2012年10月04日

戦国武将・決断の時(1)関ヶ原の合戦「家康・最後に勝つ男の条件」

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

したたかなタヌキおやじのイメージの徳川家康。

その最大の勝利と言われるのが、1600年9月15日の関ヶ原の合戦・・・。
東軍7万と西軍8万が激突しました。
日本史上最大の決戦のひとつです。
西軍は豊臣秀頼・石田光成が・・・東軍は徳川家康でした。

家康はこの戦いに勝利し、徳川が豊臣に勝ったように思われています。
しかし・・・

東軍の最前線で戦ったのは、西軍だった福島正則・黒田長政・細川忠興・藤堂高虎・・・かつて秀吉に仕えていた武将でした。

つまり・・・豊臣VS豊臣の戦いだったのです。

家康は、味方の寝返りにおびえながら・・・
おまけに頼みの綱の主力部隊が戦に間に合わず・・・
最悪の事態のなか・・・決戦当日。。。

家康軍は、西軍に包囲されてしまいます。
家康59歳・・・どのようにして危機を乗り越えたのでしょうか?
そこには日本人のリーダーシップのあり方がありました。


関ヶ原の合戦は、単純なものではありません。
矛盾は、東軍の主力が徳川ではなく、豊臣の武将というところにありました。
つまり、“東軍の勝利”=“徳川の勝利”ということではないのです。
そこが、関ヶ原の深みであり、面白さなのです。


家康型の人間・・・日本人は家康のように生きていたかもしれません。
そう、日本人を作った人かもしれません。


本来、世界的にみるとリーダーにはなれないタイプですが、日本人の枠でみると最もリーダーにふさわしい人物なのです。


天下分け目の関ヶ原・・・その時家康は、想定外の出来事に見舞われていました。
東軍の主力部隊は豊臣家古参の武将でした。

1598年8月18日・・・
豊臣秀吉が亡くなりました。この時秀頼は6歳。
政治を治めるのは、
五大老・・・家康を筆頭に、前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元
五奉行・・・石田光成・前田玄以・浅野長政・増田長政・長束正家
でした。


その中で、家康が台頭してきます。
1600年7月11日、石田光成が大阪で挙兵しました。
この時、家康は会津・上杉景勝を討つために、大坂から遠征の途上にありました。

光成の挙兵は、家康の不在をついたものでした。
光成は、大義名分を得るために、五奉行の前田・増田・長束と家康の弾劾状を起草しました。

「家康の行いは太閣秀吉様に背き、秀頼様を見捨てるがごときである」

中国地方の毛利輝元は1万を超える兵を率いて、大阪城に入場。
すると、西国の諸大名が動き出し・・・西軍の勢力は10万に迫りました。
打倒家康のため、秀頼を担ぎます。
光秀は公儀、家康は謀反人・・・
家康は逆賊と化しました。

西軍がここまで大きくなるとは、家康の予想外のことでした。

さらに不都合なことが・・・
家康が共に会津に向かった5万の兵は、豊臣家に忠誠を誓っている者たちでした。
秀吉子飼いの福島正則、父の代から仕えた黒田長政・池田輝政・細川忠興・・・
大阪城が反家康に染まり、おまけに周りは豊臣系の武将ばかり・・・


家康は・・・
豊臣系武将を味方につけることにしました。
西軍の力をそぎ、東軍の味方とする・・・
武断派の福島正則・黒田長政は、政治手腕のみで出世した光成を快く思っていませんでした。
そこを突いたのです。


家康の戦略は???
大量の手紙作戦。
江戸城で1か月間せっせと手紙を書きました。その数、122通。その半数が、豊臣系の武将に宛てたものでした。

細川忠興には・・・
味方に付けば丹後と但馬の国を進呈する。
具体的な報酬を示します。

武断派の福島正則には最多の10通。
機嫌を損なわないよう細心の注意を払っています。
家康は戦争前のネゴシェーションが上手かったのです。
それは、今の政治にもつながっています。


前政権の中枢的な人脈をどのようにしてうまく引き継ぐのか???
それが家康の戦略でした。
信長・秀吉ではだめで、豊臣系の武将を入れることで他の国の形、国づくりを模索していました。
光成につくか、家康につくか・・・おれは、国家の有り様をめぐる体制選択だったのです。


