2013年02月07日

古代中国 よみがえる英雄伝説・始皇帝と乱世の名臣たち〜春秋戦国・天下統一への道〜

秦始皇兵馬俑博物館には・・・
2万uに毎年500万人が訪れます。
中国四千年 兵馬俑・鴻門宴・赤壁・龍門石窟…
中国四千年 兵馬俑・鴻門宴・赤壁・龍門石窟…

兵馬俑は発掘されたその上に覆いを作って展示されています。
兵馬俑は、当時の兵士や馬をそのまま再現したものです。
それを作らせたのが・・・初めて中国を統一することになった秦の始皇帝です。
これまで始皇帝は、情け容赦ない圧倒的な軍事力で支配したと言われてきました。

しかし・・・最近ではちょっと変わってきました。
始皇帝が支配したのは軍事力ではなく、多様な人々を束ねる巧みな戦略だったのです。
始皇帝は、どのように中国を統一したのでしょうか???


秦の国を大改革して強大な軍事国家にした改革者。名神・商鞅。
祖国の楚が秦に敗北する中悲劇の生涯を閉じた憂国の詩人・屈原。
今よみがえる英雄たちの伝説がそこにはありました。

強大な始皇帝の陵墓の一角で見つかったのが兵馬俑です。
この兵馬俑は、死後も始皇帝の魂を守るために作られたものです。
兵馬俑の身長は、180p・・・大きいものになると200pもあります。
当時の人も、これくらいあったようです。

そして・・・それぞれの顔が全く違います。
表情は様々で・・・しかし、完全体で出てくるものはほとんどありません。
なかには色のついた兵馬俑もあります。
もともとすべての兵馬俑には鮮やかな色が施されていました。
1974年に発見されてから39年。兵馬俑の発掘は今も続けられています。

その色の配色を分析すると・・・
白・黒・赤・黄色・青の誤植を使っています。
当時これだけの色をそろえられるのは始皇帝ぐらいでした。

赤い兵馬俑

赤い兵馬俑注目されるのは中国各地の土の色。

中国の土壌は、地域によって色が違います。
五色・・・それは天地の万物を表す特別な色です。
兵士たちの鎧は黒・その閉じ紐には赤・襟巻には青・歩兵たちを指揮する将軍には、その他にも黄色や白を使っています。
そのような多彩な・・・多様な人々を統一した始皇帝。
どのようにして統一したのでしょうか???

それ以前の時代、群雄割拠の覇権を争う戦乱の時代でした。
紀元前2000年ごろに誕生した最古の王朝・夏王朝。殷・周・・・初期の国は、黄河周辺の中原一帯に栄えました。
しかし、春秋戦国時代に入り・・・複数の国が乱立するようになり・・・やがてそれを統一することになる始皇帝の秦。

秦が誕生したのは辺境の地でした。
甘粛省東部・・・秦発祥の地・秦亭村です。
中原から西に500q。人口1200人の寒村です。穀類の栽培で生計を立てています。
ここは昔、始皇帝の祖先たちが、馬を育てていた場所です。

司馬遷の記した「史記」にも・・・

昔、非子という者があったと。
馬や家畜を好み、その者は王の為に馬を育てることになります。
馬は見る見るうちに増え・・・これを喜んだ王は、この非子に秦という土地を与えました。
始皇帝からさかのぼること37代目の非子の時代、秦の国は誕生しました。

秦の始まりは、当時このあたりにいた西戎だったと言われています。
秦は、戦争に欠かせない馬の飼育に長けていたことから力をつけてきたのです。
甘粛省の東部で今でも発掘が続けられていますが・・・
そこには馬車が・・・それは以外にも、金や銀の装飾品で飾られていました。
秦の力を表しています。
秦は、中原に勝るとも劣らない文化を持っていたようです。

そして・・・殺傷能力の強い武器も・・・
青銅の剣・・・表面には特殊な金属塗装がされています。

“弩”という武器も・・・
ボーガンのような武器です。これが、秦の強さを決定づけました。
この弩は今も使われています。
狩猟民族が狩猟用に使っていたものを兵器として利用した秦。
史記には辺境の遊牧民だった秦が、大きくなっていく様を描いています。
西戎の覇王へ!!

激しい戦闘が繰り返された春秋戦国時代に・・・故事成語が作られました。
例えば・・・「呉越同舟」呉と越がライバルだったところからきています。

呉王夫差と越王勾践は積年のライバルで・・・呉王夫差の父は、越王との戦いにやぶれその傷がもとで命を失いました。
夫差はその恨みを忘れまいと薪の上に寝、体に痛みを感じる度に、復讐を誓いました。そして、呉王夫差は越を攻め大勝します。
敗北した越王は、食事のたびに苦い獣の肝をなめて雪辱を誓い、呉の国を滅ぼします。
「臥薪嘗胆」です。


しかし、そう簡単に統一とは行きませんでした。秦に立ちはだかったのは、中原にある国々です。中原は、夏王朝が栄えた場所です。
夏王朝は、宮廷儀礼を生み出し、王の権威を示すことで秩序を保ったと言われています。
秦は、この中原の国々とどう対したのでしょうか???

