2013年02月08日

不屈の英雄アテルイ 古代東北の底力

田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著); 吉川弘文館 (刊)
田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著...

794ウグイス平安京・・・

西暦794年、日本の都が京都に定まりました。
このプロジェクトを推し進めたのは・・・時の天皇・桓武天皇です。
しかし・・・その桓武天皇をもってしても打ち負かすことのできなかったのが・・・アテルイ!!
東北不屈の英雄です。

aterui.png

アテルイが率いるのは太古から東北地方で生きてきた蝦夷と呼ばれる民でした。
桓武天皇は、自らの威信にかけて・・・東北地方の平定の為に20年間で3度の派兵をします。
しかし・・・アテルイ達の強烈な抵抗の前に、一度も成功を治めることはありませんでした。
このアテルイの記載は、歴史書にはわずか数行。。。
そんな良く知られていない1200年前の壮絶な戦いが、発掘によって明らかになってきました。


当時の蝦夷社会・・・朝廷側の支配は宮城ぐらいまでで・・・中央の支配に従わず独自の文化を形成していました。
20年の戦いは・・・蝦夷の方にしてみると、朝廷側が一方的に攻め込んできた戦いでした。
中央政権の東北侵攻に対し、果敢に立ち向かった蝦夷のリーダー・アテルイ。
朝廷軍との激突はおよそ20年間に3回。
アテルイ達は、そのたびに強大な敵をはねつけました。

そもそも、アテルイ達蝦夷は、どうして中央政権と戦わなければならなかったのでしょうか?
7世紀半ば、蝦夷たちは朝廷の支配を受け入れていませんでした。
そこで、朝廷側が一方的に城柵と呼ばれる拠点を作り、移民を開始します。
城柵建設と同時に・・・支配範囲は北上していきました。

朝廷支配下の陸奥の国が654年に、出羽の国が712年に成立します。
しかし、蝦夷たちはまだ支配下に入ってはいませんでした。

宮城県の城柵・多賀城。朝廷はここを拠点に蝦夷の支配を目指します。
此処には役人と軍隊が常駐、大宰府と並んで「遠の朝廷」として偏狭支配の最重要地点でした。これに対して蝦夷たちが大反乱を起こしました。
それは、激しく焼け焦げた瓦が証明しています。

今から1200年前に、朝廷の拠点が蝦夷によって焼き払われていたのです。
この一連の戦いで中央の役人が焼き殺されたと言います。
780年伊治公呰麻呂の乱です。
桓武天皇は、5万の軍勢を東北に派兵します。
それを迎え討ったのが、アテルイだったのです。
789年巣伏の戦いから始まります。

この時朝廷軍4000に対し、アテルイ軍1500人。。。数に劣るアテルイ達は、地形を巧みに利用。見事な戦いを展開したと言われています。
溺死した朝廷軍は1000人以上、アテルイ軍のゲリラ戦の前に惨敗です。

油断もあったのかもしれません。。。
政府が派遣する兵は農民兵です。しかし、アテルイやモレの持っていた兵は、縄文時代以来持っていた採集経済・・・いつも獣・イノシシ、クマなど・・・狩猟をしていたので、戦闘能力が培われていました。
東北の地で鍛えられた戦闘力で大勝利を治めました。

強さの秘密・・・
@弓矢・・・縄文時代から続く。
A馬・・・もともと産地だった。
B稲作・・・それを支えていたのが稲作。
でした。

もともと蝦夷とは・・・この蝦夷は自分たちが言い出したのではなく、まつろわぬ野蛮な人たちという意味で朝廷から蝦夷と言われていたようです。だから、蝦夷と言っても、いろいろな人たちがいたようです。

794年桓武天皇は、再び大軍を送り込みます。
その数10万以上・・・。
東北遠征にかける並々ならぬ思いの朝廷は・・・秋田方面の城柵を強固なものに改修していきます。
防備を強固なものにしていったようで・・・またあ、革製の鎧も見つかっています。
しかし、アテルイ軍は朝廷を寄せ付けません。

アテルイとはどんな人だったのでしょうか?
もしかすると・・・本当の名前ではないのかもしれません。
岩手県に跡呂井(アトロイ)という地名があります。
そして、田茂山(タモヤマ)も・・・。
大墓公阿弓流為(たものきみあてるい)・・・つまり、アトロイという地域を支配した権力者ということなのかもしれません。
一方、続日本紀によると、北上川の東岸に・・・日上乃湊という港があったとされています。
その場所は、アテルイの勢力範囲にあったと思われます。
アテルイは、朝廷と蝦夷の貿易の中間管理者だったのかもしれません。

