2012年06月04日

服部半蔵〜家康を救った忍の棟梁〜

日本を代表する文化・・・忍者。

やっぱりこれかしら?
image[7].jpg

鎌倉時代から江戸時代にかけて活躍した戦闘集団、忍者。
各地の大名は、戦国時代に傭兵部隊として利用しました。

その傭兵部隊を、正社員としたのは家康、そのリーダーを託されたのが、服部半蔵でした。
その名は、読物や映画などで語り継がれています。しかし、その本人は、生粋の三河武士でした。

その三河武士が、どのようにして忍者軍団の棟梁となったのでしょうか?

その前に・・・
忍者はどのような活動をしていたのでしょうか?
実際に、忍者がいたかどうかはわかりません。が、忍びの者はいました。情報収集や、情報攪乱、火を付けたり、噂を流す。。。といったかく乱工作を主な任務としていました。

伊賀も甲賀も山深く、生活のしにくい土地柄でした。
その生業として・・・

修験者となり、作った薬草を売ったり、お札を売って回る。。。寺社のお守りを売る。。。と、土地々々を転々とするので、情報交換がしやすく、その情報なども売っていました。

服部半蔵は、家康にかわいがられた武将で、武将としてはきわめて強く、5本の指に入ったと言われています。
そのあだ名は、鬼の半蔵・槍の半蔵などと言われています。

家康からの感状(武功のあったものに、主君から与えられる賞状)が、18あったと言われています。
本人も、死んだと思ったことが、3回あったとか。

では、半蔵はどのような経緯で家康に仕えるようになったのでしょうか?
服部家は、百地(ももち)、藤林家と共に、御三家として伊賀のリーダー役でした。
しかし、父は長でありながら、三河・松平家に仕官します。

1542年、松平家に竹千代が生まれました。奇しくも同年、半蔵が生まれます。

生まれつき頑丈な半蔵、しかし、忍としてではなく槍などの武術を教えられます。

「忍である限り、高い地位は得られない・・・武士として名をあげよ!!」

父の教えでした。

桶狭間で今川義元が討ち死にし、家康が岡崎城へ帰還します。
家康は、織田と同盟を組むことにしました。

1568年武田と連名して遠江へ侵攻・・・この時、掛川城攻めに参戦。
人馬の区別なくあまたなぎ伏せて、勝利に貢献します。
「服部半蔵、鬼槍半蔵」と言われ、みな恐れおののきます。
その半蔵の槍は、全長4mあったと言われています。

その時、数十名の伊賀忍者を指揮していたという記録も残っています。

忍の修業もしていないのに、なぜ指揮が出来たのか?
それは、父・保長より一子相伝の伊賀忍術秘伝書「忍秘傳」を授けられていたからでした。
武士となっても、知識は伝承されていたのです。
「これからは、武将として伊賀を率いるのだ!!」

家康は、土地を巡る争いから武田と対立します。
そして、徳川領への侵攻が始まりました。

諜報活動の重要性を説いた孫子の兵法を学んでいた信玄の常套手段は・・・
戦の前に、情報収集、情報攪乱操作を忍にさせることでした。

家康は、これに対する秘密警察を半蔵に託します。
半蔵が伊賀者を使って捜査すると、武田の忍が、30名は潜んでいました。
彼等を捕縛します。
半蔵は、武田の間者であった茶坊主の竹庵を斬り伏せ危機を未然に防ぎます。

1572年武田軍は、徳川領の侵攻を始めます。
ここで、三方が原の戦いです。
ここで、家康は、桶狭間を再現しようとしていました。
信長が、今川を打ち破ったことで名をあげたように・・・自分も武田を破ることによって名を成そうとしました。

半蔵は、三方が原の戦いで一番槍・・・奮闘するも、徳川軍は大敗を喫します。

この時は、武田軍にニセ情報を流されての大失態だったのです。
情報の大切さを身に沁みます。

浜松城に帰るところを追いかけてくる信玄、家康は脱糞する大ピンチ!!
半蔵は主君を守るために獅子奮迅!!

