2012年08月16日

鎌倉ミステリー・北条一族の陰謀〜史上最大のNo,2〜つづき。

昨日の続きです。黒ハート

北条一族最大の危機は・・・
北条VS朝廷の”承久の乱”です。

これは、3代将軍・実朝を巡る朝廷との微妙な関係が始まりでした。

実朝は、和歌などに明るく、朝廷と友好関係を結ぼうとしたのです。
この時、権勢をふるっていたのが、後鳥羽上皇でした。
武闘派で知られる上皇で、朝廷の権威を高めようと思っており、公武に君臨する絶対の存在として、武家を調教しようと考えていました。

後鳥羽上皇は、実朝を手なづけようとして、右大臣の地位を与えます。
しかし、その実朝が、1219年に暗殺されてしまいました。

実朝を暗殺したのは、2代将軍の息子・公暁。
その公暁も、何者かによって暗殺されてしまいます。
この事件で、源氏将軍家が断絶してしまいました。
幕府の大問題となってしまいます。

幕府と朝廷、どちらにも混乱を招いたこの事件・・・
将軍を失った幕府・北条義時は、朝廷に使者を送ります。

「後鳥羽上皇の子供(親王)を将軍に迎えたい」

しかし、後鳥羽上皇からは条件が・・・

守護・地頭の廃止。
この守護・地頭、はじめは平氏の残党処理のために、臨時に置かれていました。
しかし、領主の地位を脅かし、年貢にまで口出しするようになっていました。
その結果、朝廷に入る年貢が激減していたのです。

後鳥羽上皇は、朝廷領の地頭罷免の院宣を発します。

これを飲めば・・・どんどんエスカレートして、幕府存続の危機になるかもしれません。
・・・やんわりと拒否をします。
「頼朝公が、平氏騒乱の恩賞として任命された地頭には、何の罪もごさいません。
 解任せよとの命令に、従うことは私にはできません。」

絶対命令の院宣に刃向った義時。
後鳥羽上皇の怒りは、絶頂に!!

1221年5月15日、義時追討の院宣発令。
「義時は、思うままに政務を執り、権勢をふるい、まるで天皇の権威を忘れたかのようである。
 これはもはや、謀反というべき暴挙だ。」

後白河は、一枚岩ではない幕府の内部分裂を狙います。
     ⇓
承久の乱勃発!!!

この承久の乱、日本史上稀に見る事件です。
朝廷に弓を引くのは、後にも先にもこれだけなのです。

武闘派の後鳥羽上皇でなければ、承久の乱は起こっていなかったかもしれません。
文武両道の後鳥羽上皇は、幕府の解体を狙っていたのです。
だって、将軍が居なければ、幕府なんて存在そのものがないのだから・・・


こんな場合、普通なら幕府は滅びてしまいます。
もちろんNoと言った義時は、恐れ多いと思っていて・・・
でも、東国で生まれ育ったせいか、王権が解っておらず、西よりはありがたみが薄かったのも事実です。

この武士と朝廷との関係は、平清盛が政権を取ろうとしてから始まった物語です。

元々武士は、開拓農民でした。
なのに、所有権が認められない!!
なぜ、自分の土地なのに権利が認められないのか???

頼朝は、所領の安堵・土地の権利を認めていました。
ここに、一所懸命・本当の御家人の本質があるのです。
「原始状態はまっぴらだ!!」

しかし、朝廷・神社仏閣にしてみれば、「武士は朝廷の番犬だ!」「牛車がわり」文句を言うことに納得できなかったのです。

当時、鎌倉幕府は全国を制覇しているわけではなく、その支配地は1/5ほどでした。
守護・地頭を増やして武士の権益を広げたいと思っていました。

そして朝廷は取り上げたいと・・・。

義時は、たくさんの御家人の手前、Noと言わざるをえなかったのかもしれません。
背水の陣に見えた義時・・・

朝廷に反旗を翻し、日本史上始まって以来の内乱。。。
大逆転できたのには、政子の演説があったのかもしれません。

吾妻鏡には・・・

「みな、心を一つにして承るべし。
 これ最後の言葉なり。
 なき頼朝公が鎌倉を作りあげてこの方、与えられた冠位や俸禄など、
 頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い。
 しかし今、偽りの讒言により、朝廷は非義の綸旨を下された。
 名を惜しむものは、院の逆臣を討つべきである!」

