2012年07月19日

シリーズ 世直しの夢 〜大坂から江戸を撃つ!新説・大塩平八郎〜

天保8年2月19日午前8時。。。
徳川の世が始まって230年、太平の眠りの中の大坂で・・・
突如、号砲が・・・
乱が始まりました。

リーダーは、大坂町奉行所元与力・大塩平八郎。。。
その矛先は、腐敗した幕府官僚・暴利をむさぼる商人たちに天誅を!!

民を救えと決起します。
世にいう「大塩平八郎の乱」です。
この時代江戸後期は、写楽・歌麿が活躍した”パックス・トクガワーナ”と呼ばれる時代。
幕藩体制を支える元役人が起こした乱に、幕府は驚愕しました。

大塩平八郎は、強大な幕府軍の前に会えなく敗北しましたが、一地方役人の決起に大坂庶民は喝采を送ります。
何故勝ち目のない決起を起こしたのか?

その謎は、伊豆に・・・
28年前に発見された幕閣への密書の写し・・・
そこには、幕府エリート官僚を巻き込んだ一代疑獄がありました。

長く続いた太平の世に、元大坂役人が起こした反乱です。
そこから見えてくるのは、江戸時代の終焉と、明治の幕開けでした。

この乱。。。どんな世の中に、何を訴えて行ったのでしょう?
それは、日本の官僚制度のドロドロした部分を暴き出したということでしょうか?
これをきっかけにして、30年の幕末、明治維新の始まります・・・
体制側の人間なので、人々にとっては、単なる庶民のヒーローではありませんでした。

大坂生まれの大坂育ちの大塩平八郎。。。

この天保年間は、地震や飢饉・・・
多くの自然災害が続いた国民が、大変つらかった時代でした。

大坂は、天下の台所と言われ、日本の経済の中心地でした。
幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられます。
祖父のあとを継いで14歳から与力見習いとなりました。

当時の大坂の町奉行西と東に分かれており、与力30人、その部下である同心は50人でした。
上士に媚びる役人の多い中、正義を貫く清廉潔白で庶民に人気がありました。

菓子折り(付け届け)を持ってこられた時も・・・
「こんなことを許しているから町方に付け込まれ、吟味がなかなか進まないのだ!!」
と怒ったと言います。

当時は、賄賂が横行していたのです。

大塩平八郎は、少し堅物でしたが、優秀な与力でした。

大坂に大塩あり!!と言われた事件が・・・

@キリシタン逮捕事件・・・1827年解決
怪しげな宗教団体を、キリシタンとして摘発しました。

A破戒僧処分事件・・・・1830年解決
寺の中で、とばくをしていた僧・他50人を逮捕しました。

B大坂で横行していた殺人・強盗・・・
その組織犯罪のリーダーは、大坂西奉行所筆頭与力”弓削新右衛門”。
役人の立場を利用して犯罪を行っていました。
せしめた金は、3000両(6億円)。
その手下を摘発し・・・本人も自害となります。

その翌年、38歳で、突然辞職しました。
与力の限界を感じていたようです。

キャリアVSノンキャリの戦いです。
大塩平八郎はもちろんノンキャリ。

大坂城代・京都所司代は、重要拠点に置かれた大臣のようなもので・・・
江戸から来る人は、大坂町奉行⇒若年寄(江戸)・城代⇒老中・・・とキャリアアップしていきます。
与力は、大坂で採用され、大坂で職務する・・・。
江戸に行ったり、昇格することはありません。

その差は大きく、大塩は出世できない。。。
有能さゆえの下級役人の辛さ・・・

フラストレーションがたまる一方でした。

「幕府の重職でなければ、十分に思い通りには出来ない。
 与力はゴリゴリだった・・・。」

大塩平八郎は、与力を辞め、塾(洗心洞)を開きます。

洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈上〉 (タチバナ教養文庫) [新書] / 吉田 公平 (著); たちばな出版 (刊) 洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈下〉 (タチバナ教養文庫) [新書] / 吉田 公平 (著); たちばな出版 (刊)

乱まであと7年。。。
38歳で役人を辞めた大塩は、何を考えていたのでしょう???