その功労に対し、槍を拝受しています。

そうして、半蔵は、情報戦の最前線へ!!!
勝頼が徳川に向かってきました。
1575年信康が治める岡崎城に!!
そこには、大賀弥四郎という武田に内通した者がいました。
部屋の中から勝頼の密書が出てきました。

信康を岡崎城から出陣させ、その隙に弥四郎が勝頼軍を引き入れ乗っ取ろう!!という内容でした。
弥四郎は捕縛され、生き埋めにし、農民にのこぎりで引かせて処刑したと言います。

長篠の戦で敗れた勝頼は、まだまだ諜報大作戦!!

武田の間者が、信康の母・築山殿と接触。
武田方に内通するように依頼します。これが、家康の耳にも!!
信長は、信康の切腹を命じます。
泣く泣くそれを受け入れた家康は、介錯人として半蔵を指名・・・。

切腹後の介錯にもかかわらず、
「主君に刃を向けることは出来ません・・・。」
と号泣し、務めを果たせなかったといいます。
家康は、「鬼の半蔵でも主君は斬れぬか・・・。」と漏らしたとか。
後に半蔵は、信康を弔う西念寺を建立。

1579年織田信雄が、武功を焦り、独断で一万の兵で伊賀に攻め入ります。
「天正伊賀の乱」の勃発です。進言したのは、伊賀忍の下山甲斐。

もともとは、傭兵なので、バラバラの伊賀衆です。戦場で会えば、敵になることもあるのですから。。。
しかし、里の危機に、バラバラだった伊賀忍が、一つになったのです。
しかし、信雄惨敗!!

この敗戦に怒った信長は、信長軍の総力をかけて伊賀攻めをすることになります。
伊賀の7つの出入り口を封鎖、伊賀には9万人の人しかいないところに、5万人で攻めたのです。

窮地に陥った伊賀は、家康に助けを求めます。
が、信長と同盟を結んでいる家康に助力は出来ません。

1581年第二次伊賀の乱勃発。
5万もの大軍を投じます。これに対して伊賀衆5000名。
さしもの伊賀衆も、10倍の敵には太刀打ちできず、多くが討ち死に、里も焼き払われ伊賀忍者は壊滅の危機に陥ります。

かろうじて助かった人は、国内に潜伏したり、国外に逃げるほかはありません。
かくまえる人数も限られる、我慢の半蔵です。


そして、更なる試練が半蔵を襲います。
1582年、織田・徳川連合軍が、ついに武田を滅ぼしました。
5月、駿河を拝領した家康、安土城へ赴きます。
信長は、光秀を接待役に歓待します。その際の不手際で光秀が信長に叱責されます。

信長は、案内役をつけて、家康を京都・堺見物に向かわせました。

6月2日早朝、堺で茶会をする家康に半蔵の部下が知らせをもたらしました。

本能寺の変です。
明智の謀反により、信長死亡。
さしもの家康も、動揺します。
わずかな手勢の家康、今、光秀に攻められたら・・・

「家康を討ったものには、一万石の褒美を・・・」

そんな御触れが各地に回っていました。

生涯最大の危機です!!

一行は、敵の眼をかいくぐり、伊賀の山中を!!脱出を図ろうとします。
しかし、そこには賞金目当ての山賊や土豪、農民がいます。

半蔵は、道案内を買って出ました。
「それがしの仲間を護衛に!!」

伊賀の乱のときに、見殺しにしたのに。。。
味方に付いてくれるだろうか???
「それがしの一命に懸けましても説得いたします!!」

堺を出発し、茶屋四郎次郎が金を捲き、どうにか近江・信楽まで。。。
先んじて伊賀入りしていた半蔵。
御斎峠で狼煙を揚げ、服部一族の忍に合図を送ります。
説得します。
「決して無駄な働きにはしない!!」
ここで、200人の伊賀者を味方につけることに成功し、伊賀越えが有利に運んでいきます。

彼らの必死の護衛と道案内で、家康は伊賀から伊勢へと・・・そして船で岡崎へ・・・
山賊や農民たちから守ってくれたのは伊賀者でした。

「我らの護衛をしてくれた伊賀衆を徳川家の家臣として召し抱えたい。
 彼等には、”伊賀同心”の名を与える。
 そなたは彼らを率い、棟梁となるのだ。」

信長によって、滅びの危機に瀕していた伊賀者が、一転、徳川の家臣として再建されました。
半蔵は、伊賀越えによって主君の命を守るとともに、伊賀一族の危機を乗り越えました。

