2012年07月13日

天下の彗眼!毛利家の外交僧 〜安国寺恵瓊〜

今回のTHEナンバー2は、安国寺恵瓊です。

戦国の世に生まれ、後に妖僧・悪僧と呼ばれた男がいました。

安国寺恵瓊です。
ある時は南禅寺や東福寺の住持を務め、禅僧最高権力者・・・
またある時は、中国地方最大の大名・毛利家の外交僧として・・・
そしてまたある時は、秀吉の腹心となる戦国大名・・・

その生涯は、謎に満ちています。
世俗を離れ、平安の世を求めるのが僧侶・・・
しかし、戦国の世を侍とともに暗躍した恵瓊とは???

「信長 あおのけに転ばれ候ずると見え申候」
「藤吉郎 さりとてはの者にて候」

戦国動乱の中、毛利の外交として、天下人の死と、統一を予言した男です。
その慧眼は、どのようにして作られたのでしょうか?
毛利元就に仕え、その死後、三本の矢を支え続けた男、毛利最大の危機を救ったのも、恵瓊でした。

信長の命で、秀吉が備中高松城を水攻めにした際、絶体絶命となった毛利軍に・・・
たった一人で秀吉との交渉に臨みます。

そんな戦国時代のキーパーソン・安国寺恵瓊とは???
安国寺恵瓊がいなければ、毛利家はなかったかもしれません。

政治が朝廷・教養に値するならば、教養豊かな人間がサポートするのは当然でした。
その中でも、安国寺恵瓊は、戦国時代、日本の最高の教養人といっても過言ではありません。

なぜ、恵瓊は毛利家のNo,2となったのでしょうか?

安国寺恵瓊は・・・
戦国時代の真っただ中、清和源氏の名門・安芸武田の名門武田信重の子として生まれます。
幼名を「竹若丸」。
名門と言えども、力がなければつぶされるのが戦国時代・・・
安芸武田の肥沃な領土を狙っていたのが、毛利でした。

天文10年元就が、銀山城に攻め込んだときに、城主は逃げ、父・信繁は孤軍奮闘するも・・・

「武田の誇りを しかと胸に刻み
   そなたの手で 武田を再興せよ。。。」

と、言い残して、城に火を放ちました。

竹若丸は逃げ延びて、安国寺にて剃髪。
安国寺の笠雲恵心は、利発な竹若丸に自分の一字を与え、恵瓊と名付けます。
見抜いたものは、外交僧としての才能でした。


外交僧・・・
外交僧として和睦をする・・・恵心は、そんな外交僧でした。
敵対する両方から信頼出来る人でないといけません。
おまけに、中国の思想に精通しており、例えば・・・「孫子の兵法」なんかを学んでいるので、大名たちにとって必要な知識人・ブレーンでした。

こうして、外交僧としての勉強が始まりました・・・
殺し合いではなく和睦を・・・
戦国大名は、他国と交渉する場合に、教養のあるしかるべき人物を用意していたようです。
織田信長には沢彦。
今川義元には太原雪斎。
いろいろな外交僧がいました。
この二人との違いは・・・
毛利家の外交僧は、合戦をしないということでした。
説得をするのです。
合戦に参加しないのだけれど、それ以上の功績を納めました。

そして、毛利家との対面。
父の仇・・・宿敵・毛利元就です。

元就は、その出を訪ねます。
「わしが殺した武田の末裔か・・・」

「毛利を倒し、そなたの手で武田を再興せよ!!」
という父が浮かびます。

「生まれはどうであれ、今は禅僧の身。
 禅僧に過去等ございません。」

役に立つものは使う!!
元就は、恵瓊を使うことに決めました。
そして、毛利家への遺恨を捨てた恵瓊は、No,2の外交僧となり、戦国の世に躍り出ます。

1571年毛利が勢力を拡大する中、最も恐れていたことが・・・
元就死去。

一代で領土を広げた元就、その死の前に気がかりだったのは・・・
長男隆元の死去。

今後は、輝元を支えて。。。と、恵瓊に頼んで亡くなりました。
吉川元春、小早川隆景の両川体制で、強固に西国での力を保っていました。

足利義昭は、将軍義輝が暗殺され、京都から逃げていたところを織田信長に利用され、将軍となりましたが、それは、信長が京に上るために利用したにすぎません。

その後義昭は京を追放されてしまいました。
そんな義昭が頼ったのが、毛利家でした。

将軍から、畿内を統一して欲しいと頼まれます。
将軍を利用して勢力拡大のチャンス!!

