2013年01月11日

幕末大転換!逆境に活路を開け〜横浜・生麦事件〜

日本屈指の貿易港・・・横浜。
幕末、通商条約によって開港された異国情緒漂う街です。

今から150年前、横浜港外の生麦村である事件が・・・
1862年8月21日、乗馬を楽しむイギリス人男女4人が、薩摩藩の行列に遭遇し・・・
そのうちの一人・・・チャールズ・リチャードソンが無礼者として殺害された・・・

生麦事件です。

ひとりの青年の死が、イギリスと幕府、薩摩を巻き込んで、大事件へと発展しました。

mugi.png

その始まりは、不幸の偶然からでした。
日本のしきたりを知らなかったイギリス人たち・・・
出会ったのは、薩摩藩・島津久光の最強軍団だったのです。

この偶然が、幕末史を変えることとなりました。

イギリスの巨額賠償請求、海上封鎖計画・・・幕府の権威は失墜します。
薩英戦争の勃発・・・
徳川幕府の崩壊・・・時代は大きく明治維新に舵を切ることとなります。

位置づけとしては、ただ単に日本とイギリスの戦争ではなく、太平洋戦争のような。。。
世界史において重要な事件であることに間違いありません。

事件の舞台となったのは、現在の横浜市鶴見区生麦・・・
かつては、富士山と相模湾を望める絶好の場所で、旧東海道にあります。
道幅は三間・・・5.4mほどです。

事件現場は・・・お茶屋などがあり、旅人で賑わっていました。
そして、そこにはたくさんの偶然がありました。

偶然其の一・・・外国人と大名行列が出会う村。
生麦村は、条約で外国人の遊歩地区となっていました。
一方、東海道は、大名行列の通る幹線道路でした。

偶然其の二・・・上海から来た男
事件の被害者、チャールズ・リチャードソンは、イギリス商人です。
横浜にやってきたのは、2か月前・・・ロンドンに戻る前の観光でした。
初めての日本に好意を持っていたようです。
乗馬・・・4人が目指したのは、川崎大師。
風光明媚な東海道を続きます。
日本が初めてのリチャードソンが先頭になりました。
そこへ・・・江戸を下ってきた大名行列が・・・

駕籠に乗るのは、島津久光・・・
ただの大名行列ではなく、幕政改革のための率兵上京でした。
幕府の力が弱まっていたために、中央政局に出ていき幕藩体制の立て直しを図ろうという目論みがあったようです。
行列には・・・小松帯刀・大久保一蔵・黒田清隆・松方正義・・・そうそうたるメンバーです。
さらに、剣の達人たちも・・・その中には、攘夷に燃える者もいました。
精鋭400人の行列は、まさに、薩摩藩の最強軍団だったのです。

午後2時生麦村で・・・英国人一行と久光の行列が遭遇します。
先頭のリチャードソンとマーガレットは左端によりながら通ります。
馬から降りずに通る無礼な外国人に、藩士たちは怒りを覚えます。
そこへ、道幅いっぱいに久光の駕籠本体がやってきました。

逃げ場もなく、隊列に入ってしまったリチャードソン・・・そして・・・
悲劇が起こりました。
最初に動いたのは、奈良原喜佐衛門。リチャードソンを左肩から切り下げました。
薩摩藩士が一斉に抜刀し、イギリス人たちに斬りかかります。
逃げる途中にまたもや斬り付けられ・・・1キロ先で落馬、追ってきた藩士にとどめを刺されてしまいました。

イギリス人と薩摩藩士・・・
それぞれの立場で良かれと思ってとった行動でしたが・・・大事件となりました。
大名行列の権利とイギリスの権利がぶつかった大事件でした。

尾張藩主の徳川茂徳の大名行列が2年前にこのような事件に遭遇していましたが・・・
この時は、大名行列を眺めようとした外国人を・・・殿様も、オペラグラスで見たそうです。

この時の状況は、ただの参勤交代の大名行列ではなく、幕末の動乱の始まりと言われている久光の卒兵上京・・・大砲や銃などを隠し持って武装兵を連れての大名行列でした。

この時の久光は、慶喜を将軍後見人に、松平春嶽を大老にしようとしての状況だったのです。
しかし、幕閣からは冷たくあしらわれ、自分が幕政に関われなかった・・・
イライラしながら京へと戻る途中だったのです。

島津久光=幕末政治の焦点 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 町田 明広 (著); 講談社 (刊)
島津久光=幕末政治の焦点 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 町田 明広 (...

久光自身は、通商条約に反対ではなく、自らも貿易をし、富国強兵に励んでいました。
攘夷ではあるけれども、今の国力では勝てないことも知っていました。
だから、イギリス人を殺害してしまったことに対しては、かなり当惑していたようです。
このことが、薩摩藩にとっての国難になる・・・そのことは、薩摩藩も容易にわかったことでした。

久光たちは、予定通りに程ヶ谷宿へ・・・。
一方、横浜の外国人居留地は騒然・・・

ジャパン・ヘラルド紙には・・・
世にも無残な血まみれの遺体だったとしています。

夜10時怒りに燃える外国人たちは緊急会議を開きます。

「薩摩の大名の宿を襲撃すべきだ!!」

深夜3時・・・居留民代表は、軍事行動を求めて・・・ジョン・ニール代理公使の下へ・・・
しかし、軍隊の派遣はかたくなに拒否・・・。
この重大性を理解していたようです。

