2012年10月24日

ヒーロー伝説 「土方歳三〜奔走するラスト・サムライ」

函館タワーに、土方歳三の像があります。

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幕末維新の動乱時、新選組・副長として華々しく表舞台に登場します。
池田屋事件で名をあげた新選組、局長・近藤勇の陰で、粛清・暗殺で手を汚し鬼の副長と呼ばれていました。

そして、幕府軍の参謀として戊辰戦争に参戦。
新政府に抵抗したすさまじい生き方から、最後のサムライと言われていました。
しかし、近年新たな土方像が浮かび上がってきました。


土方歳三が求めたものは???


北海道・箱館は、歳三最期の地です。
五稜郭のあるこの地で35歳で亡くなりました。

有名なこの写真には・・・刀と・・・そして、ピストルが映っています。
この写真は、榎本艦隊と合流してからの写真です。

どうして土方歳三は人気者なのでしょう???
まずは、いい男ということ。

「色は青いほう 躯体もまた大ならず 
 漆のような髪を長う振り乱してある
 ざっと言えば一個の美男子と申すべき
 相貌に覚えました」

賊徒に美男多し・・・
当時の人からしても、ハンサムだったようです。

土方歳三は、もともと武士ではありませんでした。
農民というか、郷士。。。
天保6年5月5日、東京・日野市に誕生します。
10人兄弟の末っ子で、早くに両親を亡くした少年は、兄夫婦を親代わりに育ちました。
若いころは、家業の薬売りをしていましたが、武士になりたくて、近藤勇の天然理心流「試衛館」に入門します。

剣術の腕を磨いて・・・
文久3年27歳で試衛館の仲間と「浪士組」に参加、これが後の新選組です。
この新選組は、京都守護職・松平容保のお預かり。
つまり、本採用ではありませんでした。

京都の浪士達を厳しく取り締まります。
副長として頭角を現してきた土方、愛用の刀は”和泉守兼定”でした。

kane3[1].jpg

土方は、厳しい規律で武士道を徹底。
武士として、かくあるべき武士を追求したのです。
士道に背く、新選組から脱する・・・
違反者には、切腹をさせました。

当時、武士は藩に属し、その藩のきまりに従っていました。
しかし、新選組には秩序がなかったので、厳しくする必要もあったのです。
芹沢鴨暗殺、伊東甲子太郎暗殺・・・鬼の副長の誕生でした。

彼らを有名にしたのが、元治元年6月5日の池田屋事件。
尊王攘夷派の不穏な計画に気付いた新選組は、近藤を中心に御用改めに踏み込みます。
池田屋に集まった浪士を殺害し、計画を阻止、会津藩・幕府から巨額の報奨金をもらいます。

この報奨金・・・
隊士たちの刀の刃こぼれや労を厳しくチェック、
池田屋の報奨金は・・・
金10両  別段20両
金10両  別段13両
金10両  別段10両
金10両  別段7両
金10両  別段5両
に分けられ、厳しく査定し、配分しました。
土方の合理性を追求した細かい近代的な能力主義でした。


西洋医学も勉強していました。
当時は隊士の半分以上がケガか、病気。
松本良順は、西洋医学を土方にアドバイス。
衛生面・栄養面でもアドバイスを受けます。
そこで、病院のような部屋もつくったそうです。
外国の文化も、積極的に受け入れていたのです。

俳句や和歌からも、鬼ではない一面が見えてきます。

アンバランス・・・それが土方がモテる一面だそうです。

冷徹に武士道を貫き、新選組を支え続けた土方は、徳川幕府の命運とともに時代のうねりに飲み込まれていきます。
慶応3年6月10日、幕臣になります。
幕府の直属となったのです。
その4か月後・・・10月14日、大政奉還・・・慶喜は、政権を朝廷に返上したのです。
しかし、新政府軍は、徳川をゆるさず・・・
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦い。。。

およそ1年半の戦いの始まりでした。

この戦いに、新選組は徳川の臣下として参加します。
しかし、徳川軍の一方的な敗戦。
その徳川の敗因は、武器が旧式だったとされていましたが・・・
新選組も、鉄砲を装備していました。
土方は、新選組を西洋軍備化を・・・近代的な組織へと導こうとしていました。
訓練もしたようです。