この大塩の辞職のきっかけは、上司の高井実徳が転属したことにもあったようです。
理解してくれる上司の転属・・・それを機に隠居。
現役よりも、本当にやりたかったこと(教育者)に専念したのです。

彼の考え方の基礎となったのは、王陽明の陽明学。
「知行合一」旨とします。
知識と行動は別々ではなく、行動に移してこそ知識の意味があるというものです。

大塩が町奉行を辞職して3年、日本中を天保の大飢饉が襲います。
その惨状は、目を覆わんばかりでした。
大坂だけでも毎日200人の死者が出たそうです。

さらに、大塩決起の1年前には打ちこわしが相次ぎます。
庶民の窮状を見かねた大塩は、奉行所に対策を進言します。

「米不足とは言っても、大坂には全国から米が集まっている
 その多くは、商人が売り惜しみをし、蔵にため込み
 値を吊り上げようとしている。
 商人に蔵を開けさせ、米を分け与えるよう指導してはどうか。」

しかし、キャリア官僚・大坂東奉行所・跡部山城守良弼は・・・
「元与力の分際で何を言う!!
 身分をわきまえろ」
と言いました。。。

さらに・・・
大坂町奉行所は、江戸に米を横流しし、幕府中枢のご機嫌をとり、出世の点数稼ぎにしていました。

憤慨した大塩は、決意します。
蔵書をすべて売り払い、救済金を捻出。
その金額は、620両、現在の1億3000万に当たります。

大塩は、お金の引換券を渡します。
「天満に火事あらば、必ず駆けつけよ」
と、言い添えたそうです。

機は、熟しました。
檄文を村々に配布します。
版木は細かく分割され、それ一枚では何が書かれているのか解りません。
一枚の板にすることによって、文章がわかるというものになっていました。
極秘裏に進められていました・・・。

決起予定日は、天保8年2月19日。。。

この「怒り」の真意は???
徳川幕府は、国民の政府ではない。。。
市民のための政治を!!という怒り。

腹が減って一揆を起こすのではない。
米を投機対象として見ている商人たち・・・
そこに見えてくる不条理・不公正が見えてくるので立ち上がるのです。

天保8年2月19日。
この日は、新しい東西両奉行が挨拶回りをする日でした。
2人を襲撃する絶好のチャンスでした。

午前8時・・・。
耳をつんざく大砲の音とともに、大塩平八郎の乱が起こります。
当初、目指すは東西町奉行所でした。
が、事前に情報が漏れてしまい頓挫。。。

有力商人の家に向かい、火を放ちます。
「救民」という旗のもと、天満の町を大砲とともに練り歩きます。
街に上がった火を見て、農民たちが立ち上がります。
その人数、300人に膨れ上がっていました。

もはや、奉行所の手に負えません。
幕府軍と淡路町で衝突!!

幕府軍は、大塩たちに発砲!!
民衆は、びっくりして散り散りに逃げてしまいます。

午後4時・・・。
大塩の蜂起は、わずか8時間で鎮圧されてしまいました。

大塩と息子の2人は行方知れず。。。
元地方役人の反乱は、終わったかに見えました。

事件は思わぬ方向へ・・・。
大塩は、事件直前に、幕府に密書を送っていました。
一大不祥事の告発でした。

密書は3通。

うち二通は・・・
昌平坂学問所・林述斎、水戸藩藩主・徳川斉昭宛てでした。
ときの幕府に大きな影響力を与える人物です。

老中6人のうち、4名までもが不正に関わっていたことを告発していたものです。
それは、「不正無尽」という詐欺行為でした。

その構造は・・・
胴元が、多くの人からお金を集めます。
くじのかたちを以て配当するというものですが、不当に高いマージンを胴元がとっていたというものです。

<一例>
出資   270人×9両   =2430両
配当   1等  23両
     2等  12両  =1723両3分
     3等  5両
     4等  2両
手数料          =706両1分

それを老中たちが黙認。

それどころか、胴元から上納金をせしめ、私腹を肥やしていたのです。
大塩は、丹念に帳簿を調べ上げていました。

この「不正無尽」は、大坂町奉行所の役人が差配、疑惑は、かつて赴任していた幕府の上層部にまで及びました。

しかし、この「不正無尽」については、根深いものがあり、大名たちはこの不正蓄財で芸者遊びをしていたわけではなく・・・
当時のキャリア官僚の家計も苦しかったのです。
老中に上がるための運動資金がありません。。。
そんな藩財政補填の面もあったのも事実です。


大塩の告発に対する幕府の反応は・・・

「一切 返答なし」でした。。。

この密書は、一旦江戸に届いたのち、大塩の元へ帰されることになります。
しかし、その途中に盗まれてしまいます。
伊豆山中で拾われて、写しがとられ・・・今から28年前に発見されたのです。

この密書で大塩の評価が変わりました。
エリート官僚に大打撃を与える可能性があったということです・・・。
御家人が、老中に意見が出来ません。もみ消し以前の問題でした。

そこには、大きな身分制度の壁がありました。
届くはずのない書状だったのです。

大塩が消えた!!