西戎の覇王となった秦は、満を持して中原に進撃します。
兵力組織力共に中原が勝り・・・全滅してしまいます。
しかし、あきらめません。

そして、秦以外の国も中原を狙います。
それに対し中原の国は・・・同盟して結束を固めます。
その時に、牛の耳の血で誓いを立てることから牛耳を取る・・・「牛耳る」という言葉が出来ます。
そして、この牛の血と占領を混ぜた液体で、誓文を認めました。
それは、夏王朝の儀式を取り入れたものでした。
ますます夏王朝色が強くなり・・・自分たちを夏と呼ぶようになったのです。
そして、その他を・・・夷・蛮・戒・狄と呼んで蔑み、排除しようとしました。
自分たちを正当化するために・・・夏を利用したのです。
この夏が中と一緒になって、中夏→中華となったと言われています。

孝公の時代に秦は大改革を行います。
その方法は、以外にも・・・能力のあるものならば・・・と、中原の国に求めたのです。
中原の魏の国の商鞅。当時仕えていた宰相の死によって、活躍の場がなくなっていました。
その改革方法とは???

竹簡によると・・・
商鞅は、秦に法を持ち込みます。
600巻以上になる法律文書によって、庶民の生活を決めていきます。
秦は厳密な法律制度によって人々を巧みに統治し、国力を高めました。
おまけに商鞅は、画期的な軍事制度を導入します。
首一つとったものには、爵一つを与える。
20段階の爵位を作り、手柄を立てるごとに階段を上がっていく仕組みです。
この効果はとても大きく・・・
身分を問わない、徹底した能力主義でした。
それは驚異的でした。秦が軍事大国となった瞬間でした。

紀元前340年商鞅自ら総帥となり、魏の国に進撃。
その精鋭部隊を打ち破ります。
野蛮とされた秦が、中原の一角を突破しました。
そうなるのには、秦と中原の違いがありました。
古くからの文化を受け継ぐ中原の国は、王族や貴族の権力が強く、その土地に有力者がいました。それが、改革の抵抗勢力となったのです。

しかし、発展が遅れていた秦では、そういった力が少なく・・・
強力な中央集権国家をつくるために有利だったと思われます。
都市が発達していない方が有利だったのです。

秦の始皇帝は陝西省西安に都をおきました。その後も、いくつもの王朝が都としました。
西安は、12.3q四方、城壁に囲まれている・・・石の街です。
この城壁は、明の時代に整備されたものです。
西安の街には至る所に遺跡の遺産が・・・
陽陵(漢の皇帝の陵墓)・大雁塔・鐘楼・・・
古都・西安の発展の秘密は、西との交易にありました。
シルクロードの玄関口だったのです。
食事は、小麦を中心としています。ここから花開いて・・・麺文化が発達しました。

そして・・・兵馬俑も・・・西の文化の影響を・・・ギリシャ彫刻の影響を受けたと言う専門家もいます。
文化交流の中心地だった西安。

商鞅による改革で、軍事大国となった秦。始皇帝より5代前の恵文王の時代・・・
その圧倒的な力を背景に領土拡大に乗り出します。
しかし・・・それと共に難題も抱え込みます。

それは・・・支配した国々にも文化やしきたりが根強く残っていたことです。
紀元前316年秦は南へ侵攻し、巴・蜀の国を占領します。
巴・蜀は、船の形をした船棺に埋葬されています。
人は死んだら船に乗ってあの世へ行くという言い伝えを信じていました。
当時、川が近いこの地域では、船は大切な生活用具・交通手段だったのです。
船棺の多くには、青銅の武器が埋葬されていました。
秦が進出した巴・蜀の地には、独自の文化があったのです。

巴・蜀を侵略した秦は、楚の国に・・・
この地にも独特の文化がありました。
羽人と言われる像が出土しています。
漆の高度な技術が特徴です。
この楚は、秦に最も抵抗した地域の一つでした。
その中心人物が、楚王の一族だった屈原。
伝統的な詩人としても知られています。
屈原は、秦に対抗するために斉と同盟を結ぶことを主張しますが・・・秦は、外交交渉によって楚の王を説得しようとします。
斉との同盟を破棄すれば、600里の土地を与えよう・・・と。