日本は開国以来、事件が多発していました。
ロシア海軍軍人殺害事件・オランダ船長殺害事件・ヒュースケン殺害事件・東禅寺事件・・・
攘夷派浪士のしたものでしたが、今回は犯人は薩摩藩と犯人が解っています。
慎重な行動が必要でした。

幕府が訪問した時に質問しています。
「幕府には、薩摩藩の侍を逮捕する権利や実行力があるのか???」と。

それに対し幕府は・・・
「薩摩は強力な雄藩。
 幕府は犯人の引き渡しを藩主に強制できません。」

この時ニールは・・・幕府と同じくらいに藩が権力を持っていることを確認します。
そして・・・本国に報告、判断を仰ぎました。

一方、加害者である薩摩藩・島津久光一行は・・・
無礼討ちを主張!!

入京した久光を迎えたのは、
「よくぞ異人を切った!!」と、誉められます。

久光は、このことについて苦々しく「攘夷ではない」と言っています。
「攘夷を強行すれば敗北、国内の武備の充実が先決である」と。

しかし、攘夷一色となっていた朝廷は、全く聞く耳を持ちません。
過激な攘夷に反対しながらも、生麦事件で攘夷のチャンピオンになってしまった久光・・・
不本意ながら、鹿児島へと帰っていくのでした。


事件から4か月後、イギリスは・・・
幕府と薩摩藩の両方に責任を取らせようとします。
幕府に対しては、監督責任として女王陛下への正式謝罪と賠償金10万ポンド(240億円)。
薩摩藩に対しては、犯人の即時逮捕および処刑、遺族と被害者に2万5000ポンドの賠償金。
イギリスの二重賠償請求・・・幕府と薩摩の両方に賠償を求めたのは、画期的なことです。
幕府だけでこの国は動いているのではない・・・
帝(天皇)・大君(将軍)・諸侯(大名)の3つで日本は成り立っている・・・ということを、ニールは知っていたのです。


1863年2月19日、イギリス艦隊が横浜に入港します。
資料によると・・・幕府が要求を拒絶した場合のイギリスの報復が書かれてあります。
即刻軍艦を回し、大坂・長崎・函館その他諸港に至るまで出入りの船を奪い江戸を焼き払う・・・日本に対する武力発動が・・・という大意が書かれていました。
主要な港を封鎖し、瀬戸内海を遮断し、江戸に入るコメなどの流通を阻止しようとしていたのです。
さらに品川平を襲撃する・・・


幕府はこの時、朝廷から攘夷を迫られていました。
朝廷は条約破棄を望み、賠償金も払うなという考えです。
賠償金を支払えば・・・非難の的になること間違いなしです・・・。
交渉の引き延ばしにかかろうとしますが・・・
イギリス側は、4月20日までに回答がなければ交渉を決裂すると言い出します。

迫る戦争の危機と、攘夷の国内勢力・・・ギリギリの状態の中、迷った挙句に賠償金の支払いに応じます。
とりあえず、戦争を回避しました。

決断できない幕府をよそに、薩摩は自分側には非はないと貫きます。
この強気な薩摩の本音は何なのでしょう???
イギリスは犯人の要求でしたが、その手紙が幕府内を転々としているうちに・・・尾ひれがついて、薩摩に渡った時には「久光の首をよこせ」となっていたのです。
これには応じるわけにはいかない・・・
この情報が、薩摩藩の攘夷派を激怒させます。

この空気に・・・久光も海戦を覚悟します。
敵に屈することは恥・・・
85門の砲台を築き、戦闘準備が始められます。

1863年6月27日イギリス艦隊鹿児島に到着。賠償を要求しましたが、薩摩はこれを拒否。
7月2日夜明け前・・・イギリスが薩摩の蒸気船3隻を拿捕、これを宣戦布告と見なし、薩摩は砲撃を開始・・・薩英戦争が始まりました。
2日に及ぶ砲撃船の結果・・・イギリス、薩摩に想定外のことが起こります。

実はイギリス艦隊は、戦うつもりはなく・・・
というか、薩摩側が「戦うのは無理だろうから賠償金を支払うだろう」と思っていたのです。
大砲に砲弾を装てんしていなかったイギリス・・・
旗艦ユーリアラス号には、弾薬庫の前に幕府から巻き上げた賠償金を積んでいました。
これにより、反撃するのに2時間以上かかったのです。
薩摩の砲弾が命中し、艦長と副長が即死。
2日間で薩摩軍は死者24人だったのに対し、イギリス側は63名に上りました。
この時、イギリス艦隊の火が鹿児島の町に飛び火し、大火をまねきます。

イギリス艦隊のキューパー提督はこれを戦果として強調、それがイギリス議会・教会関係者の大きな非難を呼びます。
「日本の家は、竹と紙でできていると聞く・・・非武装の一般人の家を破壊することが、今後の戦争における先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろしいことになるであろう。」
恥ずべき犯罪行為として、ヴィクトリア女王が遺憾の意を示すまでになります。
帝国主義のイギリスも、市民に対する戦いについては批判する目も持っていたのです。

一方の薩摩、イギリスとの戦力の差を痛感します。
薩摩藩の丸い砲弾に対して、イギリス側は溝の掘られたしいの実型の砲弾で、3倍の飛距離があり、薩摩の被害は甚大でした。
これによって、過激な攘夷派も頭を打って、目を覚ましてくれるかもしれない・・・。