さらに重大な決断をします。
1600年8月1日西軍が伏見城を攻略。
さらに、岐阜の大垣城を目指します。
東軍は、豊臣系の武将たちを中心に東海道を西に進み清州城に集結。

しかし、家康は、いっこうに江戸を動きません。
腹を立てた福島正則・・・家康不在のまま戦果を挙げようとします。

8月21日東軍は清州城を出て岐阜へ・・・
難攻不落の岐阜城をわずか半日で落とします。
勢いに乗る東軍は、美濃赤坂に進軍!!


9月1日遂に家康は3万の兵とともに江戸を出陣、11日には清州へ・・・。
しかし、予想外に・・・徳川主力部隊はまだ来ていません。

息子・秀忠の軍、中山道の3万5000です。
徳川譜代がここに投入されていました。

秀忠軍は、信州上田の真田昌幸に苦戦し、遅れていたのです。
結果、主力部隊の到着しないまま・・・
家康は決断します。
9月14日美濃赤坂。家康は、福島と合流し・・・徳川の主力部隊を待たぬまま・・・
合戦が始まりました。

家康が最も恐れたのは、西軍が”秀頼”を出してくることでした。
家康は大阪城から遠いところで決着をつけたかったのです。
西軍が秀頼を出す前に決着をつける!!
それが、家康の戦法でした。

少なくとも2年はかかると思われた戦い・・・。
家康は、勝ことよりも負けないことを考えていた人でした。

9月15日関ヶ原、東軍7万、西軍8万、両軍合わせて15万・・・。
この地で睨みあいます。
家康の勝利の決断は???

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西軍優位の鶴翼の陣で東軍は包囲されてしまいます。
東軍の前線部分は、豊臣系武将で固められています。

午前8時ごろ・・・戦いの火ぶたが切って落とされました。
家康は、光成隊への集中攻撃を!!笹尾山へと向かいます。
実戦経験のない光成ですが、善戦します。
その秘密兵器が大砲でした。
城攻めに使われる大砲を関ヶ原に引っ張り出していたのです。


戦いのポイントは松尾山。
戦いを一望できる場所です。
巨大な山城で、堅固な要塞でしたが、ここに1万5000の兵を置いていたのが、小早川秀秋19歳。
戦いの途中で西軍から東軍に寝返る約束を家康としていました。

それが家康の作戦でした。

が・・・
秀秋が目の当たりにしたのは善戦する西軍・・・。
秀秋、裏切りの出撃の時期を逸してしまいます。
そこへ・・・家康は、味方に付くはずの秀秋の部隊に発砲しました。

この威嚇射撃に動転し、寝返り、西軍に一斉になだれ込みました。
関ヶ原の戦いを決めた、一瞬でした。
と、これはよく知られていますが・・・


家康背後の南宮山にいた毛利軍、家康と内通し、合戦には参加しないことになっていました。しかし、戦況によって背後を突かれた場合・・・家康軍は危機に陥ります。
家康は、南宮山の毛利軍にも威嚇射撃をしたという資料が残っています。
この決断と行動力で東軍は勝利、戦闘開始から7時間後、関ヶ原の合戦は幕を閉じました。

関ヶ原の合戦で勝利を治めた家康、新しい国づくりは、戦後処理から始まりました。
豊臣系武将達への領地配分です。
その結果は、後の幕藩体制に・・・

西軍武将から没収した領地は632万石。
家康は、そのうち80%となる520万石を豊臣系武将たちに与えています。
家康と徳川武将の領地はわずか日本全土の1/3でした。


家康は、関ヶ原の合戦後も西側の自治を認めました。東西の住み分けが国家のイメージだったようです。

その中でも、秀頼の権威は落ちることはなく。。。
合戦後は、徳川単独体制になったということもなく二重体制だったのです。
合戦後も揺らぐことのなかった秀頼の権威・・・家康は秀頼を危険だと思うようになります。
15年後の1615年大坂夏の陣、家康は、大阪城の秀頼を自害させ滅亡させます。
こののち、家康の国づくりが始まりました。
江戸に近いところには、幕府直轄領と徳川親藩・譜代大名領、豊臣系を外様に・・・

