2012年06月25日

古田織部〜天下人に仕えた茶頭武将 へうげもの〜

天下一の茶人とは誰か???

多くの人は、千利休と言うでしょう。
秀吉の元で、詫びの茶を作り上げ、茶人の立場から政治にかかわった利休。
その利休の陰で、歴史に葬られた男・・・
昭和の初め、岐阜県で陶器の破片が数多く見つかりました。

それを見た昭和の陶芸家・加藤唐九郎は・・・
「一目見て、惹きつけられてしまった・・・」と驚き、

北大路魯山人も、
「千変万化して、実に立派である」と評しました。

その焼き物の名は「織部焼」

その織部焼の名の由来となったのが、古田織部です。

信長・秀吉・家康の三人の天下人に仕え、戦国の世を茶の湯と言う一芸で生き抜いた文科系戦国武将。

「へうげもの」と呼ばれた作品を数多く作り出しました。
今、この漫画が売れています。

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「へうげもの」とは、「ひょうきんもの」「ふざけたもの」「お調子者」と言う意味です。
利休の亡き後、秀吉・家康のNo,2となり、茶の湯で個性的な美を天下に知らしめました。

この織部、もともとは、織田信長の使い番でした。
織部の「使い番」の仕事とは、織田・豊臣時代に各地に命令を伝え、軍中を巡視し、情報を伝える役目のことです。
つまり、若手の幹部候補生でした。

1544年美濃に生まれます。200石の田舎大名でした。
17歳の頃、信長に仕えます。
これによって、織部の人生が変わるのです。

使い番として信長に仕え、信長を美の革命家として憧れていました。

「自分が気に入れば、それは美しい!!」
その考えが、織部を変えます。


当時最先端の文化だった茶の湯。二部長は、名物と呼ばれる茶道具が高価だったことに着目・・・
名物狩りとして、京都で買い上げ、武勲のあった者に与えました。

「美しい名物をわが手に!!」

みんな、一心不乱に頑張ります。

松永弾正久秀・・・この人は、戦国一悪い人で有名です。
13代将軍を殺し、主君を殺し、奈良の大仏を焼いた男です。
しかし、自分なりの美意識は持っていました。
この美意識、太平の世とはちょっと違うのです。


松永久秀が謀反の時は・・・
信長は、謀反を許す代わりに「平蜘蛛の茶釜」を献上せよと、引き換えにしようとしました。
しかし、久秀は断固拒否。
「平蜘蛛の茶釜」に火薬を詰めて、自爆します。


茶の湯大名・荒木村重謀反の時は・・・
武士としての名誉を捨て、城も正室も・・・家臣も何もかもの全てを捨てて、茶器とともに逃げ出す村重の姿がありました。
この荒木村重・・・のちに秀吉の茶人として生きたと言われています。

そんな中、古田織部も・・・
「武」か「茶」か・・・二つの道で悩んでいました。

どうして、この茶の湯が流行したのでしょう・・・。
茶の湯御政道と呼ばれます。これは、茶の湯を政治的に利用した信長の政策のことですが・・・。

茶の湯には二つの流れがあります。
美術として茶器を鑑賞する・・・室町様式と呼ばれ、鑑賞したり批評したりのためには、教養や知識を必要としました。
もう一つは・・・飲むという行為です。
「けっこうなおてまえでした。」教養のない武士でもできることでした。
そして、茶器の批評にしても・・・
利休好みと言うのが出てきます。そのまま、利休が良い!!と言えば良いもの!!と言うものです。

しかし、明智光秀の謀反によって、信長は死んでしまいました。

次にトップに立ったのは・・・
農民から天下を取った秀吉・堺の魚屋から天下の茶人となった利休。
2人は戦国の世に、新たな力を作ろうとしていました。

詫びの茶を考案します。
茶の湯をネットワークとし、全国の大名を把握、フィクサーとして秀吉のNo,2となった利休。

その利休の元で、武将茶人として生きることを選択します。
そんな利休に人生の教えを授かります。
「人と違うことをせよ」

利休の弟子は・・・「高弟七人」と呼ばれています。
蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山宗綱・瀬田正忠・高山長房・牧村利禎
その中でも、最高の弟子は、織部と言われています。