強大な秦に恐れ・・・楚の王は、秦と同盟を結び・斉と対立・・・というのは秦の手で、秦は斉と結び、楚を孤立させました。
これを機に楚の勢力は弱体化。
秦を倒すという案はなくなって、秦と共に・・・という意見が多くなっていきます。
秦と徹底抗戦を!!と、思っていた屈原は、ついに追い出されてしまいました。

骨と皮になって・・・川のほとりをさまよっていた屈原、祖国を憂い続けて・・・川に身を投げることとなりました。
端午の節句の祭りは、川に身を投げた屈原を偲んだことから始まったと言われています。
端午の節句に作られる“ちまき”も、川の中にいる屈原に・・・魚に食べられないように米をササに巻いて川に投げたのが始まりです。

そんな文化の違う人たちを、秦は法律で管理しようとします。
しかし、各地で反発が生まれます。

反発の原因は・・・秦が生活体系を否定したことにありました。
力で抑えるのには無理がある・・・と思った秦は・・・
自らを“夏”であると定めたのです。

秦はそもそも夏から野蛮だったと思われていましたが・・・“夏だった”と話を作り変えました。秦だけではなく、秦に従った国をも夏だとしました。
こうして、もともと中原の国だけを夏と呼んでいたのに・・・“夏”は広がっていくことになります。

紀元前246年始皇帝即位。
秦は、統一への最終段階を進んでいきます。
そして・・・紀元前221年、中国を統一しました。

その統一を支えたのは、強大な軍事力と、夏王朝の権威を巧みに利用したそのシステムだったのです。
始皇帝は、それだけでは満足せず、北との戦い、南との戦い・・・統一したとはいえ、常に敵に対して注意を払っていたのでしょう。
外に敵を作ることによって、中をまとめ、維持しようとしたのだとも言われています。
巨大な国家でいること・・・それは、始皇帝の願いであり不安であり、希望だったのです。

そして・・・統一を維持するための壮大な計画は・・・
安房宮の・・・一角に、金や塩を集めていたようです。
今まで謎に包まれていた・・・史記に記されていた“極廟”。
北極星をかたどっていると言われています。
始皇帝は、北極星という権威によって、国を統一しようとしていました。
王という呼び名を辞めて、皇帝という称号を造りだし、自ら始皇帝となった始皇帝。
煌々と輝く皇・北極星を表す帝を合わせたものでした。

天の世界を映したと言われている始皇帝の・・・秦の都。
宮殿などの建築物は、夜空の星と重ねられています。
そして、北極星のところにある極廟は、後に始皇廟になったと言われています。
始皇帝は、宇宙の中心という究極の権威によって、中国を支配しようとしていたのです。
自分が天になろうとしたのかもしれません。

今は人々の憩いの場となっている北京・天壇公園。
明・清の時代の王朝が、天を仰いで儀式を行った祭壇だったと言われています。
始皇帝の作った支配の仕組み・・・それは、代々の皇帝たちによって受け継がれてきていました。

秦の始皇帝による初めての天下統一・・・そこにあったのは、強大な軍事力だけではなく過去の王朝や天の権威を利用した巧みな統治システムでした。

始皇帝の統一の物語・・・それは、この多様な国を一つにするには何が必要なのか・・・雄弁に語っています。

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2013年02月05日

ターニングポイント〜甲斐の猛将・武田信玄〜

戦国時代最強と詠われた武田信玄。

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甲斐の虎と呼ばれるまでには、いくつもの転機が。。。。。
5つのターニングポイントがありました。

山梨県甲州市塩山・・・ここ恵林寺は、鎌倉時代に開かれ、信玄が尊敬する快川紹喜が住職となったことから菩提寺となりました。
信玄は快川紹喜を仰ぎ、いろいろ人間として相談していたようです。
ここにある武田不動尊には、領民を守るという信玄の強い意志が現れています。

その武田信玄の人間像とは???

武田信玄は、戦国時代を代表する武将ですが・・・
人びとのイメージは・・・立派な武将・大物政治家・戦略家・・・戦上手な人と思われているようです。


1521年11月3日甲府市積翠寺で武田信虎の嫡男として生まれます。
孫子の兵法を重んじ、風林火山の名のもとに、甲斐の虎として恐れられていました。
「民こそが国家の財産である」という孟子の政治学を重んじ、国内の開発にも積極的でした。

信玄棒道・狼煙台・・・周囲の戦国大名に恐れられた戦略家でした。
対するは越後の龍・上杉謙信です。
龍虎の戦い・・・これを納めているのが甲陽軍は、武田信玄・勝頼二代の記録です。
高坂虎綱が口述し、甥が書き、江戸時代に軍学者によってまとめられたものです。
信玄を密かに尊敬していた家康、この甲陽軍鑑が江戸幕府の教本となりました。