そして、江戸幕府は、地方分権的な統治システムを作り上げました。

それぞれの地域に、経済力・政治的な力をキープしていくような体制を!!
これが、これから260年続く幕藩体制の礎となったのです。


家康は、公のために政治がある・・・

「天下は天下の天下にして
     一人の天下にあらず」

徳川家の私利私欲のためにやってはならない!!
家康の”天下公共のための政治”を行う心。
家康的なリーダーシップは、日本に一番向いているのかもしれません。


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2012年09月21日

スーパーティーチャー・吉田松陰〜松下村塾は幕末の白熱教室だった!?

萩市にある松陰神社の境内には松陰の私塾・松下村塾があります。
わずか3畳半から始まった学校・・・

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ここから、幕末の長州藩の攘夷運動を行った久坂玄瑞・高杉晋作をはじめ、初代内閣総理大臣・伊藤博文、日本陸軍を創設した山県有朋、変革の時代のリーダーがたくさん輩出されました。

20100412_1191181[1].jpg

しかし、当時松陰は、国禁を犯した罪人でした。
アメリカの黒船に密航して、謹慎を余儀なくされました。
なので、松下村塾はひっそりと開講、指導期間はわずか2年でした。

00111_l[1].jpg


ここで、どのようにして優秀な人材を出したのでしょうか???

それは、討論型の画期的な授業でした。
そして・・・それは危険思想へと発展していきました。
幕末・維新・・・混迷の時代の授業とはどんなものだったのでしょうか???


幕末期の人は、近藤勇に代表されるように解りやすいというのが特徴ですが、松陰はなかなか分かりにくい人、変人だそうです。

2年のうち、藩から許可が出ていたのはわずか5か月・・・
そんな危険思想の学校だったのですが。。。
子どもと一緒に考えたり、悩んだり・・・ディスカッションをする白熱した教室でした。

そして、20名ぐらいが戊辰戦争までに亡くなっています。
そして、この教室から出たのは総理大臣2人、大臣4人、県知事4人・・・
全体の30%の人が出世したようです。
塾生を通して日本を教育した人でした。


長州藩は、36万石の城下町で・・・
1855年12月、松陰が26歳の時に謹慎処分となりました。
わずか3畳半に蟄居することになります。
この小屋から松下村塾は始まりました。

松陰は、教育の目的を・・・

奇傑の人物は必ずここから輩出する。
西端の僻地にある長州が天下を奮発振動させる根拠地となるだろう。
学ぶとは人たる所以を学ぶことなり。

としていました。

松下村塾の一角から日本国を変えていこう!!=グローカリズムを唱えていたのです。
ここから塾の基本方針が出来てきます。

@学ぶ動機と志を明確にせよ
「何のために学ぶのか?」
それを示せば、身分に関係なく誰でもウェルカムでした。

A個性重視のマンツーマン教育
カリキュラム、時間割、教科書はありませんでした。
松陰はほぼ24時間体制で教えてくれていたそうです。

先生と生徒の垣根のない関係・・・
上下関係のない先生でした。

そして、そこには人は“善”である。。。
長所だけを伸ばして付き合うという先生でした。

評判は広がって・・・
塾生はどんどん増えていきました。


そこで「天下を相手にせよ!!」
天下を意識した教育をしました。

松陰は、僕と君を使いました。
僕とは“下僕”なんかに使われていましたが・・・
横の関係に使いました。
今までは士農工商の上下関係でした。その人間関係の意識を変えた人です。



1830年8月に、下級武士の二男として松陰は生まれました。
幼いころから父のスパルタ教育で・・・
19歳で藩校・明倫館の兵学師範となりました。

しかし・・・一番人気のない先生でした。
おまけに兵学は時代遅れ・・・
日本近海にも、列強がやってきて日本全体が危機感に覆われていました。


しかし、当時国政は譜代藩中心に行われていて、外様藩(長州)は参加をすることが出来ませんでした。どんな優秀な人があっても、それは当たり前でした。
長州は三方を海に囲まれていました。
危機意識が高かったと言えます。


