2013年01月16日

「ベートーベン 成り上がりが届けた人類愛」

ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫) [文庫] / ロマン・ロラン (著); 片山 敏彦 (翻訳); 岩波書店 (刊)
ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫) [文庫] / ロマン・ロラン (著); 片山 敏彦 (翻訳...

ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン・・・運命・皇帝といった雄大な作品、エリーゼのために・月光などのロマンチックな作品・・・ベートーベンは、まだ音楽が、教会や宮廷の娯楽でしかなかった時代に音楽を独立した職業とし、芸術に高めた人です。
その凄まじいエネルギーは一体なんだったのでしょうか?

貧しい音楽一家に生まれたベートーベン・・・
天才ピアニストとして脚光を浴び、音楽の革命児となります。
自らの運命を切り開いた男です。


追っかけ少年の記録・・・
記録を書いたのは、父親がベートーベンの親友だった、ゲルハルト・フォン・ブロイニング少年です。憧れの大先生の後をいつもついて回っていました。
当時、ベートーベンはヨーロッパでもっとも知られた大作曲家でした。

朝5時半から作曲活動です。
大声で歌ったり、足を踏み鳴らしたり、壁に曲を書いたり・・・
家主から、たびたび退去するように言われていました。

午後は散歩。同じ時間に同じ服で。
とても早足で・・・でも、立ち止まったり、歌いだしたり・・・散歩をしながら作曲しました。
ウィーンの町を歩いているのをスケッチされています。

耳の聞こえなくなっていたベートーベンは、筆談帳で会話をしていました。
無類のワイン好きで、56歳の夏には胃と肝臓を悪くして寝たきりに・・・
ブロイニング少年は、お見舞いをして話し相手になります。
亡くなるその日もそばにいて・・・この日記がベートーベンの記録となりました。


1809年39歳の時にベートーベンは3人の貴族と前代未聞のスポンサー契約をします。
そこに記されているのは。。。
貴族から毎年2000万円を支給というものでした。
ベートーベンは、自分の好きな物を作ることが出来るようになったのです。
1770年ドイツ・ボンに生まれたベートーベン。
家は、代々宮廷につかえてきていた音楽家でした。
歌手だった父は、早くからベートーベンの才能を見抜きます。
当時の天才・モーツアルトのように・・・と、英才教育をします。

この頃の音楽家は、宮廷や貴族に雇われ身分が低く、言われるままに曲をひいていました。
天才的にベートーベンは、13歳で宮廷のオルガン演奏者となります。
その給料で一家を支えるまでになりました。

しかし、お抱え音楽家で満足しなかったベートーベンは、21歳の時に、音楽の都ウィーンに・・・
誰にも頼ることのできないウィーンで、武器になるのは天才的なピアノの腕でした。
当時は、地域のピアニストを即興演奏で競わせるのが大流行していました。
人一倍即興演奏に秀でたベートーベンは、相手を打ち負かします。
ついたあだ名は、“悪魔の手を持つ男”。
そして、ピアノを習う令嬢が増えてきました。

ベートーベンは、教え方が優しくていいと評判になります。
生きる道を開いたベートーベンですが、まだ雇われの身・・・


フランス革命を機に時代は大変革・・・。
ナポレオンが登場し、疾風怒濤の時代に入ります。
市民階級が時代の主役になっていきます。

音楽の世界でも・・・
1800年交響曲第1番で自立。やはり、オペラか交響曲を書かないと大芸術家として認められなかったのです。
自分で演奏会を開きます。自己の収益の為の、自主演奏会です。

会場は、ブルク劇場。
交響曲を披露するには桁外れの大きさでした。
貴族や市民にチケットを売り・・・
チケットの売り上げも上々・・・
評価は、管楽器を使いすぎた強烈な響き、しかし、何か新しいものを感じさせた。というものでした。

新しいスターの誕生でした。

そして、曲作りをビジネスにしました。
貴族に曲を献呈し、お金をもらうのです。
人気急上昇のベートーベンに、多くの貴族が献呈料を払います。

楽譜の出版も・・・
当時楽譜は、国を超えつつありました。市場拡大を狙います。
初出版のピアノ三重奏曲 第1番は1000万円以上の売り上げが出ました。
交響曲は90万円、協奏曲は45万円、ピアノソナタは90万円・・・と売っていきます。