さらに、軍中法度を制定し・・・
「組頭が戦死した場合 隊士も見な戦死すべし」
と。
逃げ帰ったものは、斬罪でした。

しかし、薩長軍が、錦の御旗を立てたことで、幕府軍の戦意喪失・・・。
慶喜は、大坂湾から江戸へ・・・船で逃げてしまいました。
土方たちも、江戸への敗走を余儀なくされました。

この敗戦を土方は・・・
「武器 砲にあらざれば不可
 僕 剣をおび槍をとるも
 ひとつも用いるところなし」
と、表現しています。

刀の時代は終わったのだ・・・。

これが、土方歳三の近代化へのスタートラインでした。

江戸に迫る新政府軍・・・
勝海舟は、江戸城無血開城に動き出しました。
しかし、新選組は徹底抗戦を主張!!
この時に戦っていれば、勝っていたかもしれないほど・・・
力は均衡していました。

甲府や流山で戦います。
この流山で・・・近藤勇が包囲され捕まりました。
切腹を覚悟した近藤勇に対し土方は・・・

「切腹など犬死にだ
 新政府に投降し
 生きながらえてほしい
 必ず助けに戻る」

と、勧めました。

近藤は、新政府軍に大久保大和と名乗り投降しますが、素性がばれて1か月後に切腹も許されずに・・・
斬首されます。
この時の軍備は、大砲3門、小銃118丁と西洋式になってきていました。


江戸を脱出した幕府敗走軍。。。
新選組副長から旧幕府敗走軍の司令官へとなってしまった土方。
その中心となったのが「伝習隊」。
フランス軍の訓練を受けた幕府最強の歩兵部隊です。
土方は、この伝習隊の参謀に就任します。

ここから新しい生き方が始まりました。

「武士の時代は終わった。これからは軍人の時代だ。」

土方は会津をめざし北上します。
そして、戊辰戦争最大の激戦、会津戦争へ。。。
しかし、土方の奮戦もむなしく新政府軍の圧倒的な力に屈してしまいます。
会津藩はついに籠城を・・・

会津を離れて仙台に現れた土方。それは、奥羽越列藩同盟の軍議の席でした。
そこで、榎本武揚とともに、統一軍を作ることを説得します。
その会議で土方は・・・
「もし私が総督になるとすれば
 私の命令に従わないものは
 例え藩の家老であっても
 斬ってしまわねばなりません
 その生殺与奪の権利を
 与えてくれれば
 私は総督の任を引き受けます」
と言ったと言います。

土方が要求したのは、絶対的な権力でした。

しかし、二本松藩士・安部井磐根が・・・
「我々藩士の命を奪えるのは 
 藩主以外にいないはずだ」
と反論。。。

土方の要求は却下されます。
奥羽越列藩同盟はバラバラになってしまいました。

明治元年10月26日、榎本武揚率いる旧幕府軍は、五稜郭を占領。
箱館政府の誕生でした。
榎本は新政府軍に対し、徳川家の存続と、旧幕臣の救済を掲げ、箱館政府の許可を求めました。

20100820143327[1].jpg

榎本は、日本初の選挙を行い、閣僚を作ります。
土方は、陸軍奉行並となって近代軍の育成に乗り出しました。
土方にとっては、軍人としての新天地でした。

箱館政府は列強との外交をし、通貨を発行、税制改革を行います。

しかし・・・
箱館戦争が始まってしまいました。
新政府軍8000に対し、土方軍はわずか100・・・。
土方は山肌に塹壕を築きます。その塹壕は、今でも残っています。
土方が戦った二股口。
うっそうとした森の中で激戦が行われました。
二股口の戦いで、土方軍は3万5000発の弾を使って戦いました。それでも、撤退を余儀なくされます。


その時、土方は・・・
隊士の労を、酒でねぎらったと言います。

明治2年5月10日、明治新政府は海から砲撃し、旧幕府軍は壊滅的になります。
降伏の機運の中、徹底抗戦を訴える土方・・・。

しかし、馬上の土方を、一発の銃弾が撃ちぬきました。
明治2年5月11日、土方歳三 箱館で戦死。。。
土方の戦死から1週間後、榎本武揚は降伏し、ここに箱館戦争は終わりを告げました。

「たとひ身は
  蝦夷の島根に朽ちるとも
   魂は東の君や守らむ」

この意味は???
普通であれば、東の君は”徳川家”のことでしょう。
しかし、潔さはなく、可能性があればまだまだ突き進む、覚悟は常にしているが、挫折も降伏もしない・・・
快戦をしてから死にたい・・・そういう気持ちが当時の武士にはあったと言います。

