2012年09月24日

最近の「THEナンバー2」ですが・・・

私の大好きな「THEナンバー2」ですが・・・

ここ何回か、「◎◎のナンバー2△△ VS ☓☓のナンバー2◆◆」みたいなのをやっていました。

ナンバー2も70回を越えると、ナンバー2自体なくなってきているのかしら???

と、心配していました。

次回第77回は徳川慶喜さんです。

で・・・
ふと考えてみました。

日本の歴史のナンバー2がなくなってきているのだったら、
現代史のナンバー2・・・例えば今ドラマでやっている吉田茂なら白州次郎とか・・・

050908shirasu2[1].jpg


世界の歴史のナンバー2・・・
って、劉備のナンバー2、諸葛亮孔明

4eea4b6a96cc4b5489c68027fdab2d84[1].jpg



ヒトラーならゲーリングとか、ルドルフ・ヘスとか???

PhotoChooser-162bd802-8af8-4b1d-b101-57216a0fdfbc[1].jpgslide_34980_313247_large[1].jpg


って・・・???
他にはピンときませんあせあせ(飛び散る汗)

世界的に見るともしかしてNo,2って、あんまり存在しないのかしら???
それとも私が知らないだけなのでしょうか???

そう・・・

よーく考えると、外国は独裁者が多いですよね。
日本は例えば平清盛が政権を握って以来、鎌倉・室町・徳川・明治維新以降・・・
ずーっと”傀儡政権”っていうか、天皇はマッカーサーが言い渡すまでもなく象徴だったような気がします。


だから、ナンバー2が活躍するのは、日本以外にありえないのかもしれない。。。
と、思ってしまいました。

私の勉強不足でしょうか???

暇ができたら世界のNo,2を調べてみよう黒ハート


補佐役の精神構造 リーダーを支えた名参謀の条件
補佐役の精神構造 リーダーを支えた名参謀の条件

補佐役の研究―歴史にみる組織人間学 [単行本] / 加来 耕三 (著); 光人社 (刊)
補佐役の研究―歴史にみる組織人間学 [単行本] / 加来 耕三 (著); 光人社 (刊)


↓ランキングに参加しています。黒ハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村
posted by ちゃーちゃん at 08:11| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

忠義を果たした赤穂藩家老〜大石内蔵助〜

元禄15年(1702年)12月14日

d340fbd40d33856d02f43b899bec8ad6[1].jpg

「狙うは殿 浅野内匠頭の敵
 吉良上野介の御首のみ!!」

赤穂藩筆頭家老大石内蔵助をはじめ四十七士が討ちいったのが“忠臣蔵”。
その忠義のための義の心が、今も日本人の心を掴んで離しません。
この事件の中心人物が、浅野内匠頭のNo,2大石内蔵助です。

大石内蔵助は、赤穂藩代々の家老の家に生まれました。

21歳の若さで家老となり、筆頭家老として22年間その座にありました。
そして・・・昼行灯と呼ばれていました。

元禄14年3月14日・・・大事件が起こります。
江戸城内松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬りかかったのです。

浅野内匠頭は、将軍綱吉の怒りを買い、即日切腹。。。
お家断絶となりました。
その知らせを聞いた内蔵助は愕然とし・・・

しかし、なぜ浅野内匠頭が斬りかかったのか・・・
その理由は300年たった今もわかりません。
意地悪説・賄賂拒否説・・・


しかし、新たな説が出てきました。
その謎が解明されたとき、赤穂浪士が討ち入りました???