まさに、奇跡でした。

徳川実記には・・・。
「御生涯、御危難の第一とす」
とあります。

同じように危機にあった穴山梅雪は、本能寺の変の後、家康と別行動をし、帰国途中で殺害されています。
当時は農民と武士の区別がなく、誰が敵か味方か分からない中での旅・・・

その移動距離は、3日間で144kmにも及びました。

このことで、自分の背中を任せられるのは、半蔵!!と、思うようになります。
半蔵は、大名クラスの8000石を与えられ、伊賀を任せています。
慎重な家康が、大名クラスの力と、伊賀という戦力を与えているのです。

1590年秀吉に、江戸に転封された家康。
江戸城の裏門警護は半蔵率いる半蔵門・・・そこにいは伊賀同心がいました。

家康は、慎重な人です。
半蔵門の位置は、甲州街道に直結しています。
もし江戸城に何かがあった場合、半蔵門を通って、伊賀同心の護衛によって逃げる段取りがなされていました。
そして、甲州街道には、寺がたくさんあって、その寺を城郭に、一筋入ると「同心長屋」となって、「いざ鎌倉!!」と、戦う段取りになっていました。

その門に、感謝と期待を込めて、半蔵門としたのです。

江戸に転封して6年後、半蔵は、55歳で亡くなります。

しかし、半蔵の死後も、伊賀同心は重用されます。
関ヶ原、大坂の陣でも伊賀忍は、情報収集、捜査の任に当たります。

平和が確立されると、大奥の警備などに当たるようになります。

そして、この情報収集・情報操作が重要視され、組織的になっていきます。
各地の大名を探る隠密。。。
柳生宗矩を大目付とし、各地に目付をおいて、幕府として制度化しました。

その諜報ネットワークの充実の原型は、半蔵と伊賀忍が作り上げ、後に柳生宗矩が公儀隠密に継承されたものです。

平和な時代・安定した時代となっても徳川に仕えた伊賀同心たち。
一方、伊賀に残った人たちは、藤堂藩の下俸禄をもらわず武士待遇の無足人として仕えました。

1853年、澤村甚三郎に藤堂和泉守から密命が下ります。
浦賀に来航した黒船を探索せよ!!と。

ペリー艦に潜入し、機密書類を盗み出すことに成功。

これが、250年にわたって徳川に仕えた最後の仕事となりました。

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2012年05月31日

豊臣家のNo,2 真田幸村〜家康を震撼させた伝説の武将〜

今回は、豊臣家のNo,2 真田幸村です。

ああ、観終って、なんだかあまりのかっこよさに泣いてしまいました黒ハート
日本人はこういうのが好きですね。

忍術を操る猿飛佐助、霧隠才蔵、鎖鎌で敵を倒す由利鎌之助、三好清海入道・・・
六文銭の旗の下、変幻自在の戦いを見せる真田十勇士。

幾度も小説、画像化され、21世紀になった今もアニメやゲームで若者を魅了しています。
しかし、真田十勇士は実は架空の存在・・・
江戸・明治にかけて、講談から生まれた庶民のヒーローでした。
どうしてこのような荒唐無稽な物語が生まれたのでしょう。

そこには信長・秀吉・家康に負けず劣らず人気のあった稀代の武将がありました。

それは、真田幸村。

信州の小豪族に生まれながら、「日本一(ひのもといち)の兵」と讃えらた”真田戦法”。
生涯の敵となる家康。
家康を震撼させ、後に真田十勇士を生むこととなる真田マジックとは???