大捜索が始まります。
その捜索に白羽の矢が立ったのが、剣豪・斉藤弥九郎でした。
斉藤は、大塩を斬るという密命を帯びていました。

しかし、大坂では大塩は大人気!!

「大坂の民は、たとえ大塩の首にかけられた懸賞金が100両から1000両に上がっても、
 大塩を差し出すつもりの者はいない」

当時江戸にいた平戸藩9代藩主松浦静山もこの乱に衝撃を受けました。
乱の一部始終を書き留めていました。

町民たちは、大塩を太閤秀吉になぞらえて、英雄視している。と、書かれています。
大塩は実は死せず、船に乗り清国へ・・・という噂までありました。

乱から40日余り・・・
御用となる・・・?
持っていた火薬で、息子とともに自害しました。

その遺体は、同志とともに、磔の形となりました。

しかし、逃げ回っていたわけではありません。
東大阪にある潜伏先で、江戸から聞こえてくる幕府の人事刷新を待っていたと思われます。

大塩は、その噂を聞くことが出来たなら・・・本望だったのです。


しかし、最近の研究で、大塩は、水戸藩に抜け米を送っていたことが解りました。
江戸の儒学者山田山川の日記によると・・
「水戸侯は、一斎へたのみて
 大塩にたのみ
 六万両の米を買わせたり」
とあるのです。

もしかすると、大塩は、敬愛する徳川斉昭を頼りに、幕府の人事刷新を願っていたのかもしれません。


大塩平八郎の乱から175年・・・
その大塩の本当の想いは、どこにあったのでしょうか?


どうだったにせよ、下剋上の扉が開いた瞬間であったことには違いありません。

大塩平八郎と陽明学
大塩平八郎と陽明学

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2012年07月06日

天才エジソンの真実〜発明王が生んだ欲望の世紀〜

今から100年も前に・・・

「やがて恐るべきスピードで乗客を運ぶ空飛ぶ巨大なマシンが出現するだろう
 電話に、商品の名前や市場の動向を自動で読み上げる機能が付くだろう」

飛行機やスマートフォンを言い当てたのは・・・

「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」

と言ったエジソンです。

世界の発明発見科学史〈1〉世界を変えた発明―エジソン/ファラデー/ベル [大型本] / スタジオキウリ (著); 雀部 晶 (監修); 学習研究社 (刊)
世界の発明発見科学史〈1〉世界を変えた発明―エジソン/ファラデー/ベル [大型本] / スタジ...


発明王、トーマス・エジソン(1847〜1931)
電球・蓄音器・・・1000以上の発明を生み出した偉人です。

日本人のイメージは、孤高の発明家???
小学校をも中退した落ちこぼれが、母の愛で教育され・・・というのが通説です。

しかし、アメリカでは、ちょっと違った人物像もありました。

共に研究に打ち込んだ人は4000人以上。
発明工場から現代のライフスタイルが伺えます。

電気中心の生活。
巨大な産業、音楽や映画という刺激的な娯楽を届けてくれました。
暮らしも劇的にスピードアップ。
そこから見えてくるのは、私たちの豊かな現代の生活でした。

世界から夜が消えた・・・
誰もが目を見張りました。
1879年エジソンにより、電球が実用化されました。

その頃すでに、電球は発明されていましたが、しかし、すぐに消えてしまう・・・。
エジソンは、中身を真空にしたり、材料を変えたり・・・
完成したものは、連続点灯200時間以上を達成。
その秘密は、フィラメント。京都の竹を炭にしたものを使用しました。

以来、数々の発明によって、現代の礎を築きました。
蓄音器、映写機、トースター・・・

生涯取得した特許は、アメリカだけで1093.
大学どころか小学校さえ出ていないエジソン・・・。
どうやって、世紀の発明王となったのでしょうか?