軍を率いて勇敢に戦ったアテルイは、盛んに交易を行っていたのかもしれません。
当時、東北からの貿易の品としては、毛皮・馬・金・鷹の羽・昆布・琥珀・・・豊富な幸が、京の雅な文化を支えていました。
アテルイは、まさにその中心にあったようです。

秋田城には、渤海の使者が来たという記録もあります。
771年にも、325人が来航しました。
出土したのは鉄釜・寄生虫の卵・・・これは、当時日本にはなかった豚などにつく寄生虫で秋田城と大宰府からしか出土していません。
この地が、いかに大陸と繋がっていたのかがわかります。

そして、蝦夷たちの交易ネットワーク・・・
蕨手刀から見てとれます。
蕨をかたどった柄の形が特徴です。
東北の人びとが力の象徴として使っていました。
その蕨手刀が、遥か北の北海道網走で発見されています。
そのことから、東北とオホーツク文化が密接に関係していたことがわかります。
この交易から、毛皮やアザラシを送っていたようです。
東北は寒くて閉ざされた土地ではなく、北の文化と南の文化の交わる交易の拠点だったのです。

797年桓武天皇は、最後の闘いに打って出ます。
東北制圧の切り札・・・征夷大将軍・坂上田村麻呂・・・最終決戦の始まりでした。

田村麻呂は戦いだけの人ではなく、人間味もあったようです。
そんな田村麻呂の蝦夷戦略は、構想5年のしたたかで用意周到なものでした。
田村麻呂は、東北に数多くの寺を建立しています。
仏教を使って、蝦夷の同化政策を行おうとしていたようです。
現に、梵鐘・高炉の鋳造所が発見されています。

最先端の農業技術を使って蝦夷懐柔に打って出ます。
切り崩し工作のよって、やがて蝦夷の族長たちが戦線を離脱し・・・
アテルイは孤立していったと思われます。
そして・・・胆沢城を建設します。
役人と兵士2000人を常駐させるのです。
国家権力と地方部族・・・
圧倒的な力の差を見せつけられました。
そして、これを契機に・・・
アテルイと副将モレは、500人の兵を連れて降伏を宣言。
アテルイ降伏を聞いた桓武天皇は大いに喜んで、蝦夷平定を祝う儀式を盛大に開催しました。
そして・・・アテルイとモレは都に護送・・・。
田村麻呂は、この二人の助命嘆願をしたそうです。
それはアテルイに、他の蝦夷を説得させようとしたからだと言われています。
しかし・・・都の貴族たちは聞き入れずに・・・

「殺してしまえ!!」

どうして、突然降伏したのでしょうか???
未だに論議が絶えません。
ただ・・・田村麻呂という男を信用したとか・・・
長い戦いで東北地方が荒廃してしまった・・・
内部から崩壊していった・・・


アテルイの処刑は、京から遠く離れた河内の国でひっそりと行われました。
そこには現在首塚が建てられています。

802年アテルイとモレ処刑

20年も続いた蝦夷の戦いは、二人の命と引き換えに終わりを告げたのでした。
彼らの戦いは・・・「蝦夷が何であるのか」を学ぶ戦いだったのかもしれません。
残照はるかに 阿弖流為別伝
残照はるかに 阿弖流為別伝
蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 上巻
蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 上巻
蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 下巻
蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 下巻

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2013年01月29日

足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者

足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (著); 山川出版社 (刊)
足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (...

あ・・・私の知っている義満は、おバカなこの人です。

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一休さんで、桔梗屋さんと一緒にとんちで一休さんにコテンパンにやられて地団駄ふむ義満さんです。
で、一休さんが天皇の御落胤だったので、目付に新右衛門さんをつけたのよね揺れるハート

でも、本当はすごい人、日本を大きく変えた人です黒ハート
鹿苑寺金閣・・・今から620年前・・・京都で文化の華を咲かせた一人の男によって作られました。
足利義満・・・中世、動乱の日本に君臨した室町幕府第3代将軍です。
北山文化の創始者として知られる義満・・・長い間、歴史の悪役として語られてきました。

自らの理の為なら冷酷無比になる策略家・朝敵という汚名・・・傲慢な権力者としてのイメージが強いのですが・・・

義満が生きたのは、南北朝動乱の時代。
悪党と呼ばれる私利私欲にまみれた武士が、秩序のない世界を作り上げていました。
誰もが自分の力で生きていかなければなりませんでした。