歴史の闘いの中で成長していく・・・
土方の立ち止まらない”やさしさ”が土方の時を超えた魅力なのです。



う〜ん。。。今回のパネラーは、田原総一郎さんでしたから・・・
仰天歴史塾のようでした。あせあせ(飛び散る汗)

で・・・土方さんの魅力ですが、私は司馬遼太郎さんでもう満足ですあせあせ(飛び散る汗)

辞世の句を聞いた時も、永井大さんの「新選組血風録」の・・・
京に残してきた女性を思い出して死んでいく土方さんを思い出して、ゲッと思ってしまいましたあせあせ(飛び散る汗)
あのトラウマからは、まだまだ抜け出せないのでしょうか???
永井さんが悪いわけではないのですけど・・・たらーっ(汗)

どこをどう切ってもカッコいい土方さんですが、今回は何がカッコいいんだか・・・
よく解らない土方さんでした。

ちなみに、”ラスト・サムライ”は、『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』というドラマで藤原竜也さんが演じていました”最後の仇討”をした臼井六郎では???
とも思います。

でも、土方さんは大好きですよ。
司馬遼太郎万歳黒ハート
土方歳三の生涯 [単行本] / 菊地 明 (著); 新人物往来社 (刊)
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2012年10月19日

「伊能忠敬“日本”を知らしめた男」

東京江東区にある海上保安庁海洋情報部では・・・
人工衛星から最新の情報が集められ、海図が作られています。

今から8年前に古地図が見つかりました。
江戸時代、日本で初めて作られた伊能忠敬の実測地図の書き写しです。

09[1].jpg

日本の姿を正確に表した巨大な地図でした。
しかし、明治初期に原本が紛失・・・。

その後、各地に残されてきた資料で穴埋めがされてきましたが、4か所が不明でしたが・・・。
この発見された資料で100数十年ぶりに伊能図の全貌が明らかになりました。

地図によって日本を知らしめた男・伊能忠敬。
彼が測量に出たのは隠居中の56歳のときでした。
足かけ17年、全国を測量しました。
それを終えたとき、彼は72歳になっていました。
自らの情熱と才覚で第2の人生を切り開いた伊能忠敬。

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しかし、彼の偉業の背景には、幕府の思惑があったと言われるようになりました。


今年の8月に行われた佐賀市での日本地図の復元。
214枚をつなぐと、縦35m横60mになりました。
伊能忠敬の第一の目的は、正しい海岸線を測量することでした。
そこには、遥か離れた屋久島の海岸線もありました。
どれも精密です。

この巨大な地図が初めて披露されたのが、1821年江戸城でした。
見事な出来栄えに、幕府の人も驚いたと言います。
そして、200年前にこれだけの精密な地図のあった国は、あまりないそうです。


日本では、太閤検地があって、測量大国だったようです。
これがバックグラウンドとなっていました。
その中で、“日本を図る”ということが、新しかったのです。


この時代、ヨーロッパの接近があり、日本の中にも“領土”という概念が出てきていました。
そんな中で、海辺をどう図っていくか???
国防という面でも必要でした。

その原動力は???
江戸時代中ごろ・・・伊能忠敬は、70人を抱える造り酒屋を営んでいました。
婿養子として仕事中心の生活の中で、唯一の息抜きは・・・子供のころから好きだった天文学の本を読むことでした。
家業を拡大し・・・資産は60億円。しかし、50歳になっていました。

ここで、一大決心をします。
江戸に出ることにしたのです。
当時、江戸には“幕府天文方”が置かれていました。
最大のミッションは・・・より確実な暦、カレンダーを作ることでした。
そこで、日夜、天体観測が行われていました。
その幕府天文方の高橋至時に弟子入りします。師匠は19歳も年下でした。

深川に住んだ忠敬・・・
天体観測の基礎を学びます。
毎晩熱心に天体観測をします。
それは、年寄りの道楽ではありませんでした。

当時の幕府の最大のミッションは、暦を正確にするために地球の大きさを知ることでした。
地球の1周はどれくらい???
方法は・・・
「緯度1度の距離×360=地球の大きさ」
でした。
これを使って・・・緯度0.025度は約2q半ということを突き止めました。
地球の外周は、35,200qとなりました。

