酎・桜島大根です。
薩摩藩・・・居城は鶴丸城・外様大名島津氏・72万石でした。

島津家の始祖は、鎌倉幕府御家人・惟宗忠久です。
鎌倉幕府により、九州南部にあった島津荘の地頭に任じられたので、島津と改称し、島津家を開きました。秀吉・家康にも恐れられ・・・外様としてこの地に押し込められてきました。
それが、島津800年の歴史の始まりでした。

この鶴丸城・・・鹿児島城は、島津家第18代当主・島津家久によって作られました。この場所が鶴が嶺と呼ばれていたことから鶴丸城と呼ばれたのです。
高層の天守や高石垣などはなく・・・大大名とは思えないような質素な城でした。

鹿児島では雨は吉兆・・・それは・・・
島津家800年の歴史の中の・・・初代当主島津忠久は、雨の日に生まれたと言います。
そこには、鎌倉幕府を開いた源頼朝の御落胤だったという説までついてきます。
言い伝えによると、鎌倉幕府御家人・比企能員の妹・丹後局との子が忠久だったというのです。
北条政子の嫉妬を恐れた丹後局が西国に逃れる道中に、住吉大社で産んだのが忠久でした。
その時が、大雨だったのです。
ちなみに・・・鎌倉にある頼朝の墓も、平成14年まで島津家が所有していました。

そして・・・この雨を島津雨・・・と今でも言っているのです。

1877年の西南戦争の舞台となった鶴丸城。

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新政府に対し、西郷を中心とした薩摩藩士1万3000人が反乱を起こしたもので、国内最後の内戦として記録されています。

弾痕の痕も石垣に残っています。
これは、新政府軍が、西郷隆盛に対して撃ったものです。
抵抗をしていた薩摩軍は、追い詰められ・・・この地で49年の生涯を閉じ・・・武士の世は終わりを告げました。

普通は、一国一城ですが。。。
薩摩藩は、113の城・・・外城制度がありました。
113の城・・・関ヶ原の合戦で外様大名となった島津藩は、完ぺきな防御を求めました。藩内の領地を113に分けて、城(地頭仮屋)を配置、その近くに武家屋敷を造り・・・城下町のようになっていました。
“人をもって城となす”という考えのもと、113人を配置したのです。

外城・・・薩摩藩最大の外城は出水市にあります。
しかし・・・武家屋敷はあるものの・・・お城はありません。
武家屋敷全体がお城なのです。

この登城制度を知るためには、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。
島津が九州統一を目指していたころ・・・富国強兵の結果、領土を拡大。
当時の薩摩藩は、4人に一人が武士の超軍事国家でした。

しかし・・・秀吉の九州征伐・・・敗れた島津は小さく閉じ込められますが、兵力はそのままに、温存していました。
この国全体の防衛力を高めること・・・それは、戦乱の世が終わった江戸時代も続いたのです。
“人をもって城となす”明治になるまで国を守ってきたのです。
そして、郷士・城下士という身分が出来上がってきました。

西郷や大久保は、城下士でした。
郷士は半農半士の生活をしていました。
戦にいつでも出ることのできるように、甲冑や武具なども用意し、鍛錬を怠らなかったと言います。


野間之関では・・・肥後との藩境にあったので、人の出入りも激しかったので・・・警護も厳しかったようです。坂本龍馬も1か月留め置かれたことがあるそうです。

その厳しい取調べは・・・
「行ったら最後 帰って来れない 薩摩飛脚」
と言われたそうです。

どうしてこんなに厳しかったのか???
それは、打倒・徳川幕府という秘密を持っていたからです。

関ヶ原の合戦で・・・成り行きで西軍についてしまった島津義弘。
西軍の敗戦が決定するや否や・・・薩摩軍が殲滅される前に・・・
敵のど真ん中を突破・・・島津の敵中突破をし・・・壮絶な退却戦を演じ。。。
しかし、島津勢の生き残りはわずか80人・・・
この時から、対・徳川の負けない国づくりを造ろうとしたのです。
負けん気の強さがそこにはありました。
明治維新は、薩摩の維持で成し遂げられたのかもしれません。


薩摩藩に伝わる・・・示現流・・・侍魂を知ることが出来ます。
一撃必殺の秘剣です。これは、東郷示現流・薬丸自顕流の二つの流派を有し、明治まで他藩の者には教えない・・・という門外不出の件です。