江戸時代から親しまれてきた「仮名手本忠臣蔵」。
なぜこのようなタイトルなのでしょうか?
仮名・・・つまり、“四十七文字”手本忠臣蔵ということです。

では、どうして忠臣蔵?
吉良を炭蔵で見つけたから、とか、忠臣たちが蔵に詰まっているからとか言われています。


加藤廣さんが、広い視野で考えてくれました。

謎手本忠臣蔵〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / 加藤 廣 (著); 新潮社 (刊)
謎手本忠臣蔵〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / 加藤 廣 (著); 新潮社 (刊)
なぜ浅野内匠頭は、刃傷沙汰に及んだのでしょう??
刃傷沙汰の2週間前・・・

元禄14年2月28日
五代将軍綱吉のお側用人筆頭柳沢吉保のもとにやってきたのは、幕府の朝廷外交を一気に預かる肝いり・吉良上野介。

吉保は4年前に作成した桂一計画の進行度合いを聞くために呼んだのでした。
桂一計画とは・・・綱吉の母・桂昌院に女性の最高位である従一位を取らせることでした。
朝廷は、ここ数年、これを渋っていたのです。
出来なければ、腹を切るしかない吉保でした。


元禄14年3月14日
この日は、江戸城内で、綱吉が朝廷の勅使に御礼を述べて、勅使を送り出す・・・
そんな大切な日でした。

浅野内匠頭は、朝廷の勅使を接待する“勅使供応役”を任命されていました。
勅使は10時にやってきます。

そんな9時に。。。事件は起こりました。

儀式に向かう吉良・・・突然浅野内匠頭が斬りかかりました。
こんないざこざが朝廷の耳に入れば・・・
不安がよぎる吉保・・・

桂一計画に暗雲が立ち込めます。
浅野内匠頭は、大番所に留め置かれます。
「その方、場所もわきまえずに吉良に刃傷沙汰に及んだのはどのようなつもりであったのか???」

浅野内匠頭「吉良には、私的な遺恨があったので刃傷に及びました。」

吉良上野介「拙者何の恨みも受ける覚えはなく内匠頭の乱心と思われます。」

結局、吉良は何の責任も取ることはなく・・・内匠頭は即日切腹という異例の処分が下されました。
35年の生涯が閉じられたのです。

吉保は、忍びの黒鍬組から意外な知らせを受けます。内匠頭の妻阿久利は、夫が吉良に恨みがあったことを知っていたのです。

桂一計画が裏にあるのでは・・・?
つまり、幕府のNo,2・柳沢吉保と赤穂藩のNo,2大石内蔵助の戦いがあるというのです。

幕府は密偵を放って、諸藩のことは調べ上げていました。
だから、柳沢は大石を知っていました。
柳沢は幕府では怖い存在で、側用人として主君のそばに仕え、全てのことに携わっていました。
江戸幕府では、将軍側近の実質的な最高職だったのです。


昼行灯の大石内蔵助が輝く日がやってきました。
元禄14年3月19日、松の廊下事件から5日後・・・浅野大学からの手紙を受け取ります。

「今14日、殿中において吉良上野介殿を内匠頭様一太刀切りつけのところ内匠頭様命の別状これなき由・・・」

今回の殿の所業は、痞(さしこみの一種)による突発的発作によるものと思われた・・・

最後に。。。
「札座のことよろしく申し付けられるべく候」
とありました。

大きな不安がよぎりました。

昼行灯がNo,2として大きく動き出します。
内蔵助が最初に手を付けたのが、藩札の換金でした。
当時、大名家が断絶の場合、藩札の換金率は、3割から5割・・・引き換えなしという場合もありました。

領民の動揺を抑えるために、6割で換金しました。
また、300近い藩士の数を抑えること。
このままでは、混乱が起きる・・・。

江戸から早籠が届きました。
「14日即日ご切腹とお家取り潰しでござる」

内蔵助は・・・突発的発作事件ではないかも知れない・・・

3月19日・・・
赤穂上籠城と徹底抗戦と、全員の自決・・・第3の道を探す時間があまりにも短すぎ・・・

翌20日。
城を枕に自決することを藩士に提案します。
そこに、黒鍬組がいることを知ってのことでした。

2日後、赤穂城から藩士がめっきり減りました。
本当に残った忠臣たち・・・そこで、残った藩士に退職金を分配しました。
しかし、内蔵助は思っていました。なぜ刀を抜いたのか・・・本当のことがわかるまでは死ねない・・・と。


