2012年10月30日

「ゴッホ・情熱と冷静のはざまで」

”ザ・プロファイラー”です。

情熱と冷静・・・それがキーワード。

ゴッホ作品の最高額は120億円と言われています。
しかし、ゴッホが生きているうちに売れた絵は、1枚だけでした。

売れない絵を驚異的な速さで描き上げます。
その数10年間で2千枚。
37歳・・・あまりにも短い人生の2千枚です。

ゴッホは、オランダ出身です。
身長170センチぐらい、痩せ形でした。

@驚くべきゴッホの手紙の一日
テオドルス・ファン・ゴッホと、兄・フィンセント・ファン・ゴッホ。
画商を営んでいたテオは、ゴッホを支え続けました。
ゴッホから手尾に宛てた手紙は、600通を超えています。
そして、その手紙から、ゴッホの生活を伺うことが出来ます。

1888年南フランスのアルルに住んでいたころは、35歳。
アルルで過ごした1年3か月に描いた絵は、油絵だけで200点以上。
色彩豊かな傑作の数々を、すさまじい速さで描いていきます。
独自のスタイルを確立したと言われるアルル時代。
移動はもっぱら徒歩。
そんな自画像も描いています。
朝から晩まで絵を描いていたようです。

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手紙には、絵のこともたくさん書いていました。

アルル時代以降、すごいペースで作品を作り上げます。
2日に1枚のペースです。
ゴッホは、1853年オランダのズンデルトに6人兄弟の長男として生まれます。
16歳のとき、叔父の画廊に就職、後に弟もこの画廊に就職、手紙のやり取りが始まります。

23歳、ゴッホは、勤務態度の悪さから解雇されます。
各地を転々としながら、画家を目指しました。
そんな兄に、支援をする弟・テオ。

また、ゴッホは大変な読書家で、それは作品にも影響しています。

絵を描く技法の探求も凄まじく、強く惹かれたのが農民画家といわれたミレー。
ゴッホは、ミレーの“種まく人”を繰り返し模写しています。
何度も移すことで、ミレーの技法を会得しようとしたようです。

当時の最新の技術も会得しようとしてもいます。
点描画法のジョルジュ・スーラ・・・
自分に合った手法を模索していたのです。



1886年2月、オランダからパリにやってきます。
モンマルトルのアパートで、弟のテオと暮らし始めました。
画商として成功していたテオの周りには、優秀な画家が集まってきていました。
ゴッホは、彼らから影響を受けるようになります。
色彩豊かなマレ・友人になるゴーギャン、絵具の厚塗りをするモンティセリ・・・

パリ時代のゴッホは、様々な手法にチャレンジしています。
そこには、画家としての試行錯誤な2年間がありました。
絵を見ると、とても幸せな時代だったのかもしれません。


そして、アルルに旅立ちます。
アルルには美人が多い???
パリで、日本の浮世絵を見てその鮮やかさに驚いて・・・日本と近い気候のアルルに引っ越したようです。
そして、南フランスには鮮やかな風景があったからです。


A「ゴッホの黄色」を支える絵具の秘密。
アルルに移り住んだゴッホは、次々と傑作を生み出していきます。

「ひまわり」
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「黄色い家」
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「種まく人」
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中でも黄色は特別な色でした。

テオにも、「クローム・イエローの絵の具を送ってほしい」と、手紙を書いています。

ゴッホの黄色・・・クローム・イエローとは???
19世紀は良く使われていましたが、鉛が入っていて毒性が強いために現在ではあまり使われていません。
質感がしっかりしていて、輝きがあって、立体感も出しやすいクローム・イエロー。
形もきれいに保つことが出来ます。
しかし弱点があります。変色しやすい絵の具なのです。
でも・・・ゴッホの絵は鮮やかです。
どうしてでしょう。 

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分析すると・・・
クローム・イエローにジンク・ホワイトを混ぜることで、鮮やかさを出していたと言われています。
つまり、その技法を知っていたと思われます。

クローム・イエローが変色してしまうのは、顔料の中の鉛が空気中の物質に触れる為で、松脂やマスチックという樹脂を混ぜていたのではないのか???
というのです。
しかし、そんな記述は残っていません。

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今も色あせないゴッホの黄色です。


1890年7月27日
ゴッホは、自らの腹部を撃ち・・・37歳という短い生涯に幕を閉じました。
しかし、彼の残した傑作は、永遠に私たちを感動に誘ってくれます。

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posted by ちゃーちゃん at 08:32| Comment(0) | 追跡者 ザ・プロファイラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月11日

「西太后“国も美貌もアンチエイジング”」

待ってました。
「追跡者 ザ・プロファイラー」です。

西太后、残虐でとても有名な独裁者のように言われています。
今から100年以上も前、中国は清朝末期に50年近く権力を握り続けた女性です。
権力と美しさを追い求めたその素顔とは???