しかし、この頃から耳が聞こえなくなって・・・

1802年ハイリゲンシュタットの遺書を書きます。
“生きる決意”を表したものです。
「僕は絶望し、もう少しのところで自殺しようとした。
 ただ芸術が僕をひきとどめた。
 僕は、これを成し遂げずにこの世絵を去ることは不可能だ。」

自分が創る音楽を、芸術と宣言します。
そこから名曲が生まれます。
「熱情」「運命」・・・そして1809年スポンサー契約を結びました。

結んだのは・・・皇帝の一族として最高位にあったルドルフ大公・ロプコヴィッツ侯爵・キンスキー侯爵の3人です。

当時、他国から引き合いが来ていたベートーベン、焦った音楽の都の貴族たちが引きとどめたのです。

契約書には・・・
ベートーベン氏の演奏家としてまた、作曲家としての非凡な才能に大きな期待をかけ・・・
奏サックに専念できるような境遇・・・
約2000万円の年金が生涯支払われることが約束されました。雇われ音楽家が貴族と対等になった瞬間でした。

「貴族は生まれたときから貴族で何人もいるが、ベートーベンはたった一人しかいない」

音楽家に自由が存在する・・・そのことに気付いたのがベートーベンだったのです。
音楽を、趣味嗜好の世界から、人間のナセル偉大な業に高めた人でした。


「月光」は、ベートーベン渾身のラブソングでした。
お相手は、グィチャルディ侯爵令嬢のジュリエッタ・16歳でした。
ベートーベンは、貴族に支配されるのを嫌いながら、お相手は、貴族令嬢ばかりでした。

「エリーゼのために」・・・
エリーゼとは???通説では、大地主の令嬢テレーゼ・マルファッティ。
悪筆だったので、テレーゼがエリーゼになってしまったというのですが???
いつも身分でやぶれてしまいます。

結婚の夢に破れるばかりのベートーベン。。。

熱烈に愛し合った人は、42歳の時、それは、究極の道ならぬ恋でした。
お相手は、アントニア・ブレンターノ。4人の子供を持つ友人の妻でした。
熱烈な恋文は渡されることはありませんでした。


第九の作曲に取り掛かる頃・・・ベートーベンは、公私ともに最悪の状況でした。
難聴に苦しんできた耳は聞こえなくなりつつあり、ウィーンには軽やかな曲が流れ時代遅れの過去の作曲家扱いになりつつありました。

年金契約の3人のうち2人が亡くなりかなりの収入減。
ベートーベンは、賭けに出ます。
それは、交響曲に大合唱を加えるというものでした。
ベートーベンには使いたい詩がありました。
シラー作「歓喜に寄せて」です。
10代のころに出会い感動した詩でした。

長大なシラーの詩にアレンジをします。
かつてない大きなオーケストラとなります。

初演の準備にも取り掛かります。
会場探しまで自分で手掛けます。
出演者・合奏者集めに困難します。
新聞に・・・
「ここに謹んで私の演奏会に助力されんことをすべてのアマチュアの紳士諸兄に懇願するものであります。」
と、広告を載せます。
大きな会場・・・ケルントナートア劇場を見つけました。

ギリギリまで推敲をします。理想の音を求めて・・・

初演日は2週間以上も延期されました。
1824年5月7日4日ようやく初演です。


客寄せのために、ベートーベンが指揮します。
しかし、時間もなく練習もそこそこの楽団は、酷評されます。
が・・・嵐のような拍手が・・・市民には受け入れられたのです。

不滅の交響曲の誕生でした。
音楽の力を理解して具現化できる男・・・才能の塊だったその男。
亡くなったのは、初演の3年後56歳でした。
葬儀には、2万人の市民が集まったと言います。
ヒーローの死を悼み、悲しんだのです。

年末には世界中で第九が流れ・・・
その兄弟愛の精神は、今も受け継がれています。

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2013年01月15日

「マリー・キュリー 科学愛こそ私のプライド」

マリー・キュリー・・・男尊女卑のいばらの道を切り開いた科学者です。

マリー・キュリー フラスコの中の闇と光
マリー・キュリー フラスコの中の闇と光

今から100年ほど前、放射能の研究で、女性で唯一、2度のノーベル賞に輝きました。
女性の社会進出がまだ少なかった時代に、どのようにして成功したのでしょうか?

