2012年05月23日

中岡慎太郎〜幕末を歩き続けた黒子〜

幕末の動乱に、明治維新の礎となる薩長同盟を成立させた龍馬。

龍馬は国民的ヒーローとして名を残しましたが、中岡慎太郎はナンバー2として活動しながらも、ひっそりと隠れていました。

しかし、中岡慎太郎がいなければ、薩長同盟は締結しませんでした。

幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)


土佐の田舎で農民のように暮らしてきた男が、武士や公家たちと渡り歩くことになります。

討幕を考えている人はいたものの、当時はまだまだ幕府の力も強く、協力しないと討幕は無理でした。
おまけに、公家も一枚岩ではなく、2,3に分かれていたのです。

犬猿の仲だった薩摩と長州と・・・岩倉と三条を・・・中岡慎太郎が走り回ってまとめ上げました。

中岡慎太郎の原点は、高知県安芸郡北川村、26歳までここで過ごしました。
北上郷14カ村を抱えた大庄屋・中岡小傳次の長男として1838年に誕生。
58才で長男が生まれたということもあり、熱心に教育されました。
7歳になると、徒歩で往復3時間の山道を、塾に通わせました。

14歳で慎太郎は田野学館へ。。。
そこに先生としていたのが、武市半平太でした。
公武合体を支持する山内容堂に対して、下級武士・郷士は勤皇思想・尊王攘夷に目覚めていました。


これからというときに、父が病に倒れます。
20歳で妻をめとり、庄屋見習いのように村長となります。

村では地震や災害、飢饉を体験します。
民衆が安心して生活できる世の中に!!

時代は・・・
長州⇒尊王攘夷
薩摩⇒公武合体
土佐の武市半平太は、尊王攘夷を目的として「土佐勤皇党」を結成します。
賛同した192名、そのほとんどが、郷士や下級武士でした。

公武合体派の吉田東洋は、勤皇党によって暗殺。
土佐藩は尊王攘夷となります。
1862年、土佐勤皇党は、江戸に出発。それに洩れた慎太郎は50人組を結成し、自費で参加します。

江戸では、多くの若き志士に出会います。そして、佐久間象山とも・・・。
次の年には土佐藩の徒目付となり、警護や探索の任務に就きました。それは、山内容堂による大抜擢でした。

そんな時、1863年8月18日の政変により、「七卿落ち」がありました。

当時、龍馬は脱藩していました。
七卿落ちの知らせを聞いた慎太郎は、日本を立て直すために立ち上がります。
向かったのは、長州・巳田尻。ここは、尊王攘夷のアジトのようなものでした。

そこには、三条実美が都落ちをしてきていました。そして、土佐勤皇党の人間も、三条を守ってついてきています。

復権のチャンスを狙っている三条実美。
この三条実美と容堂の仲を取り持ったのが、慎太郎です。

三条実美の母は土佐藩主山内豊策の三女・紀子。
つまり、三条家と土佐藩には繋がりがあったのです。
勤皇党のバックには三条実美がいたということです。

三条に会うことで、慎太郎の視野が格段に広がります。
上級武士のシンボルは幕府。下級武士のシンボルは朝廷になっていきます。

朝廷とのつながりの出来た慎太郎。。。しかし、危機が迫っていました。

土佐藩では大混乱が起こっていました。
山内容堂による弾圧です。吉田東洋の暗殺を理由に武市半平太らを投獄。

危険を感じた慎太郎は、26歳で脱藩の決意をします。
巳田尻に戻り、偽名を使って、三条のNo,2としての生活が始まります。
石川清之助、大山彦太郎、横山勘蔵、寺下貫夫。

とにかく説得の上手だった慎太郎。各藩の有志達に三条の意向を訴え、返事を持ち帰ります。
京都・九州、飛び回る生活が続きます。しかし、それはいつも危険と隣り合わせの生活でした。

1864年6月5日池田屋事件で尊王攘夷派が多数死にました。

その中には、たくさんの長州藩の志士が。。。
憤慨し、戦いを決意する長州藩。

1864年7月禁門の変。
2000の長州に対し、会津・薩摩・幕府軍はその10倍。
御所に向かって発砲したために、朝敵となってしまった長州。
敗れた長州を追うように、長州征討令が出されました。
長州は、3家老の切腹と、4人の参謀の斬首を持って降伏します。