1850年8月松陰21歳の時に・・・時代の波に乗るために遊学の旅に出ました。
長崎で最新の海外情勢に触れ、江戸では最先端の知識人たちと交流、次の年には長州藩を脱藩して日本中の海岸防備を見る為回りました。

1853年ペリーが来航します。日本に開国を迫りました。
それに憤りを感じた松陰は、攘夷を訴えます。

「新興国のアメリカに、歴史の有する我が国が膝を屈するとは
 涙が出るほど耐え難い恥辱である」

と、宮部鼎蔵あての手紙にも書いています。

しかし、圧倒的な軍事力の差を感じた松陰は・・・
1854年3月、25歳の時に密航を企てます。

本来の松陰は攘夷論者です・・・!?
国外密航は矛盾していますが、攘夷・・・それはどう考えても出来ない・・・
そこで!!


“国を救いたい”と、“学びたい”


アメリカにわたって勉強したい!!と訴えましたが、アメリカ側は日本との交渉に支障の出ることを恐れ拒否・・・

とらえられた松陰は江戸へ向かう途中にこう詠みました。

「かくすれば
  かくなるものと知りながら
   やむにやまれぬ大和魂」


10月萩に戻されます。
国禁を犯した罪で、野山獄へ投獄されます。

ここで・・・教育者・松陰が誕生します。
この野山獄に投獄されていた11人は、身分の高い者たち(士族)で。。。
そこで松陰は、得意分野を囚人同士で教えあいました。
学びあう関係性を学びました。
句会、討論会などもあったようです。

松陰が選んだのは「孟子」。
監獄の役人さえも引き込まれ、弟子入りしました。
松陰も、他の囚人から書やいろいろなことを学んだのです。

「人間にはそれぞれ能力の違いはあっても、
 一つや二つは長所を持っているものである
 全力を傾けてその長所を伸ばせば
 必ず立派な人間になることが出来る」


松下村塾の原型は、ここにありました。

塾生たちと農業に励みながら学校で語り合います。
1857年、8畳の教室が完成します。
翌年には、さらに10畳のスペースが増築され・・・現在の松下村塾の姿となりました。

塾生が増え・・・
教育方法も変わってきました。
松陰の授業スタイルは・・・

ゼミのようにコの字型に机を並べ、対面式に座るのは、画期的なことでした。

何をなすべきか、どういう生き方をするべきか!!??
自由な空気の中で意見を出し合う!!

命を懸けて質問し、それに命を懸けて答えていました。

気が付くと、寝食を忘れて明け方まで語り合ったと言います。

1858年松下村塾は、藩の許可をようやく得ることが出来ました。
そして、塾生たちも藩に抜擢されていくようになりました。

そんな中、久坂・高杉ら多くは京都や江戸に遊学するために退学していきます。
そして、遊学先で学んだことは、松下村塾に書物で伝えられ、「飛耳長目帳」に記載されました。
これによって松陰は萩にいて、日本中のこと世界中のことを知ることが出来ました。
ちなみにこの飛耳長目は、長州藩の諜報活動を行うスパイの別称で、藩が江戸に派遣した人たちもいました。


1858年6月、ハリスとの間に日米修好通商条約締結。
しかし、尊王攘夷派の怒りが爆発!!

これに対し、大老・井伊直弼は攘夷派の弾圧を始めました。
安政の大獄です。

松陰は、幕府を批判!!過激に倒幕をも考えるようになりました。

「征夷は天下の賊なり
 今措きて討たざれば
 天下万世其れ吾れを
 何とか謂はん」

松陰は、安政の大獄に関わった幕閣の暗殺計画を練るようになります。
間部詮勝暗殺計画・伏見獄舎破壊策・皇城守護策・水野土佐守要撃策・・・

しかも、藩にそれを進言し、武器の用立てを願い出ます。
しかし藩は松陰を危険分子とみなし・・・
1858年11月松下村塾閉鎖。
12月には再び野山獄に収監しました。