と。。。言い放ちました。

本当は、朝廷は義時だけを追放したかったのですが、政子は「義時追討ではなく鎌倉追討」にすり替えたのでした。
朝廷に対し、頼朝の名を出すことで、御家人たちを奮い立たせました。

朝廷は、神話の時代から続く絶対的なもの・・・。
幕府は武士を守ろうとしている!!
”義時を守ることは、自分たちを守ること”と、変化していきました。

自分達が守るべきものは何か?自覚できた御家人たち。
義時、わずか18機で鎌倉を出発。
そこに東国武士団が次々に合流し・・・ついには19万の大軍となりました。
この19万は、マユツバものかもしれません。
でも、政子の起死回生の大演説が、御家人を一つにしたのは間違いありません。

また、朝廷の中にも反後鳥羽派がいました。
西園寺公経は、幕府派として活躍しています。

義時にとって、朝廷を相手に戦うという恐怖・・・
しかし、圧倒的な勢力に勝る幕府軍は、6月15日、京都に侵攻します。
わずか1か月で幕を閉じました。

戦いに敗れた後鳥羽上皇は、京をはるか離れ、壱岐に配流となりました。
北条は、戦いで犠牲になった人を弔うため鎮魂の寺院を建立します。

この承久の乱は、虐げられてきた武士が、朝廷に刃向った類を見ない戦いでした。
たとえ神聖な権威であっても立ち向かっていった北条一族が、後の戦国・江戸の武士の礎となったのです。

退くということは滅亡するということ・・・
究極の選択でしたが、この後、武士の時代が始まるのです。

この承久の乱の位置づけは・・・
日本の特殊な成り立ちを作った戦いとも言えます。

王権と地方の軍事政権が統治機関となること・・・。
流刑地(東国)のそばに都が出来る・・・
これは、世界に類を見ない状態です。

ここにきて初めて東と西が互角に戦う時代が始まったのです。


承久の乱で地位を確固たるものとした北条一族。
御成敗式目を制定します。
これは、御家人の土地所有権を規定し、紛争解決のルールを示したもので、日本初の武家の法典です。

第7条には・・・
「源氏3代将軍と、北条政子が与えた御家人の所領の権利を保障する」とあり、これは江戸時代まで受け継がれることになります。

しかし、そんな北条一族にも繁栄の歴史に終焉が・・・
きっかけは、2度の蒙古襲来。

日本の膳武力を以て戦わなければ!!!
第8代執権・北条時宗が、強固な中央集権をひきます。
武士・神社仏閣も一丸となって戦います。
日本国としての戦いでした。

蒙古を撃退!!