1585年秀吉より3万5000石を拝領し、大名へ。
織部十作を選定。

そして、織部のチャンスとなった北野大茶の湯。
唯一無二の茶の湯が発表できる!!
才能を開花させていく織部。。。

その頃から、師が秀吉と対立し始めていました。
それは、美意識の違いから始まったものでした。
利休のわびさびの極致を具現化したものは、「黒楽茶碗」でした。
しかし、秀吉は黒は陰気だとして、派手な「楽茶碗」を使い始めました。

それを見ていた三成は、利休を苦々しく思っていました。

そして・・・大徳寺山門の2階にある利休像に対して・・・いちゃもんをつけだしました。
もし、秀吉が大徳寺に参る際は、利休の下をくぐるのか!!と。。。

そして、もう一つは、価値のない茶器に法外な値段をつけて儲けていると・・・。

これによって、利休は切腹に追い込まれました。

人生の師を失った織部に対し、秀吉は。。。
「織部よ
   そなたが利休の 
      あとを継げ」

新たに武家流の茶をつくるように命令します。
それに呼応して、一新する織部。

小宇宙だった3畳に・・・窓を8個作り明るくし、相伴席をつくることで、身分に差をつけました。

いろいろなデザインの椀を作ります。
それは、町人の噂にまでなり、量産をしました。
それは全国に広まり、初の流行を生み出しました。
「織部焼」です。

昭和に入って再現された織部焼はこんな感じ。
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織部焼 抹茶茶碗 手造り黒織部 【箱入り】 ギフト 内祝い 引出物 結婚祝い 美濃焼
蚊遣り 蚊とり線香入れ 陶器 織部豚 小 敷板付 ブタ 美濃焼 / 【美濃焼】四季彩-陶器ONLINE-
それは、戦国とは違う新しい時代を織部に造ってほしかったのかもしれません。
茶道としての秀吉のNo,2となりました。


そんな秀吉も亡くなり・・・
利休がそうであったように、家康は、織部を無視できない存在になっていました。
そこで、秀忠の茶道指南役とします。

関ヶ原では東軍についていた織部。徳川との関係は、上手くいっているかのように見えました。
しかし家康は、織部の美に対して恐怖を抱き始めます。

秩序に収まらない・・・とらわれない自由な発想。。。
それは、下剋上の精神を煽るのでは???

豊臣・徳川、どちらからも信望のある織部。。。彼は、もろ刃の剣でした。

家康は、方広寺の「君臣豊楽」「国家安康」に目をつけました。
いちゃもんをつけ、それを書いた清韓禅師は蟄居となりました。

その清韓禅師を、織部は茶会に呼びます。
そこに、かつての利休を見てしまった家康・・・

家康に切腹の名を受けた織部は・・・

1615年 自害 享年72歳でした。

死後徳川家は、古田の存在を抹殺しようとしました。
20年で織部焼は失われてしまったのです。

織部の何を怖れたのでしょう。
「織部好み」は、家康の理解を越えていました。
解らないからこそ怖い!!

これから築こうとする泰平に対して、反逆しかねないと思ったのかもしれません。

そして、織部は、師である利休同様、死ぬことによって、自分の茶道を守ろうとしたのでした。

家康から、この織部の後を命じられた弟子の小堀遠州は、3代将軍家光に仕え、天下泰平の世に相応しい、「綺麗さび」の手法に一新しました。茶の湯だけではなく、庭など・・・総合芸術家となりました。

織部焼 (NHK美の壺) [単行本] / NHK「美の壺」制作班 (編集); 日本放送出版協会 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 20:25| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月21日

河井継之助〜武装中立を目指した長岡藩家老〜

1868年、戊辰戦争勃発!!

旧幕府軍VS新政府軍・・・政権の座を争い激戦を繰り広げました。
佐幕か討幕か・・・
どちらにつくか、全国の藩が迫られました。

そんな中、あえて中立という路線を築こうとした藩が・・・
石高7万4000石の越後長岡藩です。

この中立を、藩主に進言した男が、河井継之助。
負債総額14万両・・・荒廃寸前だった藩の財政を立て直し、約10万両の剰余金を持つまでにした継之助の藩政改革。

幕末の英雄はたくさんいますが、武装中立をを目指したのは長岡藩家老ただ一人です。

「兵馬の精強なくして
   一藩の正義なく
       独立なく
        自尊なし」

討幕でも佐幕でもない、中立を選んだ男、越後長岡の河井継之助。日本人の発想の常識を超えた男の生き様です。

継之助が一般的に知られていないのは、それが日本が勝者の歴史だから・・・
賊軍の扱いは低いのが現状です。

彼が注目されたのは、司馬遼太郎の「峠」です。

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峠|司馬遼太郎|新潮社|送料無料本来ならば、大河ドラマの主役になってもおかしくない人です。
それは、当時、長岡のように武装中立をしようとした藩がなかったからです。
そもそも、武装中立という発想がなかったと言えます。