西太后のカルテ・・・
中国・北京にある紫禁城。
巨大帝国・清の皇帝の宮廷です。
西太后は、側室から清朝最後の最高権力者へと上り詰め、君臨します。
現在は故宮博物院になっています。
そこに膨大なカルテはありました。

日々の健康状態や薬、美容術なども書いてあります。
そこには、西太后がお世継ぎを生んだ21歳のときから亡くなる日まで書かれていました。
このカルテを見れば・・・西太后の人生がわかるのです。


西太后が宮廷に入ったのは、18歳。
時の咸豊帝の妃選びに合格した、もともとは中堅官僚の娘でした。
清国の妃選びは、家柄の高い人、きれいな人はあえて避けていました。
それは・・・皇帝が絶世の美女に惑わされたり、妃の実家を登用して政治がおろそかになるのを防ぐためでした。

9人いる側室の1人として生活し始めました。
そして・・・皇帝の世継ぎ候補の男子を生みます。
側室の中で一番の地位を得ることになりました。

20代のカルテには・・・月経の痛み、泌尿器系の感染症を治す処方・・・体調管理がほとんどです。

40代になると・・・西太后が権力をふるうようになると・・・
仕事に追われ、頭がボーっとし、耳鳴りがする。
考えすぎて鬱状態、疲労に耐えきれない。
政治や国のことで苦しんでいたのでしょうか???

晩年の60代には・・・
外国との戦争に敗れ、各地で諍いが起き、清国存亡の危機がやってきます。
この時使われていたのは・・・体の毒を抜き肌を潤す美肌漢方、デトックスが何回も処方されています。

西太后のカルテは、美容法や健康維持に変わっていきました。
その大きな先の目的は不老長寿・アンチエイジングでした。

悪女???ではなく、人を使うのが上手な人だったようです。


どうして、カルテを残したのでしょうか???
中国は、人治国家・・・強い指導者・・・最高権力者の健康が政権の安定に直結したもののようです。

身長最盛期の第4代乾隆帝は享年89歳ですが・・・
清朝末期には、
第7代 咸豊帝享年31歳。
第8代 同治帝享年19歳。
第9代 光緒帝享年38歳。

と、短命になっています。
この時に権力を握ったのが西太后でした。
最高権力者には、体力と健康が必要でした。


西太后の美容に関するこだわり・・・
それは、権力への執着と比例して伸びていきます。

咸豊帝は、西太后を秘書のように扱っていました。
西太后は、当時の女性にしては珍しく、読み書きができたのです。
公文書の作成や、政治の相談にも乗ったようです。

その西太后が一目置かなければいけないのが・・・
東太后・・・咸豊帝の正夫人です。
東太后は後宮で、3000人の頂点に立つ女性でした。
東太后は、皇帝の子供を産んでいませんでしたが、その存在は絶対的でした。

二人の運命が変わった事件・・・
それが、1861年の咸豊帝の急死でした。

跡を継いだのは、西太后の産んだ同治帝でした。
まだ6歳の子供をめぐって、熾烈な権力闘争が始まります。

一つは亡き皇帝の弟・恭親王の一派、もう一つは同治帝の後見人の大臣一派です。
大臣たちは、幼い皇帝を操って、西太后さえも排除しようとします。

「抹殺されるかもしれない・・・」

西太后が助けを求めたのが、東太后でした。

「私たちの息子を守れるのは私たちだけです。。。」

東太后を味方につけ、恭親王も味方につけ、大臣一派を追い詰めていきます。

その手法は・・・二人は後宮を出て、政治の舞台へ上がることでした。
中国の歴史上、600年ぶりに行われた垂簾聴政・・・。
帝の後ろに御簾を立て、その後ろから二人の太后が操る傀儡政権です。