1847年7人兄弟の末っ子として生まれます。
少年時代をミシガン州ポートヒューロンで過ごしました。
ここでの、7歳〜16歳までの日々が、発明王の原点となります。

電気もガスもない19世紀の生活・・・

1848年カリフォルニアで金の採掘が始まりました。ゴールドラッシュです。
当時、チャンスはあちこちに転がっていました。

しかし、学校では・・・
「君のような生徒は初めてです・・・」
頭がおかしいようなことを先生に言われたエジソン・・・
母が自ら勉強を教えます。
というのが、伝記。

しかし史実は・・・
12歳の時、発明王への第一歩を踏み出しました。
列車内で新聞販売のアルバイトを始めたのです。
そこで目の当たりにした社会。

アメリカで列車が開業して30年余り、人々は新大陸での成功を夢見ていました。

「必要なのは、新鮮な情報だ!!」

15歳でベンチャービジネスを始めます。
自分で新聞を作ったのです。
個人で発行し、列車で売り始めました。
目を付けたのは、大新聞に載っていない、地元の情報でした。

すぐに記事にするために、列車内で刷り上げました。
1862年ウィークリー・ヘラルド創刊。

そこには、ビジネスチャンスに目をつける嗅覚と、それを逃さない機敏さがありました。

1861年〜65年、南北戦争勃発。
その時、脚光を浴びたのが、電信技術でした。
路線沿いに整備された電信ネットワーク。
南北戦争の最新情報が、瞬く間に全米へ・・・。
新時代のテクノロジー、電信技術を独学で勉強したエジソンは、エンジニアの道へ・・・。

21歳で発明をスタート。
20台で100件以上の特許を取得。
20世紀という欲望の時代に、栄光の物語が始まりました。

19世紀は、産業としての一大転機でした。第1次グローバルゼーションでした。
1869年アメリカ横断鉄道の完成。
1837年モールス電信実験成功。

アメリカでは、合衆国憲法に・・・
「発明に対する権利を一定期間保ち、有用な技術の進歩を促進する」
と、特許の世界が発達していました。
ヨーロッパには、中世からのギルドがあり、それが支障になっていました。圧力のない環境が整っていたと言えます。

例えば、1851年のロンドン万博は、イギリスの独壇場だったのですが・・・
アメリカの出したコルトの拳銃。。。
その拳銃には、互換性の部品があり、それにイギリスが驚き、調査団を派遣したほどでした。
そんな時代だったのです。


エジソンの名声は日本にも・・・

1897年日本の街角にはエジソンのポスターが貼られました。
映写機の宣伝ポスターです。

文明開化の日本に、便利で楽しい世界が広がります。
蓄音器は、発明から1年で日本へ・・・
1905年大声発音器として発売。

では、どうしてエジソンは、このように名声を得たのでしょうか?

エジソンの書斎・・・それは、3階まで吹き抜けの大きな部屋です。そこには、世界中から集められたたくさんの本がありました。

膨大な資料の中で暮らすエジソン。朝から晩まで働きます。
そばにあるベッドで仮眠をとる生活です。
タイムカードによると、週80〜100時間は働いていたようです。

研究所には、多い時でスタッフ4000人以上、一人でこつこつ・・・ではなかったのです。
機械工学・数学・物理学の研究者を揃え、最高のチームで発明を成功へ導きます。

エジソンは、研究チーム全員で、一冊のノートを共有し、そこに指示をかきこんでいました。
ノートは、大切なコミュニケーションツールであり、特許を取る時のアイデアのオリジナリティーを主張する重要な資料となりました。

天才ではなく、愚直だったエジソン。
エジソンまでの科学の研究は、誰も知らない自然の法則を見つけ出すのが目的でした。

エジソンは、その法則を根本から覆します。
「大それた発見は必要ではない。。。
 今ある技術を改良して、実用性の高い製品を生み出すことこそ人類にとって最も大切だ。」
と、信じていました。
だからこそ、特許は命綱でした。

エジソンは、一つの発明に成功すると、貪欲にそれを次の発明に生かそうとします。
電球を発明すると・・・ニューヨーク全土につけるためには発電所が・・・すると、送電線が・・・
発電所用のセメント。工事のスタッフのためのプレハブ。。。

このセメントで作った物には、ヤンキースタジアムや高速道路もあります。

電気中心の生活が、スタンダードになっていきます。
事業化に当たり、いくつも会社を立ち上げました。
その中には・・・
1889年エジソン・ゼネラル・エレクトリック・・・GEの前身もありました。

そう、大きな組織だったのです。
思い付きではなく、膨大な組織が想像力を生みました。
エジソンは、発明家というよりも、実業家と言った方が良いかもしれません。
フーバー大統領に高速道路の建設を進言したのもエジソンです。
中小企業の経営者・・・本田宗一郎のようなものかもしれません。