徳川時代タブーだった三方が原の戦い・・・出版禁止されずにありました。
つまり、甲陽軍鑑は、徳川家にとって権威ある書物だったようです。


ターニングポイント@父・信虎を駿河へ追放する

では、どうして父親を追放したのでしょうか?
当時甲斐の国は、自信過剰でワンマンな専制君主・信虎の悪政に苦しめられていました。
そう、当主としての信頼は薄れつつあったのです。
政権末期的な様相で・・・家臣をはじめ、民衆が世直しを求めていたようなところがありました。
そんな中、嫡男晴信は大手柄を立てます。
父のできなかった海ノ口城の攻略にわずか300人で攻め落としました。
しかし、その城に残らなかったということで“臆病だ”と、信虎は弟・信繁に盃を取らせ跡を継がせようとし・・・晴信を阻害しようとしました。

こうした信虎の振る舞いに、父を駿河に追放することを決めるのです。
当時、武田を配下にしようとしていた駿河の今川義元に手紙を送ります。
うつけのふりをして・・・今川義元に家督を誰にするか???と・・・任せます。
うつけなら大丈夫???と、今川が思うように・・・。
その思惑通り、謀反に協力させようとしたのです。
信虎が駿河から戻ってくるところを待ち受けて・・・甲斐の国から追放したのです。
駿河で隠居することになった信虎・・・
こうして晴信は一国の主となり、甲斐の国を治めることになったのです。
大胆不敵な戦略家だったのです。


ターニングポイントA甲斐で初めての法律を作る

甲斐の国は山岳地帯で積雪が多く・・・実りもあまり多くなく・・・
借金や訴訟が多くありました。
人びとは、貧しさゆえに疲弊していました。
1547年甲州法度之次第を制定します。
この法律は、家臣や領民に対してですが・・・
領民に対しては減税もありました。
釜無川と笛吹川・・・この二つの河川の氾濫は、当時の甲斐にとって大きな問題でした。
そこで、信玄堤を作り、その周辺に集落をつくりました。
その人たちには・・・信玄堤の管理を任せ、税金を免除しました。
また、貴重な財源だった甲州金・・・金山衆に免税をし、増産をさせます。

そして・・・そこにはびっくり、
「晴信、決まり事を破ったら相当の処分を受ける」
と、ありました。必罰を自分に課したのです。
内政の充実を図り、家臣や領民の信頼を得ようとしたのです。
人と金を握る“カリスマ経営者”でもあったのです。


ターニングポイントB三国同盟を結ぶ

甲斐の国は、越後の上杉謙信、駿河の今川義元、相模の北条氏康と・・・戦国大名の中でも屈指の三氏に囲まれていました。
北の上杉の土地は・・・海もあり、豊穣で・・・どうしても手に入れたい土地でしたが。。。
その為には、後ろにいる今川・北条が気がかりでした。
1554年三国同盟が、甲斐、駿河、相模の間で結ばれます。
戦国時代2国間の同盟でも大変なのに、3国の同盟を結ぶのは、並大抵のことではありませんでした。
ところが、晴信は・・・前例のない快挙をすることが出来ました。

注目していたのは、相模の北条氏康。
北には関東管領の上杉憲政、西は駿河の今川義元がいたため、武田とも戦いが始まれば・・・窮地に陥ってしまいます。
そこで・・・北条に敵対していた上杉・今川と和睦させることに成功し。。。
そして・・・この二国を取り込み、三国同盟を成功させるのです。
この同盟は、婚姻関係を結ぶことで強いきずなとなり、以後20年間友好関係を結ぶことになりました。
三国同盟のおかげで背後に安心した晴信は・・・念願の信濃平定に向けて全力を尽くすことになります。


ターニングポイントC川中島・壮絶な戦い

越後の雄・上杉謙信との戦い・・・
川中島の戦いは5度にわたっています。
信濃平定を望む信玄と、それを阻もうとする謙信。
両者には、本陣同士の決戦はなく、小競り合いが続いていました。
しかし、第4次川中島の戦いは、今までとは明らかに違う・・・戦国時代最大と言える壮絶な戦いがそこにはありました。

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上杉が布陣したのは妻女山。
武田軍は茶臼山に布陣し、上杉軍の退路を断ちます。
この時、武田軍は2万。上杉軍は1万3000。
そして、合戦は、山本勘助がたてたキツツキ戦法から始まるのです。

武田軍別働隊が、妻女山の後ろから攻め込みます。
逃げた上杉軍を武田の本陣が待ち受ける・・・その場所は、八幡原。
戦いは、上杉軍優勢に徹し、武田軍は壊滅寸前に!!