四面楚歌の長州に、更なる処分が。。。
三条ら五卿を長州の外に移動させることが言い渡されます。
しかし、三条らを失うということは、尊王攘夷のための大義名分を失うということでした。

この危機を乗り越えるために、慎太郎は、長州征伐の参謀・西郷隆盛に目をつけました。

何故西郷に目を付けたのか・・・
それは、禁門の変の時・・・。
西郷が言っていたのです。

「薩摩は 長州の敵ではなか
 禁門の変では長州が御門を攻撃したので
 お守りしただけのこと。」

と。
交渉の結果、
三条らを安全に太宰府に脱出させることと引き換えに、幕府軍を撤退してもらいます。
この対面で、西郷の本心を垣間見ることになりました。
すでに西郷は、勝海舟の主張する列藩同盟に興味を持っていました。

「西郷は、長州をやみくもに叩こうとしているのではない。」

薩摩と長州が手を組めば、幕府に対抗できる勢力になる!!
しかし、その道は甘くはありませんでした。

ここまで慎太郎は。。。
土佐勤皇党⇒山内容堂⇒三条実美⇒西郷隆盛

と、No,1を切り替えてきています。しかし、変節しても、みんなから信用されていました。
それは・・・

@私心がない
A金儲け・名誉欲がない
目の前の人に、忠実に仕える筋の通った男だったからです。


そんな慎太郎が、薩長同盟締結に向けて奔走します。

1865年下関。
薩摩の西郷と、長州の桂小五郎を引き合わせようとします。
が、失敗。半年近くの工作がパーになりました。

そこで、龍馬が亀山社中を使って、長州の為に薩摩が武器を購入することを思いつきます。

翌年1月22日、京都・薩摩藩・小松帯刀・坂本龍馬の下、西郷と桂の薩長同盟が成立しました。


しかし、そこには慎太郎の姿はなく。。。次の仕事にかかっていました。

三条実美と岩倉具視を協力させること。。。です。
この対立するふたりの間を書簡を持って奔走します。
この二人は、犬猿の仲。。。

岩倉は、薩摩に協力を仰ぎ、大久保と親しくなっていたことを利用して説得します。

中岡慎太郎の説はこうです。
「攘夷のための開国をしましょう。
 力をつけて、武器を手に入れることによって、外国に手を出させないようにする」

これが、攘夷である!!


しかし、この頃から慎太郎は龍馬と対立する道を歩むことになります。

1867年4月維新の真っただ中、脱藩の罪を解かれ、土佐藩からそれぞれ海援隊、陸援隊を作るように命じられます。
この頃から二人の違いが表面化します。

慎太郎は、武力で幕府を倒し、新政府を作ること。

龍馬は、あくまでも平和的に・・・。
龍馬が求めたのは、国を超えた自由な貿易でした。

慎太郎の書「時勢論」には、新しい国家が生まれるときには、戦いが必要だ・・・的なことが書かれています。

時代は・・・。
岩倉具視が大政奉還の建白書を提出し、討幕の密勅を画策し、武力討幕の準備が整ったとき、コ川慶喜は大政奉還をします。

そんな激動の時代のさなかに、2人の人生は幕を閉じます。

龍馬33歳、慎太郎30歳。
11月15日夜9時ごろに突然刺客が二人を襲います。
それは、王政復古の大号令で明治が始まる1か月前のことでした。

この近江屋事件、犯人は、京都見廻組とも、新選組とも、(加治将一さんは)中岡慎太郎自身とも言われています。


龍馬の理想と慎太郎の現実が、ともに歪を生み、引き裂いたのです。

2人はまるで、明治維新、近代日本の矛盾を象徴するかのように共に倒れました。

加治将一さんの作品では、慎太郎が龍馬を殺したという説になっています。

龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将...

それは、慎太郎が死ぬ半年間、岩倉具視・大久保利通ら薩摩藩と、討幕に向けて会談していました。
土佐藩も決起しようとしていたのです。

それは、板垣退助がトップとなって立とうとしましたが、龍馬や後藤象二郎らによって止められたのです。

岩倉と大久保に約束した以上は決起する!!