しかし、外国との戦いのために、恩賞となる土地を与えることが出来ません。
そして、北条一族の中央集権体制だけが残ってしまいました。

御家人たちの反感が募り・・・そのことが北条一族を滅亡へと向かわせます。

1333年5月22日、北条高時700人あまりの家臣とともに切腹。
後醍醐天皇の命を受けた新田義貞の軍が鎌倉に攻め込んだのです。

No,2だった北条一族・・・
No,1となり、策を考えなくなってしまった時・・・
実質的に権力を持ってしまった時に、孤立が始まりました。

No,2がNo,1になってはいけないのかもしれません。
そう、日本には、No,2は絶対必要です。

北条一族は政治家としても優秀な一族で、根回しや、根回しや、根回しや、謀・・・
困難極まりない時代の政治家でした。


それから700年。
鎌倉では、北条高時の命日には、法要が行われています。
北条氏の生き様は、鎌倉で受け継がれています。


NHK大河ドラマ 総集編 北条時宗
NHK大河ドラマ 総集編 北条時宗

北条時宗とその時代/工藤敬一
北条時宗とその時代/工藤敬一


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2012年08月15日

鎌倉ミステリー・北条一族の陰謀〜史上最大のNo,2〜

No,2となっていますが、「THEナンバー2」ではなく、BS歴史館です黒ハート

あまり知られていない、鎌倉幕府のお話です。

時は今から820年前、頼朝が武士による政権・鎌倉幕府を建てた時代。。。
将軍を補佐する執権という地位を代々受け継ぎ、鎌倉幕府を支えた一族・・・
それが、北条一族です。

初代将軍頼朝の妻、北条政子。
北条一族は、この政子を世に出したことで、鎌倉幕府のNo,2という地位を手にします。
この地位を守るために、血みどろの権力闘争に勝っていきます。

初代執権・時政。
陰謀を企て、ライバルたちを粛清し、ついには孫までも手にかける・・・
そこに隠された北条一族の血塗られた宿命とは何だったのでしょうか?

その巧みな陰謀と、政治力・・・No,2の不思議な魅力に迫ります。

北条一族・・・日本人の根回しの象徴。小よく大を制したのはこの一族です。
まさに無敵!!自分の政敵は、全て滅ぼしています。
そこには、陰謀能力の凄まじさが感じられます。

その反面、政治に関してはすこぶる評判が良く、公正かつ公平な政治を行いました。
この鎌倉時代・・・北条時代と言っても過言ではありません。

では、一族はどのようにして台頭してきたのでしょうか???

静岡県韮山、北条氏は在庁官人と呼ばれる地方役人でした。
当時武田や新田、足利などの大豪族が多かったこの地域、北条は弱小武士団でした。

この一族の繁栄の扉は、時政。一族が歴史に出てくるのは時政が頼朝とともに伊豆で兵を挙げたことに始まります。

1160年時政23歳、韮山の役人になっていました。
京から一人の男が流されてきます。
その男・・・源頼朝。。。
平治の乱で清盛に敗れ、伊豆に流されてきたのです。
東国武士達は、これを複雑な心境で迎えます。
清盛全盛時代、頼朝は潜在的には敵でした。
ましてやその男に嫁になど・・・
つまり、尊い存在だが邪魔=厄介な存在でした。

そんな頼朝の監視役が時政でした。

ところが頼朝に女性問題発覚。
罪人の身でありながら、伊豆の大豪族・伊藤祐親の娘と子供を作ってしまいます。
祐親は激怒!!2人を引き離し、子供を川に流してしまいました。
これは、清盛に知れたら一族に危険が及ぶ!!という気持ちからでした。

懲りない頼朝は、監視役の娘・・・政子にも・・・。
しかし、時政は激怒するもついには黙認するのでした。
時政は、小さな北条一族を守るため、たくさんの娘を京の公家・有力東国武士に嫁がせていました。

つまり、頼朝&政子もその一つだったのです。

そんな中、京で反平氏の機運が・・・
1180年朝廷から頼朝の元へ、平氏追討の令旨が来るのです。
それを知った時政は頼朝に囁きます。
「兵を挙げれば、日本国は頼朝殿の手中にあるも同然です。」
1180年8月、北条一族を味方につけ、頼朝挙兵。
そこに、圧政に不満を抱く東国武士が集結してきました。

5年に渡る源平合戦の末、平氏を滅ぼしました。
つまり、罪人・頼朝と政子の関係を認めたことが、一族の繁栄に繋がったのです。
頼朝により、初の武家政権が誕生。
北条氏は鎌倉幕府のNo,2として、繁栄を支えていくことになります。

でも、東国武士達はどうして頼朝に加勢したのでしょう???
東国武士達は、ずっと虐げられてきました。
頼朝が起爆剤となって、爆発したのでしょう。
元々関東は平家・・・
しかし、京都の貴族化した平氏への不満、恨み、辛みが、頼朝を神輿にして暴れてやろうという雰囲気になったのです。

そこには、清盛が、文化に力を入れて、弱体化しているという情報もありました。
もう平氏は長くないかも???