そして、謙信が・・・・・信玄との一騎打ちです。

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盛り返す信玄側は、この戦いで名だたる武将を失います。
弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助・・・この激戦で武田軍の死者数は8000人、上杉軍は5000人と言われています。
余りにも多くの兵士を失ってしまった信玄・・・この後は戦法を変え、戦わずして勝つ戦いへとなります。
“失わずして得る戦い”
箕輪城・・・長野業盛城主は、5年かけて落城しています。それは、家臣たちを武田に寝返らせることで城主を孤立させるという方法でした。

深沢城・・・北条網成城主は、籠城する敵方に屋文を投げ込んで、降伏するように説得しています。
戦わずして勝つ!!という戦術を手に入れました。
“失敗から学べる強さも持っていた”のでしょう。


ターニングポイントD義信が謀反を企てる

1565年一人の男が信玄に反旗を翻そうとしていました。
信玄の嫡男・義信です。
発端となったのは・・・駿河に対しての意見の相違でした。
川中島の信玄との戦いが思うようにいかない中、駿河の今川義元は桶狭間で討ち死に・・・駿河は当主交代で揺らいでいました。

そこを攻め込もうとしたのですが・・・駿河は義信の正室の故郷・・・
その為に反対したのです。

しかし・・・信玄には駿河を・・・海を手に入れたくてたまりませんでした。
織田信長と対決するために・・・水軍が必要でした。
そして、その先には・・・天下統一!!
思いがすれ違っていく親子・・・そして、義信は、信玄謀殺に臨みますが、悟られて失敗。甲府市の東光寺に幽閉されることになりました。

それから2年後・・・
息子・義信に死を命じます。
わが道を貫くために!!
天下統一の夢は、確固たる意志へと変わっていくのでした。

本格的に駿河侵攻に挑みます。
間もなく駿河は、信玄の手に落ちることになります。

そこには“我が道を貫く、冷徹なまでの合理性”がありました。

天下統一を夢見ていた信玄・・・
1572年京を目指しているうちに、病気に。。。
長篠城で療養するも、一向に良くならず甲斐に戻ることに・・・
しかし、甲斐の土地は踏むことはありませんでした。

食道がんを患っていたようです。
享年53歳。甲陽軍鑑によると、家督をついだ4男の勝頼や家臣に遺言を・・・

@ 三年間は自分の死を隠しておくこと。
A 信長が攻めてきたときは、難所に陣を構え持久戦に持ち込むように。
B 家康が攻めてきたときは、駿河国内で討ち取るように。

“上杉謙信と和議を結ぶこと”
“謙信は男らしい武将であるから、若い勝頼を苦しめるような行いはしないだろう
 まして和議を結んで頼ると言えば、決してそれを破るような者ではない”

それは、自分の口から“和議を結びたい”と言えなかった後悔からだったのでしょうか?
やはり、武勇を決した仲だったからでしょうか?

信玄は、決して城を持つことはありませんでした。
そこには・・・
「人は城 人は石垣 人は堀」
裏切りが当たり前だった時代に・・・信玄にとっては人こそが城そのものでした。

武田信玄は打算的で計算高い・・・しかし、先見の明のある一筋縄ではいかない
武将でした。そこにはぶれない決断力がありました。


甲陽軍鑑には信玄の誓いがあります。
生涯守り抜いた言葉・・・
それは・・・“生涯力を抜かない”ということ。
でした。

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2013年01月23日

紂王と太公望 〜王朝交代・古代最大の決戦〜

今から3000年前に起こった牧野の戦い・・・王朝を交代させた天下分け目の戦いです。
闘ったのは、殷と周。

【新品/漫画】封神演義 [1~23巻 全巻] (著)藤崎竜
【新品/漫画】封神演義 [1~23巻 全巻] (著)藤崎竜

いやあ、懐かしいです。封神演義思い出しちゃいました。
私が好きだったのは哪吒と黄天化でした。黒ハート

時の王朝殷の軍を率いたのは最後の王・紂王。

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中国史上最悪の王と言われています。
酒池肉林・炮烙の刑・・・
紂王の悪事は数限りない・・・

そんな暴君に立ち向かったのは、周。率いたのは太公望。

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小さく弱い国に、彗星のように現れた太公望。策略の限りを尽くして殷を追い詰め・・・ついに牧野の戦いで勝利します。。。。

しかし、本当は、そう単純ではなかったようです。
本当に勧善懲悪なのでしょうか???
その秘密が明らかにされようとしています。

紂王と太公望の戦いは、史記に記されています。
史記は、牧野の戦いからおよそ1000年後の歴史家・司馬遷が記しました。
この中で殷王朝最後の王が紂王・周の軍師が太公望なのです。
2人の描写は対照的・・・
太公望は天才軍師ですが・・・紂王は悪役です。
中でも有名なのが、酒池肉林のエピソード。
紂王の命で作られたと言われています。
欲望をむき出しにしたこの庭で、宴に酔いしれていた紂王・・・。