しかし、師匠は・・・
「幕府の許可なく地形を測ってはいけません
 短い距離だと誤差が生じるので、せめて江戸から蝦夷地くらいの距離が必要です。」
と。。。

当時は、幕府は人々の自由な移動を禁じていました。
そこで忠敬は・・・蝦夷地の地図を作ることになりました。


これを、時代も後押しします。
このころ、蝦夷地には、ロシアが南下してきていました。
通商を求め、幕府に圧力をかけていたのです。
でも、幕府は蝦夷地のことを全く知りません・・・。
そこで、蝦夷地を正確に知るために・・・幕府は忠敬に蝦夷地測量を許可しました。


しかし・・・当時の忠敬は50歳を過ぎた老人・・・。
幕府としてはあまり期待をしていなかったようです。
幕府から頂いたお金は、出費の2割ほど。そのほとんどを自腹で蝦夷地測量に臨みます。
1800年4月19日江戸を出発します。忠敬は56歳でした。


遥か蝦夷地まで、一定の歩幅で歩き測量する・・・
1日平均40キロのペースです。
測量日記・・・そこには過酷な測量が書かれています。

往復3200q・180日間に及ぶ、過酷な旅でした。
江戸に帰り・・・長い時間をかけて地球の大きさを計算します。
緯度1度の差は、およそ111q。111×360度=39960q・・・ほぼ4万qとなります。

至時がオランダの書物と照らし合わせたところ・・・
数値はデータとほぼ一致したのです。
現在の最新のデータと比べても、1000分の1の誤差なのです。驚異的です。
そして、幕府の期待通りに蝦夷地の地図を作り上げました。
感心した幕府は、他の地域も地図にするように命令します。


当時・・・江戸時代の天文学とは・・・???
東アジアにとっては、天文学が大変重要で。
日本が暦を作れないとなると・・・
「中国の暦をもらうしかない」のです。
東アジアは中国が属国に年号と国を与えていました。
つまり、それは日本が朝貢国に転落するということなのです。

天皇が時を管理しなければいけないのに、それを代わりに幕府がやっていたのですが、それは幕府の正当性を主張し、日本を日本たらしめる・・・日本を独立たらしめることになるのでした。


幕府は、忠敬に東日本の地図作りを命じます。忠敬は3年間東日本を測量します。
そして地図を完成。
江戸城で、第11代将軍徳川家茂に披露されます。
そこには江戸湾周辺・伊豆半島・佐渡が島まで精密に描かれていました。
忠敬は、幕臣に取り立てられます。

これ以後、伊能測量は、幕府直轄の事業となって、西日本の測量が始まりました。
各地にいろいろな資料も残っています。
各地の人々がたくさん参加してくれたようです。

西日本の測量は、のべ12年間、3万キロにも及び、150の藩が協力しました。
個人で始めた伊能図の制作江戸後期最大の国家プロジェクトとなったのでした。
最後には大名行列もびっくりに人数になったようです。

では、どうして幕府は地図の制作を後押ししたのでしょうか???
そこには、幕府を立て直すための情報収集がありました。
測量時期と同じく、江戸幕府も日本の地理に様々な調査・情報収集を行っていました。
全国の街道を調査もしています。
宿場町も詳細に書かれ、逐一調べていました。

それは、伊能忠敬も同じ。
石高・家人・人口・・・を調べています。
幕府は自らの手で調査し、掌握しようとしていたようです。

国内ではコメ不足による物価上昇、打ちこわしが相次ぎました。
対外的には、ロシアだけでなくイギリスもやってきて、幕藩体制が揺らぎ始めていました。
内憂外患の中で・・・日本全体を測量しなおし掌握しようとしたのです。

一つの国・・・という国家意識も出来てきたのかもしれません。
外国対日本という観点が出てきたのです。


測量がすべて終了したとき、忠敬は72歳になっていました。
全行程の測量日程は、3727日、踏破した距離は4万キロ・・・
地球の大きさとほぼ同じになっていました。
1816年各地の地図を合わせ、日本地図をつなぎ合わせようとしますが、その直前に亡くなります。
享年74歳でした。

その後弟子たちは、忠敬の死を公表しないまま、地図の制作に励みます。 
「この地図は、伊能忠敬先生が作ったもの」としたかったからです。
1821年7月10日。大日本沿海與地全図が幕府に献上されました。
国家機密として厳重に保管されました。