ノーベル賞は、マリーが受賞したことで注目されだした賞でした。
ノーベル賞をここまで有名にしたのは、キュリーです。


マリーの直筆のノートには・・・
放射線が残っている物もあり、マイクロフィルムでしか閲覧できないものもあります。
実験ノートには・・・600ページに及ぶ記録があります。
もう一つは育児ノート。
実験と育児に追われた日々を、人生で最も幸せな時間だったと振り返っています。

早朝、朝食の支度をし家族一緒に食事をした後、仕事に取り掛かりました。
当時、マリーは無名の研究者、夫のピエールは将来を期待された科学者でした。
馬小屋と呼ばれる粗末な劣悪な実験場所で、しつこいまでに完璧な研究をしていたようです。

昼食もろくにとらずに研究します。
義父の協力もあり、家族の深いつながりの中、仕事に打ち込んでいました。

帰宅すると、晩御飯の用意をし、娘をお風呂に入れて・・・
育児日記をつけるのでした。
科学者としても母親としても完ぺきを求めたような感じがします。



この何でもこなそうとするプライド。
マリーが幼いころ、家には父の実験器具がありました。
父は、数学と物理の教師だったのです。
実際に器具に触れたのは21歳の時でした。

マリーは1867年、ポーランドのワルシャワに生まれます。
5人兄弟の末っ子で、両親は教師でした。
当時ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアに占領され、マリーの住むワルシャワはロシアの一部でした。
ロシアの命令で、ポーランド語や母国の歴史を学ぶことが禁止されました。
小学校のマリーは2学年も飛び級するほどの秀才でした。
監視にやってくるロシア人に授業内容のチェックのために答えさせられていました。
話したくもないロシア語で、尊敬もしていない歴代皇帝の名前を暗誦します。

強い自覚を持ったポーランド人だったマリー・・・

父のヴワディスワフも大きな侮辱を受けます。
物理と数学の教師でしたが、ロシア人の校長と対立し、逮捕されてしまいます。
家にあった実験器具・・・それが再び使われることはありませんでした。

そんな中、マリーを支えたのは、秘密のノートです。
ポーランドの詩人の詩集の写し・・・
ポーランドが大国として栄えたのは、16世紀から17世紀。
その礎を築いた人たちの叙事詩です。
このノートは、マリーが10歳の時に亡くなった母が書き写し、残したものでした。
マリーは、このノートから、ポーランド人としてのアイデンティティと伝統を学んだのです。

マリーは15歳で高校を首席で卒業します。

しかし、当時のワルシャワでは女性の大学進学は認められていませんでした。
マリーは、秘密の教育組織・移動大学で学び始めます。
移動大学とは、個人宅や集会所で女性に勉強を教える組織です。

そんなマリー、21歳の時に転機が訪れます。
移動大学だった工業農業博物館で初めて実験を体験します。
それは、“蒸留”です。
その驚くべき現象に、喜びを感じたのです。
もっと科学の勉強を極めたい!!家庭教師をしながら24歳でフランス・パリにあるソルボンヌ大学へと進学します。
最先端の科学を学ぶことで、祖国に貢献しようと研究に明け暮れる日々が始まりました。


ポーランドに戻って先生になるはずだったマリー・・・。
結婚してフランス国籍となってしまいます。

ピッチブレンド・・・黒い石です。ウランをはじめ、強い放射性物質が含まれています。
この石が、彼女の人生を変えていきます。

ソルボンヌ大学では、物理の学士試験1位・数学の学士試験2位という成績を修めます。
その頃であったのが、ピエール・キュリーです。8歳年上の新進気鋭の科学者でした。

1895年7月に結婚。

研究にまい進する2人は・・・この頃アンリ・ベクレルが発見した奇妙なエネルギーでした。
ウラン鉱石から見えないエネルギーが出ている!!
目をつけたのが、ピッチブレンドでした。
これまで発見されていない元素があるのではないか???
2人は元素を発見しようと、一つずつ分離していくのですが・・・できません。
そして、3年9か月・・・新たな元素を2つ発見しました。
一つはラジウム、もう一つはポロニウム。
2人の発見は、特定の元素がエネルギーを発するということを証明します。そして、放射性に伸びていくことから放射能と名付けたのです。