「無謀な攘夷は出来ない」ということを痛感します。

お互いにこれ以上の戦闘は望んでいませんでした。


久光は・・・松平容保と一緒にダブル京都守護職になるかもしれなかったのですが・・・
この薩英戦争のゴタゴタのために京都に入ることが出来ませんでした。
もし、久光が容保と一緒に京都守護職になっていたら・・・
尊皇攘夷運動も、大きくならなかったかもしれません。

講和に選ばれたのは、薩摩藩士・重野厚之丞。学者肌で知略に富んだ男です。
下級武士ながら、久光の庭方役、交渉の全面を任されていました。
明治に入ってからは、東京大学の教授になった男です。

横浜のイギリス公使館で行われた講和交渉では・・・

交渉第1日目・9月28日
重野「もともとイギリスと日本は条約和親の国、日本に属する薩摩も貴国と同じ戦争をする理由などありません。」
ニール「私たちも同様、日本は条約国。薩摩のみならず日本と戦争をする理由はない」

交渉は、お互いの友好を確認するところから始まります。
しかし・・・
重野「戦争になったわけは、わが蒸気船を何の知らせもなく奪ったためやむをえなく発砲したのである。」
ニール「戦争をするつもりではなく、交渉のために奪ったのだ。
    私たちは、賠償を求めるために鹿児島に行ったのであって、決して戦いをしたかったのではない。
    薩摩とは仲良くしたいので、まずそちらからの和議の申し立てをしてほしい。」
重野「イギリス人を斬ったものを罰し、賠償金をお渡ししましょう。
   ただし、蒸気船を奪ったことはどのようにしていただけるのか?
   この戦争は、全くそちらから手を出したものですから、その答え次第で方針を考えましょう。」

生麦事件の非は認めても、薩英戦争を始めたのはイギリスだ・・・と、交渉をイーブンにしようとします。

2日目・10月4日

平行線をたどります。
重野「蒸気船を奪ったのは不当である」
ニール「交渉のために奪ったまで、当然のことだ」

険悪な雰囲気になります。
その夜・・・交渉決裂だけは避けたい薩摩側は・・・

3日目・10月5日
重野「賠償金をお支払いしましょう。ただし条件があります。
   軍艦を買い入れたいので斡旋していただきたい。」
ニールはあっけにとられます。
重野「賠償金支払いの決定は、本来自分の役割を超えたこと。
   しかし、その条件として軍艦を購入すれば、両国懇親の印となり、主君への申し訳も立ちます。」
ニール「しかし、一体誰と戦争をするつもりなのですか?」
重野「今、誰が敵ということはありませんが、兵備として備えておきたい。
   一隻のみとは言わず、追々は数隻注文したいと思っています。」

イギリスにとっては、本来の目的は通商・・・喜んでこれを受け入れました。
ニール「20隻でも用意しましょう」

重野は、賠償交渉を戦艦を出すことで通商交渉へと持っていきました。
さらには、若者30人の留学を提案します。
そこにあるのは、“敵に学ぼう”の精神で、人材の育成まで視野に入れて交渉をしていたのです。

こうして薩摩が賠償金を払ったのですが、これは幕府から借りたもの。薩摩からは一文も払わなかったのです。
これ以後、イギリスと急接近していきます。

ちなみにこういうときは、幕府の目付がついた中、交渉に臨んでいます。
つまり・・・幕府に“薩摩はこれから軍艦を手に入れるのだ”ということを、教える・・・一石三鳥のことを成し遂げたのです。

薩摩には、重野クラスの人間はたくさんいたようです。
地理的にも海洋国家として開けており、外交感覚が研ぎ澄まされていたということ、そして、斉彬が存在していたということ・・・その後を久光が継いだ・・・
このことが、いい結果を生んだと言われています。


イギリスと和親を結んだ薩摩は・・・
久光の指示で活動したのが、小松帯刀。
長崎のイギリス商人グラバーから最新式の軍艦、大砲・・・、軍備の増強を図ります。さらに、パークスを鹿児島に招待。
これが、イギリスが幕府から薩摩寄りになった要因とも言われています。

久光は幕府に見切りをつけ・・・
宿敵・長州藩に目をつけます。
長州はこれまで過激攘夷派で薩摩と対立していました。

しかし、長州藩は、下関戦争で完膚なきまでに叩かれ・・・過激攘夷という考えから方向転換しようとしていました。

これで薩摩と長州が同じ方向を向いたのです。
幕府から武器の購入を禁止され窮地に陥っていた長州に、イギリスから手に入れた武器を渡します。
おおっぴらにはできないので、坂本龍馬の亀山社中を使うのです。。。

これが、薩長同盟です。
生麦事件を発端にして、幕末最大の転換期を迎えたのです。

その後、倒幕をめざし・・・明治政府で活躍していくことになるのです。

薩摩藩は・・・近現代的な感覚を持った集団だったようです。
その中心には、久光・・・小松帯刀だったのです。

重野の外交術、小松帯刀の外交術・・・今にも必要な人であることには間違いないのでした。


リチャードソンが亡くなったところに建てられた石碑には・・・
「君此の海壖に流血す 我邦の変進も亦其れを源とす」
と、書かれています。

忘れ去られた維新の立役者〜小松帯刀〜はこちら
幕末。日本外交は弱腰にあらず。はこちら

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2012年12月20日

「妻よ!子よ!家族をめぐる忠臣蔵〜大石内蔵助・究極の選択〜」

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元禄15年12月14日47人の侍が吉良上野介の屋敷に・・・元禄赤穂事件です。
いわゆる忠臣蔵は、主君の汚名を雪ぐ忠義の物語として、たくさんの日本人に愛されてきました。