幕末、ペリーもその正確さに驚いたと言います。

忠敬は晩年・・・「日本国中測量したことは、天命でした」と言っています。

IP120919TAN000065000_0001_COBJ[1].jpg

攻めてくるどの国よりもすばらしい地図を持っている。。。
日本は侍が多くて占領できない、貿易相手国にするのが得策だ・・・
日本を尊敬させた地図かも知れません。

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posted by ちゃーちゃん at 17:31| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月10日

戦国武将・決戦のとき A  桶狭間の戦い「信長・27歳の一大挑戦」

1560年5月19日 桶狭間の戦い
この戦いの主人公は・・・
東海一の弓取りとうたわれた戦国武将であり大大名・今川義元。
もう一人は織田信長、尾張一国もまとめられない小大名にすぎませんでした。

今川軍4万5千に対し、信長軍2千・・・。
しかし、圧倒的な奇跡の完全勝利で信長が勝利します。
どうして勝利できたのでしょうか???


桶狭間には二人の像が立っています。


1560年5月13日、今川軍は、4万5千を尾張に向けて進軍していました。
対する信長軍は2千・・・。
そこには、伝説のう回奇襲作戦がありました。


桶狭間の戦いは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」で知られていました。
これをもとに、明治時代陸軍参謀本部によって編纂されました。
これによると・・・
今川義元が天下統一のために・・・将軍謁見のために進軍していたとあります。
主戦場となった場所は、田楽狭間。
激しい風雨の中、う回奇襲作戦で信長が勝利したとされていますが・・・


信長の家臣、太田牛一の「信長公記」によると・・・
う回奇襲作戦とは矛盾する点がいくつかあります。

@今川本陣の場所
御敵今川義元は、4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息をひそめてこれあり
田楽狭間という低地ではなく、「おけはざま」という山の上だというのです。
つまり、“桶狭間”という谷底に攻め入ることは出来ないのです。

A信長の進軍方法
脇は深田の足入れ 一騎打ちの道なり
無勢の様体 敵方より定かに相見え候
勿体無きの由
つまり、狭い一本道を進軍する信長軍は、敵から丸見えだったというのです。

新しい定説によると、う回奇襲説が成り立たなくなっています。


「信長記」は、歴史小説のようなもので、「信長公記」を脚色したものだということ・・・
陸軍がこの勝利が信じられなかったということと、「小さい日本が敵に勝つには奇襲」だということ・・・
それが、重なって、学校で教えられるようになってしまったというのです。
では“う回奇襲でないなら・・・何?”なんでしょうか?

“桶狭間”は誤解の多い合戦で・・・
どうして今川義元が出てきたのか?
戦国大名は、上洛して天下を取るというのが当たり前のように思われていますが・・・
上洛ではないとすれば・・・?

今川が出てきたのではなく・・・信長の領土回復戦争であるということ。
信長が仕掛けたのです。

遡ること7年前、大高城などが、今川のモノになります。それは、信長の家臣が寝返ったためでした。
それに対抗するために砦を作ります。
1560年5月17日、義元が大軍を率いて進軍してきました。
それは大高城の砦×2を武装解除するためでした。


5月18日信長方で軍議が開かれました。
清州城に情報が集められます。
今川軍が攻めてくる・・・
なのに、信長は何もせず。

翌日、今川軍の攻撃が始まりました。
信長は、「敦盛」を踊っています。

午前8時には、砦は陥落。
ようやく信長は前線の善照寺砦に到着。

その時・・・

「御敵今川義元は4万5千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」

という情報が入ります。

これを聞いた信長は、一本道を丸見え・・・命を捨てに行くかの行軍を開始します。
おけはざまに必死に行軍する信長を、家臣たちは必死に止めます。
それも聞かずに行軍!!

「勝も負けるも天が決める!!」

信長は、進軍を続け・・・
敵から丸見えの中、正面突破を図りました。

もし、正面突破だとしても、そこに義元がいるとどうして知りえたのでしょう???
そこにはまだまだ謎がたくさんあります。

では、信長は何を考えていたのでしょう?
いわゆるカウンター攻撃だったようです。
今川軍が攻撃してくるのを待っていたのです。
鷲津砦・丸根砦は捨て石にする!!