この放射能の発見で、1903年12月ノーベル物理学賞を受賞します。
2人は、世界に名をはせる科学者となりました。

1911年11月4日の新聞にマリーのスキャンダルが載りました。
“恋の物語 キュリー夫人とランジュバン教授”
マリーが、妻子ある男性と不倫にあるというものでした。

その5年前、マリーは悲劇に見舞われます。
1906年夫・ピエールが交通事故で死亡、それを引き継いで、女性初のソルボンヌの教授に就任しました。
ポール・ランジュバンは、ピエールの愛弟子でした。
きっかけは、ランジュバンからの身の上相談でした。
このランジュバン、「私がいなければ、ランジュバンが“相対性理論”を発見しただろう」と、アインシュタインに言わしめた男です。

その才能に惚れこんでしまったマリー・・・。
大学の近くのアパートで密会をする日々・・・。
スキャンダル発覚から3日後の11月7日、マリーに2度目のノーベル賞が決定します。
ところが・・・スキャンダル報道だけが過熱します。
そして、11月23日マリーに追い打ちをかけます。
2人の手紙の内容が盗まれ、掲載されてしまったのです。

12月1日、ノーベル賞を決定するアカデミーから手紙が来ました。
「不倫が事実と証明できないのであれば、ノーベル賞の受賞を辞退するように」と。

マリーは返事を書きます。
「賞は、ラジウムの発見とポロニウムの発見に対して授与されました。
 科学的業績と、私生活との間には何の関係もないと思います。
 科学的業績の評価が、個人の生活の中の中傷や誹謗の影響を受けるという考えには原則として承服いたしかねます。」

12月10日マリーは受賞式に参加、世界初の2度目のノーベル賞を受賞したのです。

3年後、第1次世界大戦が勃発。
フランスはポーランドを占領していたドイツ・オーストリアと戦い始めました。
負傷した兵士たちを放射線で治療できないだろうか???
と、思ったマリー。

目をつけたのがX線でした。
マリーは、X線を乗せた車を開発し、たくさんの人の治療に当たりました。
前線で展開した車や病院でX線治療した人は、100万人に上ると言われています。

1918年ドイツの敗北で第1次世界大戦が終結しました。
その後、ヴェルサイユ条約では、民族自決が詠われました。

その結果、123年ぶりにポーランドが独立します。

終戦後マリーは、研究を再開します。
しかし、この頃から放射線が人体に及ぼす危険性が明らかになっていきます。
しかし、マリーはそれを認めず・・・
放射線は人間の未来を切り開く・・・そう思いながら、1934年7月、マリー・キュリー死去。死因は、放射線被ばくによる白血病と言われています。

1934年7月6日マリーは、夫ピエールの墓地に埋葬。
亡骸はピエールと共に埋葬してほしいと、言っていたそうです。

放射線と現代生活 マリー・キュリーの夢を求めて
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2012年12月18日

「ダーウィン 神に挑んだオタク」

化学者 チャールズ・ダーウィン・・・
今から150年前、まだすべての生命は神が作られたと信じられていた時代に、「進化論」を打ち出しました。
世界を新しい時代へと導いた人物です。
天才・偉大な化学者と称賛されるダーウィンです。
そして、そこにあったのは、オタクの力でした。

da.png

ダーウィンの母方の祖父は、高級陶磁器メーカー創業者のジョサイア・ウエッジウッドです。
父方の祖父は、有名な医者であり生物学者のエラズマス・ダーウィンです。
ダーウィンは、イギリス有数のお金持ちと学者の間に生まれた上流階級の出身です。
ジェントリーに位置したダーウィンは、上流階級で、時間とお金、自由に恵まれていました。

ダーウィンは、植物・昆虫・生き物・・・いろいろなものを研究していました。

自分の進化論を発表したのは、49歳の時です。
その大発見をどのようにして見出したのでしょうか???