この近江屋事件に関しては、陸援隊や薩摩藩が暗殺現場に急行していること、「調べない・語らない・長所がない」と、不思議なことがありすぎるのです。

生きていれば、大久保・西郷・桂と共に、明治新政府を担うことになっていたであろう慎太郎。
命を懸けて奔走したその距離1万2000km。
この、中岡慎太郎の根底にあったものは、貧しく低い身分ながらのリアリズムだったのかもしれません。

あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著...

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2012年05月15日

独眼竜政宗の右眼 〜片倉小十郎景綱〜

群雄割拠の戦国時代。。。

独眼竜の伊達政宗は、疾風怒濤の如く東北を駆け巡り、天下取りに野心を燃やしていました。
その傍らにいて、参謀を務めたのが片倉小十郎。

名参謀 片倉小十郎 (新人物文庫 い 4-1) [文庫] / 飯田 勝彦 (著); 新人物往来社 (刊)
名参謀 片倉小十郎 (新人物文庫 い 4-1) [文庫] / 飯田 勝彦 (著); 新人物往来...

小十郎は、山形県米沢の神社の二男として生まれました。
剣術と、聡明さをみこまれ19歳で政宗の教育係となります。

伊達政宗は、もともと内向的な少年でした。
5歳の時の疱瘡で右眼が失明していたのです。

小十郎は、右眼を切り取ることを進言します。
「命に関わることがあったら、自分もあの世にお供します!!」

これは、2人の強い絆を示すエピソードです。
主君の顔に刃を向ける・・・強い信頼が伺えます。

小十郎は、このコンプレックスの原因を取り除き、弱気心を克服させ、強気な政宗に変貌させることに成功します。

奥州平定に向けて走り出した政宗。
この伊達男を演出したのが、小十郎でした。
小十郎の演出には、細かな策略がちりばめられています。


当時、秀吉の時代・・・「惣無事令」が出ていました。
この惣無事令、関白の権威を背景とした豊臣政権の私戦禁令です。

それに反したのが、
薩摩の島津、四国の長宗我部、小田原の北条、東北の伊達でした。

小十郎は、八幡神社の神職。片倉景重の二男とされています。
子供のころから聡く、武術にも優れ、父・輝宗に発掘されました。

小十郎の優れたところは、

@状況を見る澄んだ目
A事件の問題点の引き出し方
B事件を解決する能力

つまり、頭の働きが良かったのです。

1584年、政宗の父・輝宗が41歳で隠居、18歳で当主となります。
小十郎は、軍事面はもとより外交面でも活躍します。


事件は起きました。

畠山義継が、政宗の父を拉致して殺害。
政宗は父の仇をとるべく兵を挙げます。

しかし、周辺の武将たちは、畠山義継の救援に動き、伊達軍に対抗・・・。

1585年人取橋の戦い。
伊達軍8000に対し、敵は3万。。。

政宗も自ら槍で応戦するも、押されに押され・・・絶体絶命。

小十郎は。。。
「我こそは政宗なり!!
  小十郎何をしとるか!!」

と、機転を利かせます。

政宗を取り囲んでいた兵たちは、小十郎に殺到。
政宗は退却に成功するのです。

そして、その夜、有利に戦いを運んでいた連合軍が忽然と消えました。

それを仕組んだのは小十郎。

連合軍の中心人物佐竹義重に
「佐竹の留守を狙って周辺の武将が攻め込む!!」
と、知らせが入り、慌てて撤退。

このニセの情報を流したのです。
おかげで伊達軍は、激戦を制します。
この後、快進撃は続いていきます。

1589年、蘆名氏の領地に攻め入ります。
蘆名義広は、1万6000で進軍。
小十郎は、摺上原が決戦の地となると見てとります。
そして、蘆名氏の家臣・猪苗代盛国が裏切ったと噂を流しました。
内部を攪乱し、火のないところに煙を立てるのが上手だったのです。
しかし、これは秀吉の「惣無事令」を無視する合戦でした。


では、どうして確かな情報を掴んでいたのでしょうか?
黒脛巾組・・・政宗が創設したとされる忍者集団です。
黒いゲートルを履いていたことからそう呼ばれます。
小十郎に情報をinput、outputする役目を担っていました。