しかし、天下取りの道を突き進む魔王・信長と敵対するのは毛利にとって命取りとなる・・・。
この難局を乗り切るようにと小早川隆景に託された恵瓊は。。。

信長と義昭を和睦させる交渉が始まりました。

大坂・堺での和睦会議で・・・
将軍義昭・義昭の外交僧朝山日乗・信長の家臣羽柴秀吉・・・

京を追放される際に人質を取られていた義昭は、戻るのには信長から人質を取ることを強気に要求します。
それに対し秀吉は。。。人質を交換するのは立場が対等なればこそ。いまの公方さまと上様が同じには思えません。

そういう秀吉に恵瓊は・・・
「なにとぞ良しなに」
と、申し入れます。

京を追放された義昭には、
「よもや安芸には来ないよう」
と、釘を刺しました。

義昭は、堺から紀州へと退去することになりました。

恵瓊は手紙に・・・
「信長の代、五年三年は持たるべく候
    明年辺は公家などに成さるべく候かと 見及び申候

 左候て候
  高ころびに あおのけに 転ばれ候ずると見え申候

 藤吉郎 さりとてはの者にて候」

まるで、数年先の未来が見えているようでした。
安国寺恵瓊の慧眼は、毛利にとってなくてはならないものになっていました。

1582年織田信長が動き出しました。
天下統一の為、毛利を叩こうとします。

指揮を任されたのは、秀吉。。。
秀吉は、黒田官兵衛を従え、中国攻めに乗り出してきました。
秀吉の軍は、どんどん西へやってきます。
いよいよ備中・高松城へ・・・。

高松城についた恵瓊の目に現れたのが・・・
異様な光景でした。
水攻めです。

さらに追い打ちをかけるように、信長自ら5万の軍を以て高松城へ向かう・・・。
戦慄の中、小早川隆景が頼ったのは、安国寺恵瓊の頭脳でした。

恵瓊は家来を従えることなく、秀吉の元へ・・・
迎えたのは、秀吉の家臣・黒田官兵衛。

恵瓊は毛利の条件を出します。
備中・備後・美作の三国割譲、高松城主・清水宗治の切腹。

官兵衛は、「切腹の件、清水殿は承知でしょうな・・・」

「もとよりお覚悟でございます。」=これは、真っ赤なウソでした。

どうして独断だったのか?
それは、毛利の家臣に相談すれば、反対必至だったから。 
しかし、領土の割譲だけでは、秀吉はもとより冷徹な信長が許すわけはない!!
自分一人がやったとなれば、毛利の武門は守られる!!

外交僧として考えに考え抜いた結果でした。
そして、高松城へ赴き、条件を伝えます。
「家臣たちの命と引き換えに」説得しました。

恵瓊が交渉を進める中・・・
秀吉側から使いが。。。
明日にでも和睦を!!とのことでした。

「何かあったか???」

本能寺の変です。

秀吉は、毛利方に気付かれないように、和睦を進めようとしました。
翌日、清水宗治が秀吉の前で切腹、和睦が結ばれます。

光秀討幕の為にとってかえそうとする秀吉。
そこに、信長死す!!の報が、毛利の元へ・・・

恵瓊は一歩先を考えて、秀吉に恩を売ろうとしました。
黒田官兵衛に毛利の旗を贈ります。
道中、毛利が秀吉側についたとわかるように・・・。
この恩を秀吉は、生涯忘れなかったのです。

恵瓊の見込み通り、秀吉は天下人へ。。。

後の四国攻めの際には、小早川隆景は伊予国を与えられ、恵瓊は和気郡2万3000石をもらいました。
その能力を見込んで、直属の部下としたのです。
ここに、僧侶でありながら大名という戦国時代唯一無二の存在となったのです。