そのあと疲れている義元軍を叩く!!というのが作戦でした。

信長は、義元の首を取るつもりだったのかは不明ですが・・・
結果的にそうなったということは確かでした。

27歳信長の、型破りな発想は・・・
故郷・尾張の莫大な経済力にありました。

1534年勝幡城で生まれました。
津島湊は東国と西国の中間に位置し、物流の拠点でした。
当時は関所がたくさんあって、物流を阻んでいました。
そこで、信長の父・信秀は、港・・・海運ルートに目をつけます。

戦国時代といえば、殺伐とした時代と思いがちですが・・・
戦国時代は高度成長期で、お金があれば何でもできる時代だったようです。


関税などで莫大な利益を得。。。
伊勢外宮 仮設造営費・700貫文、皇居修理費・4000貫文、寄付しています。

のちの楽市楽座につながります。
そして信長は、人々の安全・自由、利益を保護する代わりに、莫大な献金を受けていたといわれています。

その一方で・・・「大うつけ」と言われていました。
しかし、その非凡さを斉藤道三も認めています。

信長軍は・・・三間半(6.3m)の槍を持ち、訓練された兵を指揮できる・・・近代的な軍隊でした。きわめて統率のとれた軍・・・それが、最強の証でした。

今川軍は土地に縛られた農民兵、しかし、信長軍は土豪の次男・三男を集め、お金で雇い常備軍としていたのです。のちの兵農分離を始めていたのです。

まだまだ城下町が形成されていなかった時代・・・
清州城下には、多くの武家屋敷が並んでいたようです。
その人々が、桶狭間の戦いで活躍したのです。

侍が侍として生き、侍が主人となる世界・・・信長は、そのトップは自分であるという武士の考え方を・・・侍の時代を作った人だったのです。

信長は、血縁・地縁・宗教縁を断ち切ったので、日本では宗教戦争がない世の中になっていくのです。

天才とは時代の通念にとらわれないこと・・・その天才が信長だったのです。


桶狭間の戦いにはもう一つ、秘密がありました。
今川軍は、鷲津砦・丸根砦を落としたことに大変満足したと言います。
そこには、旧体制・・・義元の“戦争目的”である少ずづつ国を広げていく・・・そして恩賞を与える。。。
当時の武士たちの恩賞は土地でした。
地点の占領奪取です。
家来たちも首の奪取。
その恩賞の証としての“首”は、取って、持って次の戦いに参加していました。

しかし、信長の戦争目的は・・・

「分捕をなすべからず
    打捨たるべし!!」

首を取らずにすぐまた次の敵と戦えということでした。


少ない軍勢で、効率よく攻撃する!!
義元ひとりの首を狙うために!!

敵戦力の無力化奪取です。

そして・・・
「軍に勝ちぬれば 此場へ乗ったる者は家の面目
  末代の高名たるべし  只励むべし」

この戦は、全ての兵の名誉であり、語り継がれることだろうと鼓舞したのです。

義元に一番槍を突きつけたのは、服部小平太、首を取った毛利新介も、地侍の次男坊。

IY_HK[1].jpg

若者たちは“名誉”のために戦ったのが・・・桶狭間の戦いでした。

戦争はアートに似ている。。。
人には解らない・・・信長にしか解らない戦いでした。

信長の“求心力”・・・
戦争を起こして自分が勝つ、自分が頂点に立った国を作る!!
というのがはっきり見えていました。


この“桶狭間”と同じ物語・・・
それが明智光秀・・・。


「天下布武」を掲げて走り出した信長。
しかし、“天下統一”は、結果論でしかありません。
朝廷や幕府が弱体化し・・・
地方分権の進んだ時代でした。
農民たちが力を持ち、“加賀の一向一揆”などがありました。
武士は、自治的な民衆の動きとタイアップし、うまく国を治めようとしていました。

しかし、信長は・・・
その流れに抗うように、天下統一を進めます。
楽市楽座・関所の撤廃・街道整備・・・中央集権的な政策を推し進めます。

しかし・・・それは、多くの犠牲を払いました。
延暦寺の焼き討ち・長島一向一揆制圧・・・

天下統一に命を懸ける・・・
“桶狭間”で独裁者・信長が幕を開け、独裁者らしく暗殺されて終わるのです。

天下統一の道半ばで命を失ってしまう信長・・・

権威の世界を武威の世界に変えた信長でした。

もう一つの桶狭間―偉大なる従軍記者が語る織田信長の戦略と行動
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二つの桶狭間の合戦 武田信虎と織田信長
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