それでも松陰は、過激な計画を弟子たちに指示していきます。
高杉や久坂は、踏みとどまってくれるように血判状を送り続けます。

「しかし今はまだ時期尚早
 しばらく行いを慎むようにお願いします。」

弟子たちの悲痛な思いは届かず・・・

「幕府の不正な役人を懲らしめ
 ご政道をただすことが出来ないとは
 この藩には多くの家臣がいて 
 忠臣は私だけなのか
 そうではなかろう
 私が先駆けて死んで見せたら
 共感して立つものも必ずいるはずだ
 江戸にいる久坂や高杉たちは
 違う考えのようだ

 僕は本当の忠義をするつもり
 彼らはその意味を理解せず
 手柄を立て認められたいだけなのだ」

萩の弟子たちもいつの間にか離れていき。。。
孤立を深めた松陰は、自らの死を意識し始めます。


1859年5月松陰30歳の時に萩から江戸へ搬送されます。老中暗殺計画の取り調べを受ける為です。

覚悟を決めていたという松陰。。。

「帰らじと
   思ひさだめし旅なれば
      ひとしほぬるる涙松かな」


江戸で取り調べを受けた松陰・・・
弟子たちとのやり取りの中で・・・
高杉は、「男子はいかに死すべきか」と問います。
松陰は、
「死んで名声が永久に滅びないならいつ死んでもいいが
 生きて大きなことを成す見込みがあれば
 いつまでも生きるべきである」
と、答えています。

そして・・・
1859年10月27日吉田松陰斬首。

辞世の句は・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に朽ぬとも  
     留め置きまし 大和魂」

死んでもなお、日本を思う魂は永久に残したいというメッセージでした。
死後、伝記を作ることが始められますが、容易にはその魅力は伝えられませんでした。

松陰の死後20年、伝記を書きあげたのは外国人でした。
“ロバート・L・スティーブンソン”です。
彼は、弟子たちから聞いた松陰に感動し、こう書いています。

「ヨシダ・トラジロウ」

吉田は醜く、おかしな程痘瘡の跡が残っていた
衣服はボロボロであったし、見苦しいことがしばしばあった

学問に対する情熱はすこぶる激しかったので、
自然の眠りすら惜しんだほどであった

一風変わった教師に対して
生徒は英雄らしさを認めようとしないものである

しかし歳月がたち 吉田の薫陶の意味を
ますます深く理解し始めると
門弟たちはこの滑稽な教師を人類の中で
最も高潔な人物として追憶するようになった

と。。。


童心は真心なり・・・
真心を尽くして相手に迫れば必ず伝わる。
とことん種を植え、弟子に花を咲かせ実を結ばせた教師でした。

城下町へ行こう!「萩の城下町」はこちら

桂小五郎〜吉田松陰の遺志を継いだ維新三傑〜はこちら

長州藩討幕の立役者〜高杉晋作〜はこちら

松下村塾の明治維新 近代日本を支えた人びと
松下村塾の明治維新 近代日本を支えた人びと

松下村塾の人びと―近世私塾の人間形成
松下村塾の人びと―近世私塾の人間形成

吉田松陰と松下村塾
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2012年09月03日

「ここまでわかった!?忍者の真実〜乱世の影に忍びあり〜」

「音もなく
匂いもなく
知名なく
勇名もなし
その功、天地造化の如し。」


姿も見せず、名も残さず、しかし、天地を造るかのように偉業を成し遂げる・・・。
その者達を、忍者と呼びました。

服部半蔵 影の軍団 BOX (初回限定生産)
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映画や漫画に数多く存在し、孤高の強さを誇る忍者・・・
その忍者の履歴書が発見されました。

歴史の影に忍びあり!!

戦国から江戸にかけての300年余り、歴史の表舞台には決して現れず、常に裏の任務を遂行してきました。その実像とは???