しかし、恵瓊の出世を快く思わない人もいました。
その急先鋒が、吉川元春の息子・広家でした。

朝鮮出兵、恵瓊は秀吉の武将として、そして、毛利秀元の後見人も兼ねていました。
しかし、その朝鮮での戦いで、明日総攻撃という日・・・先駆けしようとした広家は、恵瓊に注意されます。しかし、悪態をついて戦い始めてしまいます。

恵瓊は広家をかばいましたが、規律違反として石田三成は広家の功を認めませんでした。
それを恵瓊の画策と思った広家・・・2人の間の溝が広がります。

1598年秀吉がこの世を去り、小早川隆景もこの世を去ります。
毛利の行く末が、恵瓊の手腕に託されることになりました。

そんな時、最後の舞台が・・・
天下分け目の「関ケ原」。
毛利を存続させるために画策します。

毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入らせ、島津義弘を味方に引き入れます。
中国と九州・四国の勢力を一つにまとめたのです。

恵瓊は、自らも兵を率いて関ヶ原。。。
負けることのない戦いへ。。。

総攻撃の始まる瞬間・・・
非常事態が発生!!

吉川が動かないのです。
毛利軍の先陣にいたのは、吉川広家でした。
広家は、恵瓊や三成に反目し、家康と通じていたのです。

さらに、隆景の養子、秀秋の裏切りが発生。

世代は交代していました。
そのことに、世代のNo,2は、気づかなかったのです。

この「天下分け目の」関ケ原。
恵瓊がいなければ、天下分け目になっていなかったとか・・・。

家康の計算によると、
石田三成   19万4000石⇒5820人
大谷吉継   5万石   ⇒1500人
小西行長   20万石   ⇒6000人
全部足しても1万5000人を越えません。

家康が、上杉征伐に用意した兵力は69000人。
つまり、上杉軍+西軍を倒すだけの人数を計算しています。

しかし、西軍は10万・・・
これをやったのは、恵瓊だったのです。

つまり、家康を追い込んだのは、安国寺恵瓊だったのです。

関ケ原の戦いののち、恵瓊は首謀者としてとらえられます。
非は毛利には全くなく自分にあるとし、処刑され三成らとともに三条橋にさらされます。
恵瓊の死によって、西軍総大将・毛利輝元は処刑を免れます。

辛くも毛利は繋がりました。
領地も家康によって1/3に減らされ、2国となります。

さらに、恵瓊こそ妖僧・悪僧という史上最も極悪な坊主とすることで、毛利を抑えようとしました。

「敵は西からやってくる」

毛利が徳川に刃向うのは、その260年後・・・
桂小五郎・大久保利通・西郷隆盛ら毛利や島津の人間が立ち上がったのです。

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ラベル:安国寺恵瓊
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2012年07月11日

関ヶ原を決した男〜小早川秀秋〜

裏切りという卑劣な行為によって天下分け目の関ヶ原の決戦の勝敗を握った男。

1600年9月15日、関ヶ原を黒い霧が動いたとき、静寂を破り戦国最大の戦いが始まりました。

東軍率いるは天下統一を目指す徳川家康、対する西軍は、豊臣政権を継承・維持を願っていた石田三成。
戦局は、じりじりと西軍に傾き始めていたその時。。。

突然小早川秀秋の軍勢が、東軍へと裏切りました。
通説によると、この裏切りが、ターニングポイントとなって東軍に勝利をもたらしたとされています。
しかし西軍は、小早川の裏切りを知っていた???
さらに裏切り者は、秀秋だけではなかった???
その裏切りの、連鎖とは?????

秀吉のNo,2として育てられながら、No,2になれなかった男の悲劇・・・その悲運なる生涯とはどのようなものだったのでしょうか?

