2013年02月16日

第2回 なぜ民主的な憲法下からナチスが生まれたのか?

戦争の20世紀

そこには、民主主義の危うさがありました。
第1次大戦後、1919年にドイツではワイマール憲法が出来ます。
主権在民や男女平等の普通選挙などを規定し、当時世界で最も民主的憲法と言われましたが。。。
民主ドイツ元年と言われるこの年に、ナチスの前進であるドイツ労働者党が労働者を中心に結党されます。
同じくこの年に、ベルサイユ条約が締結され、第1次世界大戦のドイツに多額の賠償金が課せられ、植民地も失いました。
厳しい軍備制限と、多額の・・・天文学的賠償金の負担・・・
政府は紙幣を大量に発行し、深刻なインフレに陥ります。
1923年11月のドイツの為替レートは・・・1ドル=4兆2000億マルクでした。

そこで、アメリカの金融支援で財政の立て直しを図ります。
インフレを治めて、経済が徐々に回復、そこに1929年世界恐慌がやってきます。
この世界恐慌が、ナチス躍進のきっかけになってしまうのです。

ナチスは・・・1928年12議席だったのが、1930年には107議席。
1932年には、230議席獲得し、第1党に躍進します。
この時、ドイツ国民がナチスに期待したことは???
・強力な指導者への期待
ワイマール共和政では、強力な指導者は出てきませんでした。
・厳しい軍備制限への不満感
 空軍や潜水艦は禁止。
・ヒトラーは女性に大人気

政治不信の国民は強い指導者を求め、選挙でナチスを選んだのです。
特に、当時としては珍しい女性の参政権、男女平等の選挙です。
ヒトラーは、女性に対し巧みな話術で票を稼ぎます。
ナチスを独裁政権にしたきっかけは、皮肉にも最も民主的な憲法の存在がありました。
ナチスは結果的に、選挙や住民投票によってさらに勢力を拡大します。

hito.png

ヒトラーとはどのような人物なのでしょうか?
ドイツ人ではなく、オーストリア=ハンガリー帝国に、1889年に中産階級に生まれます。
画家になりたかったのです。

第1次大戦も参加し・・・1919年9月ドイツ労働者党に入党します。
1920年「国民社会主義ドイツ労働者党」(ナチス)と、党名を変更。
1921年ナチスの党首に選ばれます。
1923年クーデターを計画しますが失敗。
この時獄中生活を送り、「わが闘争」を執筆します。

わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) [文庫] / アドルフ・ヒトラー (著); 平野 一郎, 将積 茂 (翻訳); 角川書店 (刊)
わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫) [文庫] / アドルフ・ヒトラー (著); 平野...
ここに、ヒトラーの世界観や政策が書かれています。
その内容は・・・?
・再軍備の推進
・東方への勢力拡張
・ユダヤ人排斥

ベルサイユ条約で鬱屈していた国民の共感を得て、ベストセラーに!!
ヒトラーの名を世に知らしめることになります。
その後も、演説レコードや、宣伝映画などメディアを利用した選挙活動を展開、世論を味方にして・・・
独裁政権の確立に!!
ヒンデンブルク大統領の時に・・・1933年ヒトラー内閣に就任します。
全権委任法を成立、民族と国家の困難を除去することを理由に、政府に立法権を委ねるものです。
ナチス政権独裁の準備を進めていきます。

政党新設禁止法を制定し、社会民主党や共産党などを追放、一党独裁へ突き進んでいきます。
1933年7月ナチス独裁政権が確立。
当時はヒンデンブルク大統領でしたが、大統領がなくなると、大統領・首相・党首の全権を持つ総統にヒトラーが就任します。
独裁者となり・・・ナチスが国内唯一の政党となりました。
ナチス一党独裁政権へ!!