討ち入った浪士たちは、切腹して果てました。それだけにとどまらず、家族は厳しい現実に晒されます。
主君のために家族を犠牲にした浪士たち・・・彼らは討ち入る寸前まで葛藤していました。討ち入り直前の手紙には・・・家族を思う痛切な思いがありました。

木村岡右衛門
「娘は、堅実な家に養子にやってください。
 あなた(妻)は、私の49日が終わったら早々に再婚してください。」

討ち入りか家族か・・・
萱野三平
「忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。
 悩んだ末に自殺します。」

兵庫県赤穂市・・・ここには47士に関する史跡が・・・
大石神社・・・ここには、47士を今に伝える木像が残っています。
神社には、浪士たちが討ち入り前に家族に残した手紙が残っていました。

大高源吾・・・年老いた母への手紙が。
「今更申し上げるべきこともございませんが、これが最後の手紙です。
 本当に本当に、先立ちます不孝の罪は 後生も恐ろしく存じますが、
 私事で捨てる命ではございませんので、
 深くお嘆きにならずに、私のために御念仏を唱えていただくよう頼みます。」

神崎与五郎・・・母親の面倒を妻に頼みます。
「侍の妻たるものが、夫の事ばかりを考えて嘆くというようなことは良くないので
 よくよく気をしっかりと持って 心を取り直してください。
 私もあなたのことが恋しいけれど これは人間としの務めなのです。」

浪士たちが残した手紙には、忠義ではない家族への思いが綴られていました。
生活者としての武士の有り方はどうだったのでしょうか?

1600年から1700年の時代・・・元禄期は核家族の時代でした。
ただし、武家の家は、百姓や町人とは違い、自分の代で粗相をすると潰されてしまう・・・住む家もなくなり、家族が路頭に迷ってしまう・・・そんな時代でした。

家族の単位は小さくなっても、世間の目は気にしなければならない・・・そんな時代でした。

大石内蔵助には、モーレツ家老とマイホームパパ・・・2つの顔がありました。
5万石の赤穂藩、内蔵助は藩主浅野内匠頭に続く筆頭家老でした。
およそ1900坪の広大な屋敷で、妻・子どもたちと幸せな暮らしをしていました。

そんな大石家の幸せな生活が一変します。
元禄14年3月14日。。。
主君・浅野内匠頭が殿中で・・・刃傷事件を起こしてしまいます。
内匠守は、即日切腹、浅野家はお取り潰し・・・1か月後の城の明け渡し・・・

つまり、藩主の不祥事で赤穂藩は倒産、家臣全員失業、家族もろとも路頭に迷うことになったのです。

内蔵助の選択の日々・・・

内蔵助の決断は、“城の明け渡し”でした。

@江戸藩邸の明け渡し
 上屋敷&二つの下屋敷を1週間ぐらいで。
A国元で藩札の回収
B残務整理(引き継ぎ書類の作成)
C家臣全員城下町から退去


「大学様の面目もある
 謹慎が解かれ、人前が成り立つよう
 上野介に何らかの処罰がなければこのままでは置かない。
 今回のことは、内蔵助に任せてほしい・・・」

まず、内蔵助が優先したのは、幕府に働きかけ浅野大学を浅野家の新たな主君とし、お家を再興することでした。
これが実現すれば、家臣たちはそっくり再就職できます。

元禄14年4月19日、素直に赤穂城を明け渡します。

その後謎の行動に・・・???

内蔵助が藩士との間に交わした御神文には・・・
「このたびの相談の御主意を間違いなく申し合わせ
 本意を達すること
 一儀については他人はもちろん
 親子 兄弟 妻子であっても決して伝えないこと
 これに反したものは、日の本国中の神仏の罰を受ける」

抽象的な言葉が並んでいますが・・・
この曖昧な言葉に、政治的意味がありました。

藩士300余名のうち、これに署名したのは120名ほど・・・
残りの藩士たちは、身寄りを頼ったり内蔵助と袂をわかったのです。

元禄14年3月21日
内蔵助は、親戚に宛てた手紙に住居探しを頼んでいます。
「山科・・・山崎あたりで山裾の良い場所がないでしょうか・・・
 14、5人が出入りすることになるでしょう。
 伏見、大津あたりでも結構・・・」

それは、作戦基地???
それとも、終の棲家???