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もっぱら超人的なイメージのある忍者。
しかし、その忍者のイメージを覆す意外な忍術がありました。
“情報戦術”です。

屋敷へ進入せよ!!
その時は、“女の艶状”(ラブレター)もしくは“起請文”を持っていくこと。
見つかっても怪しまれない秘策です。


密書を配達せよ!!
魚屋に変身?!
人に紛れて日中移動します。
その際、密書は懐ではなく、魚のはらわたの代わりに中に。。。


情報を収集せよ!!
呑気に将棋、囲碁、和歌や俳句を勉強し、その土地々々に知り合いを作り、有力者に接近します。つまり、芸事を身に着け情報収集するのです。


芸人に弟子入りするのも一つの策。
各地を転々とし、能楽師となり場内に潜入することもありました。

そして、三大秘伝書の一つ「正忍記」には・・・
もっとも重要な極秘伝として・・・
「人不破習」がありました。
相手を論破したり、打ち負かしたりすると、それで関係は終わりになってしまう。
相手を時には持ち上げ、時には抑え、うまく利用するのが一番である。
としています。


相手と仲良くなる、関係を築くこと、人と人との関係をどう作り上げていくか?それは、現代にも通じるものがあります。

煙に巻かれてドロンは、ないのです。


表舞台に出ない忍びの役割とは???
しかし、痕跡を残さないのが最高の仕事とされています。
スパイであると同時に、超人的な能力も持っていました。
その一つが、城を乗り越える力。。。
城に乗り込んで謀略をする・・・
それは、人並みではできません。


伊賀出身で岡山藩に仕えた忍者の家の履歴書・萩野家「奉公書」には。。。
生きた忍者の姿が書かれていました。

その中に、リアルな忍びの姿がありました。

書き出したのは、萩野市右衛門。
戦国の世に伊賀で生まれた自分の祖先、守田三之丞の活躍に始まります。

一介の忍者だった三之丞は、信長の大軍と一戦を交えていました。
頭分で走り回り、信長の人数を多く討ち取った。とあります。
信長と互角?!
これが、伊賀者の名を世に知らしめる二度にわたる天正伊賀の乱です。

三之丞の故郷、伊賀には豪族たちが群雄割拠していました。そして、そこには特定の主を持たない戦闘集団があったのです。

その中で力を持った地侍が、忍びの始まりといわれています。
その忍びたちに大きく立ちはだかったのが、織田信長でした。
近畿地方のほとんどを手にしていた信長・・・
独立した伊賀は、目障りな存在でした。

まず、1579年、第一次伊賀の乱。信雄が1万の兵で平定に向かいます。
対する伊賀勢は、ゲリラ戦法で不意打ちを行います。
侍の常識が一切通じない、摩訶不思議な戦法に、信雄は、3000の兵を失い、撤退を余儀なくされました。

怒り狂った信長は、
「伊賀は化け物の国
 かの地に行ける者
 たとえ女・子どもと言えども
 いや狐・狸とて許すべからず・・・」と。

徹底的な合理主義者には、得体のしれないものと思っていたのでしょう。
2年後の1581年第二次伊賀の乱、信長が率いる4万5千の大軍が攻め入りました。

その時、部下を従え守田三之丞が迎え撃ちます。
その活躍は・・・

「西村の城は落ち
 近所平野と申すところの城へ
 敗軍の侍集まり
 五十騎ばかり立て籠り
 1日1夜持ち固めた」


数では劣る三之丞たちでしたが、奮戦・・・・
敗れては場所を写し、また敗れては場所を写し・・・
拠点を写し、しぶとく抵抗します。
なぜ、これほどまでに果敢に戦うことができたのでしょう?


その強さの秘密は山城にありました。 
丸山城は、実際に伊賀の乱で使われました。
石垣や天守閣はなく、山を削って本丸を築いた簡素な城でした。

でも、あちらこちらにゲリラ戦に有利な土塁、狭い道、急な坂道・・・
仕掛けがたくさんありました。
平地での戦いにはない、変幻自在の戦術こそが、強さの源でした。
そんな山城が伊賀には600以上ありました。


しかし、圧倒的な信長の勢力は、農民、女子供までも討ち殺し、村を焼き払います。
およそ2週間ののち、伊賀は全面降伏、村は焦土と化しました。
何とか生き残った伊賀者は、全国に散らばります。