元禄14年3月26日夕刻・・・第三の使者が・・・
殿は切腹に対しても、庭先で・・・一般人と同じ扱いを受けたことを知ります。
当時、大名の切腹は、室内ですることになっていました。

そして、遺言は・・・
「これまでのことは、かねてから知らせようと思っていたが
 今日せっぱ詰まったことなので知らせることが出来ない
 不信に思うかもしれぬが・・・」

内蔵助は衝撃を受けました。
吉良との間に何かあったに違いない・・・
妻の阿久利様に会うために、江戸に向かいます。

そしてそのことは、黒鍬組を通じて柳沢には筒抜けでした。

江戸・赤坂にある屋敷にて阿久利様から聞きます。・・・

吉良に、「これは、田舎大名が口をはさむことではない」と言われたとか・・・

殿の言われたこれとはなんであろうか・・・
じっと考える・・・

黒鍬組からそのことを聞いた柳沢吉保は・・・
それは、桂昌院の従一位のことでは???と思ったとか。

つまり、吉良は浅野内蔵助に桂一計画を自慢げに話したのではないか???
あるいは浅野内蔵助が桂一計画に対して警告したのかもしれない・・・

それに対して、田舎大名が口をはさむことではないと言ったのではなかったか???

その後、桂昌院には従一位が、柳沢吉保には2万石の加増が・・・
内蔵助の言ったことは・・・
朝廷思いの内蔵助が、幕府の横暴に口出しし、その先鋒の吉良を咎め、言い争いになったのではないか???


松の廊下から9か月・・・
吉良への復讐に、準備が始まりました。

隠居した高家を深川に追い出した柳沢・・・
桂一計画が達成された今、大石の仇討に協力するかのような行為でした。
「やるなら江戸のど真ん中ではなく深川でやれ」と言ってるかのようでした。


討ち入りの時期と手段は???

討ち入り作戦其の一。
急進派(堀部安兵衛ら)の説得。
「十分な準備なくして討ち入りを急いでは必ず失敗する
 下手な大工仕事と同じよ」

安兵衛は激怒!!
そこで内蔵助は、同志を京都・丸山に集めます。
会議の直前、安兵衛のことは、黒鍬組に筒抜けだということを知らせました。
安兵衛は反省し、内蔵助に忠誠を誓うことになります。

討ち入り作戦其の二。
決意表明。
大石の決意表明に、万感胸に迫る藩士たち・・・一つにまとまります。

討ち入り作戦其の三。
意思の確認。
「筆頭家老大石殿には、重ね重ねの屈辱的処分に対しても
 反発はおろか復讐のお気持ちすら見せませぬ
 ただただ女遊びにうつつを抜かす有様・・・」

といって、怒り狂うものに対してだけ討ち入りの決定をあかし・・・江戸へと向かう準備をします。その数、50人ばかり。。。

頭を悩ませたのが、武具でした。
資金がありません。
瑶泉院に用立ててもらったり・・・暗闇でも目立たないように、黒っぽい同じものに・・・
防具は脇楯、手には籠手、足には脛当、頭には針金入りの頭巾をつけました。

元禄15年10月7日。
江戸に向けて、京都を出発しました。
同志たちは、続々と江戸に集結。

12月2日。
赤穂浪士たちは、深川八幡の茶屋で策を練りました。
上野介の寝所を探ります。

しかし・・・
幕府は、吉良上野介の米沢隠棲願いをご裁可します。
米沢に行かれては、仇討もままならない・・・・・。

12月14日、年忘れ茶会の日に決定します。
浪士は47人。

12月14日・・・あれから1年9か月が経っていました。

そして、この物語は、時代を超えて忠義の物語として語り継がれることになります。
討ち入りの翌年、16年2月4日、赤穂浪士たちはそれぞれのお預け先の大名家で切腹します。
そして、浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ・・・

