1901年アルフレッド・ノーベルの遺言のよって創設されました。
受賞者には多額の賞金とメダルが授与されます。
その賞は、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞の五部門に分かれています。
112年の歴史の中で、839の個人と24の組織に賞が与えられてきました。
そのうち日本人は19人で、世界第8位です。
ノーベル賞・・・いったい誰がどのようにして決めているのでしょうか?
まずは推薦が必要です。
5つの部門ごとに選考機関があり、世界中から300通程度の推薦状が集まります。
最終決定は、選考機関で投票が行われます。
しかし、それ以上は解りません。秘密のベールに包まれています。
全てのことがわかるのは、受賞50年後に航海される冊子によってです。
そこには選考過程の全てが記載されています。
しかし、それも、研究者の証明がないとみることは出来ません。ジャーナリストは閲覧できないのです。
一切公開されないその内容・・・
50年後に航海される選考過程の資料にも、議事録は記載されていません。
文学賞は、政治的要素が強く、毎年地域的に候補者が絞られると言われています。
ノーベル賞各部門の日本人受賞者たち、その栄光の陰にあった知られざるドラマとは・・・?
そこでは、当時の世界情勢を伺うことが出来ます。
1901年に始まったノーベル賞。
極秘資料が公開されたのは、1974年でした。
そこに、一人の日本人候補者の名前がありました。
北里柴三郎です。

第一回ノーベル賞候補北里柴三郎の生涯
破傷風の培養の研究の成功をはじめ、動物の免疫や血清療法の研究で世界的にも有名です。
しかし、第1回ノーベル生理学・医学賞を取ったのは、共同研究者だったベーリング(ドイツ)でした。
その共同研究は、北里が牽引していたのに・・・???
賞の価値を上げるために、当時世界の医学界をリードしていたドイツから受賞者を選んだと言われています。
その後も、野口英世などがノミネートされたものの・・・日本人が受賞するのはこれから50年近く後のことでした。
日本人初のノーベル物理学賞は、湯川秀樹。
1949年敗戦の傷跡が残る日本に・・・希望の光となるニュースが・・・日本人初のノーベル部移り楽章受賞のニュースが舞い込みました。
京都大学物理学部教授の湯川秀樹です。
そもそも、この物理学賞の選考は、スウェーデン王立科学アカデミー5名の委員会が候補を絞り、約350人で投票され決定します。
1934年湯川秀樹は27歳、画期的な理論を発表します。
「中間子の存在」です。
それは驚くべきことに、原子核のメカニズムを知るヒントとなり、世界中が注目しました。
しかし、第二次世界大戦勃発、当時最先端だった核兵器の開発に各国が躍起になります。これに巻き込まれていく、世界の物理学者たち。。。
湯川秀樹も本意ではなかったものの、また巻き込まれていきます。
1945年、その残虐性から研究者たちの猛反対があったにもかかわらず、広島と長崎に原爆が投下されます。
初めに原子核の謎を解いた湯川秀樹の故郷、日本に落ちたのです。
湯川秀樹は、物理学が人類に大きな被害をもたらす兵器を生み出してしまったことを嘆きます。
敗戦から4年後、ノーベル物理学賞を受賞。
湯川秀樹がノーベル賞を取るということ・・・そこには、アインシュタイン、オッペンハイマーなどの、原爆の開発に携わった多くのアメリカ人物理学者たちの願いが込められていました。
湯川が受賞とするということは、軍事目的ではない・・・物理学者に戻れるということなのです。
アインシュタインは、湯川秀樹にこういったと言います。
「原爆投下を食い止めきれず、申し訳ない。」と。

湯川秀樹とアインシュタイン 戦争と科学の世紀を生きた科学者の平和思想
日本人初のノーベル文学賞・川端康成。

雪国
1968年です。
文学は、読み手の感覚によって大きく左右されます。
その上、18人で構成されるスウェーデン・アカデミーが選考するのですが、その選考基準が見えにくいため、疑惑が付きまといます。