牧野の戦いで・・・紂王軍70万という大軍でしたが、1日でやぶれ滅びてしまいます。。。

この勧善懲悪。。。しかし、司馬遷が参考にしたのは、殷を倒した周の資料でした。
紂王の資料は参考にされていません。


殷王朝の都跡は・・・河南省安陽市。
ここに紂王の君臨した殷の都がりました。
80年前に発見された殷墟には、発掘品がたくさんあります。
2006年世界遺産に登録され、年間50万人が訪れます。

甲骨文字・・・亀の甲羅や牛の骨に書かれている甲骨文字。
殷の実在が初めて証明されました。
史記に記された殷は、あまりにも残虐なので、疑われていたのです。
しかし、この甲骨文字には、祖丁・小乙と言った王の名前が刻まれています。

発掘の結果・・・殷が解明されてきました。
出土した武器は1万点以上。
殷の繁栄を支えたのは、圧倒的な軍事力でした。
殷王朝が活躍したのは紀元前16世紀から11世紀。中国大陸ではいろいろな部族が力を持っていました。
その多くが持っていた武器は・・・石を削ったもの。
しかし、殷が持っていたのは青銅の武器でした。大量に生産し、力で圧倒したのです。

牧野の戦いで紂王が率いたと言われる70万の軍勢・・・
その軍は、いくつもの新兵器を持っていたようです。
それは・・・戦車。馬も車も殷が初めに使っていました。2頭の馬によってひかれていたのです。
どうしてこのようなものが突然できたのでしょうか???
紅玉髄という石が発見されています。
これは、遠くインド西部やトルキスタンでしか取れませんでした。インダスと繋がっていたと言えます。
初めて戦車が造られたのはメソポタミア・・・
メソポタミアで生まれた戦車は・・・4大文明へと広まっていったようです。
しかし、中国の西部にはパミール高原があり・・・そのパミールを北にのぼって中国に入ってきたようです。
そして、殷が黄河から離れている理由。。。それは、西アジアとのつながりを持つためだったと推測できます。

殷は、当時中国で唯一西アジアと深く繋がっていました。
戦車が突然出てきたのも、西アジアの技術を学んだからなのです。

殷だけが持っている技術・・・改良を重ねます。
スポークの数は20本以上、大きな車体・・・二人の戦士を悠々と乗せることが出来ました。
この戦車を戦闘に投じることで・・・世界最強の戦車となりました。


彼らは自分たちの国を“商”と呼んでいました。そう、商人の町だったのです。

史記によると・・・紂王がたくさんの珍しい動物を飼っていたとありますが、それは紂王だけではなく、当時の王は皆そうだったようです。
青銅器も積極的に取り入れました。
殷は、青銅器の技術を最も高めたと言えます。
酒池肉林も・・・
殷では、青銅器でできた酒器に酒を入れ、温めて飲んでいたようです。
神と対峙するために酔う・・・それは神に近づくための陶酔だったのかもしれません。
この酒の文化は貴族だけではなく、一般住民たちも陶器で酒を飲んでいたようです。この陶器の数は100万点。。。中国で最多だそうです。

お墓でも、器は出なくとも酒器は出るそうで・・・酒は儀式的な意味合いを持つものだったと言えます。
これらの酒器は、埋葬するときにお酒を入れて埋葬したと考えられていて・・・生活の中心にお酒があったようです。


殷墟で見つかった骨は・・・?
牛を中心に、馬や豚を飼っていたようです。
食料を計画的に生産していました。
殷墟には、地下水道もありました。
牧畜も計画的に行われていました。
貴族から一般市民まで酒をたしなみ、食べるものも豊富。。。
酒池肉林は・・・酒に対する誤解や、食べ物が豊富にあるというやっかみから来たものかもしれません。


殷最大の発明・漢字
様々な新技術で歴史を塗り替えていった殷。。。
現代の生活に欠かせないのが、漢字です。
亀の甲羅や動物の骨に書いた甲骨文字・・・発見されたのは19世紀末のことでした。
清朝末期、漢方薬として売られていた甲羅や骨に文字が書いてあるのを発見したのです。

その骨が出土した場所こそが、殷の都・・・
発掘によって、大量の文字が発見されました。
今でも読める文字があります。
雨・衆・・・3000年以上途絶えることなく使われてきました。