領土拡張に動くナチス!!
軍備制限の中、1935年再軍備宣言を行います。
ベルサイユ条約を破棄し、国防軍を5.5倍にすることなどを宣言。
本格的再軍備を!!ベルサイユ条約で非武装地帯とされたラインラントを超え・・・1938年オーストリア併合。
第1次世界大戦で失った15%の領土の回復を!!
圧倒的な国民の支持のもとに動いていきます。
裏返せば・・・領土拡張は国民の支持を維持するために不可欠だったのかもしれません。

では、国際社会はどうしてナチスを抑えることが出来なかったのでしょうか?
1938年ミュンヘン会議が行われます。
チェコスロバキア・ズデーデン問題について、英・仏・伊・独の会議です。
ドイツはヒトラー、イタリアはムッソリーニ・・・イギリスとフランスは、譲歩してしまいます。チェコスロバキアをドイツに割譲することを認めてしまいます。

イギリスはドイツを重きにおいておらず、フランスは自国の内政問題が不安定、イタリアは後にドイツと手を組むこととなります。
ロシアは革命後の混乱を収拾するのに手がいっぱいの状態でした。
ヨーロッパ各国に余裕がなかったのです。

1939年9月ポーランド侵攻。
重い腰を上げイギリス・フランスは宣戦布告、第2次世界大戦がはじまりました。

今後、再びナチスのような独裁政権の生れる可能性はあるのでしょうか?
世界中にはいろいろな国があるので、今後二度とないとは言い切れません。

今は相互に助け合う社会となっています。
社会主義は別ですが、独裁者の出る可能性は低いと思われます。

どうして民主的な憲法下でナチスが生まれたのか???
第1次世界大戦後の国民の不満をヒトラーが利用したということ。
世界恐慌、領土拡張・・・すべてが民衆が期待していたということ。

大衆民主主義とは、人民投票型独裁者を生む土壌である・・・。
警戒すべきことだということでした。

ナチスドイツによって引き起こされた第2次世界大戦。
その後ドイツは、ヨーロッパ各地を占領、戦果は拡大の一途を取ります。
この勢いに乗ったのが日本・・・
1941年真珠湾を攻撃
領土拡張路線へと舵を切っていきます。。。

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2013年02月15日

第1回 なぜ戦争は世界大戦につながったのか???

戦争の20世紀です。

〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦 <上> [ムック] / 学習研究社 (刊)
〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦 <上> [ムック] / 学習研究社 (刊)
第1時世界大戦で幕を開けた20世紀。
世界が戦争に巻き込まれた時代でした。
戦争が戦争を呼び、悲劇の歴史となりました。
第1次世界大戦・ナチスの台頭・太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争・・・なぜ戦争に踏み出し、どうして繰り返されたのか???


その第1次世界大戦の背景はどのようなものだったのでしょうか?
もともとは、地域紛争でしたが・・・人類始まって以来の世界大戦になってしまいました。
20世紀の初頭の戦争・・・日露戦争が、第1次世界大戦と深い関係がありました。

1904年日本とロシアとの間に日露戦争が勃発します。
この戦争は、中国や朝鮮・・・東アジアで台頭しようとしていたロシアと日本の戦いでした。
この戦争の背後には、ヨーロッパでのドイツのしたたかな戦略がありました。
それは・・・第1次世界大戦に大きな影響を与えることになります。
日露開戦前に、ドイツがとった行動は・・・???
ロシアにヨーロッパに出てきてもらっては困る、東に出てほしいと思ったドイツ・皇帝ヴィルヘルム2世はロシア・ニコライ2世に黄禍論(欧米で広まった黄色人種が白色人種に災いをもたらす主張)を吹き込みます。
今のうちに、日本をたたいておけ!!というものでした。

1905年ロシア帝国バルチック艦隊が日本海海戦で敗北・・・敗戦が決定的となります。
しかし、日本も戦争を継続する国力もなく・・・
1905年ポーツマス条約で講和条約を結びます。
アジアで勢力を拡大できなかったロシア・・・ドイツの思惑は外れてしまいます。
ロシアは東アジアへの勢力拡大を断念し、東ヨーロッパ(バルカン半島)に重点を置き始めました。
当時、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれるほど・・・第1次世界大戦の発火点となるのです。
小国を後押しする諸外国・・・ロシアはセルビア(スラブ民族)を、ドイツはオーストリア=ハンガリーを(ゲルマン民族)。
第1次世界大戦の発端となったのが、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フェルディナント大公夫妻が、サラエボを訪問し・・・悲劇的な事件が!!
1914年サラエボ事件です。
フェルディナント夫妻がセルビア人青年によって暗殺されてしまいます。

オーストリア=ハンガリー帝国の要求は・・・
民族運動の抑圧・サラエボ事件の裁判への参加などでしたが、最終的には拒否をし・・・
オーストリアが軍事行動を起こすのです。