義満の時代は、鎌倉幕府が滅亡後・・・次の権力が生まれようとしていました。
天皇に権力を戻そうとする後醍醐天皇と、武家政権を建てようとする義満の祖父・足利尊氏が対立していました。
尊氏は、後醍醐天皇を京都から追い出し・・・後醍醐天皇は奈良に反幕府の南朝を、幕府側の尊氏は北朝(室町幕府)を開きました。
長引く内乱で・・・武家社会には、悪党・ばさら大名が出てき、私利私欲にまみれ・・・
悪党は裏切るのは当たり前、佐々木道誉・高師直ら、ばさら大名は天皇などの伝統を軽視していました。
そう、武家社会が根底から崩れ出していたのです。
その時代をまとめ上げた将軍・義満・・・それは、平坦な道ではありませんでした。
そんな義満の苦悩とは、どんなものだったのでしょうか?

yosimitu2.png

1373年12月、父・義詮が急死すると、室町幕府三代将軍へと就任します。
この時義満、11歳。幼い将軍は、盤石でない幕府を一身に背負うことになってしまいました。
最大の課題は、大名を支配下に置き、幕府の安泰を目指すこと。
当時大勢力の一つだったのが、山名一族。山陰を中心に11か国を治める大大名でした。

義満は、軍事力に勝る山名攻略の機会を虎視眈々と狙っていました。
チャンス到来は34歳の時、山名一族の内紛がおこります。
総領の地位をめぐって、本家と分家が対立したのです。
一族の内紛につけて、義満に近づいてきたのが・・・分家の山名満幸。
満幸は、本家が謀反を企てていると密告し・・・それを受けて義満は派兵、潰してしまいます。
しかし、義満は態度を一転。今度は分家の満幸に対して、荘園横領の疑いをかけ守護職を剥奪。満幸は激怒し、幕府に反旗を翻します。

義満は、この時を待っていました。
幕府軍は、満幸軍をわずか1日で壊滅。
幕府に勝っていた山名は、内紛を機に統率力を失っていたのです。
そして・・・山名の所領は、11か国から3か国に・・・
相手のすきをついての策略です。

このようにして、各地の大名を弱体化し・・・
その総仕上げが、南北朝合一だったのです。

嵯峨野・大覚寺にある正寝殿で、歴史的な南北朝合一がなされます。
これからは、北と南の天皇が交互に天皇につくと、決まるのです。
そして・・・動乱は鎮まるのでした。
武家の支配を固め、日本史上最大の内乱を一つにまとめあげたのが義満だったのです。

それは、どんな方法で???
鹿苑寺・金閣を中心に掌握した権力・・・その象徴でもありました。
第三層は禅宗様式、第二層は武家造、第一層は寝殿造・・・。
第一層を公家の寝殿造りに・・・
そこに義満の考えがありました。
公家の官位を欲し、次々と手にしていきます。
その昇進の速さは異例の者でした。
源頼朝のなった右近衛大将に21歳で、25歳で左大臣、26歳で皇后・皇太后に続く准三后に・・・37歳で武家では平清盛以来の太政大臣に駆け上がります。

公家でさえ稀のこの出世・・・その裏には北朝の重鎮公家・二条良基の姿がありました。トップに立つ摂関家、実力者です。
この良基おかげで、朝廷で華々しくデビューしたのでした。
マナーも、徹底的に教え込まれます。つつがなく儀礼をおこなうための摂関家。
一部の公家だけが守ってきたものを、良基の手ほどきによって教え込まれたのでした。

では、どうして協力してくれたのでしょう?
南北朝の戦いは、荘園からの年貢を激減させました。
北朝の後円融天皇が窮地に陥ります。財政の悪化から、祭祀儀礼も中止となり・・・その政権が危ぶまれます。
公家たちも仕事がなくなり・・・俸禄がもらえなくなっていました。
公家も朝廷もなくなってしまうかもしれない・・・
現在までで一番ピンチだったのが南北朝時代だそうで、朝廷を生き残らせるために・・・
このような危機に、義満が望んでいた官位・昇進させることで、財政的にもテコ入れしてもらいます。

1379年右近衛大将拝賀儀式。
義満は、天皇の前で見事な舞を披露。
さらに・・・二条良基の計らいで、天盃を与えられるという前代未聞の栄誉を受けるのです。
当時の公家は・・・それを苦々しく見ていました。


こうして義満は、清盛も頼朝も飛び越えて、摂関家に匹敵する立場になっていきます。
が・・・これは、二条良基の思惑を超え・・・
後円融天皇の立場が悪くなります。
公家たちの蚊帳の外にされ始めたのです。
そして。。。義満は、後円融天皇との女性問題を・・・心を痛め、病に伏せる天皇に追い打ちをかける義満・・・まだ6歳の御小松天皇を即位させ、自らが後見人となりました。
義満は・・・このようにスーパー権力者となっていくのでした。

では、武家も公家も抑えてスーパー権力者となった義満、どんな国づくりを目指していたのでしょうか?