北条氏は、政子が頼朝の妻となったことで、将軍に最も近い一族となり、時政・政子は、更なる陰謀を謀っていきます。

きっかけは、1199年、頼朝が落馬事故により死去したこと・・・
これを機に、一気に混乱の中に突き進んでいきます。

頼朝の死去により、御家人たちは幕府内での抗争を始めます。
誰が誰をつぶすか分からない・・・
そんななか、第2代将軍は頼朝と政子の子・頼家。
時政の孫に当たります。
その後すぐに、1200年頼家後見・梶原景時が駿河の武士団によって殺害。
この殺害に、時政が関わっていた可能性が出てきました。

さらに有力武士団の殲滅を謀ります。
「比企能員の乱」この比企能員、2代将軍が寵愛していました。そして、頼家が能員の娘を妻として迎えたことが北条氏にとって最大の危機となったのです。

比企一族が、頼家の外戚になってしまう・・・。
外戚=次の実権を握る可能性が。。。

まだ、御家人の中で一番強い存在ではありませんでした。
北条一族は、何の基盤もなく、将軍家外戚から離れたら何もない一族、ただの豪族になってしまう・・・。


そこで、更なる陰謀が、
1203年4か月でもともと仲の悪かった頼家を将軍から外し、弟・実朝に執政権を移行させます。
その後、比企一族に謀反の疑いをかけ、一族もろとも敗死させました。

吾妻鏡には、頼家と能員が企てているのを政子がたまたま障子を隔てて立ち聞きした事から始まっています。
この吾妻鏡、北条氏の検閲が入っています。
北条氏は、政子を特別な存在に・・・霊媒師の様に仕立てあげようとしました。
つまり、「吾妻鏡」は「古事記」で、「政子」は「卑弥呼」なのです。

時政は、伊豆の修禅寺に幽閉していた孫の頼家の命をも奪い取ります。

そして、実朝を3代将軍に据え、時政は執権となります。
その後、和田・三浦など、次々に滅ぼしていきました。

そう、この時代はテロの時代。。。
北条氏が滅ぼしたライバルは・・・
1200年梶原景時族滅
1201年城氏  〃
1203年比企能員〃
1205年畠山重忠〃
1213年和田義盛〃

物凄く血なまぐさい時代でした。
東国武士は、親子・兄弟でも戦う獰猛な人たちです。

そして、そんな中で実力のなかった北条氏が主張を通すためには、外交・陰謀しかありませんでした。
地位を守るために敵を滅ぼす!!
大々的な戦いではなく、陰謀によって・・・



しかし、1215年1月、時政死去。
実権は、政子と第2代執権義時に・・・
この時、一族最大の危機が訪れるのです。


なんだか、時間が無くなってしまいました。あせあせ(飛び散る汗)
続きはまた明日exclamation&question

でも、これを見ると、「平清盛第3部」解りやすいかも揺れるハート


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2012年08月03日

シリーズ世直しの夢A 武器よさらば!〜戦国を終わらせた島原の乱〜

1627年、関ヶ原から37年、時代は三代将軍家光・・・
九州で、日本史上最大の一揆が起こりました。

島原の乱です。

キリシタン弾圧に耐えかねた島原・天草地方の農民が武装決起しました。
3万7千人の一揆勢は、廃絶した城に立てこもり、幕府軍12万と対決、3か月の籠城の末、女子供に至るまで、3万7千人全員が犠牲になりました。

その陰惨な結末から、キリシタンたちの悲劇の殉教とされてきました。
しかし、最近の発掘や、古文書からは、違う姿が浮かび上がってきました。

一揆の総大将、伝説の美少年天草四郎は、なぜリーダーに選ばれたのでしょうか?
この乱の本当の目的とは???

