2013年01月19日

理想の主君を求めた男〜藤堂高虎〜

主を七人替え候―藤堂高虎の意地 (幻冬舎時代小説文庫) [文庫] / 小松 哲史 (著); 幻冬舎 (刊)
主を七人替え候―藤堂高虎の意地 (幻冬舎時代小説文庫) [文庫] / 小松 哲史 (著); 幻...

1586年(天正14年)10月27日、この日、豊臣秀吉と徳川家康とが大阪城で対面します。

この時、家康は秀吉の前で頭を垂れ、恭順の意を示しました。
天下はなった・・・秀吉は、家康の為の新しい屋敷の図面を差し出します。

家康がその図面を見ると、公家の館のように優美な施しがなされ、秀吉の家康に対する心配りがされていました。が・・・絵図面にはないものが作られていました。

その真意を問うために、その男を呼び出した家康・・・
「設計図にない堀や門を、貴殿の一存で作ったと聞いたが、
 どのような理由で作ったのか?」

それに対し男は・・・
「京洛は、近頃平穏とはいえ何時不測の事態が起こらないとも限りません。
 徳川殿のお屋敷が、公家の如きものであっては不用心と思い
 私の一存で掘りと門を加えさせてもらいました。」

と、答えました。
絵図面を見たときから不用心だと思っていた家康・・・
秀吉の意見を聞かずに堀と門を加えたことに感心しました。
その男こそ、藤堂高虎でした。
幾度となく戦場を潜り抜けてきた強者でした。

「藤堂殿、心遣いかたじけない
 貴殿の名前、家康覚えておきますぞ」

この言葉から14年後・・・関ヶ原、天下統一へと進んでいく家康。。。
その裏には、家康のNo,2藤堂高虎がいました。 

そもそも近江の国の人です。
侍としてはなかなか主君が決まらずに浪人もし、苦労しました。
当時は、自分の国の人しか採用しなかったようで、よその国の人を採用した最初の人物は織田信長でした。

徳川家康が生まれた岡崎と伊勢湾をはさんで対岸にある三重県津市。かつて伊勢津藩32万石の初代領主が藤堂高虎でした。
居城だった津城・・・高虎は、築城の名人として有名でした。
彼が創った建造物は、城だけでも20以上あります。
江戸城・今治城・宇和島城・津城・伊賀上野城・和歌山城・膳所城・大洲城・伏見城・篠山城・大阪城・・・etc.
今でもあるお城もたくさんあります。

tora2.png

津城も、関ヶ原で焼けてしまった城を高虎が大改築しました。
この城、1580年〜1600年の間、織田信包や冨田氏の城でした。
しかし、藤堂高虎が城を拡張します。石垣の石積みが見てわかる程違うのです。それくらいきれいに改築しています。

津城に入って3年後、25m城壁を延長・・・その後、大坂の陣が始まっています。
当時の変わった手法を使っています。
布積は格子状に並べることで、見た目の美しさと強度を強くすることが出来ます。
谷積は、V字型の谷を作るように積み上げています。
城壁の隅には、算木積。長方形の石で交互に角を作ることで、石垣の一番重要な角を強くします。

高虎は、この方法を安土城の建設現場で学んだと言います。
安土城は、当時の最新式のお城。
穴太積みと呼ばれる自然石をそのまま積み上げた技法で、穴太衆が手掛けた積み方でした。
そこで働き、自分の腕を磨いたのです。


もともと浅井に仕えていた高虎。15歳で初陣・姉川の戦いで兜首を取ります。長政に脇差をもらう活躍をしますが、結局は負け戦。

その後、各地を放浪し・・・21歳で城づくりを学ぶために安土城の建設現場へ・・・。
高虎は、その現場で人生を変える男・羽柴秀長、秀吉の弟に出会います。
秀長は、内政から軍事外交まで秀吉を支え、秀吉のNo,2だった男です。

藤堂高虎が秀吉ではなく、No,2だった秀長に仕えたこと・・・それが、彼の人生に大きな影響を与えました。
当時、織田信長の家臣でしかなかった秀吉が、秀長のサポートを受けながら天下統一へと邁進していきます。