てんやわんやの中、財政や経済担当の家老・大野九郎兵衛がいなくなってしまいました。すべてのことを一人で指揮をしなければならない内蔵助。。。

江戸詰の藩士だった堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫から、今すぐ吉良邸へ討ち入るべきだと手紙が来ます。
「江戸に住む自分たちにとって、上野介を眼前にしているのは不快である
 一日も早く鬱憤を晴らしたい念願だけを抱いている」

おまけに、江戸では討ち入りを望む声が・・・
「江戸の大名 小名 旗本の間でも、浅野家は由緒ある家柄であり、義を立てる武士がいないはずはないから、主人の敵を見逃すことがないだろうと江戸中で評判である。」

元禄14年11月江戸会議。
内蔵助は、江戸に赴き、浪士たちと会談します。
“浅野内匠頭の一周忌まで行動を起こさないこと”を約束させますが・・・

1か月後幕府の裁定が・・・
吉良上野介の隠居、義周の跡目相続を許しました。
吉良におとがめなし・・・これによって、けんか両成敗という内蔵助の希望が打ち砕かれました。
隠居をする=家に対する処分はなされない・・・ということになってしまいました。

この頃から、脱名者が出てきます。
高田郡兵衛はオジにばれ泣く泣く脱盟、
萱野三平は父親に再就職を勧められ断りますが・・・理由は父にも秘密、遺書を残して切腹します。
「神文を交わし、親子の間柄でも口外しないと誓ったため、忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。悩んだ末に自殺します。」

悲劇の脱名者が出る中、説得する内蔵助。
浅野家の再興の望みが消えない限り、討ち入りは思いとどまるように・・・と。

本当に再興の余地があったのか???
この時代までに50の大名がお取り潰しになっている現状を踏まえると、なかなか難しかったようです。

ooi.png

では、内蔵助の討ち入りへの決断と家族との別れはどうだったのでしょうか?

元禄14年12月15日長男・松之丞元服。
の誕生です。

ここに、大きなメッセージが・・・。
仇討への参加、江戸に対するアピールの意味があったようです。

4月15日、妻・理玖と長女・くうを実家に帰しました。
この時、おなかの子の出産準備の帰京とされました。
6月次男・吉千代出家。
7月5日三男・大三郎出産。
わが子の顔を見ることは永久にありませんでした。


また・・・この頃、討ち入りに参加する人も出てきました。
原惣右衛門
「群れを離れ、少人数で討ち入りたいと思っています。
 内蔵助をはじめとする上方衆を排除して討ち入れば、大学様への処分もないでしょう。
 同志を募れば14、5人は集まるでしょう。」

内蔵助抜きで???

ところが・・・7月18日。
浅野大学が、広島の浅野本家のお預かりとなってしまいました。
お家の再興の望みは絶たれてしまいました。

7月28日円山会議
ついに内蔵助は討ち入りを表明します。
そうなると、脱名者相次ぎます。
どういう層が離脱するか・・・
それは、お家再興を望んでいる上層の人たち・・・再仕官したいと思っている人たちなのです。
自分の家の断絶との間で悩みます。

閏8月、進藤源四郎、小山源五左衛門、大石孫四郎他、11名が脱盟。
その後も、9月8名、10月2名、11月6名・・・

内蔵助は・・・
「小野寺十内殿の御一家は、大勢 今回の討ち入りに参加され、その志は後代までの名誉になると羨ましく思います。
大石一家は大腰抜けで我々父子のほかに大石の名字を持つ参加者は大石瀬左衛門一人、面目ないことであります。
 家来の瀬尾孫左衛門も去る3日に立ち退きました。
身分の軽いものなので、そのような家来までが討ち入りに参加すれば私の名誉にもなると喜んでいたのに不届至極です。

内蔵助は、なるべくたくさんの人で参加したいと思っていたようです。
急進派が少人数ですれば犯罪だが、大人数で市民が注目する中で首を撮れば、裁きになるかも???という新しい状況を(お家再興???)望んでいたのです。

10月1日内蔵助は・・・妻の父に“離縁状”を・・・。
当時、事件を起こすと家族連帯、一族連帯の責任を負わされます。
家族を守るための離縁だったようです。

もうやれることはすべてやった・・・
そして、運命の日。。。

江戸城の刃傷事件から1年10か月・・・
47士・・・
のうち19名は、4つのファミリーに属していました。
大石グループ・奥田グループ・小野寺グループ・吉田グループです。
実に、26名が家族や親族で参加していました。

さらに家族たちの名誉を守るために、内蔵助は討ち入りの正当性を主張します。
脱名者を誹謗中傷することで正当性を導き出そうとしています。
そして、“浅野家家来口上書”では・・・討ち入りを克明に記録していました。

「上野介を討ちとめることが出来なかった内匠頭の心底を考えると、家臣には忍び難いものがある。
 不倶戴天の敵を討つために吉良邸に討ち入る。」
内蔵助にとって討ち入りを正当化することは、吉良の首を取ることと同じぐらいに重要なことでした。

残った人たちの名誉を獲得する・・・
討ち入った人たちの家族たちが再生活できる環境を整えていく・・・ことが必要でした。

元禄15年12月14日。
300余名だった赤穂藩士・・・討ち入りに参加したのは47士。
内蔵助は、浪士たちを引き連れて吉良の屋敷に・・・。

2時間余りの激闘の末、吉良の首を取りました。
主君の仇討を果たしたのです。

討ち入りから2カ月足らず・・・裁きが下ります。
元禄16年2月4日内蔵助ら46名が切腹・・・
罪人としてではなく、武士としての切腹でした。

泉岳寺に仲間たちと埋葬された内蔵助・・・
享年45歳でした。

それから10年・・・
内蔵助の3男・大三郎が、広島藩・浅野本家に1500石で召し抱えられます。
破格のこと。。。大石家のお家再興です。
筆頭家老の内蔵助と同じ石高でした。

