2012年12月07日

「皇女和宮 史上最大のロイヤルウェディング」

1861年、幕末の日本で史上最大規模のロイヤルウェディングが行われました。
天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚。和宮の降嫁です。

皇女が徳川家に嫁ぐのは、前代未聞のことでした。

kazunomiya.png

京からの花嫁行列はおよそ3万人。
かかった費用は900万両、当時の幕府の予算の2年分と言われています。

なぜこれほどまでに大事になったのでしょう?

前途多難な結婚でしたが・・・。
どうして降嫁したのでしょうか???

降嫁とは、皇族の娘が臣下に嫁ぐという意味です。
宮家からは・・・
8代将軍・吉宗の正室は、理子。
12代将軍・家慶の正室は、喬子。

しかし、皇女が関東の東夷(野蛮人)に嫁ぐ・・・ありえない・・・前代未聞のことでした。

みんなが諸手を挙げて喜んだわけではありませんでした。

1860年8月、結婚が決まりました。
日本列島が、一気に動き出しました。
和宮の花嫁行列は、中山道を通って、江戸へ向かうことになりました。

準備に取り掛かる街道筋・・・
周辺の宿場町では・・・
赤坂宿では、町全体で家屋を新しくしました。
257の家屋や空き地を調べています。
空き地や古い家屋は見苦しい・・・と、建て替えられたのです。
お嫁入り普請です。

馬籠宿では・・・道路工事が。
畳石に取り掛かり、石垣を二尺引込め道幅を二間に・・・
街中の道路を造り替えました。
このようなことが、中山道すべてで行われていたのです。

ちなみに、和宮とは別の婚礼道具は美濃路、東海道を通って運ばれました。
長さ9m、幅3m、重さ1tの巨大な婚礼道具を70〜80人で運びました。
小さな橋は、欄干を外したり、取り替えたり・・・
小さな門は取り壊したり・・・
埃がたたないように石や砂利を敷いたり・・・
通るところはすべてインフラ整備をし・・・
広大な地域を巻き込んだ一大イベントとなりました。

1861年10月20日和宮一行は、京都を出発します。

でも、どうして中山道なのでしょう???
中山道は、東海道に比べて5分の1の交通量です。

kouka.png

槍を持った人、剣を持った人、伊賀衆30人・・・厳重な警戒のもとに、そんなに混んでいない道を選んだようです。
鉄砲や槍を持ち、戦に出かけるような行列だったそうです。

女官や役人も含めて5000人から7000人、これらの人を江戸に送るために、人足や馬をたくさん出しています。
全行程でかかわった人の数は、総勢70万人。
まさに、史上最大のロイヤルウエディングでした。


どうして、このような国を挙げての大行事となったのでしょうか???
そこには、幕府の権威の失墜がありました。
幕末になると・・・幕府の力が落ちてきて・・・朝廷の力がついてきていたのです。
対外的な国難に立ち向かうためには、公武合体が必要だったのです。

桜田門外の変で、“幕府の権威の失墜”にとどめを刺された幕府は、どうしても和宮が欲しかったのです。

1年半前の1860年4月に、和宮降嫁を要請します。
和宮は、外国人のいる江戸を嫌がっていました。

しかも、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。
兄の孝明天皇は、要請を繰り返し断っていましたが・・・幕府も必死に食い下がります。

そして・・・
丙午に生まれた女は災いをもたらす・・・と、有栖川宮家に吹き込んで、破談にしてしまいました。

再度降嫁を要請します。
近臣の岩倉具視は・・・
「外圧に晒された皇国の危機を救うには、朝廷権威を回復し、国是を確立させる必要がございます。」
と、朝権の回復を訴えます。
「和宮の身は極めて重いものです。
 通商条約を破棄するよう命じ、幕府がそれを約束するというならば、和宮を説得してはいかがでしょう。」

天皇は、ついに決断します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
通商条約の破棄と、攘夷を求めました。

幕府の返答は・・・
「7,8年ないし10年以内に条約を廃棄する。」

これが、孝明天皇にとっては重要なことでした。
このことが実現するならば・・・と、政略結婚に進んでいきます。

そして、天皇の決定的な言葉・・・
「降嫁が実現しなければ、朕は譲位する。」
この一言で、和宮はついに決心しました。

和宮は降嫁とともに、5つの条件を出しました。
江戸城に入った後も、身の回りは万事御所風を守ること。
江戸城での生活になじむまで、御所の女官をおそばにつけること。
などです。