栄光を手にしたエジソン。
しかし、その栄光がエジソンを追い込んでいきます。
発明王を脅かす存在・・・
映画では、1886年エジソンがムービングピクチャー、いわゆるぱらぱらマンガのようなものを発明します。
1891年フィルムにしたのが、キネトスコープでした。
これが、映画の原点となります。

この時エジソンは、フィルムの規格をします。
キネトスコープ用に巾35ミリのフィルムを発注します。
そのニュースを聞きつけた人は、35ミリで映画製作をしだしました。
35ミリで映画を撮る人が増えてきます。

しかし、映画の中身が問われるようになると・・・
エジソンはその波に乗り遅れてしまいます。


「規格を巡る争い」も出てきました。
その一つが蓄音器です。
1877年にエジソンが発明し、誕生した蝋管式蓄音器。これは、蝋で作った円筒形のレコードを使ったものです。この製作は、職人技が必要でした。その結果、再生だけではなく録音もでき、マイクもついていました・・・

しかし、1887年平盤式蓄音器が登場します。
円盤は、1枚のレコードを機械的に複製できました。職人技とは全くかけ離れていましたが、量産がしやすく、レコードが安い。
おまけに、エジソンが作ったのはフォークソング、敵の会社、例えばビクターは、オペラ他クラシック・・・と、ソフト面での人気でも負けてしまいます。
円筒VS円盤の戦いは、コスト面、ソフト面から破れてしまいました。


電力事業でも・・・
エジソンが発明したのは、直流発電機。
しかし、交流発電機が発明されると、こちらの方が効率的だったので、交流発電機が主流となりました。
その為、1892年には、エジソン・ゼネラル・エレクトリックの名から、エジソンが外れることになってしまいました。

発明王としてのこだわりが、市場競争、企業の論理に敗れたのです。
常に開発し続けないと、勝つことは出来ない!!

1930年ごろ・・・トースターが発明されます。
トースターとともにキャッチフレーズをつけて、新しいライフスタイルを提案します。
人々の生活は、スピードアップ。
ゆっくりと食べるのが幸せだった時代が、さっさと済ませることがカッコいい時代へと変化していきます。
物質的に豊かになれば、幸せになれる時代の到来です。

American way of life・・・アメリカ的生活を作ったのは、エジソンでした。

エジソンの発明から、欲望の世紀が始まりました。
デトロイトにあるフォード自動車は、20世紀の自動車産業をリードしてきました。
ここには、1928年9月27日の、エジソン直筆のサインがあります。
フォードにとって、唯一無二の親友だったエジソン。
フォードは、エジソンより16歳年上で、若いころはエジソンの系列会社で働いていたエンジニアでした。

1903年フォードは自動車会社を設立。
エジソンが進めた規格化、大衆化を進めます。
1913年ベルトコンベアによる大量生産を開始、徹底的に規格化しました。
おかげで車の値段は1/4に。。。

大量生産、大量消費の時代へと突入しました。
発想の基本はエジソンから学んだフォード。
エジソンについては・・・
「エジソンは、最高の発明家だけど、経営者としては全くダメなんだ。
 経営は人に任せて、現場に戻ってしまう。
 今までは、貧困は深刻な問題だったが、産業化が進めば人々は知恵を出して貧困をなくしていくだろう。」

しかし、1929年世界大恐慌。失業者が溢れます。
おまけに、オートメーション化による仕事へのやりがいの喪失。。。
いろいろな問題が出てきました。


エジソンが人類に届けてくれた光・・・
その輝きは、19世紀⇒20世紀⇒21世紀へと運ばれて、今、世界を埋め尽くしています。

大量生産、大量消費・・・
20世紀は中産階級の時代。
エジソンは、人類史上一番幸福感をもたらしてくれた人かもしれません。

エジソンは、死の間際まで・・・
「まだやり残していることがあるんだ・・・ 
 あと15年は働かないといけないな。。。」
と言っていたそうです。

エジソン脳をつくる「脳活」読書術 [単行本] / 西田 文郎 (著); エンターブレイン (刊)
エジソン脳をつくる「脳活」読書術 [単行本] / 西田 文郎 (著); エンターブレイン (刊)

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2012年06月27日

炎の突撃!真田幸村 戦国最後の華〜菩提を超える勇気〜

今回は、真田幸村さんです。

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真田幸村と申しますと、楠木正成、諸葛孔明と並び称されるほどの名将です。
トレードマークは、真紅の鎧兜、「日本一の兵」と呼ばれています。
戦国武将でありながら、その死後400年間、英雄であり続けています。

そのイメージとは違い、生涯は謎に包まれています。
例えば生まれた年???名前は???