「人面獣心なり! 3年の間に祟りをなさん!!」

大谷吉継はそういって、切腹して果てたとか・・・
その言葉は、小早川秀秋に向けての呪いの言葉でした。

色白で優しそう・・・養子として大切に育てられた秀秋。
豊臣家の不幸は、子供が生まれたことかもしれません。

豊臣家は、もともと農民の出・・・
一族や譜代の武士団はいませんでした。
優秀だったのは、弟・秀長ぐらい・・・
秀吉の養子となった小早川秀秋は、有力な跡取り候補でした。

1588年4月、豊臣秀吉は7歳の少年を跡継ぎと定めました。
彼こそが・・・後の小早川秀秋です。
「金吾」と呼ばれて、養子の中では一番かわいがられていました。

3歳から後継者候補として大切に育てられてきた秀秋、しかし、雲行きは次第に怪しくなっていきます。

1590年 豊臣秀吉 天下統一

その華やかな舞台の裏で、後継者争いが始まろうとしていました。
唯一の息子、鶴松が1591年に亡くなります。
この時秀吉53歳、実の子は、諦めざるを得ませんでした。

当時、後継者の有力候補は2人・・・
一人は秀吉の姉の子・秀次24歳、もう一人は北政所の兄の子・秀秋10歳。

秀吉は、秀次に事実上の後継者として関白を譲ります。
その一方で、秀秋には丹波亀山城10万石を与えていました。
秀秋は、異例の出世をしていきます。

秀次に関しては、功績はあったものの、1584年小牧・長久手の戦いでは、家康に大敗し、秀吉は家康と講和せざるを得なくなったことなどから、武将としての資質に疑問を持たれていました。

秀次に代わる養子を???

1592年 朝鮮出兵。文禄の役。
鶴松の悲しみから逃れるかのように、朝鮮出兵に力を注ぎ、内政は秀次に任せます。
豊臣政権の二元政治が始まろうとしていました。

秀吉は、その頃の秀秋には・・・
「跡取りだから、戦に行ってはならん」
と、親心を見せていました。

しかし、1年後・・・57歳の秀吉に、まさかの「秀頼誕生」です。
この秀頼の誕生が、秀秋の運命を大きく変えていきました。

実の子に家督を譲りたい・・・
秀秋は邪魔物のようになっていきます。

翌年、秀秋は養子に出されてしまいます。
毛利家です。しかし、乗っ取られる・・・と思った毛利家。
毛利家を守るために、小早川隆景は。。。
建前では、喜んで養子に受け取りますが、本音は家を守りたい!!でした。

秀秋は、10代前半で酒を覚えて・・・不良になってしまいます。。。
豊臣体制を支えるNo,2として育てられながら、一大名の養子に出されてしまった秀秋・・・。

豊臣秀吉は、秀頼が誕生したことで、秀次を関白にしたことを後悔していました。
なんとしても、秀頼に跡目を・・・

秀吉は、異常な一面を見せ始めます。
1595年秀次は、高野山へ追放され、切腹の命令を受けてしまいます。
その常軌を逸した行動は、秀次の妻子までも次々と殺し、その数30人以上。
秀次の血を抹殺しようとします。

その行為が、秀秋にも及びます。
秀次に加担したとして、丹波亀山城没収。

そしてさらに・・・
1597年、朝鮮再出兵・慶長の役です。
その時、総大将としたのは、16歳の秀秋でした。
秀秋は、隆景のあとを継ぎ、30万石以上の大名となっていましたが、戦場経験はほとんどありません。
名ばかりの総大将だったのです。

この時点で、秀頼が跡を継ぐ道筋をつけようとし始めたのです。
秀秋は、真っ赤な陣羽織を新調します。
そこには、違い鎌が。。。

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「敵をなぎ倒す」という意味です。

「見返してやろう!!」
桐紋を秀吉から授かっていたにもかかわらず、あえて、この模様を選んだとか。

そして、蔚山城の戦いでは、自ら刀を振るって参戦、加藤清正を救出する戦功をあげています。
その矢先。。。
またも、理不尽な。。。
帰国を命じられます。
「自ら刀を振るうなどとは、大将にあるまじき軽率な行為だ」と窘められます。
その上、秀秋を待ち受けていたのは、筑前名島没収、越前へ国替えという重い処分でした。
秀吉に翻弄され続ける秀秋・・・。
もはや秀秋にとって、秀吉は憎しみの大将となっていました。