主君の仇討・・・討ち入りだけではなく、そこにあるそれぞれの家族の思い・・・
それが、忠臣蔵の人気なのでしょうか?
今でも私たちは内蔵助の物語の中に入り込んでいるのかもしれません。


忠義を果たした赤穂藩家老〜大石内蔵助〜はこちら

あなたの知らない忠臣蔵〜常識逆転・武士道の真実〜はこちら

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2012年12月17日

ミッドウェー海戦 敗北が語る日本の弱点

2012年6月に行われた式典・・・それは、ミッドウェー海戦の60周年というものでした。
アメリカ・ミッドウェー島・・・小さな島をめぐっての激しい戦いでした。

1942年6月4日日本軍は、島にあったアメリカ軍基地への攻撃を開始します。
真珠湾攻撃の成功によって、勢いに乗っていた日本軍・・・
ミッドウェー海戦では、4隻の主力空母を投入、勝利を確信していました。

負けるなんて疑ってもいませんでした。
アメリカの攻撃の前に、空母は次々と炎上・・・
わずか1日で、空母4隻沈没、戦死者3000人以上も出してしまいました。
大敗北を喫したのです。

なぜ、負けるはずのなかった戦いに敗れたのでしょうか?
そこには、日本が想定していなかったアメリカ軍の奇襲作戦がありました。

アメリカは徹底した情報戦略で、空母で待ち伏せしていました。
近年公開された文書で、作戦の全貌が暴かれていたことがわかりました。

日本軍の情報は???
日本は、敵の戦力を過小評価していました。

一体どんな戦いだったのでしょうか?
それは、日本の組織の悪いところが全部出てしまった戦いでした。

アメリカが、日本の敗戦を分析したところによると・・・
@国力判断の誤り
A情報軽視
B兵站軽視
C組織の不統一
をあげています。

このCが、アメリカから見ても明らかだったそうです。

日本軍は、作戦重視、情報軽視で突き進んでいきます。
作戦ありきで後付していく・・・
そんな情報でした。

1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃をもって、日米の火ぶたあが切って落とされました。
この戦いで、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦を多数撃沈し・・・
大戦果を挙げることになります。

以来、半年にわたり、海軍はラバウル・オーストラリア・セイロン島を強襲・・・快進撃を続けました。

その推進役が・・・
連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
山本は当時、航空母艦をあえて主力にして戦いを決行。
空母は、飛行機の発着を目的とした飛行甲板を持つ大型戦艦、画期的な兵器でした。

一見、日本の大勝利に見えた真珠湾攻撃・・・
しかし、山本はこの時、敵の3隻の主力空母を取り逃がしていました。
いずれ日本の脅威になる・・・
そう思った山本が立案したのが、ミッドウェー島攻略でした。


広島県呉市、かつて帝国海軍の拠点となりました。
ミッドウェー海戦の1か月前、1942年5月1日、戦艦大和で、ミッドウェー作戦図上演習が行われました。およそ100人が集まりました。
それを統括したのが、山本五十六と参謀長・宇垣纏です。

山本五十六は、アメリカに留学経験があり、日米の圧倒的な国力の差を知っていました。
だからこそ、長期戦に勝ち目はないと、考えていました、
早期決戦を考えていたのです。

作戦実施日は、1942年6月上旬とさだめました。

作戦計画では・・・
日本の空母は、赤城・加賀・蒼龍・飛龍。
@空母の飛行部隊がミッドウェー基地を空襲
A攻略部隊が上陸・占領
Bハワイからアメリカ空母を誘い出し撃滅させる
というものでした。

図上演習では・・・
サイコロを振って演習を行うのですが・・・

その出た目は。。。
アメリカ空母が逆襲・・・
空母は2隻沈没・1隻大破というさんさんたるものでした・・・。

参謀長の宇垣は・・・
「今のアメリカの命中弾は、1/3の3発とする。
 加賀沈没、赤城小破とせよ」
と、変更させました。

しかし・・・異議を唱える者はいません。
図上演習は、そのまま進み・・・日本の勝利で終わりました。
作戦を見直す時間のない中で、日本の勝利は変更できなかったそうです。

この作戦で勝つ・・・とならなければ、海戦後に上陸する輸送部隊、上陸部隊の演習が全部ストップしてしまう・・・。

実際に、敵空母が現れたらどう戦うのか???
本来、問題点を考えるための図上演習であるのに、作戦の練り直しは行われませんでした。
これがのちに、致命的な問題となることは、誰も知る由はありませんでした。

このミッドウェー作戦は、これから続くハワイ攻略の前哨戦・・・
止めてしまうことは出来なかったのです。

真珠湾の時も、この図上演習は行われています。
空母4隻で壊滅させられたので、2回目の図上演習を空母6隻で行っています。
時間があれば、作戦の見直しが出来たであろうに・・・

幕僚は延長した方が良いのでは???
でも、山本が首を縦にふらなかったのです。
アメリカが対日戦の前面に出てくる前に・・・
短期決戦をしたかったのでしょう。
山本は、戦果を見せつけないと、国民の心は離れてしまう・・・そう、思っていたようです。
国民の士気に対する平板な思い、固い考えがあったのです。

快進撃の絶頂期にあったミッドウェー海戦。そんな中、戦いの質が変わってきました。
軍艦による戦いと、空母による戦いの違いです。
軍艦はお互いが見えますが、空母は全く見えません。
つまり、情報戦へと変化していったのです。

日本が戦いに急ぐ中、アメリカ軍はどう動いていたのでしょう?
上官は、日本海軍の作戦内容について詳しく知っていました。
日本艦隊は162隻、4つの異なる進撃ルート・・・
司令官山本率いる戦艦大和の部隊、加賀・赤城・蒼龍・飛龍4隻の空母による奇襲攻撃だと・・・

どうして、筒抜けになっていたのでしょう??