これに、孝明天皇が足したのが・・・
和宮が出した5か条を遵守すること。
蛮夷拒絶の方策は、今後老中が後退しても決して変えないこと。

これを幕府に示したのです。
孝明天皇は、今までの無知な天皇とは全く違う天皇だったのです。
16歳の少女が嫌がった・・・
このことが、攘夷の期限を切ることが出来た。
これが、幕府の最期を決定づけさせたのです。


京都から出発・・・

この時に詠んだのが
「住みなれし 都路出て けふいく日 
        いそぐもつらき 東路の旅」

「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
        人なつかしく こがれこそすれ」

しかし、日本中は、興味津々・・・

万歳・万歳です。
行列を見る為のガイドブックまでありました。
出版されたのは、10カ月も前のことでした。

一方で、風刺画も・・・
「和宮降嫁は狐の嫁入り」
朝廷と幕府の化かしあいだというのです。


公武合体を日本人全員に目に見えるような形で示す・・・
大行列は・・・その効果は絶大でした。


1961年11月15日、江戸城へ・・・。京都を出発して25日経っていました。

閉塞状態だった幕末、明るい話はとっても歓迎されました。

1862年2月11日和宮と家茂結婚。二人は17歳でした。
幸せ、ラブラブな二人・・・しかし、この結婚が、幕府を窮地に陥らせます。

5月15日、孝明天皇は“条約破棄”を改めて求めます。
「もし10年以内にことを起こさないならば、自分が最高司令官となって戦う!!」その言葉が、朝廷内の反幕府勢力の原動力となってしまうのです。

京都では、過激な攘夷派の天誅が横行します。
公武合体派の人びとが暗殺されるという異常な状況になってきました。

孝明天皇と家茂の仲をとりもつ和宮。
家茂は上洛します。この将軍上洛は、3代・家光以来240年ぶりのことでした。

幕府としては、戦うのは幕府、その期日は言わないという考えでした。
しかし、朝廷は譲位期限を決めたい!!

1863年4月20日、家茂はこともあろうに譲位期限を5月20日と決定してしまいます。
7〜8年ないしは10年を・・・です。
20日後になってしまいました。

家茂は諸藩に命じます。
「海岸防衛を慎重にし、外国が襲来した場合には掃攘せよ」と。

1863年5月10日、長州藩が実際にアメリカ商船を爆破、戦争へと発展します。
翌年、4か国が下関を砲撃し、長州藩は負けてしまいます。


しかし・・・必死に攘夷を迫る和宮・・・そこには、民衆の為という純粋な思いがありました。
天下泰平の道に進めるように・・・

しかし、その役割は突然終わりを告げます。
1865年9月、4か国の連合艦隊が直接朝廷に通商条約の勅許を求めてやってきました。
のど元の大坂湾へやってきます。

勅許せざるを得なくなった孝明天皇・・・それも、なんの断りもなく・・・言葉にできない驚愕でした。
この勅許によって降嫁の意味がなくなってしまった和宮。。。
おまけに、家茂は21歳で急死。。。
孝明天皇までも崩御。。。

和宮は帰京を求める手紙を出しています。
「異人が丸の内まで徘徊するようになりました。
 使命が果たせなかったので帰京したい。」と。


夫と兄を亡くした和宮は・・・新しい役割を担うこととなります。

1867年10月14日、新しい将軍・慶喜のもとで・・・大政奉還。
政権を朝廷へ返照します。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
薩摩、長州の反幕府軍が官軍となって・・・賊軍となった幕府に襲いかかります。