六文銭は、三途の川の渡し賃です。
死を怖れずに戦うという決死の覚悟が表されています。

仏教の前提となる考え方・六道・・・
「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」
人間は、この6つの道を輪廻転生する・・・という考え方です。
この三途の渡し賃が六文銭なのです。
そして、六文銭の旗印・・・
死ぬ時に、あの旗があればお金は要らないのです。

真田十勇士が架空どころか、学者さんは、真田幸村とは呼びません。
真田信繁というのが本名です。
この幸村は、講談が盛んとなる江戸から真田幸村と呼ばれるようになりました。

そして、真田十勇士はいませんでしたが、優秀な忍者はいたのは間違いありません。
しかし、スパイは名が残らないのです・・・。
真田軍が強かったのは、間違いありません。。。


戦国時代も佳境に入ってきていた1570年、信州上田の真田家に弁丸・・・のちの幸村がが生まれました。

父・昌幸は信玄に仕え、武田24将として甲斐から京を目指す信玄を支えていました。
しかし、武田が滅ぼされた後は、周りの大国、織田・徳川・北条・上杉に左右され生きていくことを余儀なくされます。

1585年当時、真田家は徳川に仕えていました。
そんな中、事件が勃発します。

家康が北条と厚く手を組むために、勝手に真田の領地を譲り渡す約束をしたのです。
真田は、上杉に後ろ盾になってもらおうと人質を出します。。。
それが幸村でした。

それを知った家康は、上田に兵を向けます。
上杉と同盟を結んだ昌幸に怒りを爆発させたのです。

上田の城に押し寄せた徳川軍7000、対する真田軍2000。
ここで、真田父子は戦国史に残る作戦を実行します。

「神川の合戦」(第一次上田合戦)
家康軍を城の近くにある神川に引き入れて、逃げるように一時退却・・・そうして町におびき寄せました。
城近くまで攻めさせて、城下にいた兵に、横やりでひっつかせます。
おまけに町の人を城内に入れ、城下町に火をかけました。

狼狽した徳川軍は、退却を始めると。。。「千鳥掛け」という障害をおいて逃げにくくします。
そこに長男・信幸軍が横から突っ込みました。
これにより、徳川軍は総崩れ。
この時の死者は、コ川が1000に対し真田軍40名。

これが、真田一族の名を全国に知らしめることになる真田戦法です。

これ以後真田家は秀吉に接近し、幸村を秀吉に預けます。
秀吉に目を懸けられた16歳の幸村は、北条征伐に父・兄と共に参戦します。
そこでは初陣とは思われぬ手柄を立てました。

誰が天下を取るかわからない時代、人質を預けることによって成りたっていた関係・・・しかし、人質といっても、近習として教育されることもありました。
幸村は、上杉で武術を、秀吉からは外交や戦術を学びました。
そして、政治の中央にある秀吉学校で学んだ幸村は、大谷吉継の娘を正室としました。

この秀吉学校・・・家康は譜代の家臣がいましたが、秀吉は一から家臣を作らないといけませんでした。
そこで、人質や遠縁の子を優遇して自分の腹心の部下にしようとしました。

天下人・秀吉の下で家臣として腕を振るう幸村・・・。
しかし、1598年秀吉はなくなりました。

そこで満を持して動き出す家康。
それを封じ込めようとする三成。。。

戦国の世がきな臭くなってきました。

その時、幸村は動きませんでした。
秀吉に恩義を感じてはいるものの、小大名の一武将・・・。
弱肉強食の世を見極めようとしました。

1600年、家康は上洛を勧めるも、かたくなに拒む上杉に対して出陣します。
しかし、それは、石田三成と上杉の家臣・直江兼続の策略で、徳川を叩くためのものでした。

その時、幸村は父・兄と共に上杉征伐に向かっていました。
その進軍途中、一通の書状が!!!
三成からの家康討伐の協力要請でした。

ここで、家族会議が始まります。
そして・・・
父と幸村は三成、兄は家康につくことになります。
兄・信幸は、家康の養女・小松姫を正妻としていたのです。

どちらが勝っても真田の血は残る・・・
その日のうちに、父と幸村は上田城に引き上げました。
これが有名な「真田父子犬伏の別れ」です。

幸村は、三成が挙兵すると上田城にこもって家康を牽制します。

そして、秀忠軍と激突します。

秀忠軍3万8000 VS 真田軍3000・・・

上田城で真田戦法が炸裂します。
秀忠からの降伏の使者にのらりくらりと時間稼ぎ。
それを籠城戦の準備に充てました。

「我をたばかったな!!」カッとなった秀忠は進軍、足軽たちは応戦に出てくるもあっさり城に引き上げます。
それを追って押し寄せた秀忠軍に、矢・銃弾を浴びせました。
慌てた秀忠軍に、城の外から攻撃軍が!!それは、幸村率いる小隊でした。

虚を衝かれた秀忠軍。

仕上げは神川・・・。

神川まで逃げてきた秀忠軍に、溜めていた水の堰を切り軍もろとも押し流したのです。

真田の謀略恐るべし!!