東郷藤兵衛備前守重位の東郷示現流は、薩摩藩公認のお留流として上級武士を中心に兵法と学ばれ、今もなお、奥義は秘密とし、血判状によって守られています。

下級武士は薬丸自顕流、より実践的な初太刀にすべてをかける!!一刀両断という戦い方は、新撰組・近藤勇でさえ・・・薩摩の初太刀は外せ!!と、恐れたほどでした。

1860年桜田門外の変で井伊直弼を討った有村次左衛門、1862年の寺田屋事件・生麦事件・・・いずれも薬丸自顕流の者が起こしていました。実践の剣法です。
出来るか出来ないか、やれるかやられるかの剣法なのです。

門外不出の秘剣・・・どうして門外不出なの???
それは、命を懸けた真剣勝負において相手に太刀筋を見せないための・・・勝つための剣法なのです。

名勝・仙巌園は、1658年島津家の別邸として、光久によって作られました。
桜島を望むその雄大な庭園は、28代斉彬がこよなく愛し、篤姫・勝海舟・・・外国の要人をも魅了し続けてきました。

秘密の国・・・薩摩。その扉の向こうには、時代を切り開いた先人たちの教えが今も息づき、郷土愛があふれた町でした。

〈新訳〉南洲翁遺訓 [ 西郷隆盛 ]
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2013年01月21日

「名古屋の城下町」

1/350 DX城 名古屋城 / 童友社
1/350 DX城 名古屋城 / 童友社

名古屋の城下町・・・
この尾張名古屋・・・戦国の風雲児・織田信長をはじめ戦国を代表する大名を数多輩出する金の鯱に代表される尾張名古屋は城で持つ・・・の東海随一の大都市・名古屋の城下町です。

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愛知県名古屋市・人口226万8423人、面積326.4㎢、特産は名古屋コーチン・名古屋友禅・きしめんです。
織田信長をはじめ、豊臣秀吉・前田利家・加藤清正・柴田勝家・福島正則・山内一豊・佐々成政・・・など歴史を彩った武将を数多く輩出しました。

戦国の世が終わるころ・・・徳川家康が江戸と大坂を結ぶ東海道の要衝として整備し、初代藩主は9男・徳川義直と・・・明治になるまで徳川家御三家のひとつです。
城主は徳川御三家筆頭・尾張徳川家。石高61万9000石、家紋は三つ葉葵です。

そして・・・戦国の風雲児・織田信長の足跡があちらこちらにある町です。


大きな名古屋城・金の鯱で有名です。
天守閣は五層五階・地下1階で高さ55.6mです。
昭和20年までは、本丸御殿を含め建物がのこっていましたが、戦時の空襲で焼失してしまいました。
現在の天守閣は、昭和34年に再建されたものです。
名古屋城、建てたのは家康です。
豊臣方に目を向けて、西の最前線として作られました。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1610年名古屋城の築城を開始。
この城を造ったのは、豊臣方の武士でした。
築城を命じられたのは、細川忠興・福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政他20名。
工事費用や人足は外様大名側で用意し、何か不都合なことがあればそれを理由にお取り潰し・・・できなくても、懐具合を悪くして弱らせるためです。
あまりにも過酷なものでした。

それは家康にとっては天下統一のための最後の布石だったのです。
大阪城は、当時最高の36mでしたが、名古屋城はそれをはるかに上回る55.6m・・・まさに徳川の時代が到来したことを世に告げました。

金の鯱は、北が雄・南が雌・・・雌雄一対なのです。
徳川の権力の象徴として作られ、当時として慶長大判1940枚分の金量(約270キロ)の金が使われていました。現在は2代目です。
江戸時代には、凧に乗って鱗を剥いだ泥棒も・・・昭和12年にもそんな泥棒がいました。

そして・・・その名古屋城の中に・・・もう一つ那古屋城がありました。織田信長の父・信秀作り信長が住んでいた那古屋城です。元服するまでこの城で育ちました。そう、うつけの頃は、ここに住んでいたのです。

名古屋城を知るためには清州・・・を知ることが必要だそうで。。。
清州城・・・若き日の信長が活躍したころ・・・尾張の政治・経済の中心は清州で、京に次ぐ大都市でした。
この大都市を手に入れることが出来た信長は、圧倒的な経済力も手に入れることになったのです。
そして・・・清須は名古屋のルーツとなりました。
桶狭間の戦いの出発点はここでした。