戦国から太平の世へ、衝撃の4か月間、島原の乱の真相に迫ります。

島原の乱とは、一体どのようなものだったのでしょう?
あまりにも資料が多すぎて・・・よく解らないようです。
そこに当時の人々の、関心の強さが伺えます。

権力者が歴史を塗り替える・・・それは、世界の、いつの時代でも行われてきたことです。
そこでは、虐げられたキリシタンたちの悲劇と書かれてきました。

その、島原の乱の経緯は???
そこには、一揆勢の、強さと計画性が伺えます。
1637年10月24日、一揆の企ては、島原半島と天草諸島の中間にある小さな湯島(談合島)から始まりました。

その談合でリーダーが決定します。
総大将は、「益田四郎時貞」・・・天草四郎と呼ばれた美少年となります。

翌25日、有馬村で密かに開かれたキリシタンの集会で、取り締まりに来た代官を殺害したことから島原の乱が始まります。

村々でキリシタンの農民が一斉に蜂起、島原城を攻め城下を焼き払います。
これに呼応して、天草でも農民が蜂起、富岡城を落城寸前に追い込みます。

11月9日、一揆の知らせが江戸に届きます。
幕府は、軍司令官板倉重昌を任命し、幕府軍総勢4万人を向かわせました。

一揆勢は、それぞれ自分たちの村に戻ります。
それは、戦闘準備のためでした。
12月1日廃城となっていた原城に、3万7千人が集結、籠城に入る決意をします。

12月10日、幕府軍、正面から攻撃開始。
しかし、一揆軍は、ことごとくこれを叩きます。
幕府軍として参加した剣豪・宮本武蔵は・・・
一揆勢の投げた石で負傷し、命からがら逃げたと手紙に記しています。

焦った幕府は、1638年1月1日、総攻撃をかけます。
しかし、一揆勢は、これも撃退!!
この日の一揆勢の死者はわずか7人、それに比べて幕府側の死傷者4000人。。。
板倉も討ち死にします。

悲劇とはあまりにもかけ離れた圧倒的な強さがそこにはありました。


これまでは、20年前に廃城となった原城に追い詰められて・・・と、思われていました。
しかし、原城は、瓦葺の立派な建物で、高さ5メートルの石垣に囲まれ、海と沼に囲まれた天然の要害でした。

更なる強さの秘密は・・・
城の中の住居跡。
寒かったであろうに、暖を取ったり食事を煮炊きした痕跡がありません。
組織的な、規律正しい、統制された軍隊だったことが伺えます。

どうして統制されていたのでしょうか???
それは、農民たちに交じって、武士がいたからです。
かつて島原・天草を治めていたキリシタン大名・有馬晴信・小西行長たちです。

有馬直純は、松倉氏が藩主になる前、島原を納めていました。その家臣がたくさん残っていました。

当時、九州にいた福岡藩主・黒田氏、熊本藩主・細川氏、佐賀藩主鍋島氏、柳川藩主・立花氏は、関ケ原で西軍に参加した大大名でした。
関ケ原以後、幕府の処分で牢人となったものたち・・・この牢人こそ、強さの秘密でした。
残党たちは、技術・軍事力で農民を指導したのです。

牢人と農民が一体となり・・・普通の一揆とは違う、戦術的に優れた一揆だったのです。

幕府軍の想像を超える強さだったのです。

1588年、刀狩があったにもかかわらず、武器を持っていた農民たち・・・
丸腰ではなかったの???
最近の研究では、動物から作物を守るために、刀や鉄砲は、農具として残されていたと言われています。

そして、原城には、追い込まれたわけではなく、幕府軍から避難するためのもので、どうしようもなく殉教のための籠城ではなかったということでした。
原城は廃城というほど廃れていたわけではなく、要塞だったのです。
そして、この地域は、キリシタンが多く、身分の差がなく、運命共同体だったのです。