和宮は、徳川の家名の存続を嘆願します。
自らの命を懸けた嘆願・・・1868年3月15日の江戸城無血開城・・・徳川存続へと繋げていきますが・・・。

徹底抗戦を望む幕府軍の人に・・・
「神君以来の御家名が立つことを心がけ、謹慎を守ることが徳川家代々に対する真の忠義です。」
と、強い思いを持っていました。

旧幕府軍がたてば、江戸っ子たちは幕府側につく・・・
内乱状態になることを避けようとして、火の手をあげさせない!!
そういう強い思いがあったようです。

その後和宮は、徳川家とも天皇家とも親交を深めながら過ごします。
明治8年歌会始で・・・

「玉敷の みやこもひなも へたてなき
       年を迎ふる 御代のゆたけさ」

それから2年後、明治10年(1877年)9月2日、脚気が悪化して亡くなります。享年32歳でした。

和宮様御留 (講談社文庫 あ 2-1) [文庫] / 有吉 佐和子 (著); 篠田 一士 (解説); 講談社 (刊)
和宮様御留 (講談社文庫 あ 2-1) [文庫] / 有吉 佐和子 (著); 篠田 一士 (解...
最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 (幻冬舎新書) [新書] / 鈴木 由紀子 (著); 幻冬舎 (刊)
最後の大奥 天璋院篤姫と和宮 (幻冬舎新書) [新書] / 鈴木 由紀子 (著); 幻冬舎 (刊)

↓ランキングに参加入ています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 19:00| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月01日

秀吉・天下取りへの必勝戦略〜奇跡の“大返し”の謎

農民から身をお越し、天下人へと上り詰めた男・豊臣秀吉。
その人生最大のターニングポイントと言えば・・・戦国最大の軌跡・中国大返し。

羽柴秀吉だった天正10年、本能寺の変が勃発。
明智光秀の謀反で信長が討たれます。
この時、遥か遠く中国で戦っていた秀吉は、主君の仇討を決意。
京都に全軍を取って返します。

秀吉軍は、昼も夜も行軍を続け、200キロを7日間という驚異的な速さで戻ってきました。
決戦の地山崎では、わずか4時間で光秀を死に追いやります。

この大手柄をきっかけに、天下人に駆け上がるのです。

どうしてこんなに早く、上手く、出来たのでしょうか?
京都から遠く離れた備中にいながら、2日もしないうちに“信長の死”という正確な情報を掴んでいます。
恐るべき情報網と言えるでしょう。

そして、異常ともいえる速さで行軍します。
行軍しながら味方を増やし、4万の大軍を作り上げました。

その巧みな情報戦術は、残っている手紙からうかがい知ることが出来ます。

ふつう、行軍は1日40キロぐらいです。
しかし、秀吉はその1.5〜2倍のスピードで行軍しています。

どうして鮮やかな成功を収めたのでしょうか?
@早く出発できたこと
A行軍スピードが速かったこと
が挙げられます。

本能寺の変が6月2日未明。
その2日後の6月4日の午前には、毛利輝元との講和を結び、打倒光秀に向かい体制を整えます。
6月6日午後全軍を率いて出発。
つまり、わずか4日で大返しをしています。

当時、有力な家臣はすべて遠征中。
そんな中起こった本能寺の変でしたが・・・

「信長様死す」

四国攻めの準備中だった丹羽長秀・織田信孝はパニックに陥り兵たちは離散、
越後の上杉軍を攻めていた柴田勝家が知ったのは6月7日ごろ、すぐには動けません。
滝川一益は6月9日に知ります。

秀吉はとても早くに情報を入手したのです。

光秀が毛利へ遣わした密使が、陣を間違えて秀吉軍に捕らえられたとも言われていますが・・・
そんな偶然を鵜呑みにして全軍撤退をするでしょうか???
独自の情報ルートがあったようです。

京都にある夜久野。この地の地侍に秀吉の送った書状がありました。
夜久野の地侍・中川清秀の協力のおかげで無事に行き返りが出来たというお礼状でした。

光秀は、本能寺の変の後、西国街道に目を光らせていたようです。
備中高松城―姫路―夜久野―京都のルートは、街道を避けて通る裏ルートでした。

この令状は二枚組で、一つは秀長の家臣から、もう一つは秀長本人からのものでした。
秀長からの直々の令状・・・その日付は6月6日・・・大返し出発の前日です。

忙しいときに、わざわざ令状を認める・・・。それは、もたらされた情報の大きさを見てとれます。本能寺の変の事と思われ・・・このルートで情報を手に入れたと思われます。

そして、その情報がガセネタかどうか??他の家臣たちはそれに悩みます。
しかし、秀吉だけが、情報に確信を持っていたのです。
裏ルートがあったかどうか?それは解りませんが、秀吉は、多角的に情報を得られるように工夫していたというのは間違いありません。

そんな用意周到な秀吉でも、本能寺の変は予測できなかったのでしょうか?
「信長が狙われやすい」ということには、気づいていたようです。

信長政権は、盤石ではなかったというほうが、正しいのかもしれません。
例えば・・・天正6年の荒木村重の謀反です。
自分の政権の弱さを直せなかった・・・
秀吉は、何が起こっても・・・と、想定していたと言えるでしょう。


では・・・驚異的な行軍スピードは・・・どうでしょう。
特に初めのころは凄まじく、2日目には台風の中を70qも進んでいます。
こんなことが本当に可能なのでしょうか???