敦盛を舞った後、街道一の弓取りと詠われた今川義元を破り、天下統一へと突き進みます。
そんな信長出世の原動力となった清州城は???
最盛期は人口7万人で、今よりも大きかったようです。
信長が治めていたころの清州城下には、秀吉・利家・清正・勝家・正則・一豊・成政・・・そうそうたるメンバーが住んでいました。
三重の堀があり、川が流れていて・・・。

この清州の町の全てを持って行ったのが名古屋城。
世紀の大引越し・清須越しです。
当時尾張の中心地であった清須から人のみならず建物もすべて大移転したというのです。7万人の人と共に、100以上の神社仏閣・橋や城の櫓・・・およそ2700戸の町屋も引っ越しました。

それを行ったのが徳川家康。
大坂の豊臣方に対して作る場合、川に近い清州城だと豊臣得意の水攻めに合う可能性が・・・水に弱い地形で心もとない・・・ということで引越ししたのです。


熱田神宮・・・三種の神器の一つに数えられる草薙神剣が祀られ、1900年以上の歴史を誇る神社があります。
信長が桶狭間の戦いに出陣する際に熱田神宮に立ち寄って戦勝を祈願したと言われています。
此処には、桶狭間の戦いに勝利した信長が、戦勝のお礼として奉納した瓦葺の塀・・・信長塀が残されています。

万松寺は織田家の菩提寺です。・・・信長の父・信秀の葬儀で抹香を投げつけ、うつけ者と呼ばれる所以になった場所で・・・織田信秀のお墓があります。

信秀のお墓はあまりにも小さいのですが・・・
もともとは大きかったお墓、信長が安土城を造る際に石を集めたものの・・・
集まらなかったので、“親父の墓石を持って来よう”と言い出しました。

そうなると、周りもビビッて自分の家代々の墓石を持って行かれては困る!!
と、必死に石を探し始めまたと言います。


この織田信長、奇抜な行動からうつけ者と呼ばれています。それは、敵を欺くためとも天性の激しい気性からとも言われています。
しかし、それこそが比類なき天才の証なのです。

名古屋友禅・・・7代藩主徳川宗春が招いた江戸の絵師から伝えられました。
京友禅や加賀友禅は、たくさんの色を使った鮮やかなものですが、名古屋友禅の特徴は、淡彩濃淡です。
宗春のドハデ文化の源は、織田信長にあったのかもしれません。


数多くの戦国ヒーローを生んだ名古屋・・・
そこは、風雲児な信長の革新的な精神を受け継ぎ、ドハデな文化の中に心意気を感じる活気のある町でした。

名古屋城 (PHPムック) [ムック] / 西ヶ谷 恭弘 (著); 西ヶ谷 恭弘, 西ヶ谷 恭弘 (監修); PHP研究所 (刊)
名古屋城 (PHPムック) [ムック] / 西ヶ谷 恭弘 (著); 西ヶ谷 恭弘, 西ヶ谷 恭...
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2012年12月24日

「長浜の城下町」

戦国一の出世頭、豊臣秀吉が天下取りへと第一歩を踏み出した城下町です。

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滋賀県長浜市、人口12万4054人、面積680.79㎢、特産は湖魚・鴨料理・ひょうたん。北近江を中心として北国街道や琵琶湖水運の要所として栄えてきました。
天下人・豊臣秀吉が最初に手掛けた城下町です。
小谷城の戦いで浅井長政を滅ぼした織田信長が、武功を挙げた秀吉に浅井の領地・北近江を与えたものです。

今浜と呼ばれていた町を、主君の名を取って長浜と改称。初めて城持ち大名となった秀吉は、稀代の戦略家・人心掌握の天才としてのし上がっていきます。


豊公園には・・・長浜の人の心のよりどころ、豊臣秀吉公が・・・

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尾張の貧しい農家に生まれ、足軽から天下人へ立身出世をした豊臣秀吉。
木下藤吉郎として信長の草履取りから始まった物語は、この長浜で大きな転機を迎えます。

長浜で初めて一国一城の主となった藤吉郎は、羽柴秀吉と改名。
長浜こそ、秀吉の原点となります。
この地を拠点に、主君・信長がなしえなかった天下統一を果たすのです。


長浜の城下町は、碁盤目状になっています。
もともと北近江は、浅井家が治めていた土地です。
信長の妹・お市をもらった浅井長政は、信長に反抗し・・・浅井家は滅亡。
この戦いで先陣を務め一番の手柄を挙げた秀吉に、北近江を与えたのです。

長浜を手に入れた秀吉は、山側にあった小谷城を配乗し、琵琶湖を望む長浜城を築城しました。
湖、港、北国街道・・・群雄割拠の時代に、経済の重要性を考え、生産性のある町を・・・と、考えて作られたのが、長浜城です。