おまけに伊達は公家とも仲が良く、情報処理管理が行き届いていたのです。


1590年1月、天下をとろうとする秀吉から、小田原城攻めに参加するように命が下ります。

当時、奥州の武将には、豊臣家について北条氏を攻めるように促していた秀吉・・・
政宗は悩みに悩みます。

1590年3月、小田原城攻めが始まります。

政宗は、家臣たちと軍議を開きました。

「秀吉と戦うか」OR「小田原城攻めに参加するか」

軍師・小十郎は、秀吉から逃れることは出来ない・・・と、小田原城攻めに参加することを決定します。

ここから伊達家の生き残りを懸けた本当の戦いが始まったのです。

しかし、小田原城攻めに参加するには時すでに遅し・・・。
おまけに、参加前日の4月5日、黒川城にて母と面会した際、吸い物椀に毒が・・・

犯人は、母・義姫。母は、弟・小十郎を可愛がっていたのです。

母に毒を盛られた政宗。。。
事件の三日後には小次郎を自ら切り伏せます。

この件。
政宗の毒殺には二つの説があります。

@反伊達政宗犯人説。
母・義姫は、最上義光の妹です。
最上の立場に立つと、伊達と敵対しています。

奥羽探題の家柄の伊達家。
豊臣政権は、一過性のものと見、東北自治を唱えていました。
つまり、豊臣政権に対する反発です。

しかし、最上をはじめ東北の武将たちは秀吉を怖れていました。
伊達が邪魔だったのです。

A自作自演説
政宗と義姫のやらせ芝居という見方です。


そんなこんなで、1か月たってしまって・・・。
秀吉に謁見する機会が遅れてしまいました。

5月9日に出発します。
小田原城攻めに参加しても、秀吉の逆鱗に・・・無事に帰れるかどうか・・・。
絶体絶命のピンチ!!

おかんむりの秀吉には、箱根に留め置かれてしまいます。
切腹を覚悟しなければ・・・。

しかし、小十郎には秀吉に対する秘策がありました。

伊達家の存亡をかけた秀吉との謁見。
死に装束に身を包み、ザンバラ髪で謁見します。

秀吉に、死を覚悟した殊勝な態度を見せつけました。

小十郎は、秀吉が芝居がかったことが大好きだということを見越していました。
政宗の懐には、いざというときに刺す短刀が忍ばされていました。

「もう少し遅かったら、ここが危なかったのう!!」

と、扇子で首を叩いたとか・・・。

普通は、1か月遅れの参陣など、OUT。
しかし、文化人の小十郎は、千利休の茶に支持するように言います。

茶を習わせることで、東北の山猿ではないということを印象付けます。
家康や、利家は、政宗に一目置いていました。

伊達政宗は風流人?となって、秀吉も会ってみたくなったのです。
秀吉のことを調べぬいていた情報があったればこそです。

しかし、半年後、またも伊達家存亡の危機が。。。
事の発端は、葛西・大崎一揆。

政宗が裏で一揆を支援し、奥州制覇を企てていると噂が・・・。

小十郎の秘策は、人々の度肝を抜く奇抜なものでした。

都大路に、磔になるための金箔の十字架が現れました。
そしてこの時も、死に装束で秀吉に謁見。
嫌疑を払うことに成功します。
この時代、キリシタンも入って来ていてキリストの磔をもじったものです。
これをも演出してしまう。
政宗は名役者で、小十郎は脚本家と言ったところでしょうか・・・?

その陰に、小十郎の才能を見た秀吉は・・・
「お主を相馬・田村5万石に取り立ててやる。
 政宗を捨ててよにつかぬか」

「私の主君は、政宗公のみであります。」


関ヶ原の合戦後の1602年、政宗は、小十郎を白石城1万3000の領主に任命しました。
この地は伊達領の最南端。ここにも、政宗の信頼の厚さが伺えます。

大阪の陣・・・これが小十郎の最後の戦略となります。

1614年10月、仙台城に家臣を招集しました。
豊臣と徳川の戦いに、伊達軍も出陣するために軍議を開きます。

しかし、そこには小十郎の姿はなく、長男・片倉小十郎・重長の姿が・・・
小十郎は、病を患い、悪化していました。

政宗は、小十郎と今生の別れの予感をしていました。

10月10日、白石城を訪問した政宗を、半身不随の小十郎が迎えます。
しかし、頭脳は明晰。。。

「大坂の陣は、和睦となりましょう。
 家康は堀を埋めるなどして再決戦となるだろう。
 初めの戦いでは温存しておくように。」

そして、最期のお願いを・・・
「重長に先陣を!!」

大坂の陣は、小十郎の予言通りとなりました。

出先の政宗から小十郎に手紙が・・・

「もしそなたの命が尽きた場合は、重長を大事に召し抱えよう」

と、小十郎を喜ばせました。

家康はこの大坂の陣について、親しい人には告げています。
「2回攻めないと!!と、1回目は、堀を埋めて裸の城にすると。」
小十郎は、家康ともコンタクトをとっていました。
家康にも好かれていた小十郎。
領民が幸せになるためには、秀吉ではなく徳川殿だろう。
その時に伊達家が輝けばいいのだ・・・。