中国大返しは、只の移動ではなく、闘いに向かう行軍です。
武将の装備一式を身に着けると・・・31kg
足軽は、自炊道具や食料、弾薬や弓矢を持って・・・30kg・・・
この格好では、山道を走るのはなかなかしんどいものがあります。
10分も持ちません・・・
きっと寝る暇もなく・・・過酷な行軍だったのでしょう。


でも・・・常識的に考えると、この重装備は無理なので・・・
荷物なしで・・・そうなると、食料がありません。丸腰で光秀軍に対抗できません。


翌年に行われた賤ヶ岳の合戦では・・・
もう一つの大返しをしています。
54キロを5時間で走破した“美濃大返し”です。

道に松明を持った人を立たせ、酒・飯・・・道筋に炊き出しを用意しました。
そして、もう一つの秘策は・・・長浜城から武器を集めておいて運んだというのです。


だから、この中国大返しの時も、武器をどこかに集めておいて戦いに向かったと思われます。
戦場近くに武器、道沿いに炊き出し、兵は軽装で・・・
さらに確実に成功させるために・・・姫路城にあった金銀や食料を皆に配りました。
御賞の先払いによって、士気を高めたのです。
信長様の後を継ぐのは秀吉!!ということと、自分が農民出身であったため兵の気持ちがわかったということが言えるでしょう。


合理的な進軍方法と、モチベーションを高める工夫・・・そんな軍略が、中国大返しを達成させたと言えるでしょう。

では・・・ここまで急いだ理由は???
信長が亡くなった今、自分の首が危ない・・・
織田家臣団の序列で秀吉は、5番目でした。
柴田勝家や丹羽長秀らに比べると、決定権は低かったのです。
早く結果を出さなければ・・・後の評定でのことを考えると、ここががんばりどころだったのです。

一直線に京都に向かった秀吉軍、ハードな道中には落伍者が続出します。
出発時に2万あった軍勢は、1万余りに半減・・・
ところが・・・山崎についてみると・・・秀吉軍は4万にもなっていました。
光秀軍をはるかに凌駕していました。

ここでも秀吉の情報戦略が・・・
毛利軍と講和を結んだ際に、毛利軍から旗と指物を手に入れていました。
大返しの途中、掲げたのです。
強国毛利が秀吉軍に加勢したと思った人々。

他にも有力大名を引き入れました。
摂津衆と呼ばれる3大名をどのようにして味方に付けるか?
中川清秀・池田恒興・高山右近・・・この3人は、秀吉につくか光秀につくか・・・悩んでいました。
彼らを説得したのが、秀吉の手紙作戦でした。

秀吉から中川清秀に送った手紙には・・・
「信長様は、難もなく切り抜けて、生きていらっしゃる」
とありました。

そう、本能寺の変は起こったものの、信長の首は見つかっていませんでした。
つまり、信長の死が確定していなかったのです。
この偽情報には・・・光秀の方に加担したら、あとで親方様に大目玉をくらうと、思わせようという意味がありました。
おまけに光秀軍に不利なこと、具体的なことを述べ、手紙の信憑性をわからせようとします。

また他の手紙では、柴田勝家も京都に来て参戦する予定とか、全体的に光秀討伐に向かっていると思わせています。
高圧的ではなく、丁寧に理詰めで、いかに自分が優勢かということを知らせているのです。
他に選ぶ道はありませんでした。

摂津衆三人は、秀吉に協力すると約束します。
こうして、兵力の増強が完成したのです。

秀吉の情報収集能力は周りの武将は知っていたでしょう。
だからこそ、大きな嘘にも乗ったのかもしれません。

秀吉にとっては、情報は“命”であり“金”でした。
その武器を手に、のし上がってきたのです。
そして、あらゆる階層に対しての理解力・・・周囲が自分をどう見ているのか?その情報こそが秀吉最大の武器だったのです。