秀忠軍を上田に止まらせ、関ヶ原に行けなくしてしまいました。
家康は勝ったものの、またもや苦杯をなめることになりました。

しかし、最近の研究で、どうも秀忠軍が本軍だったらしいと解りました。
その本軍が関ヶ原に行けなかったのです。
秀忠、赤っ恥です。
つまり、この関ヶ原の戦いに、家康軍が負けていたとしたら・・・
秀忠のせいだったのです。

落とさなくてもいい城に、くぎ付けになってしまいました。。。

そして、上田を降伏開場せよと。。。
城を受け取りに行ったのは長男・信幸でした。
本来なら腹を切らされているところ、蟄居となったのは、兄・信幸が、
「私の褒美は要りませんから父と弟の命を!!」と、嘆願したのです。

兄の嘆願があって、和歌山県の高野山下、九度山に蟄居生活の身となります。
しかし、真田父子には過酷な運命がなっています。
真田軍は解体され、身の回りの世話をする人もいなく、寒い山の中で15.6年にわたる貧乏暮し・・・。

窮乏する父子・・・
将軍職は秀忠に。。。
失意のなか、昌幸は死んでしまいました。
義兄への手紙には。。。
「私なども、去年より急に年を取り
 ことのほか 病気になりました。
 歯も抜けました。ひげなども黒いところはありません」

まだ40代・・・九度山での生活はかなりの負担だったようです。

家康は、全国の大名に対し、豊臣討伐の号令をかけます。
豊臣も加勢を要請したましたが、加わる者もいませんでした。
天下はすでに徳川のものになっていました。

そんな中、大野治長が一縷の望みを懸けたのは幸村でした。
大野治長の使者が九度山に・・・

朽ち果てるのを待つ幸村の元に武将として働く最後の機会が与えられたのです。
しかも相手は仇敵・家康。

幸村が全てをかけて戦う大坂の陣が始まろうとしていました。

1614年10月、豊臣征伐に向かう家康に、真田が大坂城籠城の一報が入ります。
幸村が、秀頼についたとおののく家康。。。

11月19日、ついに雌雄を決する冬の陣勃発。

大坂城の秀頼に押し寄せる家康の大軍。
その大軍を押し返す要塞がありました。
”真田丸”です。
固めているのは幸村率いる5千の兵。

敵を挑発しては退き、引き入れては叩く、真田戦法が炸裂します。
内通者がわかると、それも利用して合図ののろしを揚げませました。
そして、弓・鉄砲を浴びせます。

この日の真田との戦いでの死者は、数百人とも千人ともいわれています。
これは冬の陣の総戦死者の4/5に当たります。

大打撃の家康!!
幸村を味方に引き込めないかと考えます。
使者を送り・・・
信州3万石を与えると申し出ます。

しかし、幸村は。。。
「秀頼公に働き場を与えていただいたことは、領地を与えられるよりありがたいこと。
 それを違えてそちらにつくことは出来ません」
と断ります。

「信州一国どころか、国の半分と言われても、この気持ちは変わりません。
 この戦は勝利できる戦ではないから、初めから討ち死に覚悟です。
 せめて一太刀浴びせる所存。
 そう家康公にお伝えくだされ」

幸村の寝返り工作に失敗した家康は、いったん和睦に持ち込みます。

しかし、この和睦、難攻不落な大坂城を落とすための作戦でした。

幸村も、和睦で休戦状態の今・・・
「今夜、敵が油断しているところを狙って攻め込めば、家康・秀忠を討ち取ることが出来ます。」

と、秀頼に進言します。

「首をあげるのは今しかない!!」と。

しかし、これは淀君と春信によって却下されてしまいます。

この時が、唯一真田マジックのチャンスだったのに・・・失ってしまいました。

冬の陣後の和睦の間・・・
淀と江は姉妹・・・。
やはり、戦うことにはためらいがあったのでしょうか。
つまり、よぼよぼの家康の死を願っていたのかもしれません。

豊臣を滅ぼそうとかかる家康!!
戦って家康の息の根を止めたい幸村!!