そして、その矛先は、石田三成へ・・・。
秀秋の様子を逐一報告していたのは、石田三成でした。。
そして、もう一つ石田三成を嫌っていた理由は・・・帰国命令を出させたのも、石田三成だったからです。
その帰国させた理由は、筑前を取り上げるためだったとか・・・
というのも、蔚山城の戦いは1月、帰国命令は、前年の12月に出ていたからです。

秀秋の心に暗い影を残したまま、1598年豊臣秀吉・没。

死の間際まで、秀頼を心配していた秀吉。
「秀吉を頼む」
と手を取った男は、徳川家康でした。
徳川家康は、秀秋の筑前召し上げに対してその取り消しを口添えをしてくれます。


敵の敵は味方・・・
家康と北政所は仲が良い。という感じでした。
北政所も、次は家康の天下だと思っていたようです。
だからこそ、自分の甥である秀秋に、家康に味方をした方が良い。。。と、アドバイスしたようです。
乱世のルールとして、「治める人間は、やはりそれなりの力量がないといけない、秀頼では駄目だ」と、北政所は思っていたようです。


豊臣秀吉にとって天下統一がなされたものの、再び戦乱の世へ・・・
徳川家康と石田三成の戦いです。
1600年関ヶ原の戦い・・・

ついに、石田三成が挙兵!!
1600年7月伏見城の戦い。
この戦いに、秀秋は西軍の副将として参加したものの、西軍にも東軍にもつかないという不可解な行動をとっていました。

自身は。。。
西にいたから仕方なしに西軍。。。内心複雑・・・
8月に黒田長政からの手紙には。。。
「北政所様の為に味方せよ。。。」と、東軍につくべきだと誘われています。
家康は、戦いになる前に、根回しを・・・
煮え切らない秀秋・・・
家康は、最後の手紙には。。。
「上方二国を与えよう」

まさに同じ日、石田三成からも・・・
「秀頼様が15歳になるまで関白をお任せしたい」

秀秋にとっては、良い申し入れでした。
気持ちが揺れる秀秋・・・
2人の言葉を鵜呑みにしてもいいものか・・・

家康には「機会を見て西軍三成らを裏切る」

三成には「狼煙を合図に戦いに参加する」

と、両軍に参加の返事をしました。

関ケ原の戦いは、秀秋の予期せぬ裏切りで、家康・東軍が勝利したと言われています。
しかし、近年、新しい説が浮上しました。

秀秋は、両軍を見下ろせる松尾山に陣を敷きます。
ここは、絶好の特等席でした。
しかし、問題が・・・
大谷吉継です。
吉継は秀秋を警戒し、裏切ることも予測していたようです。

吉継は、自ら志願して松尾山の麓に陣取ります。
しかし、吉継は1500人程度、秀秋は1万〜1万5000.
軍勢の差があるものの。。。
どうして吉継は山の麓に布陣したのでしょうか?

それは、道にあると言います。
松尾山の道は、狭い1本道でした。
1万の軍勢が下るには、非常に時間がかかります。
吉継には時間稼ぎに好都合だったのです。

吉継が陣を敷いたところには、土塁があります。
この土塁、方向が松尾山を向いています。
つまり、秀秋が下ってくることを予測していたのです。

もしかしたら、裏切るのでは?と、予想していたのです。

秀秋が松尾山に布陣したのが9月14日、戦いの前日。。。
では、吉継はいつ土塁を築いたのでしょうか?

それには、山中村には、石田三成から村人へ、吉継らの土塁に対する協力依頼状が残っています。
これが出されたのが5日前。。。

準備を進めていたとされていたようです。
しかし、吉継にも大きな誤算がありました。
秀秋だけでなく、朽木・小川・赤座・脇坂・・・この4つの隊も秀秋に便乗し、一緒に裏切ったのです。

午前8時・・・立ち込めていた深い霧がスッとひいた時、戦いは始まりました。
そして4時間後。。。
ついに、秀秋が松尾山から動きます。

この時が、秀秋自ら豊臣のNo,2を捨てた瞬間でした。
しかし、この直前までは、西軍が勝っていました。
やはり、秀秋の裏切りが、勝敗を決めたようです。

戦国史上最大の決戦は、秀秋の参加後、2時間で幕を閉じたのです。

No,2としては、輝かなかったのかも???