夏の陣で、重長は伊達家随一の働きをして鬼小十郎と呼ばれたと・・・
それを聞き、満足するかのように、59年の生涯を閉じました。

40年という長きにわたって戦国を戦い抜いた2人の武将の別れでした。
その時、政宗の見えない右眼から涙がこぼれたという。。。


政宗を祭る青葉神社は、片倉家16代当主・重信さんによって、大切に守られています。

40年という長きにわたり伊達政宗という不世出の武将を男にした片倉小十郎、400年の時を経ても、2人の関係は続いています。


カッコいいですね。
この回を観ていたら旦那が、

「西郷輝彦か〜。」と、呑気に言いました。
そう、独眼竜政宗で渡辺謙の隣にいたのは西郷輝彦でした。

だから、西郷輝彦でしか見られなくなってしまいました。。。あせあせ(飛び散る汗)

やっぱり、かっこいい人にはいいブレーン、ナンバー2がついていますね。黒ハート


300ピース 戦国BASARA 片倉小十郎 26-229s / エポック社
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2012年05月09日

天皇に忠義を貫いた男〜楠木正成〜

THEナンバー2、天皇に忠義を貫いた男〜楠木正成〜です。

今から700年前、三大改革の一つに挑んだ男の物語です。
楠木正成 [ハードカバー] / 童門 冬二 (著); 致知出版社 (刊)
楠木正成 [ハードカバー] / 童門 冬二 (著); 致知出版社 (刊)
時は鎌倉時代、幕府の権力は失墜していました。
その原因は、2度にわたる蒙古襲来。
幕府は蒙古を何とか防いだものの、財政難に陥り・・・機能を失っていきました。

それを立て直そうとしたのが二人の男・・・
革命の首謀者は、南北朝時代、南朝を樹立したナンバー1・後醍醐天皇。
そして、後醍醐天皇を支えたのが大阪の河内で悪党と呼ばれていたナンバー2・楠木正成です。

天皇と悪党と呼ばれていた男・・・天と地ほど身分の違う2人が目指した。。。

それこそが、646年大化の改新、1868年からの明治維新と並ぶ三大改革の一つ、建武の新政です。
武家政権である幕府を倒し、天皇が政治を行う天皇親政を復活させる一大改革です。

正成は、公家や武士という中間搾取者をなくす政治を目指していました。
大阪の地方自治から国政をひっくり返そうと考えていました。

そこに現れたのが第三の男、幕府最強の武将・足利尊氏。。。
この男の登場で波乱の展開となるのです。

朝廷VS武士、国中を巻き込んだ政権争いの始まりです。

正成が呼ばれていた悪党とは・・・
当時は土地を管理する荘園領主や地頭に反抗し、年貢を略奪する集団を悪党と呼んでいました。
その多くは農民や地侍たち・・・。その悪党を河内で束ねていたのが正成でした。

「何もしないで年貢を取り立てている幕府や公家こそが泥棒だ!!
 奪った年貢は農民たちに返してやれ!!」

悪党と呼ばれていた正成でしたが、千早赤阪村は棚田の名所。狭い土地を耕す貧しい農民からは慕われる存在でした。

当時幕府の実権を握っていたのは、鎌倉幕府第14代執権北条高時。
しかし、その権力は陰りを見せ、各地で悪党による略奪行為が横行していました。

そこに異例の天皇が現れます。
第96台後醍醐天皇です。
幕府を倒し、自ら政治の実権を握ろうとします。

この後醍醐天皇が不満を持っていた制度は皇位継承に関するものでした。
御嵯峨天皇の2人の皇子、
後深草天皇(持明院統・北朝)と亀山天皇(大覚寺統・南朝)の皇位継承争いに幕府が仲裁に入り、両党が10年ごとに皇位を継承すると取り決められました。

「10年では短すぎる!!」と、後醍醐天皇は、一気に討幕へと傾くのですが・・・
しかし、兵力を持たない天皇が幕府と戦うためには、武士ではない新しい兵力が必要でした。
そこで目を付けたのが幕府に反抗していた悪党!!