そして、武装中立の為に、南北戦争で使ったガトリング砲・・・当時、日本に3門しかないのに2門も持っていたのです。

その日本人離れした継之助、幼いころは、親や先生の言うことを聞かない腕白な少年でした。
そして、王陽明の陽明学にはまっていました。
この陽明学は、「知行合一」をモットーとし、知識と行動は一つになるべきだと説いたものです。
これが、その後の性格の基盤となりました。

1852年26歳で江戸に遊学。3人の人物を師と仰ぎます。
古賀謹一郎
斉藤拙堂
佐久間象山
特に、古賀謹一郎の門を叩いたのが一番重要でした。

そこで「李忠定公集」と出会います。
「経済とは、経世済民の略。
 すなわち、乱れた世を整え、困窮している民を救うことこそ経済の本質」
この本にとりつかれます。

それには、長岡が直面している困難がありました。
負債総額が14万両と多額の借金がありました。
信濃川の氾濫
火事による損害
藩士による浪費生活・・・
これらが財政を圧迫していました。

「藩の為に、藩の民の為に・・・
  藩政改革を行いたい!!!!!」


10代藩主牧野忠雅に送った意見書が彼の目に止まり、御目付格評定方随役に任命されます。
藩の首脳部が会議に参加し、藩政の方針を決める際に意見を言う役目です。

これは、異例の抜擢です。江戸から長岡に帰ることになります。
しかし、世の中は甘くはなく、武士では中流の継之助、自分たちは良い生活をしたい上流階級・・・
何もできずに2か月で辞任します。

それは・・・
陽明学・・・これは、中国・王陽明が唱えた従学説です。朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説くものです。日本では、幕末に隆盛を誇りました。

しかし、陽明学は異端・・・普通家臣は朱子学を学びます。
というのも、知行合一するためには、反乱も辞さないという考えに行きつくからです。
戦国時代は・・・
「君 君たらざれば 臣 臣たらず」
でしたが、家康が平和な時代にするために
「君 君たらざるとも 臣 臣たらざるべからず」
と変えたのです。これは、林羅山の朱子学を取り入れたものです。

つまり、普通の家臣は朱子学を学んでいるので、仕組みと意識の壁が立ちはだかったのです。
政策として示すときに、具体的にどう実現すればいいのか・・・
若くて経験もなく、仲間作りも出来ていませんでした。

そして、これを機に西国へ遊学します。
ここで、運命を変える出来事が・・・

備中松山藩家老・山田方谷に会います。
山田方谷の藩政改革は・・・

特産物の考案
藩の商社化(貿易)
武士の俸禄削減
軍の近代化
身分秩序の見直し・・・

この改革を成し遂げるためには、封建制の今の世の中15年はかかるだろう・・・
「やさしいことから一つずつ成し遂げていけ」
何よりも大切なことは、藩民の信頼を得ること・・・
説明責任を果たすことが大切だと気付きます。
ここ松山で、6か月過ごし、方法論を見つけようとしました。

もう一つ影響を与えたのが・・・
長崎で見た「異国文化の脅威」でした。
東の方とは違い、西国は開国をしており、富国強兵・殖産興業が進んでいました。

「天下の情勢は、大変動の時期に来ている。
 力を養う他に藩の生きる道はない・・・。」

このことが、長岡藩を大きく動かします。
260年の科学知識の遅れを身に染みて感じたのです。

1860年桜田門外の変・・・
井伊の死後、混迷を深める幕府・・・

そんな中、第11代藩主牧野忠恭が、京都所司代に・・・!!
慌てる継之助。。。
富国強兵を推し進めている西国に、幕府が勝てるわけがない・・・。
藩主に、「京都所司代の辞任」をするように説得し、「藩政改革」に取り組むべきだと訴えます。

しかし、京都所司代からもっと重要な老中になってしまいました。
長岡藩の生きる道は、中立の道・・・辞任するように頼みます。

あらゆる政治の流れから無縁になり、我が藩や民が豊かになる政治をする資金が必要なので、産業を起こすべきだ。
そして、西洋から大砲や銃を買って、軍の強化にあたるべきだ!!