みるみる堀が埋め立てられ丸裸になってしまいました。
さらに、秀頼の国替えなど無理難題を押し付けられて・・・

大坂夏の陣へ。

幸村の活躍により、徳川軍を近付けさせることはなかったものの、敗戦色が濃く、万策尽きたと腹を決める幸村。

赤備えの甲冑で。。。
「茶臼山には真田が赤備
 つつじの花の咲きたるが如く
 堂々の陣を張る」

茶臼山からすさまじい勢いで本陣へ!!
一路、家康の元へ!!

本陣は、旗本陣に守られていたものの、散り散りに逃げ、残ったのは小栗久次たったひとり。。。
家康軍は、一瞬にして壊滅状態に!!

しかし、幸村の執念もここまで・・・
家康に援軍が来て、あと一歩で取り逃がしてしまいます。

「幸村、恐るべし奴!!」

最後の突破で深手を負った幸村。
茶臼山にたどり着くも、敵兵の太刀をかわす力は残っていませんでした。
46年の生涯でした。

この大坂の冬の陣、真田丸で4/5の痛手を負った家康軍でしたが、
もし、大野治長が幸村の力を買っていれば、真田丸ではなく、全軍を任せていたはずです。
昌幸が生きていれば、全軍を任せたかもしれませんが。。。
幸村が昌幸のNo,2だから、心底評価していなかったのかもしれません。

しかし、結果は
「親ゆずりですごい!!」

完全なNo,2にはなれなかったけれども・・・
最後まで巨大な敵に立ち向かった幸村。日本人の大好きなパターンです。

そんな幸村が、大坂夏の陣の後蘇えります。

島津の者が評しています。
「真田 日本一(ひのもといち)の兵
 古より物語にもこれなき由」

家康はその生涯のうち2回戦場で死の憂き目にあっています。
@武田信玄との三方が原の戦い
A幸村に大坂の陣で・・・

平和になっても幸村の任期は途絶えることなく、徳川の世に苦しむ庶民の心の中でふくらんで・・・
江戸中期にかかれた真田三代記では、戦死せずに鹿児島まで落ち延びたことになっています。

明治の講談本・立川文庫では、縦横無尽に戦う部下たち、真田十勇士が登場します。

家康相手に戦う幸村を助け、神出鬼没・変幻自在に戦う十勇士たち。。。
その姿は、戦場での幸村を投影したものだったのです。


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2012年05月24日

桂小五郎〜吉田松陰の遺志を継いだ維新三傑〜

今回のTHEナンバー2は、”逃げの小五郎”です。

木戸孝允 (幕末維新の個性 8) [単行本] / 松尾 正人 (著); 吉川弘文館 (刊)
木戸孝允 (幕末維新の個性 8) [単行本] / 松尾 正人 (著); 吉川弘文館 (刊)
1833年6月26日、山口県萩市に生を受けます。
それは、大久保利通、西郷隆盛と並ぶ、明治維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)です。
要衝の頃からずば抜けて聡明だった小五郎は、幕末には稀な、先見の明を持った人物でした。