1月4日、新しくやってきた司令官は、老中・松平伊豆守信綱”知恵伊豆”でした。
”知恵伊豆”のもと、幕府軍総勢12万人が原城を包囲します。

しかし、無理に攻めずに、兵糧攻めにします。食料・弾薬が尽きるのを待つ作戦です。

信綱は、矢文を放ちます。
「この度のことは、幕府か領主に恨みがあってのことか?」
返された矢文には・・・
「幕府や領主に恨みはありません。
 私たちが願っているのはキリシタン信仰を
 認めていただくことだけです」

一揆の目的は、キリシタン信仰でした。

1613年にキリスト教は禁止されていました。
その結果、キリシタンたちは宗教を捨てること、棄教を強制されていたのです。
一揆の理由は、キリシタン弾圧⇒これが理由・・・

しかし、これと異なる矢文が香川県小豆島で発見されました。
そこには・・・
「今の領主が島原を治めるようになって以来、
 むごい仕打ちを受けてきました。
 全ての米を召し上げるばかりでなく、
 払えないと咎人のように縄をかけられ
 目・鼻・口から血が噴き出るほどの
 拷問を加えられます。」

この矢文によると、一揆の理由は過酷な年貢の取り立てだというのです。


原城内には、一枚岩ではなく、いろいろな考え方の人がいたということです。

乱を遡ること3年、大飢饉が続いていました。
それにもかかわらず、島原藩は、農民に重税をかけてていました。
領主の苛政に耐えかねて参加した農民もたくさんいたのです。

幕府軍総司令官松平信綱は、それを見抜いていて切り崩しにかかります。

「無理に勧められてキリシタンになったものは
 投降すれば助けよう。
 降伏して村に帰り、仕事に精を出すなら
 今年の年貢を一切免除する」

これに対して・・・

「キリシタンでないものを無理やり仲間に引き込んだことはありません。
 我々はみな、神に身命を捧げる覚悟です。」

信綱は、何度も内部分裂を画策するも、籠城戦は激しい心理戦となります。


この残された矢文については、キリシタン問題と領主の苛政・・・本物かどうかはわかりません。
幕府の体裁上、苛政の矢文は公表されなかった可能性があるのです。


では、そもそもなぜ幕府はキリシタンを禁止したのでしょうか?
世界の覇権争いのキリスト教団からの精鋭部隊・・・。
宣教師はスパイのようなものでした。
キリスト教を以て国を支配しようとしていました。

そこで、
1613年禁教令が出されます。

外国にとっては、島原が玄関となったのです。
この禁教令の最、宣教師パードレが追放されますが。。。預言書を残していました。

「25年後に天才的な少年が現れる」と。

リーダーの天草四郎は、15,6歳と言われています。
彼がリーダーとなったのには、この預言書が大きく関わっているのです。

「今から25年後に”天の使い”が現れる
 人々は首にクルスをかけるようになり、
 神はキリシタンをお救いになる」

四郎による「奇跡の噂」も後押しします。

この噂は、牢人たちが四郎をリーダーにでっち上げるための策か家もしれません。
小西牢人と、有馬牢人によって担ぎ上げられた可能性もあります。
四郎の父、益田甚兵衛は小西行長に仕えていました。
しかし・・・実際に見たという人も???


この地は、ポルトガルとの南蛮貿易を行っており、繁栄を極めていました。
キリシタン大名たちは、貿易による利潤を得ていました。
家臣団も裕福でした。
裕福だったキリシタン大名・・・その時代を取り戻したい牢人たち・・・
それを奪っていったのは幕府・・・。

夢をもう一度&今の幕府に対する不満、キリシタン信仰と領主の苛政に対する反発・・・
それらを統合するシンボルが天草四郎だったのです。


では、どのようにして戦ったのでしょうか?
籠城するも。。。終焉の地ではなく、次の展開を考えていたようです。

それは・・・ポルトガルの援軍でした。カトリックの国を期待していたのです。

しかし、幕府は、乗っ取られることを怖れ、貿易のみに興味のあるプロテスタント=オランダとの関係を深めていました。だから、鎖国令が出た後も、オランダだけは貿易OKだったのです。