この伊賀の戦いの生み出したもの・・・
それは、各戦国大名からのオファーでした。
つまり、忍者を全国へ広げたのが、伊賀の乱だったのです。


近畿の山間の次侍に過ぎなかった伊賀の忍が全国に名を轟かせます。
伊賀者たちは、有力大名のもと、“特殊部隊”として活躍していくのです。



そもそも忍とは???
伊賀者・甲賀者は、忍者のブランドです。
日本各地には、地元の忍術流派がたくさんあります。
箱根には風魔・紀伊には根来衆・雑賀衆・・・

では、なぜ忍が生まれたのでしょう?
忍の地は山間が多く、土地がありません。
稲作で食べていけるはずもなく、山林で木を切って・・・重労働の中、生活していました。
木登りが超人能力の基礎だったのです。

おまけに、どこの秩序にもはまらない、伊賀者・甲賀者はアウトサイダー・・・
そんな化け物を、信長は恐れていたのでしょう。


三之丞はその後・・・
大坂冬の陣に登場します。
天下統一をめざし大阪城を攻める群衆の中に、三之丞がありました。
伊賀の乱ののち、全国を渡り歩きながら次々に主君を変える三之丞。。。

このとき、徳川方の岡山藩藩主・池田利隆に仕えていました。
そして、徳川方の忍びとして参加していました。
どうして、伊賀者が家康に仕えることになったのでしょう?
それは・・・

1582年京都
信長が、明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
窮地に陥っていた家康。
家康は、信長最大の同盟者であり、その時大坂・堺にいました。
手勢わずか30名・・・
三河に帰郷しようとするも、光秀の押さえた京を通るのは不可能に近く・・・
甲賀・伊賀を越える山越ルートを選択します。
これをサポートしたのが、伊賀者でした。
伊賀者たちは甲賀と連携し、山賊たちから家康を守ります。
この時、警護に当たった伊賀者は190人、のちに家康最大の危機だったと言われる“神君伊賀越え”です。

これによって伊賀者は家康に能力を認められ、大坂冬の陣に参戦することになりました。
徳川軍19万4000に対し、豊臣軍9万6000。
圧倒的戦力でしたが、豊臣方の大阪城での徹底した籠城作戦に苦戦を強いられます。

三之丞が仕える池田利隆軍8000は大阪城裏手に・・・
三之丞が任された任務は瀬踏・・・
三方を堀で囲まれた大阪城を攻略するには、出来るだけ早く安全に川を渡ることが絶対条件でした。

瀬踏みとは、川を渡る際にどの部分が一番浅いか、最も効率よくわたる方法を割り出す最重要任務でした。
そして、いざ部隊が渡るときに、事前に調べた浅瀬を通り、対岸にたどり着かせるのです。
しかし、それは、命を落としかねないハイリスクな仕事でした。

三之丞は、夜陰に紛れて人知れず敵陣に忍び込み最適ルートを探索、命の保証はありません・・・

夜中に瀬踏をし
向かいに渡印をし
陣所へ帰った

任務をして帰ってきました。
そこには、強靭な肉体だけではない別の一面がありました。
川の近くの村人を利用して、浅瀬を教えてもらう・・・
瀬踏は、地元の人と同じ目線で話のできる忍たちが使われるのだそうです。


その後、冬の陣は和議が成立。
その時、忍びの特殊能力は、徳川家に欠かせないものになっていました。

その点でも、徳川は諜報大国でした。
どうしても情報収集に忍びが必要だったのです。


忍びはもともと、“素っ波・透っ波”と呼ばれ、戦国時代に武家に仕えました。かつては盗人・詐欺師を意味しています。
狂言なんかに出てきます。

身分が低く、卑しく、正規の“侍の技”とはみなされませんでした。
あくまで陰で、スパイが背負う宿命を生きていたのです。


守田三之丞の後を継いだのが、孫の萩野市右衛門。
携わった事件は・・・
1701年元禄赤穂事件勃発。

元禄14年3月14日、江戸城内松の廊下にて・・・
赤穂藩主浅野匠守が吉良上野介に斬りかかりました。
匠守は、その日のうちに切腹・城と領地が没収されました。
赤穂藩家老・大石内蔵助・・・
幕府の命令を聞き入れるのか城に立て籠もるのか・・・