西郷、大久保、坂本龍馬・・・明治維新に関わったほとんどの人が下級武士です。

一方、小五郎は、上級武士のエリートで、幕藩体制を守る立場にありました。
しかし、廃藩置県・版籍奉還・五箇条の御誓文・・・

武士の世を終わらせる政策を打ち出します。

この改革こそが、短期間で日本を近代化させる原動力となりました。

小五郎は、松陰に宛てた手紙に書いています。
「人の功を取って
  我が拙を捨て
 人の長を取って
  我が短を補う」    By桂小五郎。。。

吉田松陰の一番弟子と言われる小五郎。
吉田松陰が、長州藩の藩校・明倫館の時に、もう教えています。

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文・・・松下村塾の塾生とは違うのです。

小五郎は、武士ではなく、医者の和田家に生まれます。
8歳の頃、200石の上級武士の桂家に養子に出されました。

武士になったことで、明倫館に通えるようになった小五郎、この明倫館で、自らのNo,1と出会います。
そこで兵学を教えていたのが吉田松陰でした。

剣の修業にも熱心に行った小五郎、20歳になると、藩で1,2を争うようになり江戸に剣術修行に。。。


江戸で小五郎が出会ったのが、神道無念流。
さらに、剣の腕を上げます。
しかし、最も感銘を受けたのが、神道無念流の思想でした。

「武」という漢字には、「戈(ほこ)」を「止」めるという意味が隠されている。本当に強い力は、相手を倒すのではなく、争いを止めることにある。という考え方をするようになります。
この慎重なところが、逃げの小五郎に繋がっていくのです。

江戸にいたことが、小五郎の運命を変えることになります。

1853年ペリー来航。
鎖国にこだわる日本が、時代遅れになっていることに気づきます。

この時代、日本の限界を感じている人が2人いました。一人は坂本龍馬、そしてもう一人は小五郎の師・吉田松陰。吉田松陰は、藩を代表する学者でしたが、ペリーを見に行き・・・

「どうしても欧米を見たい!!」

と、黒船に密航し失敗、投獄の憂き目にあいます。

一方、小五郎は、神道無念流の無謀を戒める教えを守ります。日本にいながら西洋を学ぼうとしました。

吉田松陰は獄中から、小五郎を登用するように長州藩に手紙を書きます。それがきっかけで、外交の重要ポストに就きました。
剣の道から、政治の道へと方向転換です。


吉田松陰は・・・
「俺は死んでもいいから、誰かがやらねばならぬ」
と、失敗を考えない人でした。そんな人間は臆病になる。。。と。

「かくすれば かくなるものと しりながら
                己むに己まれぬ大和魂」   By吉田松陰

この言葉が、松陰の人となりを良く表現しています。

そんな松陰は、長州に対して、小五郎の冷静で沈着な部分を推薦したのです。

藩の外交官となり、藩主・毛利敬親のNo,2を目指すことになります。

討幕を目論む長州藩の外交官・桂小五郎は、幕府にとってはとっても危険な人物です。

まず、「桂を斬る」と言ったのは、新選組でした。

その発端は、8月18日の政変。
長州では、討幕の機運が高まります。

新選組は、京都を取り締まっていました。長州・・・特に、小五郎をターゲットにしていました。

1864年新選組は池田屋を襲撃、世にいう池田屋事件です。

小五郎は、襲撃に気が付くと、仲間を見捨てて命からがら逃げだしました。
池田屋事件に怒った長州は、軍を率いて京都に上ります。
対立する会津・薩摩・幕府軍と戦うも、返り討ちに遭います。これが、禁門の変です。

この時も、小五郎は藩の中心人物であったにもかかわらず、最後まで姿を見せませんでした。

剣豪は一転、「逃げの小五郎」となったのです。
逃げれば逃げるほど執拗に幕府軍に追われる小五郎。。。
そんな小五郎の逃亡生活を支えたのが、芸者(のちに夫人)の幾松でした。
当時の旅館には、隠し扉などが残っています。

小五郎は、禁門の変は無謀だと思っていました。
もちろん、先頭に立っていた「久坂玄瑞」も。。。反対していた玄瑞は、負けると解っていても参加した組なのです。

この禁門の変は、非常にまずい事態を巻き起こしました。
御所に向かって発砲してしまったので、朝敵となってしまったのです。。。
川の下でのホームレス生活。。。筵にくるまって逃げまくる小五郎の姿がありました。

逃げに逃げる小五郎の、本当の勝負がここから始まりました。


それは、薩長同盟。この同盟が、265年続いた江戸幕府に終止符を打つ原因となりました。

この同盟には不思議な問題があります。。。
朝敵となってしまった長州が、薩摩と対等に近い同盟を結ぶことが出来たということです。。。
そこには、小五郎の交渉術がありました。