そこで出てくるのは・・・日本国王問題です。
1368年、義満11歳の時に・・・元に変わって明が誕生しました。
そして、朝鮮や琉球に、朝貢(明皇帝への従属)を要求してきます。
しかし・・・日本は、国交を拒否します。
そこには、公家たちの“属国になどならない!!”という強い思いがありました。
さらに、明の皇帝・洪武帝が国交を結ぶのは、国家元首・・・。に限られていました。
義満が日明貿易を始めるためには、国王に認められる必要があったのです。
そして・・・第3代永楽帝の時に・・・義満が日本国王に認められます。

この行為が、天皇をないがしろにし、日本を明の属国とした・・・ということで、後世激しい非難を浴びることになるのですが・・・
天皇の臣下であるべきなのに、隣の国の王の臣下になるなんて・・・

しかし、義満は、遣唐使廃止以来およそ500年にわたって途絶えていた中国との正式な国家外交を再開し、日明貿易を始めます。

では、属国となってまでどうして・・・???
そこには、貿易利潤を独占しようとしていた狙いがあります。
義満が欲しがっていた永楽通宝は国際通宝。。。
これが、明との国交の狙いだったのです。

東アジア世界では、当時、武人国家から文人国家の転換期でもありました。

この莫大な富を・・・北山文化につぎ込みます。
花開いた北山文化は、唐物と呼ばれるものをはじめとする大陸伝来の品々でした。
特に陶磁器は、世界最高水準でした。
この芸術品を、こよなく愛したのです。


さらに・・・能楽を・・・観阿弥・世阿弥を発掘し、手厚く保護しました。
明との交易の結果、経済が発達し、新たな機運が来たのです。
明を取り入れることで、経済と文化の発達する時代に・・・義満が願った国の行く末でした。


そんな義満晩年の最大疑惑事件は・・・
それは、自分の妻を天皇の母とし、自らの子を皇位につかせようとした問題です。
1406年12月25日後小松天皇母・通陽門院厳子重体。
12月26日、義満は帝の母を見舞う。
「帝は即位されてから、すでに父君を亡くされている
 在位の間に二度も喪に服するのは不吉である」
当時、それは朝廷の習わしでした。
服喪は1年。その間、天皇は一切の政務から離れます。

差し迫った問題に対し・・・
側近の公家に・・・
「過去に帝に代理の母、准母を立ててさしあげれば、喪に服さなくてもよい先例がある
 誰を帝の母にするのが良いだろうか」

この時義満は、困ったことに、皇族にふさわしい女性がいないと言います。
公家は、義満は、自分の妻を准母にしたいのではないか?と、考えます。

妻が准母となれば、義満は天皇の父。その位は太上天皇です。
しかし、代理の母を、皇族以外から、ましてや武家からなどとは前代未聞。
それでも義満の近しい公家・一条経嗣は・・・
「恐れながら、義満様の妻君に皇族につぐ准三后の宣下を下され
 その後、帝の母・准母となされるのが良いでしょう
 すべては、義満様の大権によってご決断されるべきです」

朝廷の慣習に従って准母にすることを薦めました。

その後、御小松天皇の母が亡くなり、義満の妻が准母となることが決定されます。
義満は、自らは何も語っていませんが・・・。
しかし、太上天皇になれば、自分の子供を天皇にすることが出来る

一条経嗣は、義満の妻を准母としたことを後悔しています。
「自分の保身だけを考えて、なんと愚かな助言をしたものか
 ああ、悲しいかな 悲しいかな・・・」

ところが・・・2年後の1408年5月6日
足利義満死去。あまりの突然の死でした。

しかし、4代将軍義持は、義満にもらった太上法皇を朝廷に返上してしまいます。
動乱の時代をまとめ上げた足利義満。その死から60年後応仁の乱が始まり、京都は焼き尽くされ・・・再び動乱の時代が始まるのでした。

本人は、天皇家の乗っ取りなど考えていなかったのかもしれません。
アジアの変革期の中で、日本をどう繁栄させていくのか???
大胆かつベストな決断をした人物であることに間違いありません。

天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー (小学館文庫) [文庫] / 井沢 元彦 (著); 小学館 (刊)
天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー (小学館文庫) [文庫] / ...