その時、忍びたちが暗躍していました。

それは、隣の岡山藩。。。
赤穂藩が城に立て籠もれば、真っ先にとばっちりを食うのが岡山藩でした。
そこで、赤穂城下へ忍びを派遣し、徹底した情報収集をしていました。
どの情報が・・・手紙・書きつけが残っています。
その数、44通。岡山藩が、事件を気にかけていたかがわかります。

忍び・今中喜六が報告した書状によると・・・
「赤穂城下では
 百姓や町人が
 札場に集まり騒がしい」

札場とは、藩が発行している藩札を金や銀に替える場所のことで、そこが農民などでごった返しているというのです。
つまり、赤穂藩が取り潰しになるという情報は、広く知られていたのです。
庶民たちは、藩内でしか使えない藩札を銀に替え、次の藩主が入ってくる準備をしていました。

さらに忍びたちは、城の中の極秘情報も調べていました。
4月4日、忍び・瀬野弥一兵衛からの報告によると・・・
4月2日より、場内の台所道具・鑓・鉄砲・浅野家に伝わる宝物をどうするのか話し合われたことが残っています。
藩士たちは、身のまわりのものを現金に換え、“浪人生活”に備えていました。
強まる“城明け渡し”の流れ・・・
この騒動に対して、どのように対応すべきか・・・
方針を決めるために、忍びを派遣して情報収集をしました。


事態は収束に向かうと思われましたが・・・
4月12日の書状には・・・
「大石内蔵助ら同志の藩士が
 一時幕府の上使に恨みを申し立てた上で
 切腹する覚悟を決めた」
大石たちが切腹を考えていたというのです。
忍びたちは、その模様を正確に伝えていました。

そして、刃傷事件から1か月後・・・
大石たちは切腹をふみとどまり、赤穂城明け渡しを決断しました。
元禄赤穂事件の陰で、その情報能力を生かし、人知れず重要任務を果たした忍びたち。。。


その後天下泰平時代、忍びたちの生活もかなり変わってきていました。
神君伊賀越えの功労によって土地を与えられた伊賀者たちは、門番などをしていました。
この任務の依頼主こそ、服部半蔵正成です。
この服部半蔵は、忍びのまとめ役でした。
その名に由来する半蔵門は、甲州街道に面しています。
もし江戸城に火急のことがあった場合に、家康にお供して脱出させるという任務を負っていました。


では、地方の大名に仕えた忍びはどうだったのでしょう?
萩野市右衛門は1661年から岡山藩に勤め始めました。
伊賀衆が住んでいたのは、足軽たちの住んでいた場所・・・
高い地位ではなかったのです。

勤務内容は・・・
「元禄3年3月15日
 大坂へ囚人を遣わすので
 召し連れていき
 同28日に帰りました。」

「城下町付近見回り」
「火まわり」

日々の職務は町の見回りや火の用心・参勤交代のお供・・・警備員に変わっていました。 
給料制のお抱え忍者となっていたのです。
給料明細の忍びのページには、15人載っています。
市右衛門は、20石9斗5人扶持でした。
役人の中で、高いほうではありませんでした。
給料は全員一律、決して恵まれたものではありませんでした。


江戸時代中期に書かれた「甲賀忍之傳未来記」には・・・
木村奥之助のボヤキが残っています。
「現在70歳前後の者は、乱世を経験し
 実際に見聞して伝えていくことが出来るが
 それより若い者はそのように出来ない・・・
 忍びの未来が心配だ。。。」と。

技というものが伝えられない・・・
しかし、実際の生活の中でも“忍び”という意識がなくなってきていました。
薄れていく“忍びの心”。

市右衛門は、73歳で老いのため引退します。
最後の仕事は不寝番でした。

岡山藩は、その後も忍びを抱え続けます。

明治2年、家老の前に集められた忍びたちは“忍び役廃止”、お役御免となりました。
戦国から太平の世へ、そして明治・・・歴史の中に埋もれていった忍びたちがそこにはありました。


忍者の魅力は・・・
特定の主を持たないで、個別の契約で任務を遂行するということ。
忍者は傭兵、独立の自営業です。
その自由さが魅力なのです。

武士の形式美と忍者の秘する美。。。
奥深い日本がそこにはあるのかもしれません。

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posted by ちゃーちゃん at 10:19| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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