@東京ドーム3個分の広大な屋敷。

イギリス南東部にある自然豊かなケント州。
ダウンハウスで、73歳で亡くなるまでの40年間、ここで規則正しい生活をしていました。
1日2回12時と16時に犬の散歩。雨が降ろうが時間厳守です。
広大な屋敷の中を散歩します。

そこでは・・・
ダーウィン専用の温室も。。。
植物をコレクションし、お気に入りは食虫植物でした。
世界各地からいろいろな、モノを収集していました。
植物と動物の間の不思議な生き物・・・。

自然環境に合わせてどのように雑草が育つのか・・・の研究もします。
これが、後に進化論になります。

親の財産で暮らせたので、人にも会わず、常に屋敷の中で・・・
引きこもりのようで・・・好きな研究だけをしていました。

お気に入りは“フジツボ”。
毎日フジツボ観察をします。
どうして???
それは、形が多様だからです。
フジツボは、エビやカニの仲間です。
ところが・・・成長すると、殻が張り付いたところから離れられなくなります。

その姿は、環境によって様々です。
世界中から集めたフジツボは・・・1万個に及びます。
そんな、オタク生活の集大成を発表したのが50歳の時・・・
「種の起源」です。

すべての生き物は、環境に合わせて形を変えていく・・・

誰も、考えの及ばなかった化学の真理です。

この「進化論」の何が衝撃的だったのか???
それは、人間が不変の存在ではないということです。
人間も特別な存在ではないと、言い切ってしまいました。

当時の社会から見れば、進化論は、考えてはいけないこと・・・
つまり、反社会的なものなのです。


A5年間の大航海
広大な屋敷での生活は30代からです。
1809年ダーウィンは、シュルーズベリーで生まれました。
小学校時代熱中していたのは、昆虫採集でした。
父は、医者か牧師にとケンブリッジ大学に入れましたが・・・
ダーウィンは、自然科学の教室に入り浸って、教授から“質問魔”と言われていました。

無邪気でわが道を行っていました。

大学を卒業した22歳・・・
世界一周をする船、海軍測量船・ビーグル号に乗る機会を得ました。
南米大陸の航海ルートの調査をします。
何年かかるかわからない・・・=名のある教授は乗せられない。。。
当時の大学を卒業するとき・・・グラウンドツアーという大規模な卒業旅行(=ヨーロッパに)を行く人もたくさんありました。

父を説得し、1000万以上のお金を払ってもらい参加します。
1831年出発し、南アメリカを一周。
ダーウィンは夢中です。

これといった仕事のないダーウィンは、5000点以上の標本を収集しました。
目につく珍しいものを片っ端から集めます。
最初の2年間は夢中で採集しましたが・・・
観察、推理するようになっていきます。

3年半たった1835年9月・・・運命の島、ガラパゴス諸島・・・。
此処には、大陸にはない生き物がたくさん住んでいました。

注目したのが、ゾウガメの甲羅。
ドーム型、鞍型・・・住む島によって違います。
観察するとドーム型は、下に生える草を食べる
鞍型は、首を伸ばしてサボテンを食べる・・・
どちらも、環境に適した形になっていました。


フィンチは・・・
全部で13種類、色や大きさも様々です。
くちばしの形は・・・
大きいくちばしは固い実を食べ、小さいくちばしは小さな虫を・・・
その中間のくちばし・・・
太いものから細いものまで・・・食べるものによって違うくちばしでした。

「互いに近い種類の鳥の間に。こうした体の構造上の違いが現れるということは、「同一の種類」から環境に合わせて異なる形になったのではないか・・・。

1836年イギリスに帰国した翌年・・・
仮設をたてました。
全ての生き物は、共通の祖先から枝分かれし・・・現在の姿になったのではないか???
と。

この大発見のひらめきは???
問題を解決しないと気が済まない・・・そんなオタク心が発見を呼んだのです。
素直で先入観のない柔軟さ、常識にとらわれない心がありました。
しかし、当時の世の中に逆走することになります。
B世界を動かした手紙

1839年29歳で結婚。幼馴染の従姉、エマ・ウエッジウッドでした。
しかし、結婚するかしないかで悩んでいましたが・・・
エマは・・・
「彼は、とても率直で隠し立てがなく、本当の事しか口にしない人です。
 愛情も人一倍。でも、ちょっとねえというところも・・・
 無頓着だとか、動物に優しすぎるとか・・・」
オタクっぽいところが少し不安だったようです。

そして、もう一つ悩んでいたのが・・・
進化論を発表するか否かです。

友人のジョセフ・フッカーに手紙を送っています。
「これは、殺人を告白するようなものです・・・」と。

当時のヨーロッパは、人々の生活はもとより、化学の世界にもキリスト教が大きな影響を与えていました。
全ての生き物は神が創った・・・それ以来、姿かたちは変わっていない・・・
特に人間は、神が自らに似せて作った特別な存在・・・