民族の対立を発端に・・・どうして世界大戦へと移っていったのでしょうか?
そこには、大国の複雑な利害関係がありました。

イギリス・ロシア・フランスの三国協商。
これに対抗したのが、ドイツ・オーストリア・後に抜けることになるイタリアの三国同盟。
日本はイギリスと日英同盟。。。ロシアとは日露協約。
協商側と同盟側の緊張が高まっている中でのサラエボ事件でした。
この大国の参戦により、世界大戦に拡大したのです。

その発端となったのは、ドイツがオーストリア側についての参戦でした。
ドイツはまずベルギーに侵入し、フランスに侵攻していきます。
イギリスは、フランスを助ける形で参戦。
では、どうしてドイツは参戦したのでしょうか?
それは、1879年に独墺同盟を締結していたこと・・・これは、ロシアに軍事対抗するためでした。
このドイツの参戦で連鎖的に参戦していきます。
たくさんの国が、世界大戦に参加するようになります。
第1次世界大戦の主要な参戦国は・・・
同盟国側は、ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン=トルコ帝国・ブルガリア。
連合国側は、主要国はフランス・ロシア・イギリス・イタリア・日本・アメリカ・・・・たくさんあります。
当時アメリカは、世界最大の工業国で、このアメリカの参加によって、連合国の勝利が決定的に決まることになります。

1914年日本がドイツに宣戦布告します。
どうして日本は世界大戦に参加したのでしょうか?
それは、1902年の日英同盟があったからですが、イギリスは、日本が東アジアで大きくなることを警戒していたので、軍事行動に対してかなり制限していたようです。
しかし、日本は、東アジアでの安定した勢力を望んでいました。
その後、ドイツ権益であった南洋諸島に勢力を伸ばしていくことになります。
日本は、遠く離れた戦争で・・・国運をかけた戦争ではなかったのですが。。。
参戦することによって景気が回復、経済効果は大変大きかったようです。


そして、近代兵器の登場が、世界を戦場にしていきます。
戦場だけで戦いの勝敗が決まるわけではない戦争・・・総力戦となるのです。
戦争を大規模にし、残虐なものにしていきます。
戦車は、1916年9月イギリスがソンムの戦いで使用し始めました。
潜水艦は、ドイツ軍がUボートの名称で、敵の商船への攻撃に使用しました。
航空機の参加・・・偵察機から戦闘機や爆撃機へと分化し発達していきます。

第1次世界大戦の犠牲者は2000万人以上の死傷者を出します。
これは、今までに類を見ない犠牲で、兵器の発達・・・戦争の大規模化へと繋がっていきました。

どうして地域戦争が世界大戦となったのか???

オスマン=トルコ帝国の衰退で、多くの少数民族がバルカン半島で独立運動を始めたこと。
そのバックには、勢力拡大を狙う大国の複雑な同盟関係・協商関係・利害関係があったからなのです。

1918年11月11日第1次世界大戦終結。

オーストリア=ハンガリー帝国や、オスマン=トルコ帝国が敗戦後に相次いで崩壊し、多くの民族が独立していきました。
ドイツは、ベルサイユ条約で多額の賠償金を背負い、経済的に苦境に追い込まれました。
そして・・・経済的に苦しめられるドイツはヒトラー率いるナチスが台頭していきます。

図説第一次世界大戦 下 1916-18―戦略・戦術・兵器詳解(歴史群像シリーズ Modern Warfare MW) [ムック] / 学習研究社 (刊)
図説第一次世界大戦 下 1916-18―戦略・戦術・兵器詳解(歴史群像シリーズ Modern ...
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2013年02月13日

古代中国 よみがえる英雄伝説「伝説の王・禹〜最古の王朝の謎〜」

夏王朝は幻ではなかった―1200年遡った中国文明史の起源 [単行本] / 岳 南 (著); 朱 建栄, 加藤 優子 (翻訳); 柏書房 (刊)
夏王朝は幻ではなかった―1200年遡った中国文明史の起源 [単行本] / 岳 南 (著); 朱...

