本当に大きいお城で、階段が沢山あります。
本当につらい階段を登って、登って・・・。
やっと着きました。

天秤櫓です。
大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓です。
城を作っている木は、ところどころに穴が開いています。
この城は、京極高次の大津城を持ってきました。
で、石垣は、佐和山城・安土城・長浜城・大津城から持ってきた、リサイクルの城なのです。
というのも、当時はこの要の地に早急に城を作らなければならなかったから

井伊家は、彦根藩主として近江国東部から北部にかけて治めていた大名です。江戸時代を通じて、一度も国替えをすることなくこの地を支配しました。それは、とっても珍しいです。

井伊家は、譜代大名の筆頭、つまり、徳川将軍家の家臣の中ではトップの家柄です。
将軍を後見する立場にあり、将軍の跡継ぎの元服式では、いつも井伊家が烏帽子親を務めました。
普段は大老というポジションはありませんでしたが、有事の際に出来る大老に就くのも、井伊家が筆頭の家臣だったからです。
この立場は、初代直政・二代直孝の業績によって確立しました。
井伊直政・・・
徳川家康の天下統一を支えた家臣で、「徳川四天王」の中の一人です。
15歳で家康の家臣になった直政は、家康から武田の家臣を引き継ぎます。そして、武田の軍法を継承する勇猛な部隊を作り上げました。それが、「井伊の赤備え」です。
直政は、彼らを率いて戦場で活躍する一方、諸大名と家康との間を取り次ぐ交渉役としても活躍。
関ヶ原では、徳川の先陣を務めました。
関ヶ原の後、西国大名との戦後交渉に奔走しますが、合戦で受けた鉄砲傷が悪化して死去しました。
井伊直孝・・・
直政の死後、跡を継いだのは、長男・直継でしたが、弟の直孝が大坂冬の陣で井伊家の部隊を率いて出陣し、井伊家の当主となりました。
直孝は、京都周辺にある勢力との交渉役を務めました。
その後、2代将軍・秀忠の遺言で、家光の後見役を任され、ほとんど江戸を離れることなく将軍・家光、家綱を補佐しました。
彦根城の築城には、関ヶ原合戦後、この地を畿内近国の拠点にしようとした徳川家康の意向で、築城工事は幕府主導で行われました。
彦根の町は、計画的に築かれた都市で、堀で仕切られた区画には、武家屋敷・町人地・寺町などが計画的に配置されています。
30万石の城下町として約3万人の住む全国でも有数の都市でした。
この30万石は、譜代の中では筆頭を数えます。
幕末、桜田事変の処罰として10万石が召し上げられ、20万石となってしまいました。
お堀も大きくて、情緒がありますよね。
お城の敷地内に高校もありました。
なかなか雰囲気があって粋な感じが出ています。

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ラベル:彦根城