正成に白羽の矢が立ちます。

後醍醐天皇は、正成に使者を送ります。
正成は感激し、「この手で国を改めてやる!!」
と、京の都を離れ笠置山で兵を集めていた後醍醐の元へ・・・

正成はここで初めて天皇に謁見。
その時天皇自らが夢を語ります。

「そちが楠木か・・・おもてをあげよ。
 朕は・・・そちの夢をみた。」

その夢とは・・天皇の前には一本の大木があり、現れた二人の童子が告げます。

「帝がお座りになる場所は、この木の下しかございません。」
その木は南の方角にありました。「南」にある「木」、つまり「楠」。
『くすのき』こそ、わが力になる人物の名だ。」

正成はここでひるまずに答えます。

「兵力だけを申せば、わが軍勢は少数。
 到底、幕府には勝てません。
 だが、この正成が、知略をふるえば、どんな大軍でも勝つことは不可能ではありません」

「天皇」と「悪党」と呼ばれた男。「天」と「地」ほど、身分が違う2人の夢がひとつに結ばれた瞬間でした。

後醍醐天皇の命を受けた正成は、いよいよ立ち上がります。

わずかな兵の正成が、どのようにして立ち向かったのでしょうか?

1331年9月正成は討幕の兵を挙げます。

悪党の数わずか500人。
それに対する幕府の実権を握る北条高時は、六波羅探題や鎌倉から80万の軍勢で対抗します。
これは本当?日本の人口が700万〜800万と言われた時代。80万の軍勢が作れるわけがありません。かなりの誇張があるかと思われます。

しかし、幕府最強の武将・足利尊氏、新田義貞も出陣します。
でも、どうして尊氏や義貞が寝返ったのでしょうか?
そこには鎌倉幕府のねじれに対する不満がありました。
鎌倉幕府・・・源氏の将軍は3代で終わっています。
北条の摂関政治に対する不満から、北条にとって代わりたい!!
尊氏・義貞ともに源氏の出だったのです。


押し寄せた大軍は、笠置山の後醍醐天皇を包囲。天皇は脱出に失敗し、隠岐の島に流されます。

残るは河内の正成。山の上に築かれた貧弱な城。それを見た幕府は一日で落とせると高をくくります。
そこに正成の奇襲作戦が炸裂します。

金剛山に山城を築き、ゲリラ戦を展開します。
奇想天外だったのが、千早城の戦い。
当時は1対1がメインの戦いの時代に・・・
水鉄砲に油を仕込んで火を付けたり、石を投げたり・・・
正成の活躍は天下に轟き、日本中の悪党が立ち上がりました。

1331年2月、名和一族が後醍醐天皇を救出。
全国の武士や悪党に綸旨を書きまくります。
それが足利尊氏を動かしました。幕府最強の武将が反旗を翻したのです。

尊氏は、2万5000の兵を京に・・・六波羅探題を陥落させ、京を制圧しました。
上野国でも新田義貞が寝返り、鎌倉幕府を直接攻撃、1333年に北条高時は自害。
ここに、150年続いた鎌倉幕府が滅亡しました。

討幕を果たした後醍醐天皇は、京へ凱旋。
その途中、正成と再会しました。
正成は、天皇を護衛しながら京へ。。。

1333年6月新政権樹立。建武の新政の始まりです。。。が、本当の戦いはこれからでした。

建武の新政のうまくいかなかった理由は・・・
当時の恩賞は土地でした。
その功績と恩賞が比例していなかったことが原因といえます。

不満は、二条河原に掲げられました。
「このごろ都にはやるもの
    夜討 強盗 偽綸旨
        俄大名 迷者」

卑しい正成・・・と、正成の出世を妬むものもありました。
朝廷で妬まれる正成。。。
天皇としては、正成にも正当なポストについて欲しかったのですが、公家たちの手前があって上手くかみ合いませんでした。