藩政改革をしたい!!と、殿に申し出ます。

この訴えが通り、殿は老中を辞任。
藩政改革を決意します。

1865年すべてを任され、忠恭のNo,2となりました。
賄賂の禁止
遊郭の廃止
賭博の禁止
禄高の改正   をしました。
その改革は、ぜいたくを禁止したものの、下の者には篤く行いました。
2000石⇒500石
700石⇒300石
95石⇒100石。。。平均して100石に近づけました。
しかし、みんなからの反論もなく・・・というのも、継之助自身出世前と同じ120石のままでした。

「民衆こそ国の主役、役人は民衆によって雇われたものにすぎない」

藩政を改革すること3年・・・
身分秩序が薄くなり、町が活気づきます。
借金を返済しただけでなく、剰余金約10万両の藩となりました。

しかし・・・時代の大きな渦に飲み込まれていくのです・・・。

1867年10月、大政奉還が徳川慶喜により断行されます。
12月王政復古の大号令・・・
ここから旧幕府軍VS新政府軍の政権争いが始まりました。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
全国を巻き込んだ戊辰戦争となります。

早くから強兵を育ててきていた新政府軍は、各地で勝利しながら勢力を伸ばし・・・
長岡へ!!
長岡のピンチに、江戸にいた継之助は、江戸藩邸を処分し、その家財を売却、そこで得た資金で外国商人からガトリング砲を購入します。日本に3門しかなかったガトリング砲を2門買いました。その威力は、1分間に200発の弾が撃てるというものでした。他にも最新式の小銃を手に入れます。

江戸で中立の準備をし、おまけに暴落していた米も購入、さらに銅銭を買い入れます。
しかし、陸路を使って長岡に運び入れることは出来なくなっていました。

海路で運搬します。外国人から船をチャーター、米不足の北海道で米を売り、新潟で相場の上がっていた銅銭を売り、帰る時にも軍資金を増やしました。

江戸を出発してから1週間、軍資金を携えて、越後に帰りました。

そんな中、新政府軍から恭順命令が!!
これを継之助は黙殺します。

お金と軍備で戦争を中止できるかも!?

1868年5月2日早朝、信濃川を南西に・・・そこにあるのは、小千谷市慈眼寺。新政府軍の本陣がありました。

そこに待ち受けていたのは、軍監の岩村精一郎。
戊辰戦争の中止の・・・長岡藩の中立をかけた一世一代の交渉が行われました。
小千谷談判です。
しかし、交渉決裂。

藩に戻って、全軍に出陣を支持します。

後に新政府軍・奥羽鎮撫総督参謀・品川弥二郎は・・・
「なぜあの時、岩村のような小僧を出したのか・・・
 もし、河井の話をまともに聞ける人間が対応していれば、北越戦争は止められた」
といったとか。

長岡藩は、光福寺に本陣を置き、奥羽列藩同盟に加盟VS新政府軍の戦いです。

3か月に及ぶ北越戦争が、開戦しました。
長岡藩は、ガトリングで激しく抵抗します。
しかし、信濃川からの奇襲攻撃に、城は陥落・・・。
民の為にも歴代藩主の為にも城を取り返す!!

強い忠誠心を持って、落城から2か月後、八丁沖から襲撃し、城を奪い返します。
しかし、4日後にまたもや城は陥落・・・。

この時の戦いで、左足を負傷した継之助は、会津に向かいます。
南会津についたとき、その傷がもとで亡くなります。

そこで、部下たちに最後の指示をしました。

「いずれ奥州連合は敗れる。。。
 その時、殿の世継ぎをフランスに逃がすのだ!!
 その為の船は、外国商人に頼んである。
 そして、私の棺を作ってくれ。
 火を焚いてくれ。。。
 私を焚く火を。。。
 この首は、だれにも渡さん!!」

1868年8月16日享年42歳の生涯でした。

本当は戦いたくなかった継之助。
武装中立の武装は完ぺきでしたが、新政府軍はパスしてくれませんでした。
中立を武装によって守ることが出来なかったのです。

この北越戦争・・・
戊辰戦争の際、越後長岡とその周辺で戦われた戦。その戦死者は、両軍合わせて2200人を越えました。

越後長岡藩の敗北理由は・・・。
武装中立という考えが、長岡藩にも浸透していなかったのでは?
理念は前に走るも、家臣はついて行けなかったのかもしれません。

しかし、その忠誠心は、今も人々の心に受け継がれています。
遺骨は部下の手によって、妻の元へ。。。
長岡市栄涼寺、そこで、継之助は歴代藩主の墓を見守っています。

河井継之助 駆け抜けた蒼龍
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塵壼 河井継之助日記
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posted by ちゃーちゃん at 18:39| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月12日