この時は西太后27歳でした。


そして、もう一つ追求したものが・・・
永遠の美でした。

卵白パックにリンパマッサージ、花の香りのマッサージ・・・
すでに100年以上も前にアロマオイルを使い、温ケアを実践していました。
男性的な権力と女性的な美・・・その二つを掌握しようとしました。



印章。。。
咸豊帝から同治帝に受け継がれた印鑑には「同道堂」の文字があります。
自分の蔵書など個人的な持ち物に押した印です。

東太后が受け継いだのは「御賞」。
咸豊帝が骨董品を評価するときにつかったものです。
自分の死後に、皇帝の詔書にはこの二つの印を押すように・・・と言い残しました。
この印が権力の象徴となっていきます。
中国の、公式文書を大切にする文書主義がそこにはありました。


18歳となった同治帝は、自ら政治を行い始めます。
西太后39歳・・・

「おなかを痛めたわが子に、ようやく親孝行してもらえる生活ができる」

と、息子が治める世で、美容と娯楽三昧の生活が待っているはずでした。

しかし・・・
1年後、同治帝がはやり病で死去。19歳の若さでした。


息子がいなかったので・・・
西太后が動き出します。

遺言として、後継者を発表します。
同治帝のいとこ・載湉4歳でした。

載湉の母は、西太后の実の妹・・・
こうして、権力の座に返り咲いたのでした。


西太后が愛した料理・・・
ツバメの巣のスープ、このツバメの巣は、タイ国王からの貢物でした。
魚の浮き袋はベトナムやフィリピンから・・・。
そして、この料理には、料理人だけではなく、医師も深く加わっていました。

46歳のカルテには・・・
筋肉の痛み、食欲不振・悪寒・精神の不安定・・・とあります。
度重なるストレスに、心身をむしばまれていたことがわかります。

それを救ったのが、滋養に満ちた宮廷料理なのです。

“食べることが一番大事”これが、「医食同源」へと繋がりました。


西太后には2枚の肖像画があります。
60歳の時に中国人画家が描いたものと、68歳の時にアメリカ人画家に描かせたものです。


北京郊外にある巨大庭園“頤和園”。
世界遺産に指定されています。
55歳となった西太后は、紫禁城からここに生活の場を写し、引退生活に入ります。

が・・・
清国は、欧米列強に悩まされてきました。
19世紀半ばから敗北を重ね・・・

領土や権益を奪い続けられていました。
その上、日清戦争でも敗北。
清国の弱体化・権威の失墜は明らかでした。

そんなころのゆるぎない権力者を描いたのが、中国人画家の描いた一枚。


しかし、光緒帝は、西洋風の改革を目指します。
これに、西太后は猛反発。

そんな中・・・1900年義和団事件が起こります。
西欧列強や日本はこれを撃破、紫禁城を制圧してしまいました。

西太后66歳にして、最大の屈辱でした。

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しかし、西洋式の政治体制への改革を受け入れ始めました。
そこには、美容も政治もアンチエイジング・・・美しく健在であり続ける・・・というメッセージがありました。

東洋ではもともと肖像画は亡くなった後に描くものとされていました。
身分のあるものは顔をさらさない・・・という感じだったのですが、西洋流にアピールするためには必要だったようです。

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西洋を受け入れる・・・脳をアンチエイジングしたようです。

西太后の最晩年の言葉
「英国のヴィクトリア女王は男の大臣たちと相談して物事を決めるらしいが、私は違う」

側室から最高権力者へと上り詰めた自信が言わしめたのでしょうか???

1908年西太后死去。享年74歳で・・・申告が滅びたのは、その3年後でした。

西太后の亡骸は美しく、生きているかのようだったそうです。


【全巻セット】 蒼穹の昴 全4巻セット
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蒼穹の昴 DVD-BOX 1 / 田中裕子 (出演); 汪俊 (監督)
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posted by ちゃーちゃん at 17:51| Comment(0) | 追跡者 ザ・プロファイラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月12日

ザ・プロファイラー 「レオナルド・ダ・ヴィンチ 未完成の天才」

「レオナルド・ダ・ヴィンチ 未完成の天才」やっと観ました。たらーっ(汗)

レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・
「モナ・リザ」や「最後の晩餐」だけでなく、数々の研究や発明、人体解剖まで行った天才です。
しかし彼が完成させた作品は、わずか10点にすぎません。。。