大返しの行軍は、後半はスピードは落ち着いてきていました。
秀吉は慎重に軍議を開きながら進んでいました。
信長の三男・信孝と合流。打倒光秀に向かって進みます。

光秀が頼りとしたのが、細川忠興と筒井順慶。
細川忠興は、光秀が最も信頼していた人物です。
筒井順慶は、光秀に取り立ててもらっていたので大恩がありました。

この二人が、自分の元へ馳せ参じてくれる・・・そう信じて疑っていませんでした。
が、この二人にも、秀吉の手が回っていたとも思われます。
大返しの最中、秀吉の側近から細川藤孝の重臣に宛てられた手紙には・・・
毛利と講和を結んだことや、姫路に到着したことなどが書かれています。
秀吉と細川が内通していたかも???

そして、筒井順慶の元にも手紙が・・・
秀吉が信孝を総大将にして支えていること、信孝が高槻に着陣したことを伝えています。

当時の御公儀である信孝が秀吉の味方になったこと・・・もう一度寝返らないように根回しを・・・。

そして・・・出陣しない、籠城してしまった二人・・・

山崎で両軍会い見えます。
その時秀吉軍に味方したのは中川秀勝。4時間後には決着がつきました。
明智光秀は、逃走中に殺害されてしまいました。

其の2週間後、清州会議が行われます。
信長の後継者を決める会議です。次男・信雄と三男・信孝・・・
どちらでしょうか???

やはり、山崎の合戦で武功を上げた信孝が有力でした。
勝家は、迷いもなく信孝を推薦。
しかし、秀吉はともに戦った信孝ではなく、亡き信忠の長男・三法師、まだ3歳でした。
その時丹羽長秀が・・・

「信長様の無念を晴らしたのは秀吉
 その顔を立てるべきではあるまいか」

総大将こそ信孝でしたが、全軍を指揮して勝利した功労者は秀吉でした。
そして、三法師に決まりました。
その目的は、織田家の簒奪だったのです。

中国大返しを成功し、信長の敵を討った時から、天下人への道は決まっていたのです。


ああ、何だか今回は、すっきりと理解できる内容で、さっぱりしました。るんるん


↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

【ポイント5倍】【新品/漫画】センゴク天正記 [1~12巻 全巻 最新刊] (著)宮下英樹
【ポイント5倍】【新品/漫画】センゴク天正記 [1~12巻 全巻 最新刊] (著)宮下英樹
センゴク合戦読本 (講談社文庫) [文庫] / 宮下英樹と「センゴク」取材班 (著); 講談社 (刊)
センゴク合戦読本 (講談社文庫) [文庫] / 宮下英樹と「センゴク」取材班 (著); 講談社...
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 09:54| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月01日

シリーズ・ヒーロー列伝A「宮本武蔵 巌流島ミステリー」

一説によると、今から400年前の1612年、関門海峡に浮かぶ無人島で、日本史上一番有名な決闘が行われました。

“巌流島の決闘”

147894_2[1].jpg

剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎。一対一の真剣勝負です。

この決闘に勝った宮本武蔵は、史上最強の剣豪として語り継がれることになります。
しかし、これは、後世かなり脚色されたものです。

肝心の決闘は・・・1612年説・1610年説・1600年説・・・
佐々木小次郎については何も解っていないのです。


武蔵が生涯沈黙を守った巌流島の決闘は、一体どんな戦いだったのでしょう。
今年は、巌流島の決闘から400年・・・
だから、いろんなところでやっているのですね。

なんと、コメンテーターは、ライバルたちの光芒にも出ていた高橋英樹さんと、加来耕三さんです。
国際武道大学教授の魚住孝至さんが違う意見を言ってくれるかも???

宮本武蔵―日本人の道 [単行本] / 魚住 孝至 (著); ぺりかん社 (刊)
宮本武蔵―日本人の道 [単行本] / 魚住 孝至 (著); ぺりかん社 (刊)

日本一有名な決闘なのに、何もわかっていない・・・不思議です。
この決闘が有名になるのは、武蔵が亡くなってから・・・歌舞伎で有名になるのです。

武蔵はこれをさかいに決闘をやめています。
きっと、そうさせる何かがあったのでしょう。


闘いがあったのは、関門海峡にある今も昔も“船島”。
小次郎の巌流に合わせて巌流島と呼ばれています。

武蔵の遅刻とニヒルな小次郎・・・
これは、吉川英治さんの「宮本武蔵」によるもので、たいへんドラマチックです。

宮本武蔵(1) [ 吉川英治 ]
宮本武蔵(1) [ 吉川英治 ]