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2013年01月12日

源頼朝 夫婦げんかで築いた新たな日本

源頼朝像 沈黙の肖像画 (平凡社ライブラリー) [新書] / 米倉 迪夫 (著); 平凡社 (刊)
源頼朝像 沈黙の肖像画 (平凡社ライブラリー) [新書] / 米倉 迪夫 (著); 平凡社 (刊)

鎌倉は、本格的な武家政権発祥の地です。
それを切り開いた源頼朝は、First SAMURAI と呼ばれています。

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かつて平清盛が、京の公家社会に身を置いたのに対し、頼朝は全く後ろ盾のないところから武士の棟梁へと上り詰めます。

後ろ盾のなかった頼朝が、何故700年も続く武家政権の礎となることが出来たのでしょうか?
頼朝の人生のスタートは、伊豆での20年にも及ぶ流人生活でした。
運命の転換点は、北条政子との出会い・・・。


京都で生まれ育った頼朝は、京育ち。朝廷につかえていました。
ところが、父・義朝とともに平治の乱で敗れ清盛に敗北、伊豆に流されることになります。
頼る人もなく、身内からの仕送りで、細々と食いつないでいました。

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それから20年流人の生活が続きます。
転機は、関東で頭角を現していた北条時政の娘・政子。

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2人は時政の大反対を押し切って結婚します。

頼朝は政子を大切にしていたようです。
鶴岡八幡宮に向かって伸びる若宮大路の段葛と呼ばれる径は、頼朝が政子の安産を願って自ら石を運んだ道と言われています。

しかし、頼朝の女性関係をめぐって、政子とは激しい衝突が繰り返されていました。

政子に隠れて寵愛を得ていたのが、大進局。
1186年頼朝の子を出産。
これに激怒した政子・・・頼朝は、この子の出産時の儀式をすべて取りやめます。

頼朝の女性遍歴に関しては、京で育ったことが原因と思われます。
京都の文化の身についている頼朝は、こ洒落たラブレターを書きました。

頼朝と政子の大ゲンカ・・・この喧嘩には、京の頼朝と東国の政子、単なる夫婦げんかにとどまらない意味がありました。
公家社会は“自由恋愛”社会、東国は“家と家との結婚・軍事同盟”みたいなものでした。
頼朝との結婚=北条氏の影響力を高めるものだったので、他の女性との関係に怒ったのです。

そんな世界にも馴染んで、武家の棟梁として自覚し始めます。
政子との結婚から3年・・・20年の不遇の時代をのち・・・

1180年平家打倒の令旨が届きました。
頼朝が突如、歴史の表舞台へと押し上げられました。
満を持して、平家打倒の挙兵をします。
この時、頼朝に従ったのは・・・わずか40騎でした。

挙兵を目前にして・・・頼朝は、部下一人一人に対して“お前だけが頼りだ!!”
感激し、奮起した部下たち。かなりの人たらしだったようです。
しかし、石橋山の戦いで大敗・・・。
部下を失ってしまいました。

挙兵から11日後、房総半島に逃れた頼朝。
ピンチの連続に、命も風前の灯と思われたその時・・・

敗れた頼朝のもとに、東国武士が次々と集まりだしたのです。
そして・・・富士川の戦い。。。
この時頼朝軍は、20万にまで膨れ上がっていました。

どうしてこれほどまでに支持されたのでしょうか???
当時、土着の多くの武士は平氏に土地を脅かされていました。
これに対抗し・・・自分たちの土地支配を認めてくれる新しい武士の棟梁を探していたのです。自分の家・財産の存続・・・
地域と時代が頼朝を作り上げたと言っていいでしょう。

そして、武士たちの土地所有を保証・安堵しました。
これこそが、頼朝最大の発明で、700年続いた本当の発明品だったのです。


期待された頼朝・・・富士川の戦いで平氏に勝利します。
きっと、軍事指揮官としては駄目でしょうが、政治家としては天才的な人だったのです。
それこそが、東国武士たちとの確固した絆となったのです。
御家人ですね。