生まれたのは1452年4月15日、トスカーナ地方のヴィンチ村に生まれます。
ダ・ヴィンチ家は、代々公証人という弁護士のような仕事をしてきた名家で、長男でした。
レオナルドは長男として生まれましたが・・・しかし・・・母は、小作農でした。
父とは身分が違いすぎて、生まれて間もなく母から引きはなされます。

跡取りではなかったので、満足な勉強もさせてもらえませんでした。
その為、多くの時間を野山で過ごすことになりました。
自然が心のよりどころとなったのです。
常識にとらわれない自由な発想の原点は、ここだったのかもしれません。

13歳を過ぎて、フレンツェに出て工房に弟子入りします。
その頃の工房は、教会や貴族の要望に、なんでも応える職人集団でした。
絵画・彫刻・楽器や馬具まで作ったそうです。

当時イタリアは、ルネサンスの真っただ中、その中心がフィレンツェでした。
それまでには無かった肉体的表現・内面的表現が必要になってきました。
ここで、芸術の基礎を学んだのです。

20歳の時に描いた大きな仕事・・・
「受胎告知」(1472〜75年ごろ)です。

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天使が聖母マリアに受胎告知を告げるシーンです。
天使の翼は、それまで金色や虹色で書かれていましたが、リアルに鳥の羽で表現しました。
こうしたリアリティが強く出ているのが、天使の持っている百合の花・・・
天使の持っている百合の花には、「受胎告知」ではおしべは描かないことになっていました。
それは、百合の花が純潔のシンボルだからです。

しかし、レオナルドは敢えて描きました。

「画家は自然を師としなければならない!!
 画家は自然を模し自然と相競う」

と。

20代半ば・・・工房を立ち上げますが・・・未完成作品が増えていきます。

どうして未完成なのでしょう???

レオナルドは、常に完璧なもの、絶対的な芸術性にこだわっていました。
芸術家であり、科学者であったかれは、世界を変えるような作品を作りたいという苦悩と戦っていました。

29歳の時・・・修道院から大きな仕事が舞い込みます。
レオナルドを世に知らしめる・・・
しかし、下書きをして投げ出してしまいます。
それがこちら、「東方三博士の礼拝」(1481〜82)

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モノクロで色が塗られていません。
構図・洋式・表現方法ともに革新的な作品でした。
三人の賢者は、星のお告げを受けて、生まれたキリストを祝福しているシーンです。

未完成の原因は・・・2つの掟破りをしたから。

一つは、テーマの逸脱。
背景には戦っているシーンが描かれています。それは、嬰児虐殺の場面です。
当時のユダヤのヘロデ王が、キリストが生まれることで・・・赤ん坊を皆殺しにして回ったことを描いているのです。
スケールの大きな物語にしたかったのです。

もう一つは技術、遠近法です。
これは、ルネサンス期に生まれた技法です。
しかし、まだ確立されていませんでした。
レオナルドの作品では、きっちり描かれていて、画期的なことでした。
設計図のように正確な立体として作られました。
しかし、アイデアを詰め込みすぎて・・・あまりに違うので、教会が受け取らなかったのでは?と言われています。


流行の最先端、ミラノ・・・
レオナルドのいたころのイタリアは戦国時代。
新興勢力のミラノ公領に活路を見出しやってきました。
野心家のルドヴィコ・スフォルツェに自分を売り込んで、仕事をえようとしました。

@私は如何なる要塞や砦を破壊する方法を知っている。
Aこれまでにない大砲や迫撃砲をつくることができる。

芸術家ではなく軍事技師としての能力を9項目アピールしています。
最後に・・・平和時には、絵画や彫刻なども作ることができると、書いていました。

念願かなって、ルドヴィコのもとで働き始めます。
主君の期待に応えるために・・・
多銃身砲・戦闘馬車を開発。運河の開発・・・それは、万物の真理を知りたい・・・という欲求に変わっていきました。

自然の摂理を追及すると、キリスト教とは違った考え方が生まれてきました。

「私の心の中に2つの感情が湧きあがってきた
 すさまじく暗い洞窟に対する恐怖
 そしてその奥に何が潜んでいるのか見たいと思う憧憬である」

そして、開発したメモ書き・・・手稿は、1/3、5000枚も現存しています。

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興味は、自然から人間の肉体・・・生命の神秘へ・・・
自然界の裏側にある秩序を見出そうとしていました。
それは、キリスト教として弾圧されかねない論理の研究でしたが、真理を求める“自由”を研究していました。
この手稿から、天才であり、アウトサイダーな立場が着きまとっていたことがわかります。


レオナルドの自画像・・・陰鬱で苦悩に満ちています。
素顔のレオナルドはどんな感じ???