西郷隆盛〜明治の礎を作った薩摩の怪物〜

今回のTHEナンバー2は、西郷隆盛さんです。

西郷さん、何回もいろんな場所でお見かけしているのでもうナンバー2で何回かしているのでは?と思ってしまいましたが、やっていなかったのですね。

でも・・・なんだか気乗りがしないというか、うまくまとめられないというか・・・
今回は、加治将一さんでした。
いつも解説してくれる時に・・・
「私が思うところ・・・」とか、「私の説では・・・」とか、突拍子もないことを言ってくれるので、頭の中が混乱しています。
いつもレポートするときは、感情移入しないつもりなんですけど・・・あせあせ(飛び散る汗)頑張ります。


1854年日米和親条約締結。
時代が大きく舵を切った時、歴史の表舞台に現れたのが西郷吉之助。
後に、幕末維新の表舞台に躍り出る西郷隆盛です。

江戸幕府を倒し、江戸城を無血開城に導き、明治政府で辣腕を振るうも、最期は政府に刀を向けた怪物です。

西郷隆盛は、維新最大の功労者でしょうか?
それとも、逆臣なのでしょうか?

その本当の顔を知るものはいません。

最も知られている顔・・・
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は、会ったこともないイタリア人画家・キヨソーネが明治16年に描いたもので、隆盛の弟・西郷従道と、隆盛の父方の従弟・大山巌のオラージュしたものなのです。

また西郷の像も、本人とは全く違うとか。

生前の写真は存在しないと言われていました。

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しかし、加治将一さんによると・・・
1865年12月、若侍を中心に13人、その一番右端が西郷???
その理由は、大男でヘラクレスのようだということ。。。?????

本当にそんな理由で良いの???
と、私の中でモヤモヤが発生してしまいました。

でも、頑張って見ます。

一枚もないと言われてきた絵、平藩の藩校から出てきた一冊のアルバムにありました。

その決め手をもう少し深く掘り下げてくれました。

@永山弥一郎という影武者がいて、その人に似ている。
A背が高かった。
Bオーストラリア人が、「まるでヘラクレスのようだと言っていた」
C島流しの後なので、がりがりだった。

本当にそれでいいの?加治さん。。。って、思ってしまいました。
モヤモヤがふくらんでいきます。

さて、勝海舟の目に映る西郷とは?
西郷の死から2年後に碑を建てています。
反逆者の碑は、当時では考えられないことでした。

きっとそこには、2人の信頼関係があったのでしょう。

禁門の変では幕府の指揮官だった西郷と、軍艦奉行だった勝。
2人の歴史的な出会いはどうだったのでしょうか?

勝海舟に会うことで、西郷の考えが180度転換します。
西郷を公武合体派から討幕にしたのは勝だったと言っても過言ではありません。

この日を境に、西郷は、長州との同盟を考えるようになります。

この13人の写真は、それから3か月後の写真です。
「薩英戦争講和修好時の島津久治」というキャプションがついています。

取り巻きは薩摩藩士。
東郷平八郎らしき人も映っています。
そう、後の薩摩閥で固めた海軍の大将や中将です。

この人たちは、10年前から長崎海軍伝習所に出入りしていた人たちです。
つまり、勝とは昵懇の仲でした。

この1年後に薩長同盟です。
加治さんの考えでは、この明治維新は裏でイギリスが糸を引いていたみたいなことを言っていました。


慶喜に対立する薩長に対し、慶喜は大政奉還をします。
しかし、やはり、実権は、徳川に・・・。

これを快く思わない人が・・・
12月大久保利通や岩倉具視らが図り、王政復古の大号令をかけます。

しかし、王政復古の大号令と言っても、絵に描いた餅。。。
相変わらず徳川に強力な力がありました。

大義を失った薩長は、大義名分を作ろうとします。
西郷は、江戸中に火を放ち、略奪をし、攪乱行動をします。

これに対し幕府側が、水戸にある薩摩邸を焼き討ちしてしまいます。

これが引き金、つまり薩長側の大義名分となって、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
薩長は、兵力的には劣っていたものの、錦の御旗で勝利します。

