2013年02月25日

「明治維新SP」でした。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」にのっているのでしょうか?

いつもの水曜日ではなく、日曜日に「明治維新SP」として薩長土を放送していました。

今までやってきた城下町なんですけど・・・

OPにもあるように、日本に100以上あるのよね、城下町って。。。失恋
個人的には、「私の町も、徳川御三家・紀州55万石・・・いつ和歌山に来てくれるのかなあ」なんて思ってたわけですが・・・
この前始まったと思ていましたが・・・もうやったSPなんですか???あせあせ(飛び散る汗)
って、思っちゃいました。。。失恋


まあ、和歌山城は、太平洋戦争時に和歌山大空襲で焼失しちゃって・・・
ホント、小さな町なのに、あんなに大規模に空襲してくれちゃって、って感じです。失恋

きっと、アンコールが多かったんでしょうね揺れるハート
和歌山も頑張らねば!!


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posted by ちゃーちゃん at 14:22| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月08日

熊本の城下町

名城を歩く(2)新版 熊本城 [ 西ケ谷恭弘 ]
名城を歩く(2)新版 熊本城 [ 西ケ谷恭弘 ]

熊本城・・・加藤清正が築いた天下の名城です。
やりすぎの城とも言われています。

kiyo2.png

熊本県熊本市・・・
人口73万8678人、面積389.54㎢、特産は馬刺し、からし蓮根、茄子
阿蘇山の麓、杜の都と呼ばれる町です。
築城したのは、名将・加藤清正。
少年時代に豊臣秀吉にその才を見出され、数々の戦いで頭角を現し、信長の死後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで大きな武功をあげて、賤ヶ岳七本槍として歴史に名を残しました。

それ以後も、数々の武功をあげて秀吉から与えられたのは、肥後北半分国19万5000国の領主でした。
秀吉からの信頼は厚く、朝鮮出兵でも中心的な役割を担いました。
そして、後世に残されるのは、その卓越した築城技術。
江戸城や名古屋城など、数々の名城を築城しています。
そんな加藤清正が、全ての技術をかけて作ったのが・・・やりすぎの城・熊本城です。

日本3名城にも数えられる堅牢堅固な城は、まさに難攻不落の城でした。
加藤清正生涯一級の作品です。
清正公(せいしょこ)さんと親しまれている名将・加藤清正。
そんな清正が、並々ならぬ情熱を注いだのがやりすぎの城下町でした。

kiyo3.png

幾重にも重なるその石垣と階段・・・お城には、長い直線の道はありません。
侵入者の動きを鈍くするためです。
大天守閣と小天守閣があります。
その石垣は、武者返しとなっています。
場内になかなか進入できないようになっています。
これは、朝鮮出兵の時に学んだもので、以後の築城技術の基本となりました。

そして、石垣の上には巨大な櫓が。
床の隅から下が眺められるようになっています。

狭間は弓や鉄砲で敵を、石落としからは石や煮えたぎった油を・・・
そして、忍び返し・・・様々な防衛技術がなされています。

それが生かされたのは・・・築城から実に270年後の事。
1877年に起こった西南戦争。
谷干城率いる政府軍・3000人が熊本城に籠城、西郷隆盛率いる薩摩軍1万3000人の猛攻をしのぎ耐えたのです。

熊本城を落とせなかった西郷は・・・
「官軍に負けたのではない。
 清正公に負けたのだ。」
と、言ったと言われています。
加藤清正の築城した熊本城は、最初で最後の闘いで難攻不落を証明したのでした。

またここには、実戦をするための秘策もありました。
井戸を120掘りました。
お城も食べられるように工夫してあります。
清正築城当時は・・・壁はかんぴょうで、畳は芋の茎で作り、100日分の食料となっていました。そして、城内には銀杏・栗・梅・桃など食べられる木が植えられていました。
備蓄された食料や水は、家臣はもちろん城下の領民を含めても3カ月以上は生き延びることが出来ると言われています。

でもどうしてこの城を???
武人・加藤清正がどうしても勝つことのできなかった戦い、死の淵まで追い込まれた戦いの苦い経験がそこにはありました。
1597年朝鮮出兵・・・
秀吉が自らの力を海外に示そうとした戦いで、中心人物となったのが加藤清正でした。文禄・慶長二回に及んだ遠征は、苛烈を極めました。
忘れられない苦しい戦い、20万ともいわれる朝鮮軍の包囲する中での籠城戦。
後方からの支援も得られずに飢えと渇きに苦しめられます。
その籠城戦での体験が、食べられる城を造り上げたのです。