紀元前2000年ごろに荒れ狂う太古の自然を最初に生死最古の王朝を築いた男・・・禹です。
これまで禹について書かれたものは、史記ぐらいしかなく、謎のベールに包まれていましたが・・・いろいろなものが発掘されてきています。
中国古代史の謎に迫ります。

中国の小学校で教えられているのは・・・
「華夏」その子孫の末裔だそうです。
経済格差や価値観が多様化する中、自らのルーツを学ぼうとしているのです。
夏王朝・・・夏とはどんな王朝で、禹はどんな人だったのか?
史記には・・・
遥か昔、この世は洪水が相次ぐ激しい時代だった。
王たちがどのような手を講じても、荒れ狂う大河を制することは出来ず、人々は貧しい生活を余儀なくされていました。
ある日・・・一人の若者に白羽の矢が立ちます。
禹という男・・・全国の治水に邁進します。
厳しい自然との戦いで、若々しかった肉体は老人のように・・・不自由になった。
それでも禹は歩き続けることを辞めなかった。
そして13年後、禹は中国全土の治水に成功、生まれ変わった土地で民の暮らしは一変します。
周囲から押された禹は王となり、夏を大いに繁栄させました。

中国各地には、禹にまつわる伝説がたくさんあります。
羌族には禹歩という歩き方があります。
遥か昔・・・片足を引きずりながら治水に回った禹と土着信仰が混ざったものです。
洪水等の災難から守ってくれると信じています。
また、全国に禹を祀った廟があります。

禹はまさに、中国の国づくり伝説そのものですが、多くは謎のベールに包まれたままでした。
史記が書かれたのは漢の時代。伝説や伝承がもとになっています。
そんな中、考古学上の大発見がありました。
1928年殷墟の発掘です。
殷の発見により、夏王朝の遺跡の発見が期待されますが・・・
日中戦争が始まり、文化大革命・・・中国の考古学は、長い停滞期に入ったのです。
そして、20世紀の終わりに・・・国家プロジェクトが発動されます。
夏王朝の研究です。
考古学の発掘と研究を通じて夏王朝の存在を証明する事。それは、自分たちのルーツを知るということです。

そして、神話や伝説として語られてきた実像が形となって解ってきました。
紀元前3000年から2000年・・・
中国には、別々の文化圏が分立していました。
ここに・・・伝説の禹に匹敵する王が発見されるのでしょうか???

その場所・・・長江河口の良渚には・・・
5000年前に作られた巨大な城壁があります。
地質や鉱物を研究した結果、数キロ離れた山から運ばれました。
壁の全長は7キロ・・・巨大な集落でした。
5300年から4300年前のものだそうです。
さらに・・・巨大集落の繁栄を示す・・・栽培種であるコメが発見されました。
水田も発見されました。計画的なコメの量産体制が出来ていたのです。
そして・・・強力な王の存在が。。。玉器。
集落の中心では、王自らが宗教儀式を行っていたようです。
五穀豊穣を願います。
地上の意思を神に伝える存在でした。
その玉による信仰が・・・周りにも広がり、専制的な支配・・・強大な力となっていたようです。

内陸部でも国が!!
山西省に・・・発掘されたのは柱の跡・・・それは太陽の観測施設・・・暦でした。
暦は農業と密接しています。
当時粟を主食としていたこの地方、たくさん収穫するために・・・
そのための太陽観測施設で、使うことが出来たのは特別な人間だけ・・・王だったようです。この王に従う・・・強大な力となりました。


古代中国には、強大な力を持つ王の文化圏がありました。
ところが・・・繁栄を謳歌していたしていた集落が衰退していきます。
その原因は繰り返し襲う洪水でした。
中国全土を襲う気候変動・・・紀元前3000年から2000年にかけて、寒冷化や干ばつ、そして長雨による洪水・・・農業に頼っていた古代中国の集落を直撃します。
この頃、世界各地でも気候変動が起こっていました。
エジプトでもピラミッドを造った古王朝が崩壊、メソポタミアでも中核都市が廃墟に・・・中国では複雑な気候条件が重なり凄まじかったようです。
その遺跡は、黄河上流にある青海省喇家遺跡です。
遺跡は、中国のポンペイとも呼ばれています。
高い文化を持っていた集落が、洪水などで一瞬にして土砂に埋もれてしまった・・・逃げる間もなく犠牲になったのでした。
未曽有の天変地異に中国の古代集落は次々に崩落していきました。