勝と西郷が会見し、江戸城は無血開城。
そこには、天璋院篤姫の手紙もありました。西郷の恩人・斉彬の顔が浮かびます。


維新になって、廃藩置県に挑みます。この大事業を成し遂げられるのは、西郷しかいませんでした。
大久保は・・・
「是非とも東京に来てくれ  西郷どんが必要でごわす
  廃藩置県が出来るのは、おはんしかおらん」
涙ながらに説得しました。

「やるからには、命をかくっつもりでやらんとなりもはん」

西郷はすでに、鹿児島で廃藩置県に先駆ける改革を行っていました。
知行の返上・平均して200石の士族に統一します。
版籍奉還を行って、廃藩置県を行ったのです。


しかし、これは藩主と藩主の生活を脅かすものでもありました。
島津久光も大反対です。

難しいと思われた廃藩置県、御親兵の圧倒的な軍事力を持って、無血革命で達成します。
この、士族を一気に解体するのは気が引けた西郷、警察官3000人のうち2000人は薩摩を採用、士族の居場所を探します。

1871年9月15日、西郷は勝と三度目の対談をします。
「こげん面倒なことになるんじゃったら 早う死んじょった方がましでごわした」

「おいらも時々そう思う」  

と言ったとか。

廃藩置県は、西郷の軍事力を統率するカリスマ性がなければできませんでした。
その西郷のカリスマ性を利用する大久保。
廃藩置県は、政府にとって内政の大きな山でした。
これを西郷の力で乗り切ると・・・
「岩倉使節団」として主要メンバーは旅に出てしまいます。

その間に当時は鎖国中だった朝鮮との問題が勃発します。
朝鮮を開国させようとする「征韓論」が出てきて・・・
両国の関係は悪化の一途を辿ります。

西郷は韓国に行って、平和裏に納めようとしていましたが。。。

それを覆したのは、旅から帰ってきた大久保でした。
嫌気を出した西郷は、鹿児島へ帰ってしまいました。
そう、西郷は、新政府と決裂したのです。

1874年6月私学校を作ります。
銃隊学校・砲隊学校・吉野開墾社・・・鹿児島の士族を教育しようとしました。

しかし、これは軍隊???
近代国家として明治政府が成立するためには、放ってはおけません。

そして危惧していたことが・・・
私学校の生徒が、陸軍火薬庫を襲撃!!
西郷は。。。「おはんたちは 何たることをしでかしたか!?」

1877年2月15日、日本最後の内戦が始まりました。西南戦争の勃発です。

9月24日西郷自決。。。

明治維新の一番の立役者は、反逆者としてその一生を終えるのです。
享年51歳でした。

鎌倉時代より750年続いた武士の世を終わらせた男は、自らの命を武士の世の終わりの仕上げとしました。

討幕・廃藩置県・西南戦争・・・

日本が近代国家に生まれ変わるために、自らを人柱としたのです。

勝は、亡き友の追悼と、名誉回復に努め、息子・寅太郎を支援。
寅太郎が海外留学の際は、資金集めに奔走しました。

1898年師走・・・
銅像の除幕式にて・・・

「どうも出来がよくない・・・」

勝は、満足できなかったようです。

その顔は謎のままに・・・。


みたいな感じでした。
どうでしょうか?
初めての西郷さんなのに・・・

顔がどうとかよりも、西郷さんの生い立ちとか、成し遂げた偉業とか、してほしかったなあ・・・。
だって、顔は結局解らなかったのだから・・・。あせあせ(飛び散る汗)

これなら、まえにナンバー2でやった大久保利通の方が、かっこいいと思ってしまいました。。。あせあせ(飛び散る汗)

それはこちら。
大久保利通〜明治を創った男・維新の設計者〜


西郷さんには今も惹きつけてやまない魅力がたくさんあります。
人情とか、人情とか、人情とか、きっぷのいいところとか、官僚タイプの大久保とは違うダイナミックな部分とか・・・。

もっと歴史に忠実に・・・そして
かっこいい西郷さんを見たかったなあ。。。

って、私情ははさんで書かないつもりだったのに・・・。
今回は、なんだかグダグダに思ってしまったので。。。
ごめんなさい。反省します。

西郷隆盛 第一巻 [単行本] / 海音寺 潮五郎 (著); 朝日新聞社 (刊)
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西郷隆盛伝説 (角川文庫) [文庫] / 佐高 信 (著); 角川学芸出版 (刊)
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ラベル:西郷隆盛
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