諸国の武者修行の末に九州にたどり着いた宮本武蔵、迎え撃つは小倉藩・剣術指南役、長い刀の美剣士・佐々木小次郎です。

決闘の場は、“船島”

遅刻をした武蔵・・・
刀を抜いて鞘を捨てた小次郎に、
「小次郎負けたり!!
 勝つ気であればなんで鞘を投げ捨てむ」
小次郎の長刀が風を切り・・・
紙一重で武蔵の木刀が小次郎の頭に!!

武蔵が一撃で勝利をした名勝負です。

しかし、吉川英治も・・・
「信用できる記録がない・・・」
と、自分の作品が史実となってしまうのではないか???と危惧していました。

唯一の資料???小倉碑文には・・・

216264[1].jpg

真相・其の一・・・武蔵は遅刻していなかった???
小倉碑文には、“両雄 同時に相会す”とあります。
つまり、約束通りに行われたというのです。
この遅刻は、100年ほど後に書かれた「武高伝」に書かれているのです。

ちなみに待ったとなると、3時間待ったとか・・・


真相・其の二・・・武蔵は誰と戦ったのか???
武蔵の対戦相手は佐々木小次郎・・・
しかし、小倉碑文には、只巌流とあるのみ。
佐々木小次郎というのは作られたもので、130年後「かたき討ち巌流島」という歌舞伎が大流行をし、ここで初めて佐々木という苗字がつけられたのです。

真相・其の三・・・小次郎は老人だった???
1776年に書かれた二天記には・・・
小次郎は、戦国時代の剣豪・富田勢源・織田信長と同じ時代の人です。
その弟子だったと書いています。
そうとすれば・・・決闘当時70歳ぐらいだったのです。
結局・・・小次郎を示す資料は一つもありません。
強かったのであれば、資料がないということが不思議なのです。

真相・其の四・・・なぜ木刀で闘った???

小説では、島に向かう途中船の櫂を削ったとされています。
しかし、碑文には・・・真剣勝負であるにもかかわらず、木刀で闘うと宣言しています。
武蔵は、どうして不利な木刀を使い、あえて宣言したのでしょう???

一般の刀は刃渡り二尺四寸。
小次郎の刀は刃渡り三尺(全体の長さ120p)、武蔵の木刀は、126.7p・・・こちらのほうが少し長いのです。
つまり、武蔵のほうが長さで利があり、重さも軽いので早く打てるのでは???というのです。


宮本武蔵は、晩年“五輪書”で闘いを描いています。
13歳で新当流・有馬喜兵衛を。
16歳で強力の兵法者・秋山を打ち破り、21歳で都へ上り、天下の兵法者に会うのです。
「六十余度勝負す、一度もその利を失わず
 その程 年十三より二十八・九までの事なり」

巌流島の決闘は、武蔵29歳のとき、武蔵生涯で最後の闘いでした。
しかし、この巌流島については全く書かれていません。

巌流島に至るまでの武蔵の半生とは。。。

系図によると武蔵が生まれたのは天正10年、実父は田原家貞、兵庫県の名門武士でしたが、合戦によって農民となりました。

武蔵は、家を再興する強い気持ちがあったようです。
後に武蔵は、新免無二之助の養子になったとされています。
無二は剣術の達人で、武蔵は今の岡山県美作市宮本で育ちました。

平福で最初の決闘をします。武蔵は、より強い相手を求めて武者修行に精を出します。
そのクライマックスが、京都の吉岡一門との闘いです。
吉岡家は、足利将軍家の剣術師範、扶養第一の兵法者でした。

最初の勝負は、当主・吉岡清十郎。
武蔵は、木刀の一撃で清十郎を沈めます。
その仇討に、弟の伝七郎が。。。
5尺余りの長い木刀で挑んできます。武蔵はその木刀を奪い取り、一撃に終わらせます。

一乗寺下がり松・・・
2回の敗戦に吉岡一門は、決闘を申し入れます。
先頭に立ったのは、清十郎の幼子・又七郎そして、門生数百人・・・。
決闘に先立ち武蔵は、八大神社に参ります。
しかし、神にすがるという時点で負けている・・・と、鈴も鳴らすことなく、お参りすることもなく、闘いに挑んだそうです。