しかし、ダーウィンの考えは、他の動物と同じように枝分かれして進化した生き物なのです。サル・・・?
この考えは、神を侮辱し、人間を貶めるもの以外の何物でもありませんでした。

進化論を考えれば考えるほど不安になるダーウィン。。。
ダーウィン自身は、正しいと思っていましたが・・・人から拒絶されるかもしれないという恐怖。。。。

エマは、敬虔なクリスチャンでした。
神を冒涜するような夫の考え方に・・・
「愛しのチャールズへ
 神という一番大切な事柄について2人の間で考えの違いがあると思うと不安があります。
 今は、信仰に関する考えは、いろんな面で違っているかもしれません。
 でも将来、同じ方向に向いてともに進んでいくことは出来るのではないかと思っています。」
と、手紙に書いています。

結婚3年目・1842年の秋、ダウンハウスへ引っ越します。
めまいや嘔吐などの症状の出てきたダーウィンは、引きこもり始め・・・あの、規則正しい生活が始まりました。
夜8時に、妻と音楽やゲームをするのが楽しみとなりました。
10人の子供に恵まれて・・・
子供たちは、研究に勤しむ父が大好きだったようです。

引きこもっているダーウィンの屋敷を訪問するのは郵便局員・・・
1日に2度3度とやってきます。
ダーウィンが生涯で書いた手紙の数は、15000通以上。手紙オタクでもありました。
相手は世界各地・・・1000人以上です。

研究者以外にも、外交官、商人から標本や最新研究を手に入れていたのです。
面識のない人からも情報を得ていました。
しかし・・・「進化論」を明かしたのは数人・・・手紙では一人です。
世間の常識に反することを発表することは、周りのことを巻き込んでしまう・・・

「私は“進化論”を学会の会報や一般の雑誌に発表するのは嫌です。
 その編集者や出版に協力してくれる人たちが攻撃されるような事態を招きたくないからです。」
と、フッカー宛ての手紙に書いています。

発表することにない研究をすること20年以上・・・

1858年49歳のダーウィンに運命の手紙が・・・!!
差出人は、14歳年下の友人アルフレッド・ラッセル・ウォレス・・・
ラッセルが自分の論文の発表できる出版社を紹介してほしいということでしたが・・・

その論文を読んでびっくり!!
自分の考えとそっくりだったのです。

「私が以前に書いた論文の下書きを彼が読んでいたとしてもこれほど的確にまとめることは出来ないでしょう」

若い研究者が、進化論に届きつつある・・・
自分の進化論は日の目を見ない??? 

2か月後の1858年リンネ学会の学会誌に進化論の概論とウォレスの論文を共同論文として学会に発表します。
さらに翌年、1冊の本に・・・「種の起源」です。
初版本は、即日完売。衝撃が走ります。

イギリス生物学会の重鎮リチャード・オーウェンは、神が行った適切で絶え間ない作業の原則をこの本は無視している・・・と、痛烈に批判。

宗教界や、天地創造を信じる人から大バッシングを受けます。
自宅にも非難の手紙が・・・

助けの手を差し伸べたのは・・・友人たちでした。
トマス・ヘンリー・ハクスリー・・・彼は、オーウェンらに噛みつきます。
アメリカでも論争が・・・エイサ・グレイが立ち上がります。

彼らはダーウィンと手紙でつながっていた若い人たちでした。
あの手紙は、キャンペーン効果があったのです。
これは、進化論を受け入れてくれそうな人と、手紙で繋がろうとした結果でした。
若くて優秀な学者たちだったのです。

ダーウィンは「進化論」の衝撃に対して責任を取る・・・そんな気持ちがあったようです。
そして、ダーウィンは子供の頃の好奇心をずっと持ち続けている大人だったのです。

1882年チャールズ・ダーウィン永眠。享年73歳でした。


葬られたのは、イギリスでもっとも有名な寺院のひとつ・・・ウェストミンスター寺院。
神に背いたはずの進化論・・・その進化論が世界の真理と認められたのです。

ダーウィンの『種の起源』 [ ジャネット・ブラウン ]
ダーウィンの『種の起源』 [ ジャネット・ブラウン ]

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