ヴェロッキオのダヴィデ像・・・
モデルはレオナルドと言われています。
かなりの美男子で、その美貌から、教会から同性愛者の嫌疑を受けています。
しかし、真相はやぶの名赤・・・


手稿の文字は、鏡に映して読むことが出来ます。
それは、書いてある内容を秘密にしておくためという理由と・・・
もう一つ。左利きであることがわかります。
当時、左利きは不吉ということで、矯正されました。
正式な教育を受けなかったレオナルドは左利きのまま・・・それが個性となりました。


レオナルドも、ファッションに五月蝿いモテ男。
「すべてのエレガンスの支配者」と呼ばれていました。
それは、周りに流されない価値観でした。
当時は長いコート・・・でも、レオナルドは短いコートだったとか。。。


ミラノに住んで12年・・・集大成ともいえる作品に挑みます。
サンタ・マリア・デッレ・グラッツイエ教会の壁画「最後の晩餐」(1495〜98)です。

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4年の歳月をかけて完成させました。

イエスが処刑される前夜・・・弟子たちと食事をするシーンです。

「この中に・・・私を裏切るものがいる・・・」

レオナルドは弟子たちを、人間味あふれた表情に書いています。
「東方三博士」で実現できなかった技法を形にしました。遠近法も。。。。

最後の晩餐には、芸術家・科学者・工学者・神学者・精神分析学者としての・・・
レオナルドの研究と思想がすべて融合しています。

人々の度肝を抜いた「最後の晩餐」
レオナルドの名声が響き渡ります。
しかし、レオナルドの用いた絵具は壁画に適しておらず、大量のカビが発生してしまいます。
カビは、鮮やかな色彩を奪ってしまい、20年後には無残な姿となってしまいました。



「画家は万能でなければならない」

絵をかくということは・・・「終わりなき完成」の道だそうです。

「モナ・リザ」も、未完成です。


フランス・アンボワーズ・・・64歳のレオナルドがたどり着いた終焉の地です。
フランス国王・フランソワ1世が、宮廷芸術家として招きました。


国王に庇護されたレオナルド、ようやく安住の地を手に入れました。

悠々自適に過ごせる境遇・・・

死ぬまで手を入れていた未完成作品・・・

「聖アンナと聖母子」(1502〜16)

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キリストを抱くマリア、そのマリアを見守るアンナ・・・二重の母性が描かれています。

「洗礼者ヨハネ」(1513〜16)

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両性具有のようなヨハネが不敵な笑みをたたえています。

そして、「モナ・リザ」。

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古くから、モデルは誰なのか・・・論争が絶えませんが・・・
定説では、フィレンツェ商人の妻リザ夫人。
夫の依頼で書かれましたが・・・

レオナルドは、この絵は驚くべき技法で描かれています。

どれだけクローズアップしても、筆の線が見えないのです。
輪郭線はなく、光と影の濃淡だけ・・・
涼しげな眼もとは、写真のようで、スフマートという技法です。
ミクロの点を積み重ねていく、気の遠くなるような技法です。
レオナルドの編み出した技法で、線を描かない・・・筆を使わずに、指を使うのが基本です。
自然界は線ではない、無数の点からなる・・・
いつまでも終わることのない点。

かれは、哲学や科学から学んだことを、絵に込めようとしました。
目に見えない“無限”という概念を描こうとしたのです。
絵画表現の限界を超えて、果てしない世界を表現しようとしたのです。

晩年のレオナルドにとって、完成するということは妥協ということでした。


そんなレオナルドにも、命の限りが来ました。
彼は、どのような思いでその時を迎えたのでしょうか?
1519年5月2日69歳の生涯に幕を閉じました。

「納得のゆく芸術作品を作らずに、神に背き、世の人々を傷つけてきた。」

完ぺきを求め、その先を求め続けた狂気と苦悩の人生でした。

なんだか、知れば知るほど天才です。
天才ゆえの苦悩が、よく解るように説明してくれていました。


再放送、そして、10月から新作品がNHKで放送されるようです。
とっても楽しみです。黒ハート

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