2012年05月07日

彦根城散策〜A〜

駐車場からお城を目指して歩き始めました。

本当に大きいお城で、階段が沢山あります。
DSC_0288.JPG

本当につらい階段を登って、登って・・・。
やっと着きました。

黒ハートDSC_0294.JPG

天秤櫓です。
大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓です。

DSC_0316.JPG

城を作っている木は、ところどころに穴が開いています。
この城は、京極高次の大津城を持ってきました。

で、石垣は、佐和山城・安土城・長浜城・大津城から持ってきた、リサイクルの城なのです。

というのも、当時はこの要の地に早急に城を作らなければならなかったから黒ハート



井伊家は、彦根藩主として近江国東部から北部にかけて治めていた大名です。江戸時代を通じて、一度も国替えをすることなくこの地を支配しました。それは、とっても珍しいです。揺れるハート

井伊家は、譜代大名の筆頭、つまり、徳川将軍家の家臣の中ではトップの家柄です。
将軍を後見する立場にあり、将軍の跡継ぎの元服式では、いつも井伊家が烏帽子親を務めました。
普段は大老というポジションはありませんでしたが、有事の際に出来る大老に就くのも、井伊家が筆頭の家臣だったからです。

この立場は、初代直政・二代直孝の業績によって確立しました。

井伊直政・・・
徳川家康の天下統一を支えた家臣で、「徳川四天王」の中の一人です。
15歳で家康の家臣になった直政は、家康から武田の家臣を引き継ぎます。そして、武田の軍法を継承する勇猛な部隊を作り上げました。それが、「井伊の赤備え」です。

直政は、彼らを率いて戦場で活躍する一方、諸大名と家康との間を取り次ぐ交渉役としても活躍。
関ヶ原では、徳川の先陣を務めました。

関ヶ原の後、西国大名との戦後交渉に奔走しますが、合戦で受けた鉄砲傷が悪化して死去しました。

井伊直孝・・・
直政の死後、跡を継いだのは、長男・直継でしたが、弟の直孝が大坂冬の陣で井伊家の部隊を率いて出陣し、井伊家の当主となりました。

直孝は、京都周辺にある勢力との交渉役を務めました。
その後、2代将軍・秀忠の遺言で、家光の後見役を任され、ほとんど江戸を離れることなく将軍・家光、家綱を補佐しました。

DSC_0323.JPG

彦根城の築城には、関ヶ原合戦後、この地を畿内近国の拠点にしようとした徳川家康の意向で、築城工事は幕府主導で行われました。

彦根の町は、計画的に築かれた都市で、堀で仕切られた区画には、武家屋敷・町人地・寺町などが計画的に配置されています。

30万石の城下町として約3万人の住む全国でも有数の都市でした。
この30万石は、譜代の中では筆頭を数えます。

幕末、桜田事変の処罰として10万石が召し上げられ、20万石となってしまいました。

DSC_0330.JPG

お堀も大きくて、情緒がありますよね。

お城の敷地内に高校もありました。
なかなか雰囲気があって粋な感じが出ています。黒ハート

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

ラベル:彦根城
posted by ちゃーちゃん at 10:58| Comment(0) | お出かけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

彦根城散策〜@〜

ゴールデンウィークは、彦根城へ行ってきました。

お城や神社仏閣に行きたい私に、あーこは「神社仏閣以外なら行くよ!!」って言います。あせあせ(飛び散る汗)

今回は、ひこにゃんと、近江牛でつりました。あせあせ(飛び散る汗)

彦根の城城下町、大きいですね。1万5000歩ほど歩きました。インドア派な私としては疲れましたが、いい運動になりました。

で、お目当てのひこにゃん。

DSC_0298.JPG

この彦根城の今の城主です。揺れるハート

今日の出番は3回。夏のように暑い日でしたが、ゆる〜いパフォーマンスでみんなを楽しませてくれました。

DSC_0310.JPG

DSC_0303.JPG

DSC_0305.JPG

出番は1回30分。
出待ちはもちろん人だかりの出来る人気者です。
が、みんなで交代に見せてくれます。

本当にかわいらしい城主です。

で、私たちはこの後彦根城へ・・・。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
ラベル:彦根城
posted by ちゃーちゃん at 10:20| Comment(0) | お出かけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月08日

正倉院展の後は・・・

車で飛鳥の方へ・・・。



先ずは卑弥呼の墓、といわれる箸墓古墳へ・・・。

周りには大きな標識もなく、「これがそうかなあ・・・」と、思いながら周りを車で一周すると、カメラを持ったおじさんが何人かいて・・・。宮内庁の看板が出てきました。

近くにある園芸店の駐車場が入り口?になっていて、そこから入ると、その園芸店の人が?親切にも立て札を立ててくれていました。

19.jpg

あーこは、今クラスで、卑弥呼の本を読んでいるお友達がたくさんいるので興味深深でしたが・・・。


そうして中へ・・・。

20.jpg

当たり前ですが、ただのこんもりした丘に、感激も半減していました。
パパは、一人で飛鳥に浸っていましたが、勉強していなかったら、やっぱりただの丘だものね・・・。ε=( ̄。 ̄;A フゥ…

その後、石舞台へ。

石舞台古墳は、築造は7世紀のはじめ頃、被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

これは、見ごたえがありました。

21.jpg


外から見ると、本当に大きな石です。
古代の人は、どうしてこんな事が出来たのでしょうか?やはり、信仰のなせる業なのでしょうか?

22.jpg



入り口です。大きな石に、圧倒されます。

23.jpg


中からです。光が差し込んでいます。今までどうして崩れなかったのか・・・。本当に、古代の神秘です。

石舞台では、説明をしてくれる石舞台の人か?ボランティア?のおじさんに、色々お話を伺いました。

和歌山の紀の川筋から、吉野川に入ってきた文化なのだそうです。
私達は、その和歌山から来たのですが、和歌山で止まっていたら、文化の中心は和歌山だったのかも知れません。

と、楽しいお話をしてくれました。おじさんありがとう。

で、
24.jpg


ここが、聖徳太子生誕の地です。いまや、いるかどうかも怪しい・・・といわれている聖徳太子のお墓です。パパによると、息子の山背大兄王はいたんじゃないかな・・・とのこと。

そして、カメを飼っている私達にははずせない、亀型石造物をてくてく歩いて見物に。。。

25.jpg



大きなカメが、道端で眠っていました。

そこから少し走って、いよいよ高松塚古墳へ・・・。
私達が、教科書で習った、あの、高松塚です。

26.jpg



駐車場から、遊歩道を歩いていくと・・・こんもりとした山でした。

この中に、あの絵があったんだなあ・・・。と、感慨もひとしお。o(*^▽^*)o~♪

高松塚に描かれていた、鳳凰、白虎、青龍、玄武は、日本ではここと、キトラ古墳にしかないそうです。

インドアな私。足が痛くなるほど歩きましたが、古代の世界を満喫してきました。楽しかったです。

蘇我氏も、聖徳太子も、いろんな人が歩いた道を、車でたった一日で周った私達は、当時の人にとっては、異邦人なのでしょうね。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

posted by ちゃーちゃん at 13:03| Comment(0) | お出かけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。