この時代、おとり潰しになった大名は248にも上ります。
しかし、赤穂浪士だけが忠義を全うしました。


う〜ん・・・どうでしょうか???
どうして浅野内匠頭が切りつけたのか?やっぱり闇のなかでしょう???
大石が”皇室崇拝の祖父に育てられた”という部分で、朝廷方の考えがあったかもしれませんが、浅野内匠頭がそんなに朝廷のことを思っていたのかはわからないし、そうでないとこの話も始まらないので・・・

やっぱり真相はやぶの中でしょうか・・・???
ただ言えることは、今でもいろいろな考え方が出てくるのは、やっぱり人気があるからなのでしょうね。黒ハート

堀部安兵衛〜忠臣蔵を演出した男〜はこちら
あなたの知らない忠臣蔵〜常識逆転・武士道の真実〜はこちら
徳川綱吉は名君だった?はこちら

みなさんは、どの意見が良いでしょう???

忠臣蔵 決断の時 DVD-BOX / 中村吉右衛門, 黒木瞳, 上川隆也, 牧瀬里穂, 橋爪功 (出演); 古田求 (脚本); 杉村六郎, 長尾啓司 (監督)
忠臣蔵 決断の時 DVD-BOX / 中村吉右衛門, 黒木瞳, 上川隆也, 牧瀬里穂, 橋爪功...
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

まあ、
posted by ちゃーちゃん at 13:48| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月08日

開国に命を懸けた老中首座〜堀田正睦〜

ペリー来航で、260年に渡る太平の世から目を覚まされ、開国した日本。

井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結び、徳川の時代が軋みはじめました。。。

従来の開国の歴史はこうして始まります。

しかしペリー来航は1853年、日米修好通商条約は1858年。。。
その間に空白の5年があります。
この5年の間に一体何があったのでしょうか?

阿部正弘とペリーの日米和親条約、大老・井伊直弼とハリスの日米修好通商条約。。。
しかし、日本がこの時期に開国できたのは、もう一人の埋もれた宰相がいたからでした。

13代将軍家定の老中首座・堀田正睦です。

うつけと言われた家定を支えた堀田正睦。
昼行燈と呼ばれていましたが、本当は日本の将来を案ずる開国派で、
清国の様に海外列強の食い物にされないためには開国しかない!!と、思っていました。

その堀田の前の、三つの大きな壁が立ちはだかります。

@堀田を老中首座に据えた開国に否定的な阿部正弘

A条約交渉の相手・アメリカ行使タウンゼント・ハリス。
 商人上がりのハリスは、開国のみならず自らの利益に執着する男でした。

B最大の壁は、御三家・水戸の徳川斉昭でした。
 斉昭は、攘夷派として怖れられていました。

このままでは、アメリカとの条約交渉は進まない・・・
そこで、堀田は江戸幕府始まって以来の奇策に打って出ます。

京都御所の天皇の勅許を手に入れることで、反対派に有無を言わせないようにしようと考えたのです。
中央突破を図ります。

では、どうして堀田が老中首座となったのでしょうか?
当時堀田は、蘭癖大名と揶揄されるほどの西洋かぶれ、知識人でした。
今の順天堂・・・佐倉順天堂は、堀田の招きを受けた蘭医・佐藤泰然が1843年に開いた蘭医学の塾です。
そんな蘭学を、保護して、繋がりがあり発展に尽くした人でした。

当時の人々の常識としては・・・
開国=貿易=商売は、朱子学では卑しいものとされていたので、受け入れられにくかったのです。
「武士たるものが、卑しい商売とは・・・」
どうして開国の必要があるのか?という考え方でした。

1853年6月3日浦賀沖が一変します。
4隻の巨大な黒い船が・・・
ペリー率いる艦隊・黒船の来航です。
この4隻は、73門の大砲が臨戦態勢を取りながら投了します。
空砲を撃つと、江戸が大混乱となりました。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず"