ミッドウェー海戦の半年前、ハワイ真珠湾で日本に屈辱の敗北を喫したアメリカ・・・
責任を問われた太平洋艦隊司令長官・ハズバンド・キンメルは・・・更迭され、信任はチェスター・ミニッツでした。

真珠湾の過ちを繰り返さない・・・
ミニッツが最も大事にしたのが情報でした。
日本軍の暗号の解読に成功します。
太平洋艦隊司令部・暗号解読反では150人近い要員が、真珠湾攻撃の雪辱を晴らそうと・・・
24時間体制で解読に当たっていました。

日本側の動向を監視するミニッツ。
アメリカ国立公文書館には・・・決定的な文書が残っていました。

1942年5月13日、航空機運搬艦 五州丸の暗号解読電文です。
「基地設備と兵員を乗せAFに進出せよ」
とあります。
日本の攻撃目標をAFと特定したのです。
地点符号AF・・・それは、ミッドウェー島かさらに南のジョンストン島・・・と割り出します。
そこで・・・アメリカ軍はミッドウェーからハワイに平電文を出します。

「ミッドウェー島は真水が不足している」と。

偽の情報を傍受した日本軍は、本国に打電します。

「AFは真水が不足している」

日本軍の攻撃先が、ミッドウェーとバレた瞬間でした。


さらにミニッツは、日本軍の攻撃日を6月4日と断定。
戦いの準備を始めました。
ミッドウェーに爆撃機、戦闘機を増援、防衛も強化しました。
南太平洋にいた主力空母3隻をハワイに呼び戻します。
空母ヨークタウンは、90日の修理を不眠不休の72時間で突貫工事します。

そして、日本軍のミッドウェーに至る進撃ルートも解析します。
日本の侵攻作戦に対し、奇襲作戦に打って出ます。
空母3隻で待ち伏せします。
暗号解読班の予測通りに日本軍がやってきました。

アメリカ軍は、情報を武器にしたのです。

日本の情報を完全に把握していたアメリカ・・・
それは、ミッドウェーで初めて解読されたわけではなく・・・
1942年5月にあった南太平洋「珊瑚海」で行われた日本対連合国の海戦で、日本の動きは察知していました。
しかし、日本軍は、それにさえ気付いていなかったようです。

日本軍の防諜については、やっているものの・・・
アメリカほど諜報を重んじていなかったのです。

アメリカに情報が漏れているかもしれない・・・
というのは、誰かが秘密を漏らしている、と、考えたようです。

例えば、代表的なのがゾルゲ事件。

日本海軍は、諜報活動は泥棒行為である・・・とすら思っていたようです。
正々堂々、作戦で打ち破る!!それが日本海軍の考え方でした。
そして、日本語の暗号が読まれるわけはないという根拠のない自信がありました。


アメリカの暗号と日本の暗号、難易度は???
日本海軍の暗号は、難易度は高かったようですが、アメリカが人海戦術を持って解読に成功したのです。
このアメリカと日本の情報に対する重きの違い・・・
それは、日本が情報を軽視しすぎる傾向があるのです。


1942年5月27日赤城・加賀・蒼龍・飛龍の機動部隊が出撃します。
空母機動部隊司令長官は南雲忠一でした。
そこに、山本率いる戦艦大和も続きます。

暗号が解読されているとも知らずに・・・

現地時間6月4日午前4時30分、空母部隊が到着すると・・・索敵を開始しました。
通常2回行われる索敵・・・ミッドウェー海戦時は1回のみでした。
その網も荒いものでした。おまけに、雲の上を飛ぶ者さえありました。
その雲の下に、敵艦隊が忍び寄っていたのです。3隻の敵戦艦があったのに・・・

午前6時30分ミッドウェー島空襲開始。
108機が空襲を開始します。
しかし・・・待ち受けていたのは、アメリカ軍の激しい反撃でした。
30分後、南雲司令部に報告が入ります。

「第2次攻撃の要あり」

この時、空母上には、攻撃機の約半数が待機、敵空母との戦いに備えていました。
魚雷・艦船用爆弾も装備しています。
しかし・・・第2次攻撃に見交わせるためには、対空母用の魚雷を陸上用爆弾へと変えなければなりませんでした。
作業に90分はかかるのです。

敵の空母に備えるのか?
ミッドウェー島の陸上攻撃を優先させるのか???