史記にあった禹の伝説は、洪水の歴史でもあったのです。

黄河・・・中国大陸の厳しい自然に古代集落はなすすべもなく・・・
文明を破壊し、また文明を生み出す黄河・・・
そこには禹を信仰する風潮・・・伝説があります。
国を治めるにはまず、黄河を治めること。。。禹王を信仰しています。
治水をし・・・自然を制する。中国ではそんな人物こそが、神のように進行していくようになるのです。

多くの文化圏を崩壊させていった自然・・・
しかし、繁栄していったのは・・・河南省二里頭村。
此処には禹とかかわりのあるかもしれない国・・・

これまで例に見ない宮殿跡がいくつも発掘され・・・
そこにはトルコ石の龍までありました。
この龍は、中国の王の権威の象徴の最古のものです。
そして、青銅を薄く鋳造する技術、そこにトルコ石を装飾した青銅器文化。
ここが、禹の作った夏王朝の都ではないかと考えました。

その都は・・・文字が見つかっていないので、その王が禹であったのかはわかっていません。
でも、他の地域が衰退していく中・・・どうして急速に発展・繁栄したのでしょうか?
土を採取した結果・・・粟・黍・小麦・大豆・水稲・・・まだ多くの地域が限られた作物しか栽培していなかった時代に、5種類もの作物を作っていました。
つまり、気候変動に対応できたのです。
二里頭村の人たちだけが、どうして5種類も???
鍵となるのは川でした。
二里頭村周辺には、黄河・長江・伊河・洛河・・・中国の主要な支流が流れていました。
この川から流れてきたのかも???
そして、この川の流域から、二里頭村の礼器が発見されています。
ここに身分の高い人々を常駐させ、情報を得ていたのではないか?と言われています。

史記には禹の活躍として・・・

“人々に湿地に植える苗を与え
 食べ物が少なければ 
 余裕のあるところから集め
 人々が平等になるように分け与えた
 そして自ら各地に出かけ
 地域によって
 その地の貢ぎ物に出来るものや
 山や川のもう通の便を視察した”

とあります。
民が植えることのないように・・・
始動したと思われる記述です。
禹は本当にいたのかもしれません。


二里頭以前に相次いで崩壊した古代集落・・・
その崩壊の原因は、環境が激変する中、王が権力を維持できなくなっていたからでした。

山西省陶寺村では・・・
意外な歴史の事実が発見されました。
高い文化を持っていた陶寺遺跡では・・・たくさんの異常な人骨を残し、崩壊していました。バラバラな状態で出てきた骨・・・

その理由は、反乱だったようです。
貴族たちに復讐し、うち捨てられたものだったのでは???
瞬く間に崩壊してしまいました。

良渚でも・・・食糧難の中、王が求心力を失っていきます。
玉宗には不純物が含まれるようになっていきます。
材料の不足。。。しかし、大型化。。。
ここに、王の権威が失墜したのが伺えます。

古代中国の集落は、脆弱なシステムしか持ち合わせていなかったのです。

中国人が愛する玉文化・・・。
それは、永遠に色あせることのない、朽ち果てることのないもの。。。
玉は、長い権力者の歴史の中で愛されてきました。
春秋戦国時代には、一つの玉が15の城と同じ価値だとされたほどです。
数千年を経た中国でも高い価値があります。
好景気な現在、飛ぶように売れていきます。
古代から名産地とされてきたのが、新疆ウイグル自治区・ホータン。
切り取った山々では、今も採掘がおこなわれています。
玉石混合という言葉も、この玉からきています。
玉は中国人にとって、ただの美しい鉱物ではなく、政治や歴史のシンボルとして、崇拝の対象になっていきます。

多くの文化圏が崩壊していった古代中国。
しかし、夏王朝の禹に対しては、民の信望が篤かったようです。
禹の功績は大きかった。
人びとはそれぞれの地元の名産物を献じた。
こうした土地は、五千里の彼方まで広がり、はるか遠くまで及んだ。

しかし、王に即位した禹がどのような政治を行ったのか???
その記述はありません。
二里頭遺跡には・・・???
その土器には、大きな特徴があります。
酒器がたくさんあります。
大切な儀式や祭事に使われたようです。

そこに夏王朝の秘密が隠されているのでしょうか???
宮殿の構造も、他に見られない大きな特徴があります。
一号宮殿・・・
回廊に囲まれた建物、1000人以上収容できる広場。
たくさんの人が入ることのできる建物。。。