どの合戦でも先頭に立って働く高虎は、秀長の厚い信頼を得ていきます。
そして、四国平定が終わったとき・・・高虎は押しも押されぬ1万石の大名になっていました。
その後も、秀吉の天下統一を支え続ける秀長を横に見ている高虎・・・次第に大きな夢が膨らんできました。
自分もNo,2となり、主君を支える大きな仕事がしたい!!と。

そして、自分の望みをかなえてくれる器量を持っている大名を探し始めました。
そこに現れたのが、徳川家康。
1584年小牧・長久手の戦いでおよそ10倍の兵力の秀吉軍に対し、一歩も引かず、それどころか秀次軍を敗走させました。

家康の非凡な才能を見つけた高虎。

1591年1月22日豊臣秀長が亡くなります。
藤堂高虎を高く買っていた秀吉は、四国・伊予宇和島に7万石を与えて直参大名にします。
そして・・・1597年高虎渡朝。。。伊予水軍を率いての朝鮮出兵です。

高虎は、参加した戦いに勝利し1万石の加増となりましたが・・・
それは、苦労の割には少ないものでした。

ところが、その戦いに勝利したことが後に幸運をもたらしました。
もたらしたのは家康。時は秀吉が亡くなってからでした。

朝鮮から兵を引いてくるのに誰を遣わすのか???
これだけの大仕事をやるのには・・・
石田三成や前田利家が頭を悩ます中、家康の頭の中には高虎が。。。

「勇気があり 知恵があり 
 朝鮮の地理を知る藤堂殿こそ適任である」

家康の推挙を受け朝鮮へと渡った高虎は、福島正則・黒田長政などを無事に帰国させることに成功します。
このことが、二人を深く結びつけ、歴史を動かす布石となりました。

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高虎の兜は、“唐冠形兜”と呼ばれ、秀吉の物を高虎に下げ渡され、高虎の従兄弟にあげた物。左右に張り出しているのは“纓”と呼ばれるもので、ウサギの耳を表しています。
その長さ、片方だけで83pもあります。

秀吉から兜を与えられるまでになっていた高虎・・・しかし、その秀吉の死が高虎の転機となります。
1600年、ついに徳川家康が動き出します。
対立していた五大老のひとり上杉景勝を討つために討伐参加を呼び掛けます。
その檄文は、高虎の元へも・・・
かねてから、天下人になり得る主君を求めていた高虎は、その檄文で自分に必要な人は誰なのか・・・それがはっきりしました。

高虎は家康の信頼を得なければなりません。
東へ向かう家康の元へ、石田三成が挙兵したとの知らせが入ります。
翌日、今後の方針を決める小山評定が開かれます。
この会議で家康が恐れていたのは、福島正則など・・・秀吉恩顧の大名の動向でした。
未だ家康は豊臣家の五大老のひとりでしかない。。。
もし、誰かが秀吉への恩義を口にしたら???
三成に参加すると口にしたら???
その時・・・真っ先に発言したのは、高虎でした。

「家康殿のもとを離れ、三成に味方するのであれば、 
 なぜこの地まで参りましょう。
 我々の中に二心を持つようなものはこざらん。」

この高虎の言葉に、福島正則、黒田長政らも賛同し、一気に三成打倒に傾きました。
この時、関ヶ原の勝者が決まったのかもしれません。

1600年9月15日関ヶ原の戦い
西軍8万2000、東軍7万4000が激突しました。
西軍有利かと思われたこの戦い、小早川秀秋、脇坂安治らの寝返りによって家康が勝利。

この時、高虎は、家康勝利の決定的な働きをしていました。
あらかじめ・・・滋賀県出身の大名や、小早川秀秋の説得交渉をしていたのです。
まさしく参謀としての働きでした。

関ヶ原に勝利した家康は、四国・伊予20万3000石を高虎に与えます。
高虎は得意の建築術を使い、今治城を完成させ、藩政に力を注ごうとします。

が・・・突然家康に、伊賀上野への国替えを命じられました。
無謀かと思われるこの考え・・・しかしそれは、家康が高虎をNo,2として認めていた証拠だったのです。

そして高虎に、関ヶ原の戦いで焼けてしまった伊賀上野城の再建を命じます。
これには、家康の深い考えがありました。
伊賀上野に流れる服部川・・・この川を下っていくと・・・家康が最も気になっている大坂へと続いていたのです。