判断は・・・
「第2次攻撃隊の兵装を陸上用爆弾とせよ!!」
でした。

敵空母はいないだろうという判断でした。
急な作戦変更・・・
そこに危機が・・・

ミッドウェー島から攻撃隊が・・・次々と到達してきました。
迎撃したのは、当時世界最強と詠われた零戦でした。
攻撃は最大の防御とばりに攻撃をはね返します。

午前8時20分・・・
「敵は後方に母艦を伴う」との情報が入ってきました。
アメリカの航空母艦を発見したのです。


敵を探索すること・・・当時、空母にも偵察機すら乗せていませんでした。
偵察を軽んじていたこともうかがえます。
攻撃重視の日本海軍・・・

東条英機は、そもそもイギリスと戦争しようと思っていました。
アメリカが来るとは思っていなかったので・・・
アメリカと日本の関係は、抽象的だったとも言えるでしょう。

敵戦艦に驚愕する南雲中将。。。

急きょ空母との戦いを強いられます。
@陸上用爆撃機のまま直ちに出撃する
陸上用爆弾には、空母破壊の威力はありません。
でも、飛行甲板を破壊することで、航空機の発着を不能に出来ます。

A万全の態勢で攻撃に臨む。
時間をかけて、魚雷に付け替える・・・
これなら敵空母に致命傷を負わせることが出来ます。

南雲の決断は・・・
「雷装に転換せよ」
でした。

艦内は再び大混乱・・・
再び兵装転換作業に入ります。

零戦は、敵戦闘機と戦っており、空母上はがら空き状態・・・
そこに、新たな敵が・・・急降下爆撃機・ドーントレスです。

その時、甲板には、満タンに燃料を積んだ爆撃機と、魚雷、爆弾が所狭しと置かれていました。
あっという間の出来事でした。
わずか10分の間に、赤城・加賀・蒼龍の3隻が被弾、炎上しました。
最後に残った飛龍は、反撃を開始します。
必死の攻防の末、ヨークタウン大破。
しかし、反撃もそこまで・・・飛龍も敵の攻撃を受け炎上。
6月5日午前2時55分、全軍退去命令が出ました。

地獄のような有様でした。

日本は、1日で4隻の主力空母、約300機の航空機、3000人以上の将兵を失うことになりました。
日本海軍必勝の戦いだったミッドウェー海戦は、一方的な大敗北に終わったのです。


どうして、ずぶの素人の南雲中将が指揮したのか???
それは、年次と学校の成績です。
おまけに、空母戦は、1か月前が初めてという世界で初めての戦い方だったのです。
ドイツやイギリスなどではありえない戦い方です。

そこを考えると、南雲だけを責めるのは酷・・・
全ての人が、未知の戦いだったのです。
空母同士の戦いの勝敗は、10か0・・・五分五分のない戦いなのです。


兵装転換の理由は???
陸上用爆弾が空母に有効かどうかがわからない・・・
零戦の護衛なしでの行くのは危険・・・
この葛藤から、兵装転換を行ったようです。


「陸」の組織での情報収集は・・・
南満州鉄道による「陸」の情報収集があり、約40万人の社員を動員して満州国や中国の情報を・・・官と民の情報を上手く使っていました。

しかし、「海」の作戦での情報収集は、全く違うものでした。

敗北から3日後の1942年6月10日海軍情報部のラジオ放送では・・・
それは、ミッドウェー海戦の華々しい戦果でした。

「6月5日 
 敵アメリカの前進根拠地であるミッドウェーを急襲し、
 敵の航空母艦群を誘き出し、これと猛烈な格闘戦を演じ、
 ホーネット型航空母艦一隻を大破し、
 エンタープライズ型航空母艦1隻を撃沈いたしたのであります。」

あたかも日本が勝利したかのような報道でした。
軍令部により、国民には徹底的に隠ぺいされました。

それは、天皇にも・・・
1942年7月14日に、天皇に上奏された海軍の艦隊編成表には・・・
沈没したはずの赤城・飛龍が載っています。

ミッドウェーで戦った将兵たちもあおりを受けます。
外出禁止、内地に帰ってきても、一般の人びと、家族との接触すら禁じられました。

では、ミッドウェー海戦の責任者たちの処遇は???
沈没する空母から一命を取り留めた南雲忠一中将は・・・
後方にいた戦艦大和の山本五十六に敗戦の報告をします。
「大失策を演じ、おめおめ生きて帰れる身ではなかったのですが
 ただ復讐の一念に駆られ生還してきました。
 どうか、復讐できるよう取り計らって頂きたい」

「承知した」

この二人の責任が追及されることはありませんでした。


日本の海軍は、責任者を出しません。
どうして???
日本海軍の指揮官は、ほぼ全員海軍兵学校の卒業生です。
きわめて人数が少なく仲がいい。
日本海軍伝統の責任に対する処置と言えるでしょう。

その後南雲は、第3艦隊の司令長官など歴任し、1944年7月サイパンで戦死。

日本海軍の不敗神話が崩れ、大敗北を喫したミッドウェー・・・
以後、アメリカとの戦いで、日本が優位に立つことはありませんでした。
この敗北を知られると、勝てない戦争の意味が解らなくなってしまう。。。

ミッドウェー海戦について、陸軍は的確な評価をしています。
戦争の規模について再考しなければならない時期であると・・・。
でも、それは、“致し方ない”
ということで、国民の精神によって乗り切ろう・・・となったのです。

日本は、総括をしない国・・・総括すれば、責任が明確になってしまいます。

この体質は・・・今も変わらない???

このミッドウェーから何を学べるのでしょう???
それは、議会、政治家の役割、あり方です。
1937年以降、特別会計予算の7割だった空母予算。
日本人らしい自己満足的な作戦・・・
隠さないで総括すること、それが必要です。

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幻の終戦 もしミッドウェー海戦で戦争をやめていたら (中公文庫 ほ 1 3)
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