相対するときの将軍は12代家慶。
しかし、間もなく死去。あとを継いだのは、4男うつけものの家定でした。
その家定を支えるのは、超エリートの阿部正弘。
阿部は、ペリー来航に対し、御三家・水戸斉昭を幕閣に迎え、難局を乗り切ろうとしましたが、斉昭は評判とは違い、”烈公”として、誰とでも対立して期待はずれでした。

そんな中、阿部はしぶしぶ日米和親条約を締結。英・ロとも調印させられます。
おまけに斉昭は、意にそぐわない老中2人の罷免を強要します。

この難局に能力のある者を!!
白羽の矢が立ったのが、佐倉藩主堀田正睦でした。
安政の大地震のどさくさの中、堀田に登城の連絡が来ます。

「老中首座に!!」

阿部が堀田を老中首座にしたのは、実務能力にたけていたからです。
だから、老中筆頭に置いたものの、権力を渡す気など毛頭ありませんでした。
西洋の事情をよく知っている堀田をとりあえず風よけにし、自分が幕閣を仕切るつもりだったのです。

そして、その知らせは堀田にとっても青天の霹靂でした。

「西洋諸国は、次は交易を求めてやってくる!!
 その時我が国は、清国の様に戦うのか?
 戦いに敗れて言われるままに賠償金を支払い、領土までとられるのか!!
 それだけは絶対に避けなくては!!」
堀田は、アヘン戦争を知っていたのです。

攘夷鎖国のエリート老中・阿部正弘 VS 開国論者の実務派・堀田正睦

の始まりでした。

阿部は、現状を変えるのが嫌でした。
今まで何の支障もないのに、変える必要があるのか???
あえて、改革する必要があるのか???

日本=清らかな国。
外国人=肉を食らい、血のような酒を飲む。。。
今まで上手くいっていたのに、なぜ変える必要があるのか?と、危機感のないものでした。


そして、アメリカからは、嵐を巻き起こす男がやってきました。
アメリカ行使・タウンゼント・ハリス

1854年阿部が締結した日米和親条約には・・・
アメリカの文には、どちらかの国が望めば外交官を置ける。。。と。
日本の文には、双方の国が望めば。。。となっていました。

だから、日本側にとってハリスが来たことは、青天の霹靂だったのです。

そして、堀田が開国するには数々の高い壁がありました。
今と同じで幕府も官僚社会、思いのままになるわけではなく、役人にもそれぞれの管轄があり、それ以外のことには口出しできませんでした。

諸外国の通商条約は、海防掛の担当・・・
当時は外交掛は、交易反対を取っていました。
トップは宿敵・阿部正弘。
頑なに通商を避け、鎖国を保とうとします。

こんなことをしていては、清国のようになってしまう!!
海防掛に自分の考えを浸透させ、一気に通商にもっていこうとします。
しかし海防掛は、やはり阿部の息のかかったものばかりでどうしようもなりません。

そこで、外圧を利用しようとします。
ハリスです。
しかし、ハリスも一筋縄ではいきません。
自分の利にならないことははぐらかし、通常の3倍の貨幣の交換レートをねじ込ませようとしていました。

対応した下田奉行は・・・
「憤怒募らせ候。
 趣意も通りかね候に付き
 対話相止め申し候。」
興奮して怒り狂ったと言います。

こんな強気の態度に出ることが出来たのは、もちろんバックにアメリカの艦隊がいたからです。
そして、そんなに本を英・ロも狙っていました。


しかし、反目し合っていた阿部は、病で幕閣を去ります。
阿部に代わり、ついに堀田正睦がNo,2となったのです。
自分の思うように歴史を動かし始めます。

1856年10月21日ハリスは江戸城に登城し、家定に謁見します。

堀田はハリスに手を焼きながらも条約締結に向けて歩みを進めていました。
そこに強敵・徳川斉昭が!!