どうやって、百人と闘ったのでしょう???
小倉碑文も、さらっと書いています。

二天記では・・・
今回は、待ち伏せ戦略です。
そして、陣形の整わない中・・・又七郎を一刀両断。奇襲にあわてた門弟たちを蹴散らし。。。目的のためには、手段を選ばない・・・そんな非常な武蔵が伺えます。

武蔵は翌年、自らの書いた「兵道鏡」で自らを天下一と名乗るのです。
そう、今日からは、挑戦を受ける立場になったのです。


間違いなくいえることは、武蔵は家庭的には恵まれていなかったということです。
強くなるためにはどうしたらいいのか???
生き抜くこと・・・それが必要だったのです。

この当時、関ヶ原の合戦において西軍方の87大名が取り潰しとなり、50万人の牢人が発生していました。
いつ合戦があるのかわからない・・・
強い人たちを欲しがる時代でもあったのです。

生きるために緻密に作戦を練り、天下一になった武蔵・・・。
そんな武蔵、どうして京から九州へと向かったのでしょうか???

最大の謎・・・どうして小次郎と闘ったのでしょうか?

そこには、小倉藩・細川家の剣術師範をめぐる争いがあったと言われてきました。
しかし、勝った武蔵は師範に取り立てられていません。

門司上代・沼田延元の資料“沼田家記”によると・・・
闘いの発端は・・・
「双方の弟子たちが、互いに自分たちの流儀が優れていると兵法の勝劣を申し立て
 師匠である武蔵と小次郎が試合をすることに決まった。」
と・・・弟子同士のいざこざが原因というのです。

そこには・・・
細川家の家督をめぐる内紛説も加わります。

当時の藩主は、細川忠興、何年も前から三男・忠利に家督を譲ると言いながら・・・なかなか変わってくれません。
そこで、忠利は、武蔵を使って剣術指南・小次郎をやっつけ、忠興の面目を潰そうとしたのです。
つまり、細川親子の代理戦争だという説です。

さらに、沼田家記によると・・・
武蔵が帰った後、小次郎は蘇生をし・・・そして、隠れていた武蔵の弟子たちが、ボコボコにして打ち殺したというのです。

怒った小次郎の弟子たちは、武蔵に復讐すべく追ってきました。
そこで武蔵は、沼田延元にお願いし・・・鉄砲隊の護衛をつけてもらい、豊後にいる父親・無二の元へと送り届けてもらったというのです。

決闘の後、武蔵を保護したのは無二。
その頃無二は、豊後地方で剣術指南をしていました。
つまり、小次郎と父・無二の流儀との闘いで、止む無く武蔵が闘ったのかもしれません。

その後、ぷっつり闘うことをやめてしまった武蔵。。。
そこには、小次郎を殺したことに対する反省があったのかもしれません。
後に、剣に精神性を求めたのもそのせいかもしれません。
その原型は、巌流島だったのかも???

武蔵は、何のために闘ったのでしょう???
巌流について、何も解っていないということは、記録を残さない行為がどこかで働いていたのかもしれません。

加来先生は、細川親子の代理戦争説を推しています。

魚住先生は・・・
巌流島は、当時長府藩領なので、小倉藩の人が背後にいることはありえない・・・
父・無二と小次郎の弟子同士の確執説です。

父の流派のために武蔵が闘う???
今までの生き方から、その必要性がどこにあるのでしょうか???

「沼田家記」の真実性は???
そこに見るのは、時代背景です。
藩の内紛で、幕府に取り潰される危険性がある中、細川家の内紛を表に出すことは出来なかったのかもしれません。

どちらにしろ、いい気分ではなかった闘いだったようです。
残さないということは、そういうことなのかもしれません。

巌流島を最後に、決闘をやめた武蔵。。。
五輪書には・・・
「三十路を越して振り返ってみると
 私は兵法を極めて勝ったということではなかった。
 その後は、朝に夕に鍛錬を続け
 結局 兵法の道にやっとかなううようになったのは五十歳の頃であった。」
と書いてあります。