後の中国の王朝にも受け継がれています。
清の紫禁城と比べると・・・ほぼ同じ配置、とてもよく似ています。
それ以前にはなかったものでした。

その使われ方は???
もちろん宮廷儀礼です。
この宮廷儀礼の始まりも、夏王朝とされています。

神の力よりも、王の力!!
夏王朝は、神よりも人を優先していたようです。
王が一人の人間として家臣と向き合うシステムです。

宮廷儀礼は夜明け前に行われます。
宮殿に入ることが出来るのは、貴族と近隣の集落の首長。献上品を持ってきます。
そこには王の権威を象徴する工夫がなされています。

最後に入場する王。
その手に握られているのは貴重な石でできた玉璋・・・
玉璋は神聖なもの・・・。
他の地域の神聖なシンボルを持つことで、権威を高めます。
さらに、取り出したのは・・・まだ誰も見たことのない青銅の酒器・銅爵。。。文化を融合させていきます。
外の文化を取り入れて、融合させていくこと・・・それは広大な地域を治めているという権力の証でした。

身分の高いものが壇上にあげられます。
全ての文化の頂点に立った王から・・・酒を賜る貴族。。。
下から見守る参列者たち・・・
人びとは、王との身分の違いを痛感します。
そして、王を崇めるようなるのでした。
軍事力だけでは、長く維持させることは出来ません。
何らかのシステムを以て・・・それが、儀礼だったのです。


周辺地域に影響を与えていきます。
広大な範囲から銅が集まられています。遠くは1000キロ先から・・・。
広い範囲から銅を集めることが出来たのは、その地域と何らかの同盟関係があったと思われます。
影響力はさらに広がり・・・香港で、同じ形の玉璋が発見されました。
さらに・・・ベトナム北部・ソムレン遺跡、ここでも玉璋が発見されました。
1600キロを超えていました。
さらに福建省、広東省、四川省・・・と、伝播していました。

この時期東アジアに文明が花開いていました。
その為、ハイレベルな成熟した文化を学ぶ必要がありました。

二里頭の玉璋・・・この柄の部分は、竜の頭、背びれ、全ての玉璋に刻まれています。
龍はもともと、中国東北部で宗教的なシンボルとして信仰されてきた空想上の生き物です。
二里頭は、この龍を、権力の象徴として利用し始めたのです。


中国の歴史の中で、龍と王の結びつき・・・それは、二里頭から始まったのです。
龍は、歴代の王朝に権力の象徴として脈々と受け継がれていきます。
王は常に龍と共に!!

今からおよそ4000年前の二里頭の王。
そこから多様な人々を治めるシステムが生まれました。
そんな二里頭の文化的な影響力は広がっていくのです。

武力によってではなく、文化の力によって成し遂げられたものでした。
歴史上初めて現れた文化の革新だったのです。

厳しい自然や荒ぶる人々を治めた二里頭・・・
禹は・・・夏王朝は存在したのでしょうか???

二里頭で繁栄を謳歌した夏王朝・・・しかし、紀元前1600年ごろ、新たな国が・・・
台頭してきたのは第2の王朝・殷王朝・・・殷は青銅器を以て夏王朝を徹底的に破壊。
夏王朝に関する遺跡からは、殷に虐殺されたであろう人々の骨がたくさん発見されています。

しかし殷は、意外な行動に・・・???
宮殿だけは破壊しなかったようです。
この宮殿を一定期間使ったようです。
宮廷儀礼をそのまま取り込んで・・・文化的な統治システムは大変魅力的なものだったのでしょう。

そして・・・龍のシンボルと共に、歴代王朝へ!!!
それを最大限に利用したのは、秦の始皇帝です。
禹を祀った山を参拝することで、始皇帝は自分こそが夏王朝の後継者であることを示そうとしたのです。
中華と呼ばれる世界観をもって、一つにまとまろうとするとき・・・
古代の英雄伝説は、これから先も生き続けるのでしょう。

神話から歴史へ(神話時代 夏王朝) (中国の歴史 全12巻) [単行本] / 宮本 一夫 (著); 講談社 (刊)
神話から歴史へ(神話時代 夏王朝) (中国の歴史 全12巻) [単行本] / 宮本 一夫 (著...
夏王朝 中国文明の原像

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