しかし、頼朝に許可なく朝廷の官職を得たものは厳しく罰しました。
武士たちとの一対一の絆を基に、武士の政権を盤石なものにしていった頼朝。棟梁として大きく飛躍していきます。

京都とは違う国家デザイン・・・清盛は、貴族世界に入って武士の地位をあげていきましたが、貴族の力、天皇の力には全くかないませんでした。

これを見ていた頼朝は、鎌倉に腰を据えることにします。
そこでも二人は、武家政権の根幹を揺るがす大ゲンカをします。

それは・・・長女・大姫の結婚をめぐっての喧嘩でした。
頼朝は、木曽義仲の息子・義高と婚約させて義仲と同盟しようと思っていました。しかし、義仲と対立、滅ぼし、息子の義高をも密かに殺してしまいました。

リーダーの頼朝としては当然のことでした。が、このことを知った大姫は病気に・・・。
それを知った政子は怒ります。自分や大姫に相談がなかったことに・・・
そして、義高を殺したものを打ち首にさせてしまいました。

政子は、女が武家の“家の中”を統括する存在であるという考えに立っていたのです。
この頃、“家”が出来てきます。
今でいうと、会社のような組織です。
夫=社長・妻=副社長といった感じです。

1186年義経の側室・静御前が鎌倉に連れてこられました。
義経は、頼朝に無断で官位を授かったために逃亡していたのです。

舞の名士として舞を披露する静御前。
見事な舞でした。が・・・歌詞を聞いた頼朝は憤慨します。
「鎌倉幕府の安泰をたたえるべき場で、反逆者・義経を慕う舞を舞うとは何事か!!」

武士たちの前で、威厳を守ろうとした頼朝から発した言葉でしたが、政子は・・・
「夫を慕う静御前こそ、女性の鑑です。 
 私も愛するあなたを思い、周囲の反対を押し切って、あなたのもとに嫁いだではないですか」

頼朝は怒りを治め、武士たちは政子に感嘆したそうです。
リーダーとしての頼朝、武士の妻としての政子・・・二人三脚でした。
吾妻鏡の記述には、この頃から夫婦喧嘩はなくなっていきます。


壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源氏・・・この年、頼朝は守護地頭を設置する権限を朝廷に認めさせました。ここに、実質的な鎌倉幕府が成立します。

しかし、全国にはまだ力の及ばない地域があり・・・その一つが、奥州藤原氏でした。豊富な金をだし、力もあった奥州藤原氏・・・ここを治めない限り安泰とは言えません。

頼朝最後の闘い、奥州合戦が始まります。
頼朝に反逆したとみなされ逃亡していた義経は、この時奥州藤原氏を頼って落ち延びていました。そう仕向けられたのかもしれません。

この義経の東下りは、頼朝にとっては絶好のチャンスだったのです。
合戦の準備を始めます。
九州の武士にまで、参加要請をしました。
義経は追い詰められて自害・・・
頼朝の率いた兵の数は、28万ともいわれています。
敵の本陣平泉に到着したものの・・・藤原泰衡は北へ・・・
その泰衡を追ってまた北へ・・・。泰衡は、部下の裏切りにあい、会えなく敗れます。

そのまま終わると思っていた戦い・・・
さらに北へ・・・ようやく軍を止めたのは、厨川でした。
ここでようやく勝利宣言しました。
9月17日・厨川というのは、頼朝のこだわりです。
奥州合戦をさかのぼること130年、頼朝から5代前の頼義が奥州で勝利した戦いがありました。前九年合戦です。
これによって頼義は、関東・東北まで勢いを伸ばし、地位を確かなものにしていました。
9月17日に勝利宣言をし、その場所が厨川だったのです。
このことが、武家の棟梁を確立することにつながる!!
そして、奥州総奉行を置きます。

これによって、1192年頼朝は征夷大将軍に任命され、公にも武士の棟梁として認められたのでした。
国家デザインとして、初めて大陸とは全く違うオリジナルの国家を作ったのが、頼朝と政子だったのです。

源頼朝(一) (吉川英治歴史時代文庫) [文庫] / 吉川 英治 (著); 講談社 (刊)
源頼朝(一) (吉川英治歴史時代文庫) [文庫] / 吉川 英治 (著); 講談社 (刊)
源頼朝(1) (山岡荘八歴史文庫) [文庫] / 山岡 荘八 (著); 講談社 (刊)
源頼朝(1) (山岡荘八歴史文庫) [文庫] / 山岡 荘八 (著); 講談社 (刊)

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