近代城下町の元祖となり、以後の城下町に影響を及ぼしました。


三百石朱印地・・・済特区を作ります。
年貢を免除することで、1人でも多くの人に住んでもらうために・・・
商人に来てもらうために・・・
長浜の52の町のうち35町は、朱印状によって年貢免除の特別地域とされました。
時代を先取りです。
何にもなかった長浜は、城下町として賑わいます。
そして秀吉は、商業の活性化を図るため、琵琶湖から水路を城下町に張り巡らせました。


豊国神社・・・
秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)に、長浜町民たちによって作られました。
大坂へと移ってしまった秀吉ですが、その秀吉を変わらず想っていたようです。
でも・・・どうして恵比寿様が???

隠された秀吉・・・

豊国神社が建てられた1600年は、関ヶ原の戦いの年。

東軍の総大将徳川家康は、西軍の石田光成を撃破!!
天下は豊臣から徳川に移ってしまいました。
しかし、豊臣家を慕う武士や町民は絶えることなく・・・徳川幕府は、豊臣を徹底的に排除しようとします。
だから・・・豊国神社も廃社・・・。それは、明治時代になるまで続きました。
なので、隠れキリシタンのように・・・隠れ秀吉。。。が、たくさんいるそうです。

千成瓢箪が大好きだった秀吉、瓢箪の馬印を立てて戦場を駆け回ったと言います。
戦に勝つために、瓢箪を増やしていった秀吉、千成瓢箪は秀吉のシンボルとなり、今も長浜の町にたくさんあります。

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毎年4月に行われる長浜曳山祭りは豪華絢爛なお祭りで、京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並ぶ日本三大山車祭りの一つです。
曳山の上では、子供歌舞伎が行われます。

この豪華なお祭りは、民の秀吉お想う気持ちから始まりました。
秀吉は、長浜時代に石松丸(秀勝)という子供がいました。この産まれたお祝いに民に砂金を与え、民はそのお礼に豪華絢爛なお祭りを催したのだそうです。
その規模は、年々盛大となり、今では日本を代表するお祭りとなりました。
子供歌舞伎は、6歳で亡くなった石松丸のために行われたといういいつたえもあります。

下船町・・・秀吉は琵琶湖水運に必要な船乗りたちを居住させました。
現在は、船の廃材を利用した船板塀が残されています。

観音護国寺、長浜城主になったばかりの秀吉と、それを支えることとなる石田三成の出会いの場所だと言われています。

豊臣政権の五奉行となり、行政や外交を担当することになる三成は、このお寺に預けられていました。つまり、この場所は、三献の茶の舞台となった場所です。

真夏に行われた秀吉の鷹狩り。
休憩のためにこの寺を訪れます。
この時に茶を出したのが光成です。
一杯目は大きな茶碗にぬるめのお茶を・・・
二杯目はやや熱め・・・三杯目は熱めのお茶を出しました。

この気遣いが秀吉の心を掴みます。
住職を諭して光成を連れていきます。
そして、長浜で同じような子供たちを育てます。秀吉塾です。
その中には、加藤清正、福島正則などもいました。

召し抱えた子供たちを、わが子のように育てる秀吉。
家来もいないので、この子たちを伸ばそうと・・・才能を見出す力は天下一品です。
この子たちが、賤ヶ岳の戦いで活躍する賤ヶ岳の七本槍です。加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則・福島正則・・・
聡明だった光成には、政治・経済を教え、知の武将へと育っていきました。

愛を持って才を育てる・・・そして、秀吉は天下統一へと突き進んでいったのです。



魚屋さんには鴨が並んでいます。
鴨は魚???

琵琶湖の猟師さんはお魚を取っていましたが、その時に、同じように網に鴨がかかったのだそうです。昭和40年ごろまで続いていました。
秀吉も、大坂に行っても鴨肉を奨励していたそうです。

おねが作った長浜名物・・・それは、のっぺいうどんです。
のっぺりしているからのっぺいうどんだそうで・・・。
とろみのあるおだしに鴨が入っているうどんです。
秀吉が初めて長浜で城を持った当時に作っていたと言われています。
みなに振る舞っていたようです。

豊臣秀吉が、天下取りの第一歩を踏み出した城下町・・・長浜。
民を大切にした秀吉・・・
その思いに今も応えている城下町でした。

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posted by ちゃーちゃん at 07:59| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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