小早川秀秋に同調した、朽木・小川・赤座・脇坂4つの部隊は何故東軍へと寝返ったのでしょう???
秀次は、大谷吉継を攻めるに当たり、手紙を送っていました。

「わけあって、この度は
 家康公にお味方する
 一緒に参加せよ
 本領は安堵の上
 恩賞もあることであろう」

と。。。

秀秋が寝返りを促したのです。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。。。

秀秋は、罪悪感にさいなまれるようになります。
臣下を切り殺したり、酒びたりになったり・・・
そして、岡山にタカ狩りに出かけたとき、突然倒れてなくなります。
関ケ原から2年、皮肉にも大谷吉継の言葉通りとなりました。

「人面獣心なり
   三年の間に
     祟りをなさん」

三成に過ぎたる猛将〜島左近〜はこちら

天下人を支えた「おかか様」〜北政所おね〜はこちら

季刊 ウォーゲーム日本史 第3号 関ヶ原戦役(ゲーム付) ([バラエティ]) [大型本] / 国際通信社 (刊)
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2012年07月04日

長州藩討幕の立役者〜高杉晋作〜

毛利13万石の城下町、山口県萩市。。。
この日本海に面した小さな町に生まれ育った若者たちが、260年続いた徳川幕府を倒し、明治維新という大仕事を成し遂げました。

その彼らを討幕に導いた男・・・それは、吉田松陰でした。
彼の教えた松下村塾は、明治政府を支えた多くの政治家たちが学んでいました。

初代総理大臣伊藤博文、山縣有朋・・・松陰の薫陶を受けた若者はおよそ100人・・・。
その中に、特に目をかけて、松陰のNo,2と育てた男がいました。
それが、高杉晋作です。

高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫) [文庫] / 一坂 太郎 (著); 講談社 (刊)
高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫) [文庫] / 一坂 太郎 (著); 講談社 (刊)

どうして、高杉晋作をNo,2に選んだのでしょうか?

高杉を兄のように慕っていた伊藤博文は・・・
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。
 衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」
と、顕彰碑に表わしています。

討幕とは、吉田松陰が青図を描き、高杉が旗を振り、それに乗せられたようなものだ・・・。


松門の双璧と呼ばれたのが、高杉晋作と久坂玄瑞。
玄瑞は秀才で頭が良いことで有名です。
晋作は・・・頭も運動も今一つ、玄瑞にはかないません・・・

しかし、高杉晋作は、松下村塾・門下生の代表的な一人です。
その破天荒な討幕の風雲児・・・その登場には、吉田松陰は欠かせませんでした。

松下村塾、その大きさは、わずか15坪。
ここから勤皇の志士たちが生まれたのです。

松陰は24歳の時、アメリカ密航を企て失敗、萩の自宅へ幽閉されます。
そこで、近所の若者たちを集めて始めたのが松下村塾でした。

高杉晋作がこの門を叩いたのは、19歳の時。。。親には秘密のことでした。
というのも・・・晋作の家は、300年来毛利に仕えてきていた上士の出でした。
一人息子が罪人の塾に入るのを許さなかったのです。