敵の侵入を防ぐ難攻不落のシステム、籠城戦を可能にさせる備蓄食料・・・清正が築いたやりすぎの城は、“守る究極の城”でした。
そして、さらなる秘密は???
本丸御殿に・・・清正公自らすら入ることのできなかった部屋があります。
“昭君之間”です。
金箔で飾られた豪華絢爛なその部屋は、漢の官女・王昭君が描かれていることから昭君の間と呼ばれていますが・・・
しかし、質素倹約・質実剛健とも言われていた清正がどうしてこのような部屋を???
それは・・・“将軍の間”だからです。

そこにあったのは、「熊本幕府プロジェクト」です。
昭君=将軍・・・
徳川家康が天下を取った後も、かつての主君・豊臣秀吉の恩を忘れなかった清正は、熊本城に秀頼を迎えるその日の為に・・・作られた部屋だったのです。
結果としては、この部屋は使われることはありませんでした。
いざとなれが、徳川と一戦を交える覚悟だったのです。

城下町は、清正がいたころそのままに、その名前と残っています。
正方形の区画が多く、碁盤の目のようになっています。
そこにも清正公の秘密がありました。
細い路地を抜けると、白梅天満宮があります。
天正年間の疫病を鎮めるために建てられました。
四方を民家に囲まれて・・・表通りからは見逃されそうです。
この町には、碁盤の目一つ一つに寺があり、それは、その碁盤の目の中心にあります。
1町1寺といわれるこのつくりは、敵が攻めて来たら寺を出城にするという清正公の防衛対策の一つでした。
そう、城下町もまたやりすぎの城下町でした。

馬肉を食べる習慣の始まりは、清正公です。
1597年朝鮮出兵の時に苦戦した蔚山城の戦い・・・ここで清正軍の食糧難は深刻にして重大でした。
その時に軍馬を殺して食した・・・。
加藤清正の命の恩人が馬肉なのです。

そして、キムチを赤くしたのも清正公。
もともとキムチは白かったのですが、清正軍が寒さ対策に持ち込んだ唐辛子を食文化に取り入れたのだそうです。

謎多き清正・・・その真相の謎は・・・???
1611年にこの世を去った加藤清正。
清正公は本妙寺に祀られています。
いつまでも人々を守っていてほしい・・・そんな民の願いから、本堂は熊本城の天守閣と同じ高さに建てられています。

清正公は・・・豊臣秀頼の身代わりとなって亡くなったのでしょうか?
その死については、いろいろ伝えられています。

が・・・大坂から帰る船の途中で亡くなったと言われています。
脳溢血だった・・・感染症だった・・・とか言われていますが・・・
徳川の天下となった時代・・・家康と秀頼の二条城会見に立ち会った清正公。
徳川側が出した御菓子・・・食べなければ失礼・・・しかし、毒まんじゅうだったら???

ためらう秀頼の代わりに、このまんじゅうを食べたのが清正でした。
会談後秀頼は、無事大坂へ帰還。
しかし、清正は熊本へ帰る途中に亡くなったのです。
もしかすると・・・あえて・・・秀頼公の身代わりになったのかもしれません。

今となってはすべてが謎のままですが・・・
言えることは、清正は誰よりも主君に忠実で、誰よりも領民に愛情を注いでいたこと・・・そして、領民がその死を惜しんだということ。

加藤清正が築いた天下の名城・・・清正公は、今も人に愛され続けていました。
人は清正のように、雄々しさと優しさを持っている町でした。

【新品】プラモデル 模型 日本の名城デラックスNo.7 熊本城【10P04Feb13】【画】
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posted by ちゃーちゃん at 13:33| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

鹿児島の城下町 後編

秘密の国・薩摩です。
NHK大河ドラマ 翔ぶが如く 完全版 第壱集
NHK大河ドラマ 翔ぶが如く 完全版 第壱集

鹿児島が生んだ英雄・西郷隆盛・・・
薩長同盟や江戸城無血開城・・・維新の功労者となった鹿児島最大のヒーローです。

幕末最大のヒーロー・西郷隆盛は、下級武士の長男として鹿児島城下・下加治屋町に生まれました。
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侍の身分としては、御小姓与。藩の政治にかかわるどころかお城に入れるギリギリでした。
西郷の石高は、わずか41石。年収200万だったと言われています。
しかし、家族は10人だったとか。
客間を除いて1LDK。畳もそろわない板の間の家に10人も住んでいたのです。
そして、この下加治屋町には、大久保利通・大山巌・東郷平八郎・山本権兵衛・・・日本を牽引するそうそうたるメンバーが住んでいました。

ここで行われていた教育は・・・郷中教育。
郷中とは、城下で暮らす武士の子を区分分けしグループ化した組織。
稚児・6〜14歳、二才・15〜24歳、長老・25歳以上とし、子弟たちは、朝から晩まで薩摩精神を語ります。
教え教えられ・・・英雄が英雄を生む・・・そんなシステムでした。