確かなことは、巨大な勢力に立ち向かう、最強一族のDNAが、そこにはありました。
家康が恐れた変幻自在な戦術。。。

そして、壮絶な最期・・・
戦国乱世が生んだ永遠のヒーロー・真田幸村。
その鮮烈な障害の魅力とは???


幸村は、謎だらけ・・・
歴史学者のいやがる研究材料だそうです。

しかし、この謎の男を・・・家康はとにかく嫌がっています。
家康を最も恐れさせた男であることは間違いありません。

その最初の活躍は・・・
大坂冬の陣。

関ヶ原の合戦から14年、天下を手中に入れた家康は、その総仕上げとして豊臣攻めを決定します。

秀頼と淀殿は、かつての臣下に挙兵を求めます。
しかし、それにこたえるものはありません・・・
仕方なく、金目当ての浪人を招集・・・その中に、幸村の姿がありました。

48歳での全国デビュー戦です。

1614年大坂冬の陣が始まりました。
徳川方20万が、大坂城を包囲。

幸村に与えられたのは、5000の寄せ集めの兵でした。
いかに強靭な軍団とするか・・・
武具を赤備えに統一します。
そして、城を守るために・・・
城の南側に、出城を作ります。

天下人・家康が驚愕した、謎の要塞・真田丸!!!
徳川軍は、その異様さに目を見張ります。

その半円形の砦には、10m以上の土塀の上に、防御と攻撃の櫓が交互に設置されています。起動防御・・・
防御と攻撃一体の要塞です。

この砦に、敵を集中させ、一網打尽にしようとします。

おびき寄せて襲撃!!
集中砲火にあった徳川軍・・・合戦全体の8割に及んだと言われています。


幸村の名は、轟きました。

「赤備え」は・・・目立ちすぎる・・・
逃げても目立つ赤で、逃がさないための兵を作ったのではないか???と言われています。


戦国有数のブランド「真田一族」
発祥の地は、長野県上田市です。

その強さの秘密は???

1567年 幸村誕生。
真田昌幸の二男として生まれます。父は、戦で有名な、武田信玄の重臣でした。
情報戦を得意とし、信玄に「我が目」と言わせた情報通でした。

16歳の頃、武田家滅亡。

真田は、織田家の傘下に入るものの、信長暗殺・・・
真田の領地が危なくなりました。

1582年北条氏直と同盟を結びます。
そこに割って入ったのは、徳川家康。
昌幸は、勢力の強くなってきていた徳川につきます。
しかし、家康は、上杉に対抗するために北条と手を結びます。
その時、真田の領地・沼田を勝手に北条に譲ると言い出しました。

昌幸は激怒・・・。
表向きは、家康に恭順を示し、上田城の建設にかかります。

その上田城築城のプロセスとは・・・
築城は、家康に命令させて作らせています。
そして、次の年に寝返ると、対徳川の上杉型の最前線として上田城を城築させているのです。

大勢力を巧みに使って自分の城を築城させたのです。

上田城完成の1585年上杉と同盟。その証に人質として送られたのが、19歳の幸村でした。

裏切られた家康は激怒。
「稀代の大嘘つき」と罵り、「眞田を皆殺しにせよ」と、7000もの軍を仕向けます。迎え撃つ真田軍2000人。
これが、第1次上田合戦です。

昌幸は、陽動戦術で、敵を自軍に引き込み襲撃し、勝利します。
これが、後に真田丸で行われる戦術でした。

ゲリラ戦に長けた真田軍。それは、真田家が持ち続けた土地制度にあります。
秀吉の検地・兵農分離の政策に従わず、中世以来の土地制度を守り続けていました。
武士でありながら、農民。その農民の自衛心。実戦能力を高く買っていました。

「真田の七本槍と言わしめた勇者達は、当家の足軽、百姓なり」
兵農一体の総力戦こそが、真田の強さの秘密でした。

そして幸村は、20歳ごろ、豊臣家へ人質として送られます。
幸村を巧みな外交に使うこと、兵農一体のゲリラ戦、それが、真田ブランドの秘密でした。


父の背中を見て育った幸村・・・。
三大勢力の狭間の地でしぶとく生き残ります。
領地も拡大します。
真田一族を守るために・・・
情報収集をし、戦略戦術の天才だったのです。