しかし、殷の漢字の使い道は???
殆どが占いでした。
占いを取り仕切っていたのは殷王自身だったようです。
占いの文字・・・それが漢字の原点なのです。


軍事的にも、文化的にも比類なき国となっていた殷。
そんな殷の牧野の戦いを挑んだ周とは一体どんな国だったのでしょうか?
史記の後の作品は・・・周を殷に無理難題を持ちかけられる悲劇の国となっています。
最も有名なのが・・・殷の紂王の命令で・・・周の武王が自分の息子を刻んで作ったスープを飲ませるシーンです。
多くの物語は・・・こんな積年の思いを晴らすための牧野の戦いだったと書いています。

周の本当の姿とは???
陝西省周原・・・
周とは、田畑からの恵・・・農耕を続けていた民でした。
1960年代から発掘されている周原遺跡。紀元前16世紀から都としていました。
この遺跡の出土品は、“鬲(れき)”と呼ばれる素朴な陶器ばかりです。
青銅器は少ないのです。

殷が、軍事力で支配権を広げた拡大志向の国だったのに対し、周は基本的に、周原から動かず、濃厚に従事した安定志向の民でした。
発掘品も、300年以上の間あまり変わり映えのないものです。

しかし・・・紀元前13世紀ごろ・・・
周は殷と関係を持ち始めます。婚姻関係までも。。。
周の発掘品にも変化が現れます。玉・・・なども発掘され、進歩を遂げてきます。
そこに現れたのが、天才軍師・太公望です。

大国・殷と接近し力を伸ばした周・・・しかし、衰退の一途をたどり始めた殷。

牧野の戦いでは、周の王が自らに正義の有ることを宣言して戦いが始まります。
その悪事とは・・・
寵愛する妲己の言うままに行った炮烙の刑。
女性を政治に参加させたこと・・・
しかし、発掘からは女性が政治に参加したという証拠は見つかっていません。
ただ・・・女性の地位は高かったようです。
軍服を纏う“婦好”。彼女は紂王の八代前の王の妃です。
彼女は妃であると同時に殷の将軍でした。
1976年婦好の墓が発掘されました。
そこには、アクセサリーと共にトルコ石をふんだんに使った刀が治められていました。
甲骨の分析によると、婦好は二人の子供を持ちながら軍を率いて戦ったようです。

しかし、それは周の人びとは快く思っていなかったようです。
女は家にいて、男が外に任せるべきだ・・・と、記されています。
史記は、そんな時代の文化。
だから、戦う女性は好ましく思わなかったのでしょう。

青銅器はどのようにして作られたのでしょうか?
造りたい形のモデルを作成→型の作成→型に青銅を流し込む(950℃)→冷やして完成
殷の青銅器のレベルはかなり高く、誰もが造れるものではありません。
細かな陰陽は殷の青銅器の特徴です。
同時期のメソポタミアでもこのような技術はなく、当時の最高峰だと言われています。

豊かな国家だった殷王朝。
酒池肉林も、炮烙の刑も、豊かな個性の表れなのかもしれません。
紂王は・・・太公望の為の悪の権化にされたのでしょうか?

祭祀坑には・・・
首のない遺体が埋葬されていました。
それは、人の生贄でした。
首は、意図的に切り落とされ・・・
これまで発見された生贄は1万4000体にも及びます。
神にささげられた生贄。
牛と同じように生贄として捧げられていたのです。
というのも、殷の神は人の頭を食べると言われていました。
神の意志を聞くには、それなりの代償が必要だったのです。

殷の王・・・紂王は悪なのでしょうか???

この生贄にされていた人々(羌)は、・・・
@罪人説
A奴隷説
B捕虜説
今まではこの3つでした。

歯を調査してみると・・・
放射線物質の量が殷の人とは違います。
捕虜なのでしょうか???
中国全土のサンプルと比較すると、甘粛省の部族とだけ一致しました。
つまり、特定の部族だったのです。
その距離800q・・・生贄が連れてこられたのは国外だったようです。
殷にどうしても従わない人たちに・・・見せしめとしてこの部族の人たちが使われたのかもしれません。

羌の故郷・甘粛省には遺跡がありました。
が羌の人びとは、定住せず、遊牧生活を送っていたようです。
定住農耕生活をしていた殷にとっては、自国に受け入れることが出来なかったのです。
文化の違う人々を生贄にしていたのでした。

周も逆らえば・・・そうなるかもしれない・・・???
殷の配下だった周に、天下をとれ・・・そういったのが太公望でした。

ある日、周の王・文王が天のお告げを受けます。
「貴方の待ち望んだ人が、川のほとりで待っている。」
お告げに従うと・・・

そこには釣り糸を垂れた男がいました。
「何を釣っているのですか?」
「私が釣っているのは覇王への道です。」

糸の先には針がなく・・・文王を待っていたかのようです。
天下の政とはこうあるべきだ・・・と説いた太公望に感銘し、宰相に迎えました。

しかし・・・太公望の資料は一つもなく、その存在を疑う部分もありました。
2009年殷を倒した直後に作られた青銅器には・・・
「文祖斉公」の文字が・・・文祖=開祖、斉公=太公望のことです。
太公望の文字が、初めて見つかりました。
太公望が実在する可能性が高まってきました。