舞姫
ことし(2012年)受賞した莫言に関しても、中国政府がお金で買ったのでは?という疑惑が流れました。
というのも、今年2月温家宝首相が、産業育成のため1088億円もの投資を約束したからです。あまりに突然で、巨額の投資が、ノーベル賞の選考を意識したのでは?と思われているのです。
![新潮文庫 川端康成 新潮社発行年月:2003年05月 ページ数:201p サイズ:文庫 ISBN:9784101001029 本 小説・エッセイ 日本の小説 著者名・か行 文庫 小説・エッセイ 文庫 人文・思想・社会 伊豆の踊子 改版 [ 川端康成 ]](https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fbook%2Fcabinet%2F41010%2F4101001022.jpg%3F_ex%3D160x160&m=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fbook%2Fcabinet%2F41010%2F4101001022.jpg%3F_ex%3D160x160)
伊豆の踊子 改版 [ 川端康成 ]
しかし、1950年代前半は、日本とは無縁のものでした。
そこには言葉の壁が・・・
ノーベル賞に選ばれるためには、欧米のメジャーな言語に翻訳されていなければならないのです。
1950年代後半に入り、日本文学が翻訳され始めます。
そして、1967年・・・次のノーベル賞は日本人だ・・・という噂が流れます。
その有力候補が、川端康成と三島由紀夫。この二人は25年間の師弟関係にありました。
日本としては、重鎮の川端康成を推していました。
![新潮文庫 川端康成 新潮社発行年月:2010年01月 ページ数:278p サイズ:文庫 ISBN:9784101001210 川端康成(カワバタヤスナリ)1899(明治32)年、大阪生れ。東京帝国大学国文学科卒業。一高時代の1918(大正7)年の秋に初めて伊豆へ旅行。以降約10年間にわたり、毎年伊豆湯ケ島に長期滞在する。菊池寛の了解を得て’21年、第六次「新思潮」を発刊。新感覚派作家として独自の文学を貫いた。’68(昭和43)年ノーベル文学賞受賞。’72年4月16日、逗子の仕事部屋で自死(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 捨子ではあったが京の商家の一人娘として美しく成長した千重子は、祇園祭の夜、自分に瓜二つの村娘苗子に出逢い、胸が騒いだ。二人はふたごだった。互いにひかれあい、懐かしみあいながらも永すぎた環境の違いから一緒には暮すことができない…。古都の深い面影、移ろう四季の景物の中に由緒ある史蹟のかずかずを織り込み、流麗な筆致で描く美しい長編小説。 本 小説・エッセイ 日本の小説 著者名・か行 文庫 小説・エッセイ 文庫 人文・思想・社会 古都改版 [ 川端康成 ]](https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fbook%2Fcabinet%2F1010%2F10100121.jpg%3F_ex%3D160x160&m=http%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fbook%2Fcabinet%2F1010%2F10100121.jpg%3F_ex%3D160x160)
古都改版 [ 川端康成 ]
そして、川端康成は、ノーベル賞の推薦文を三島由紀夫にお願いします。
その依頼を快諾した三島は、川端康成の作品がいかに素晴らしいかを説きます。
そして、1968年10月17日、日本人初のノーベル文学賞に選ばれたのです。
そして、祝福する三島がそこにはいました。
その後、三島は政治活動に力が入り・・・
政治組織「楯の会」を結成。
親密だった2人は、急激に疎遠に・・・
1970年、三島由紀夫は、国を憂いて割腹自殺を図ります。
その後の川端康成は・・・ノーベル賞の重みからか思うように執筆活動が進まずに・・・三島の死から2年後、自殺してしまいました。
ノーベル文学賞のお祝いに向かうタクシーの中で三島由紀夫は・・・
「これで、次にノーベル賞が来るのは10年先か・・・」
「でも、次は三島先生ですね。」
「いや・・・大江君だよ。。。」
三島由紀夫の予言どおりに26年後、大江健三郎が受賞することとなります。
山極勝三郎・・・
世界が認める医学博士です。

まぼろしのノーベル賞 山極勝三郎の生涯
20世紀初頭に現研究を始めました。
ガン発生の原因を突き止めるべく・・・
当時、ガン発生のメカニズムの解明は、世界で最重要テーマの一つでした。
山極は、ヨーロッパの煙突掃除人にガン患者が多いことを突き止めます。
もしかしてコールタール???
ウサギの耳に、コールタールを塗る作業をします。
東大教授をはじめ、みんながバカにしていました。
そんななか、1913年、デンマークのフィビゲル博士が寄生虫によってネズミの胃にガンが発生したのを発見します。
しかし、まだまだ地道に実験します。
「絶対、あの統計には意味がある!!」
そんななか、1年半が経ちました。
ウサギの耳に・・・異変が起こり始めました。
その後、60羽のウサギのうち10羽からガンが発見、この画期的な発見は、世界中を驚かせます。
1926年、ノーベル生物学・物理学賞の最終候補に残ります。
日本人初の、ノーベル生理学・物理学賞なるか???
しかし、結果はフィビゲルが受賞。
山極は、その後もガン研究に勤しんで・・・1930年67歳で亡くなります。
35年後・・・アメリカが、フィビゲルが作り出したのはガンではないと発表します。研究成果が完全な間違いだと発表します。
ノーベル賞最大の汚点です。
翌年、ノーベル生理学・医学賞選考機関の名誉教授は・・・
来日した際、
「日本で初めて人工ガンを作った日本のドクター・ヤマギワにノーベル賞を受賞させなかったのは、今でもノーベル賞選考委員会が残念に思っていることです。
ノーベル賞を授与したかったヤマギワ、許してください・・・」
と言ったと言います。
さらに3日後・・・世界がん研究の権威・ハドゥ博士は、
「世界のがん研究は、日本人のドクター・ヤマギワによって開発されたものです。」
と、発表したとか。
幻の日本人ノーベル賞第1号は、山極・・・。
しかし、彼は、世界中からガン研究の父として・・・誰もが認める功績を残したのでした。
ノーベル賞のことも、知らないことも多いですね。
世界のいろいろな方面で活躍している日本人、すごいですね。
でも、やっぱり外国の方に比べると控えめなのかなあ???
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