そう、この状況下では、強くならなければ生きていけなかったのです。

また、政略結婚も一つの生き残り策です。
兄・信之は、本田忠勝の娘である小松姫を正室に・・・
弟・幸村の側室は、大谷吉継の娘竹姫。。。
つまり、豊臣と徳川とも縁を結んでいました。

そこに深い亀裂が生じます。
「関ヶ原の戦い」です。

天下分け目の合戦前夜、真田兄弟・犬伏の別れです。

1598年幸村が32歳の頃秀吉が亡くなります。
徳川家康が、天下の覇権を握るために・・・

1600年6月上杉征伐に号令をかけます。
7月21日、下野国犬伏に駐屯していた真田に手紙が・・・

「家康が太閤様の掟に背き、秀頼さまをないがしろにしている」

今こそ、家康を討つべき!!石田三成らが挙兵するという内容のものでした。

このまま、家康陣営に残るのか、三成陣営につくのか?

選択を間違えられない・・・

父の出した結論は・・・

「信之は徳川に忠義を尽くせ
 我らは豊臣秀頼様に味方する 
 父子 兄弟が
 敵味方になること
 決して恨みに思うまいぞ」

互いの忠義を尽くそうというものでした。

「豊臣家の御恩は
 浅からぬものがあります
 家の滅ぶべき時
 死すべき時が来たら
 潔く身を捨てることこそ
 武士の本意」

と、幸村が言ったとか・・・。

一族を残すことの大変さを知っている幸村・・・
真田家を滅亡させないために・・・
一族存続をの為の選択かも知れません。


上田城へ帰還した真田親子を待っていたのは、四面楚歌でした。
信濃周辺国は、全て徳川についたのです。
そして、真田が豊臣につくことも、いち早く家康の元へ送られました。

家康は、関ヶ原に向かう途中の秀忠を真田討伐に差し向けます。
秀忠軍は、徳川本隊3万8000。迎え撃つは2500の真田軍。

しかし、ここでも撃退!!
そして、足止めを食らった秀忠本隊は、関ヶ原の戦いに遅れてしまったのです。
家康の怒り、秀忠の恥・・・
秀忠の軍は、徳川の切り込み隊だったのです。
それが使えなくなってしまった・・・
このため、豊臣恩顧の大名・・・黒田長政などの力でようやく勝つことが出来たので・・・
関ヶ原の戦いの論功行賞、没収高の80%を豊臣系の外様大名に与えることになってしまいました。
明治維新にも影響出たかもしれません。。。

このトラウマは、一生残ったと言います。


幸村は勝ったものの、西軍は敗北。
高野山へ流刑となりました。
昌幸は、領地は取りあげられましたが、兄・信幸が継ぎ、真田領は9万5000石となり、一族存続が達成されました。

でも、どうして殺さなかったのでしょう・・・
殺せなかったのでしょうか???

戦国時代の価値観の中で、勇士は殺せなかったことと。
兄・信之の正妻が、本田の娘であったこと。
それが生き残れる道だということを昌幸は知っていたのです。
あらゆる情報を鑑みながら・・・


高野山へ流刑となった昌幸・幸村親子・・・
そんな苦難の中から伝説が生まれました。

高野山の麓にある、和歌山県九度山町・・・
1600年12月34歳の頃に九度山に流刑になります。

それから14年、、、ここで暮らします。
親族に送った手紙には・・・
「長年の山住まいでいろいろ不自由しております
 私なども大草臥れ者になり果てました」

1611年幸村45歳ごろ、父・昌幸65歳で死去。
生活はますます困窮します。

「去年より急に年をとり
 ことのほか病気になりました
 歯も抜け ひげなども 黒いところがあまりありません」

しかし、全く違う幸村の姿も伝えられています。

それは、紀の川で、馬に乗って演習し、体を鍛えたというものです。
頭が禿げて、歯も抜けたというのは、カモフラージュだったのかもしれません。
地元の漁師と鉄砲の訓練をします。

さらに・・・大砲を研究???