常識にとらわれず、行動する力を持つが、学力が不足している・・・
松陰の第一印象はこうでした。

そこで、ライバルとしてあてがわれたのが、玄瑞でした。
玄瑞は、晋作の幼馴染、天才と言われていました。

晋作は、柳生新陰流に夢中で勉強熱心ではなかったのですが・・・

玄瑞とのライバル関係で、勉学に励みます。
2人は、松下村塾の龍虎と呼ばれるようになります。

「賢者は議論よりも行動を重んじる」
世の中を広く見よ・・・
玄瑞はその教え通り江戸へ・・・。晋作も、それを追って3か月後に江戸へ・・・。

安政5年、大老・井伊直弼は、後に不平等条約と言われる日米修好通商条約に調印。
吉田松陰は、こんな弱腰では日本を守れないと「攘夷」を叫びます。

井伊は、危機感を抱き攘夷論者の取り締まりにかかります。
多くの者が、獄に繋がれるのを見た松陰は、この取り締まりを指揮していた老中・間部詮勝の暗殺を企てました。

江戸にいる玄瑞・晋作にも参加の要請が・・・
しかし、2人は老中暗殺などできるわけがない・・・と、反対します。

松陰は、「私は、国に忠義を成すつもりであるが、君たちは、手柄を求めているのか。高杉だけは解ってくれると思っていた。」と、晋作に対して失望するのです。

弟子たちには、まだその覚悟がなかったのです。

老中暗殺計画は失敗、松陰は逮捕され、伝馬町の牢へ・・・。
晋作は、差し入れをするために奔走します。

が・・・この行動が父の反感を買い、萩へと帰ることとなります。
師とはこれが最後の別れになりました。

吉田松陰は斬首・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に
     朽ちるとも
    留置まし
        大和魂」

松陰は、29歳でこの世を去りました。
生き急いでしまった松陰・・・。

この時晋作は20歳、父の存在が大きくのしかかっていました。

松陰の考えは・・・藩などなくても良いというものでした。
草莽・・・いわゆる公職につかない民間の人物や団体で戦うしかない。と、思っていましたが・・・
晋作は、まだまだ部屋住み。。。藩の書生という立場・・・
その間で悩みます。

萩の城下町・・・そこには、今も武家屋敷が残っています。そこに、高杉晋作の家もありました。
江戸から帰ってきたのが、安政6年11月。

彼を待っていたのは縁談でした。
相手は、町奉行の井上平右衛門の娘・マサ。
萩城下一の美人と言われていました。

美しい娘と結婚すれば、落ち着くだろうと考えたのです。
しかし、結婚後、藩から江戸の軍艦教授所で航海術を学べと命令が下ります。

晋作が乗り込んだ船は、長州藩初の洋式軍艦とは名ばかりの丙進丸。
風頼みに未熟な航海術・・・江戸まで2か月かかりました。

あまりの航海の酷さに、玄瑞に漏らしています。航海術は学びたくない・・・と。
流石に手ぶらでは帰れないので、剣術修行をしながら旅を続けます。

そして萩に帰り、松陰の残した著作の編纂を始めます。

その頃長州藩を動かしていたのは、長州藩直目付長井雅樂。

長井は、開国を認め幕府と朝廷が一つになって国難にあたる・・・公武一和を提唱。
幕府の延命を図るこの策は、老中たちに取り上げられ、京都で朝廷工作に当たるまでになっていました。
つまり、この時期、朝廷と長州は仲が良かったのです。

それに対して、松下村塾の面々・・・
彼らは下級武士の出身なので、長州藩の中では全く実力はありません。
つまり藩を動かしていく立場の人間ではないのです。

しかし、吉田松陰が命を懸けて唱えた攘夷を遂行しようと久坂玄瑞が長井雅樂の暗殺を計画。
その暗殺の実行役を引き受けたのが晋作でした。

しかし、藩から上海視察に行かないか・・・と言われた晋作は上海へと行ってしまうのです。
この打診の裏には、桂小五郎がいました。

晋作の命をを惜しんだ桂が藩の重役・周布政之助を動かしたと言われています。
この上海視察が大きな影響を与えました。

この上海で・・・
1862年4月29日、高杉晋作上海到着。
その眼に飛び込んできたのは・・・
華やかな商船や公園・・・
しかしその裏には・・・アヘン戦争という厳しい現実がありました。

上海では、奴隷のように扱われる中国人たち・・・
外国に支配されるということの惨めさを目の当たりにしたのです。
文化やほこりまでも踏みにじる・・・攘夷をしなければ、日本も同じことになる・・・。

師である松陰の正しさを知った晋作。
日本に帰ってきた晋作は、オランダ商館に駆け込み、2万両で軍艦を買う契約をします。
独断で・・・
しかし、藩にはそんな金はなく、この話は立ち消えとなってしまいました。

行動はどんどん激しくなっていきます。
晋作を隊長、玄瑞を副隊長、火付役に伊藤博文、11名の若者が警備網を突破、英国公使館に火をつけます。
8万両の建造物を灰と化します。