条約締結については、御三家と諸大名に説明し、質疑応答し、協議を尽くさなければなりません。
その為にも、根回しは必要でした。

そんなころ、水戸ではお家騒動で斉昭が評判を落としました。
斉昭は幕府の使いに対して・・・
「備中(堀田)は腹を切らせ、ハリスは首を刎ねる!!」と、言い放ちます。

「烈公」斉昭が、条約調印に断固反対!!
これが広まったら、これまでのハリスの交渉も、諸大名への根回しも、吹っ飛んでしまう!!
頓挫してしまいます。
何かいい方法は?!

1857年1月堀田正睦は京都御所にいました。
朝廷から直々に天皇の勅許をもらうために!!

家康が徳川幕府を開いて以来、天皇の勅許は形だけのものになっていました。
事実天皇が、幕府に逆らったことは一度もありません。

理由は・・・
斉昭は、尊王攘夷を美とする水戸学の総帥・・・天皇の言葉には反対できない!!ということだったのです。
しかし、それは思わぬ方向に・・・
朝廷は、御三家・諸大名をまとめてから勅許をもらいに来いという不許可の連絡でした。

これまでの幕府は、朝廷には全て事後報告でした。
しかし、今回初めて事前に勅許だったので、政治に敏感な孝明天皇に、政治介入の野心を抱かせてしまったのです。孝明天皇は、攘夷鎖国派でした。

堀田は納得できずに粘り強く公家たちに揺さぶりをかけます。

朝廷では、天皇に決定権はない・・・
全ては、太閤・鷹司政通と関白・九条尚忠がにぎり、2人は常にケンカ争いをしていました。
今回の勅許は関白がまとめていました。

そこに絡んできたのが、将軍跡継問題です
慶喜か慶福か???
公家たちもどちらにつくか、激しい綱引きをしていました。

関白は、元々藤原氏が天皇を抑えるために作った地位なので、幕府寄り。将軍家は常に、関白の力を以てして天皇を抑えてもらっていました。
九条にたどり着いた堀田は、天皇に反目させることに成功、一度は勅許をいただけることが決まりましたが・・・
そこに下級公家の反乱が。。。
裏で糸を引いていたのは九条の政敵、太閤・鷹司でした。
権力奪取と慶喜まき返しの為、岩倉具視ら88人の公家が九条のもとに押しかけて勅許を書き換えさせます。88卿列参事件です。

勅許は一夜にして差し戻し不許可。
堀田の最善のアイデアは最悪な結果に・・・

その最大の理由は、この時代が関白と対抗・・・二大勢力時代だったことがあげられます。

勅許に失敗した堀田に、
「苦労をかける。」
と、将軍からの手紙が届きます。

「上様に信頼してもらえれば大丈夫」
と、条約締結に向けて邁進します。

次なる一手は将軍お世継ぎ問題を利用して、斉昭を味方につけること。
慶喜と慶福ですが・・・。
慶喜は実は斉昭の7男でした。
将軍職をエサに、黙らせようとします。
そこで、松平越前守慶永を将軍補佐役にしようとします。

家定は、「さようせい」・・・
とは言わずに、井伊を大老に任じてしまいました。
家定は、紀州・慶福を推していたのです。
家定、本当はうつけものではなく冷静だったようです。

そして、将軍職跡継ぎ問題に対して一度も相談がないことを理由に遠ざけるようになりました。

No,1の家定をおろそかにしていた堀田、気づいたときはすでに時遅し。。。
No,2の座から転げ落ちます。

堀田にしては、自分の行っていることが正しいから、将軍も支持してくれるだろう!と、思っていたのでした。
まさか、足元をすくわれるとは思っていませんでした。

井伊が大老となっても、堀田が老中首座を持することはありませんでした。
在任中に条約締結を!!

1858年6月15日神奈川県小柴沖・・・
日米修好通商条約は、御三家・天皇の勅許ももらえないまま、井伊の独断で締結されてしまいます。

翌日堀田は罷免。

そして、歴史書に、最も開国と向き合った、この堀田正睦の名はありません。。。


↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 15:00| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。