謎の14年です。

そこから様々な伝説が生まれました。
江戸時代は、家康を苦しめた事実から、反権力、反権威の象徴とされました。

幸村にはあまりエピソードがないので、作りやすかったのでしょう。
勝手に物語が膨らんでいきます。

そして・・・
この九度山時代の伝説から生まれたのが・・・。

「忍者・猿飛佐助」・・・真田十勇士の一人です。
真田十勇士は、幸村が九度山を抜け出して、諸国漫遊するお話。
来たるべき徳川との決戦の為に・・・

これが、家康をタヌキおやじに定着させたとも言えます。

十勇士は4つのグループからなります。

@ウルトラ忍者・・・猿飛佐助・霧隠才蔵
A強力軍団・・・・・三好伊三・三好清海・由利鎌之助
Bはぐれ者・・・・・筧十蔵・穴山小助
C側近・影武者・・・根津甚八・望月六郎・海野六郎

十勇士こそ、実際の真田軍団を示していると言います。
真田一族のゲリラ戦術に必要な忍者。調略やゲリラ戦に巧みな家臣を育てたのです。

上田市・角間渓谷には、猿飛佐助が技の習得に励んだ岩が残っています。
それは、夢のあるお話です。

1614年48歳ごろ・・・豊臣秀頼より招集されます。
参陣を促されます。
この14年の間に培った力と人脈を持って参戦します。

大坂夏の陣、決死の覚悟で臨んだこの戦いで、家康を恐怖に陥れます。
その戦いぶりは、「日本一の兵」「古今これなき大手柄」と言われました。

1614年12月大坂冬の陣和睦成立・・・。

幸村の真田丸が不利だったと気付いた家康は、手立てを考えます。
大坂城内にたびたび文を送り、幸村を寝返らそうとします。

「誠におしい武人だ 
 信濃一国を与えるから 味方にならぬかと 訪ねてまいれ」

幸村は返します。

「たとえ天下を添えて下されようとも 
 秀頼様へそむくような 不義は出来ません」

幸村調略に失敗した家康は、和睦条件として、大坂城の外堀を埋め立て、敵対意思のないことを表すようにと強引な作戦に出ました。

大坂城は丸裸。。。
徳川軍を相手に勝ち目はほとんどありません。

しかし、一縷の望みにかける幸村がそこにはいました。
その執念は・・・
幸村がいつも肌身離さず持っていた小銃・・・最新鋭の武器で、家康暗殺を狙っていました。
火縄銃は、発射までに30秒かかるのですが、8連発できました。

狙撃の危険を感じた家康は、鉄の板を用意したと言われています。

5月7日大坂夏の陣最後の決戦の日。。。
茶臼山に先鋒として構えた真田隊・・・
それを見た家康軍は・・・
「眞田が赤備え つつじの花咲きたるが如く 堂々の陣をはる」

豊臣方の作戦は、真田・毛利隊が家康軍を引き付けて、その隙に別動隊が奇襲攻撃をかける!!!
しかし、布陣が混乱・・・
幸村は、この混乱に乗じて、一気にかたをつけようとします。
幾重もの部隊が重なる家康軍に、無謀とも思える正面突破を繰り返します。

それは、一瞬の勝機に懸けた・・・家康のみを狙った作戦でした。

徳川方は、逃げ出します。

「家康様を守る者は、一人だけにて
 他は散り散りに逃げた・・・」

狙うは家康の首ただ一つ!!
家康の馬印を倒します!!

しかし、家康の援軍に押されて退却します。

ついに、徳川方の西尾という兵士に討たれたと言います。

真田幸村享年49歳。。。

一方、兄・信之は、93歳の天寿を全うします。
真田家は、幕末まで続きました。

晩年兄は・・・

「いわば左衛門左(幸村)は、”本当の侍”であり
 それに比べ我らは 作り髭をして肩を怒らせている
 ”道具持ち”というほどの差がある

 誠に物腰柔らかな男であり
 口数は少なく 日頃いきり立つこともなかった。」

と語ったのでした。


真田幸村の魅力。。。
それは自分を貫くところの痛快さがあるからだと思います。
上田市の山あいに、菩提寺があります。
そこには、祖父幸隆、父・昌幸が葬られています。
しかし、幸村公は、徳川の世にあって、故郷には葬られなかったようです。
墓もなく。。。その死さえも謎のままです。

本当に大人気ですね。黒ハート
カッコいいから仕方ないです。るんるん


「上田の城下町」はこちら

豊臣家のNo,2 真田幸村〜家康を震撼させた伝説の武将〜はこちら



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posted by ちゃーちゃん at 18:31| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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