また、京都に赴き、周布政之助に討幕を訴えます。
「10年待て。」と言われると、
「10年暇をもらいます。」と、髷を切り出家してしまいました。

出家した晋作に代わって攘夷を進めたのが玄瑞。
長州びいきの公家・三条実美と図って勅使による攘夷断行を幕府に約束させました。
その結果、幕府は各大名に5月10日攘夷の決行を命じます。

長州藩は、関門海峡のアメリカ船を攻撃しましたが・・・
報復攻撃が始まると。。。
武士たちは逃げ出し、ボロボロ・・・

この軍の立て直しを命じられたのが、高杉晋作でした。

晋作は、もともと武士には期待しておらず、土地に思い入れのある農民たちに武器を持たせた方が、よっぽど戦える・・・民兵に期待していました。
これが、奇兵隊です。
そこには、上海で見てきた太平天国の乱に立ち上がった一般の人々の攘夷運動を見た体験がありました。


そんな長州藩にまたもや京都で火種が・・・

1863年8月18日、薩摩藩が会津藩と手を結び、長州びいきの三条実美らを京都から追い出し、朝廷から長州の勢力を一掃したのです。世にいう八月十八日の政変・・・七卿落ちです。

7年後の7月19日・・・
起死回生を図った玄瑞は、蛤御門で連合軍に戦いを挑みましたが・・・
200名の死者を出して敗北・・・責任をとって玄瑞は自決してしまいました。
享年25歳でした。

そして・・・討幕という大仕事は、晋作の双肩にかかってきたのです。
吉田松陰の目指す攘夷に向かって走り始めました。


7月22日、英米蘭仏の連合艦隊が、下関を攻撃すべく、横浜を出発しました。
右往左往するも結論は出ず、和議に達した時にはすでに遅く・・・
この四国連隊によって下関は艦砲射撃されます。

長州藩の砲台は、わずか1時間で壊滅。
講和を求める使者に選ばれたのは、高杉晋作、通訳として伊藤博文が付きました。

300万ドルの賠償金に対して、非は攘夷を命令した幕府にあるといって一歩も引きませんでした。
当時、こんなふうに外国人に対抗できる人は、いませんでした。
結局、この請求は、幕府に回されることとなります。

一方幕府は、長州征伐軍の派遣を決定しました。
この長州藩滅亡の危機に息を吹き返したのが攘夷討幕を嫌い、幕府恭順を主張する俗論派=保守派でした。

藩を掌握した俗論派は、増田弾正・福原越後・国司信濃3人の家老を切腹させ幕府への恭順を表します。

これに憤慨した晋作は、奇兵隊に挙兵を訴えます。
しかし、その時の総監・赤禰武人は反乱を怖れて反対、晋作は、行先も告げずに飛び出しました。
行く先は、伊藤博文・・・
当時、伊藤は力士隊という民兵隊を任されていました。

この力士隊80名を味方とし、下関にある長州藩の海嘯を襲い、武器と食料・・・軍艦もを手に入れ、ついに、赤禰武人を追い出した奇兵隊・山縣有朋も合流・・・。

「俺についてこい!!」

晋作のもとに結集し、進軍する仲間たち。。。
クーデターを成功させます。

1866年幕府との四境戦争(第2次長州征伐の長州藩での呼び名)に勝利。
一大名に屈服した幕府は、その後。急速に力を落としていきます。。。

しかし、晋作は。。。小倉城攻めの最中、血を吐いて倒れます。
当時としては死の病・・・肺結核でした。

「おもしろき
   こともなき世を
       おもしろく・・・」

「すみなすものは
     心なりけり」
下の句を読んだのは、愛人の野村もと(望東尼)。

晋作は、「面白いのう・・・」と笑ったと言います。

風雲児は、長州藩を討幕へ導くと、生涯の幕を閉じました。
享年29歳、奇しくも師・松陰と同じ年でした。

しかし、晋作の死後も、その志は受け継がれ明治を迎えました。

桂小五郎〜吉田松陰の遺志を継いだ維新三傑〜はこちら
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posted by ちゃーちゃん at 18:00| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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