立場的には弱かった長州、大変難しいが、粘り強く交渉します。
その交渉が始まったのは、1866年1月。

上に立ちたい西郷からは、同盟を言い出しません。
小五郎から言い出した場合・・・藩の面目丸つぶれ、という苦しい立場にありました。
作戦は「だまる」こと10日以上。

悠然と余裕綽々と構える西郷に対して、針のむしろ状態の小五郎。。。


そこには逃げない小五郎の姿がありました。
長州の未来を懸けた沈黙。。。その間桂が待っていたのは坂本龍馬でした。

坂本龍馬が親交のあったグラバー。武器商人だったグラバー頼りの新型の武器。。。

龍馬が前に現れた時、小五郎は帰り支度を始めます。

「誇りを捨てて薩摩に媚びるくらいなら、長州は滅びても良いのだ!!」

桂の気迫が、龍馬に西郷を説得させ、薩摩から話を持ちかけさせるようにしたのです。

対等な同盟を求める小五郎に西郷は・・・一言。。。

「ごもっともでごわす」

この薩長同盟が、江戸の終焉を迎えさせ、明治維新へと繋がります。

しかし、難しい交渉でした。
禁門の変で長州の武闘派の殆どが薩摩にやられています。
おまけに指揮をとっていたのは西郷でした。
長州には、殺された者たちの親族がたくさんいました。
だから、頭を下げることは出来ないのです。
下手に出るわけにはいきませんでした。
この薩長同盟、小五郎でなければ結ばれることはなかったでしょう。

幕末維新、松下村塾の塾生が活躍します。

そして、維新後、日本の未来を小五郎が切り開きます。

初めの仕事は、五箇条の御誓文の最終添削。
また、武士の特権を削っていきます。

版籍奉還・廃藩置県

殿さまがいなくなりました。

当時は大義は国ではなく、藩の大名に対して尽くすもの。
それを国民が、日本を考えるようにしました。
国民が国のことを考えないと、近代化は出来ません。
選挙も出来ないのです。
これは、仕えていた藩主を含め、全ての大名の地位が無くなるものです。
心理的にかなりの抵抗があったと思われますが、近代化のためには必要でした。

武士だった小五郎・・・。
どうして既得権益を否定することが出来たのでしょうか?

それは、武士とか、身分制ごとかでなく、新しい価値観で世界を見、人間を見ていたからでしょう。

小五郎の思いが掛け軸にあります。

「我が国の前途は容易なものではない
 三千万人の人民をどのようにしてゆけば良いのだろうか。」

1871年岩倉使節団の一員として各国を回ります。
帰国後文部卿に・・・。

身分に関係なく、学校に通えるようにつくします。
それは、師・吉田松陰の夢の続きだったのかもしれません。。。


何故下級武士でもないのに、そんなことが出来たのでしょうか?
長州はもともと平等な国でした。
おまけに小五郎は医者の息子、医者にとって病人は平等です。

奇兵隊は身分に関係なくの隊ですが、関ヶ原までは武士だったという人が多いのです。
関ヶ原で負けた長州の人々は、武士を捨て、農民になった人も多かったので、身分制度もはっきりしていなかったのでしょう。
現在までの総理大臣に山口県の人が多いのも、松下村塾があった影響が強いと言えます。

武士の世を終わらせた桂小五郎。
武士として死んでいったかつての仲間たちへの思いが・・・

京都にある霊山護国神社。ここには、幕末の志士たちが多く葬られています。
その一番高いところに小五郎の墓があります。

それは、自らが望んだものでした。

池田屋事件・禁門の変で亡くなった人と共に・・・。

吉田松陰の考えを実践した小五郎は、仲間たちと共に眠っています。


桂小五郎さん、幕末維新にかけてのインパクトがあんまりないのですよね。。。
それはやっぱり”逃げの小五郎”だからかしら・・・。失恋
本当に、筵にくるまれて逃げているっていうか、ホームレスしているところか・・・
あとは、幾松にかくまってもらっているぐらいしか覚えていないんですよね。。。


まだまだ勉強不足かしら?

日本で初めての身分を越えた結婚をしたのが桂小五郎・・・
本当に最初の新婚旅行は桂小五郎が幾松と城崎温泉に行ったとか・・・。黒ハート

逃げてないじゃん!!小五郎!

新選組に代表される”滅びの美学”良いですよね。。。
でも、きっとそれじゃあ、国家は築くことは出来ないのは確かでしょう。黒ハート

小五郎さんも、頑張って勉強します。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 20:11| Comment(3) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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