天才軍師と言われた太公望・・・そこには周到な準備がありました。
当時の殷と周の国力には大きな差がありました。
それを埋めるために、様々な部族に働きかけます。
太公望の謀略の証拠も発見されました。

周の拠点にあった周原のはずれ・・・鳳雛村で・・・奇妙な甲骨文字が発見されました。
見つかったのは、殷に比べるとごく小さいものでした。
文字の大きさは、1ミリ・・・紂王の父を祀るものと同じに、殷に逆らって独立している微という部族と密接な関係にあったものも発見されました。
殷を倒す準備を行っていたのです。
甲骨には周のしたたかさが伺えます。

史記には、牧野の戦いには8つの部族が加わったと言われています。
それが「牧誓八国」です。
この中に、考古学上明らかになった国に蜀があります。
黄河と並ぶ長江。蜀は、この長江流域に栄えた国でした。
1980年代まで長江流域に、発達した文明はなかったのでは?と、思われていました。
この蜀の遺跡には。。。
誰も見たことのない青銅器がありました。“突目仮面”。独特の仮面文化があったようです。
殷とは、まったく異なる文化を持っていました。
蜀の人びとは、太陽が9つあるという独特な信仰を持っていたのです。
蜀の都は強大で、殷の都に匹敵するものでした。

周と手を結び、牧野の戦いに参加したのは、未開の地の部族などではなく、高度な文明を持っていたのです。

史記には、太公望の策謀の結果、世界の2/3の部族が周の味方に付き、殷が孤立したとあります。
殷に対する包囲網は、本当にあったのでしょうか?
殷の末期になると、青銅器だった装飾品などが陶器に。青銅器の代替品として使用されるようになりました。
これは、青銅が不足してきたからです。
そして・・・同じ時期に、周で青銅器の生産が盛んになってきたのです。

国の繁栄を支えてきた青銅を、周に抑えられ・・・
武器も不足・・・軍事行動にも出にくくなりました。

生贄という習慣を辞められなかった紂王と、生贄になる可能性のあった人々に呼びかけた太公望。。。戦の前から結果は決まっていたのかもしれません。

今の牧野公園で行われたと言われる牧野の戦い。
それは、武王11年2月甲子の日
何故この時を選んだのでしょうか?
甲骨文字によると・・・
この頃、殷の領土の東側で反乱が勃発していました。
だから、東を重点的に武装していました。
そこで・・・周がその隙に攻めたのです。

「甲子の日の朝、武王は殷に攻め込んだ
 夕方には殷を支配していた」

史記は、戦いは1日で終わったということが、青銅器によって裏付けされました。

周が反旗を翻したと聞き、すぐさま兵を出した紂王。
しかし、そこで彼が目にしたものは・・・
敵陣には、予想をはるかに超える軍勢が待ち受けていました。

共に殷を倒そうとしていた“微”。
南の長江流域からやってきていた“蜀”
牧野の地に集まった部族の連合軍が・・・決戦のときが迫ります。

史記に記されている殷の正規軍は70万、しかし、周の軍も・・・殷に劣らない数になっていました。
かつてない兵力と対峙した殷の軍は・・・
戦いを放棄してしまいました。正規軍は東へ行っていて・・・弱い者たちばかりだったから・・・という説もあります。

殷の軍は、戦わずして崩壊しました。
500年間も軍事大国として君臨していた殷王朝は、わずか1日で崩壊してしまいました。
史記は、紂王の最期を・・・
王宮に向かった紂王は、王宮に火をつけて命を絶った・・・
としています。

戦いに勝った周の軍師・太公望。
周が治めるようになってからは、山東省に領土を授かります。
ここに、斉という国を開きました。
太公望は、独自に塩を生産し、国を豊かにしたと言われています。

周の統治とは・・・?
土地を保証する代わりに税や兵役を納める・・・
他の部族と契約し、様々な部族を緩やかに治めようとしました
これが、封建制度という周独特の制度でした。

周は、この後300年後に衰退し、最後は新に滅ぼされます。
しかし、封建政府度を用いた王朝として美化され、太公望は天才軍師として高められ・・・反対に殷の紂王は、奈落の底に落ちていったのでした。

周の視点からの歴史。。。歴史は勝者の歴史・・・それが、歴史の真実なのです。

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posted by ちゃーちゃん at 13:46| Comment(2) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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