これを、信綱に見抜かれます。

「キリシタンどもは、南蛮より見方が来るなどと言っているらしい
 異国人に攻撃させれば彼らに衝撃を与えることが出来る!!」

1638年1月12日、オランダ船が、原城を砲撃。
心理戦に追い詰められます。
半月で400発以上の砲弾が撃ち込まれました。

原城内では、「四郎法度」が出されます。

「祈祷や断食などの善行だけでなく、
 武器を以て戦いに精を出すことも
 ご褒美となるのです。」

団結心は蘇えります。

棄教をさせられたキリシタン農民たち・・・
飢饉が続き、棄教を後悔していました。
それをいやしてくれるのが、天草四郎。
人々の不満や異議申し立てを集約するカリスマでした。


この乱をどう終わらせるのか???
信綱の作戦は???

それを担ったのは、かつての領主・有馬直純でした。

1638年2月1日とりなしたいと、矢文を放ちます。

2日後、一揆の代表であり副将・山田右衛門作と会見します。
家族を捕えられ、一揆への参加を余儀なくされていた右衛門作は、幕府に寝返ります。

密かに天草四郎を捕えて差し出す計画を立てました。

2月22日、幕府は23日に原城を総攻撃にする予定でしたが・・・
内通の矢文が露見し、右衛門作は捕えられ、実現しませんでした。

この計画が成功していたら、2月23日で乱は終わっていたのです。


キリシタン弾圧にしたかった信綱。。。
最後の決断をします。
一揆勢の殲滅・・・。

2月27日、12万の幕府軍が総攻撃をかけます。
一揆軍にもはや抵抗する力なし・・・
2月28日原城陥落。
女性や子供に至るまで、3万7千人の死を以て終わりました。


そして四郎は・・・
本丸で、一揆勢の象徴として短い生涯を遂げました。


そう、信綱は、全てキリシタンの一揆として終わらせたかったのです。
「咎無きものを討ち果たすことは
 天下のお仕置きにも相違する」

非キリシタンを殺すことを怖れていました。
一揆勢の棄教を求めていたのです。
3万7千人の労働力も、勿体ない・・・
鎮圧に参加した幕府の死傷者1万2千人。
さらに年貢を免除して人々をこの地に集め、50年かけてこの地を復興します。
それは幕府にとっても膨大な負担でした。

皆殺ししたのでは、キリシタンのせいだけにはできなくなる・・・


しかし、殲滅後は、その恐ろしさからか、霊が蘇えらないように殺しています。
例えば、頭と胴は違うところに埋めるとか・・・


そこには、このままでは下剋上の復活になってしまうという危機感がありました。

乱の責任者の処分は???
1638年7月19日、島原藩主松倉勝家斬首。
一揆を招いた罪で裁かれました。
江戸時代、武士が切腹ではなく、斬首されたのは、これ一度きりです。


島原の乱は、幕藩体制に大きな影響を与え、藩主たちは仁政に努めはじめました。

この乱は、武断政治から文治政治への大きな転換点だったと言えるでしょう。
民衆の生活を考えた政治をしなければ、安定しないということを植え付けたのです。
武力が過去のものになります。
徳川260年の平和が保たれるようになります。。。

民を重んじる政治へ。。。
一揆という形の民衆運動もなくなり、直訴という形へと変化していくのです。
戦闘的な民衆運動の最後となりました。

1805年、5000人以上の隠れキリシタンが発見されました。
それは、その村の半分以上でした。

隠れキリシタンがいたものの。。。
江戸時代、それ以上の罪を問うこともなく、幕府も穏便策を取ったようです。
島原の乱を警戒し、あんな悲劇を二度と繰り返さないように・・・。

天草四郎時貞
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