その教育の筆頭は・・・負けるな!!
その始まりは、関ヶ原での敗北にあるようです。
毎年10月には妙円寺参りが行われています。
関ヶ原の合戦の苦難を偲び、城下から20km離れた徳重神社への詣でをしています。

イギリスのボーイスカウト・・・その原型は郷中教育と言われています。
薩英同盟が結ばれ・・・明治維新に・・・薩摩とイギリスが仲良くなり・・・そんな中、薩摩の教育がイギリスへ渡ったものだというのです。
リーダーが後輩のメンバーを見る。。。それは、グローバルスタンダードとして世界で英雄をつくっています。


幕末の名君・島津斉彬。
薩摩藩という一国の領主でありながら、世界情勢に精通し、世界に負けない国へと導いた名君と言われています。
薩摩藩の近代化を進めます。日本初の近代工場・集成館事業に携わり、日本初の写真撮影、日本初の洋式軍艦製造、日の丸を船尾につけたのも斉彬。
日本の近代化をはじめ、富国強兵・殖産興業を推し進めました。
さらに。。。西郷を取り立てたのも斉彬。
斉彬こそ、新しい日本を造った負けない名君なのです。

この斉彬。自らが釣ったサバにあたって当日に亡くなったと言われています。
その5年後、薩摩藩に最大の危機が・・・
1863年イギリス艦隊7隻が襲来。
生麦事件をきっかけのことです。

この戦いは、スイカで始まり蜜柑で終わったと言われています。
その薩摩の仰天作戦は???
西瓜売り決死隊。
その任務は、西瓜売りに扮した薩摩藩士80名がイギリス艦隊に乗り込んでそのまま奪おうというものでした。
しかし・・・作戦は中止。
その2日後に薩英戦争が始まります。

鹿児島城下が火の海に・・・それを救ったのは、斉彬の富国強兵でした。
負けない国づくり・・・
大砲でイギリス艦隊を砲撃・・・撤退させることに成功します。
この和解交渉が行われ・・・イギリスに温州ミカンを送ったと言われています。
ちなみにこの温州ミカン、イギリスではSatsuma Mandarinと呼ばれ、今でも愛されています。
そして・・・負けない国づくりはイギリスをも味方にし、ついに悲願の打倒徳川、明治維新へ。。。

kago.png

鹿児島のシンボル桜島。
桜島は、鹿児島と呼ばれていたことがありました。
南方の人が、籠のような船に乗ってきたから籠島。ということです。
しかし、火山が噴火するさまが桜の花びらが散ることに似ているから桜島と呼ばれるようになったとか。

関ヶ原の合戦でやぶれた島津義弘が、徳川家康に恭順の意を示すために謹慎していたのが桜島。
荒れた火山島での生活・・・ではなく、天然温泉と海の幸、山の幸の悠々自適の謹慎生活だったようです。

この桜島は宝の島。
火山灰が島に恵をもたらします。桜島大根と桜島小蜜柑。
桜島小蜜柑は、17代当主島津義弘が戦国時代に朝鮮半島から持ち帰ったと言われています。

薩摩切子。
天璋院篤姫に嫁入り道具に持たせたのが薩摩切子。
西洋からガラスの技術が入って間もないころ、この嫁入り道具は、藩の技術力を誇示すためのものでもありました。

島津斉彬が集成館事業を始め・・・近代化を進める一方で、薩摩の特産品を造ることにも貢献します。
しかし、斉彬が急死し、薩英戦争となり・・・薩摩切子は消滅。
いつしか幻の切子細工と言われるようになりました。

資料にも乏しく、復元は難しいとされてきましたが・・・
復元に成功しました。
透明のガラスの上に色つきガラスをかぶせた二重構造に、繊細なカット技術を使ってグラデーションを出す・・・江戸切子などにはないぼかしを世界初・・・開発しました。
製造期間はわずか20数年・・・現存するのは百数十種点・・・だからこその幻の切子なのです。

そして、最も特徴的なのが、薩摩の紅ガラス。
当時は日本にはまだ赤を発色させる技術はなかったのです。
斉彬公の自慢の紅ガラスでした。

様々な苦難をばねに、薩摩の人たちの心に刻まれていった“負けない精神”。
今も愛する伝統や文化にもしっかりと受け継がれた城下町でした。

西郷隆盛 第一巻 [単行本] / 海音寺 潮五郎 (著); 朝日新聞社 (刊)
西郷隆盛 第一巻 [単行本] / 海音寺 潮五郎 (著); 朝日新聞社 (刊)

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