そんな中、人々が頼りにしたのが源氏の血を引く尊氏でした。
尊氏もまた、後醍醐天皇に冷遇されていました。
源頼朝以降、武士たちの将の称号である「征夷大将」を尊氏に与えなかったのです。

それは、尊氏が強大な勢力を持つことを・・・幕府を作るのを怖れたのです。
「この戦いは、武士政権を滅ぼすための戦いだったはず。。。それなのに、征夷大将?!」
と、思う後醍醐天皇に対して、武士の棟梁としての立場がある尊氏。。。

最初から二人の思惑は違っていました。
後醍醐天皇と一致していたのは、正成ぐらいです。

尊氏には、武士全体の代表となってしまったという責任が・・・
それに比べて正成は、ポストもない気楽な立場。。。

武士の協力があってこその「建武の新政」なのに・・・
尊氏の周りには、公家たちに対する不満が充満していました。

そこに反乱が・・・
鎌倉に出陣した尊氏が、京に戻ってこなくなったのです。
さらに幕府の後地に新居を構え、ついに後醍醐天皇に反旗を翻したのです。

後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じます。
1335年12月、箱根で激突!!
勝利した尊氏軍は、京に攻め上ります。

後醍醐天皇は、東北の公家・北畠顕家に追撃させます。
今日の正成にも出陣を命じました。

京都で激突し、何とか勝利を手にした正成。
負けた尊氏軍は、九州へ逃げ落ちます。
そこで。。。
正成は追撃せずに、兵を引挙げてしまいました。

「尊氏と和睦すべきです。」

はじめて天皇の意向に反した正成。そこには固い決意がありました。
それは・・・「公武合体」

源平時代から力をつけてきた武士。。。もう、武士を無視できなくなってきているという事実。
そこには、正成の純粋に建武政権を維持させたい忠誠心がありました。

1336年4月尊氏挙兵。九州から京へと上ります。
大義名分の欲しかった尊氏は、後醍醐天皇と対立する光厳上皇から「新田義貞を討て」という院宣をもらいます。

つまり、ここに官軍・賊軍という区別はなくなり、

北朝=光厳天皇=足利尊氏
南朝=後醍醐天皇=楠木正成

という形が出来上がりました。

この戦いで正成の戦略は、
帝を京から退去させ、足利尊氏を京都に誘い込み、その間に尊氏の水軍を壊滅させるというものでした。
そうして、物流で孤立した尊氏を全軍で叩く!!という大胆な戦略でした。

が、この作戦に対して後醍醐天皇は・・・権威が地に落ちる、と、
義貞と共に出陣させました。

「最後までこの方の為に戦おう」

ここで有名なのが「桜井の別れ」。

正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになりました。

その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げました。
「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は、

「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げたのです。

1336年5月25日。正成は湊川でわずか700の兵で6時間に及ぶ死闘を演じました。しかし、平地では得意のゲリラ戦も生かせず。。。

自身の弟と「七生滅敵」・・・七回生まれ変わっても敵を滅ぼす!!
天皇への忠誠心を誓って自害しました。享年43歳。

1338年尊氏は征夷大将軍に任命され室町幕府が誕生しました。

敗れた後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開きます。
これより朝廷を真っ二つに分けた南北朝時代が始まりました。
そして、ビミョーに始まった室町時代は、激動の戦国時代へと突入していくのです。

もし、正成の案が採用され、尊氏を京都に誘い込んでいたならば、勝つ可能性があったかもしれません。。。
そこには正成の、尊氏に対する「武家政権を否定する気持ち」があったからです。

1339年8月15日、後醍醐天皇が病に倒れます。
最後まで北朝を睨んで崩御しました。


室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいます。
私利私欲もなく後醍醐天皇の為に戦った楠木正成。人気がありますよね。
その割には何をしたのかあまり知られていないというか・・・。
その人気を思うと、南北朝のマイナーさが寂しく思われます。

っていうか、大河でも「天皇の戦い」はご法度なのかしら?
足利尊氏の時に天皇の争いを書いたのにびっくりしたのを覚えています。
まあ、足利尊氏もあんまり人気ないからなあ・・・。視聴率悪かったような気もします。。。
でも、何でもありの南北朝時代にあって、自分の遺志を貫き通した楠木正成は、やっぱりヒーローなのでしょうね。
判官びいきや忠義者は、日本人は大好きです。揺れるハート


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posted by ちゃーちゃん at 17:08| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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