この二十年は、資料もなく、謎のままです。
この時代、戦国から太平の世への移り変わりがありました。
巌流島ののちに大坂夏の陣で豊臣家が滅び、徳川幕府の全国支配が始まります。
秀忠の時代には、40余りの大名がお取り潰しとなり、牢人となった人々が、職を求めて諸国を放浪しました。


この大坂夏の陣で・・・出陣した水野勝成(家康のいとこ)の出陣名簿には、宮本武蔵の名があり。。。
武蔵は、勝成の長男・勝重の護衛という大役を任されていました。
武蔵の評価が高かったことが伺えます。

そののち、家康の譜代大名・本田忠政に客分として・・・小笠原忠真にも客分として・・・
セレブだったのです。


特に播磨には、姫路城があります。
武蔵は、姫路城の城下町の町割り・・・都市計画を任されていました。
西国防衛の拠点としての姫路城のです。
特徴は、武家と町屋の区分がされていたこと、当時としては画期的でした。
武蔵は、経済成長を想定した街づくりをしていたのです。
商売をしやすい街・・・平和な時代には経済発展を。。。まっすぐな道を作りました。

武蔵は、養子・伊織を15歳で小笠原忠真に仕官させます。
剣では生きていけない時代・・・時代を先読みし、文官として生き残り、名を残すことを選ばせました。
伊織はのちに、筆頭家老とまで上り詰めます。

自分は客分として自由な地位を・・・
そして、養子には社会的な地位を固めさせました。


巌流島から30年、59歳になった武蔵は5年間を熊本で過ごします。
人生の集大成として書き出したのが、五輪書。。。
簡潔な言葉で兵法を書き表したこの本は、哲学書・ビジネス書としても海外で紹介されるようになりました。

定本五輪書|宮本武蔵/魚住孝至|新人物往来社|送料無料
定本五輪書|宮本武蔵/魚住孝至|新人物往来社|送料無料

「地・水・火・風・空」の五巻。
いかにして生きるか・・・
繰り返し登場するのは、“鍛錬”という言葉です。

「太刀の道を覚えて、総体やわらかになり
 身も足も心のままにほどけたるときに従い
 兵法の良し悪しを知る」

武蔵は、鍛錬することで、心も体も鍛錬することでリラックスする・・・
自由自在に動かせるようになると言います。


武蔵の太刀を継ぐ二天一流。その特徴は自然体・・・。
長い長い鍛錬の末に会得できると言います。
それが武道なのです。

「五輪書」最後の“空の巻”では・・・

「真実の道を知らない間は
 自分は確かなる道と思って
 良いことと思っても
 心の偏りによって間違っていることがある
 正しく明らかに
 大きいところを思いとって
 空を道とし 道を空とすべし」

と、締めくくっています。

武蔵がたどり着いた境地“空”とは?

己の身を磨き、心を磨き、迷いの雲の晴れるところ 真の空・・・
つまり、鍛錬の果てに開かれる境地だったのです。
空の中にある無・・・無我の境地なのかもしれません。

武蔵にとって巌流島とは???
どうして巌流島の決闘を書かなかったのか???

その巌流島の決闘の答えが「五輪書」かもしれません。
「五輪書」を書くことによって、自分自身を整理したかったのかも。。。
「五輪書」は、人間形成の原点とも思えます。
こうやって生きていくのが理想だ・・・そう、世界中の人が思えるのです。
「人間の指導書」なのかもしれません。

五輪書は、亡くなる1年前に書かれています。完成するのは1週間前です。
明らかに後世を意識した・・・そんな作品だったのです。
武蔵は本当の意味で強い人でした。

1645年5月19日、享年64歳で静かに息を引き取りました。

明治43年、巌流島の一角に、佐々木小次郎の碑が建ちました。
武蔵が書かなかったことで、小次郎は伝説として残ったのです。
400年たった今も巌流島の闘いは、私たちを惹きつけてやみません。

新装版 真説宮本武蔵 (講談社文庫) [文庫] / 司馬 遼太郎 (著); 講談社 (刊)
新装版 真説宮本武蔵 (講談社文庫) [文庫] / 司馬 遼太郎 (著); 講談社 (刊)
五輪書 (岩波文庫) [文庫] / 宮本 武蔵 (著); 渡辺 一郎 (編さん); 岩波書店 (刊)
五輪書 (岩波文庫) [文庫] / 宮本 武蔵 (著); 渡辺 一郎 (編さん); 岩波書店 (刊)



↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 08:11| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。