関ヶ原で天下を手中に入れた家康・・・しかし、気がかりなことがありました。
大阪城にいる秀頼と豊臣恩顧の大名たちです。
彼らを取り除かなければ・・・それが、伊賀上野城の再建だったのです。
伊賀上野城の特徴は、深い堀と高い石垣です。
これは、家康の命令によって高虎が造ったものです。

家康は。。。
「大坂方との戦いに敗れた時、
 私は伊賀上野城に籠り再起を期すつもりだ。
 お主は得意の築城術を駆使して、堅牢無比の城を造ってくれ。」

と言ったといいます。

この命を受けた高虎は、高さ30m・全長368mもある城を、わずか1年で築城しました。

大坂の陣は、伊賀上野城に籠城することもなく・・・
1616年豊臣家滅亡という形で終わりを告げます。

そして戦ののち・・・家康は秀忠に、藤堂家を末代まで伊賀上野城から国替えをしてはならぬと命じました。
関ヶ原の戦いから豊臣家が完全に滅ぶまで、16年もかかっています。
西国に睨みを利かせるために・・・第2次関ヶ原の為に・・・
彦根には井伊家を、伊賀上野には藤堂家を・・・この二人の信頼しておいたのです。


では・・・どうして家康は高虎を重用したのでしょうか?
それは、天下人になるためには子飼いではない新しい力が必要だったのです。

家康は天下統一のもと・・・江戸城の普請から町の整備まですることになります。
そして、江戸城築城にも高虎は関わることになるのです。

藤堂高虎は、家康から屋敷を建てるためにもらった土地に名前を付けます。
それが・・・“上野”です。
異論もありますが・・・ここには、車坂・不忍池など、伊賀上野にちなんだ名前があります。

No,2としてのエピソード・・・
晩年高虎は、秀忠に二条城の改築を依頼されます。
高虎は精魂込めて図面を書きあげます。
そしてもう一枚・・・
二枚とも秀忠に渡します。その理由は?

「一枚しか提出しなければ上様は私が書いたものを承認することになる。
 しかし、二枚から選ぶのであれば、上様が考えたことになる。
 大切なのは、いかなる時も家臣の分をわきまえ主人を立てることだ。」

この気遣いこそが、外様でありながら家康の厚い信頼を得ることになったのです。

高虎は家康亡き後も・・・秀忠・家光も、度々城に呼び出し話を聞きます。
晩年高虎が目を悪くし、廊下を曲がるのに苦労していたと聞き、家光は廊下をまっすぐに改築させたと言います。

徳川家三代に仕えた高虎は、10月5日波乱の生涯を閉じました。
享年75歳、それは奇しくも主人と仰いだ家康と同じ年でした。

高虎が秀忠に残した国を治める教訓が残っています。
一つ、国を治めるには人を知ることが肝要である
   人の長所・短所を見極め適材適所に配置せよ
一つ、信用できると思ったらとことん信じよ
   上が下を疑えば下は上を疑う
   お互いが疑えば国の題字も人々は協力せず君主は孤立する
一つ、讒言により国が亡ぶ側は古来より多々ある
   上に立つものは讒言には耳を貸すな。

でした。


なんと、No,2というにふさわしい男でしたね。黒ハート
藤堂高虎公 津入府400年記念フレーム切手
藤堂高虎公 津入府400年記念フレーム切手

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posted by ちゃーちゃん at 10:53| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

「戦国ハムレット〜前田利家〜」

THE ナンバー2、ヒストリーチャンネルでなんか再放送?をやってくれています。
私が見だす前の人たちをやってくれています。
そうなのよね・・・
初めにやってくれる人の方が、有名どころです。黒ハート
穴埋めできれば嬉しいです。黒ハート

図説 前田利家 [単行本] / 図説前田利家編纂委員会 (編集); 北国新聞社 (刊)
図説 前田利家 [単行本] / 図説前田利家編纂委員会 (編集); 北国新聞社 (刊)

1598年5月病に伏した豊臣秀吉が、一人の男を枕元に呼びました。
前田利家、加賀100万石の領主です。

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秀吉は苦しい息の中・・・
「私が万一の時は、秀頼をお頼み申す。
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ。
 お頼み申す・・・」
そういうと、利家が頷くのを確かめるように8月その生涯の幕を閉じました。

1599年元旦新年のあいさつの為に伏見城に集まりました。
大広間に集められた大名の筆頭は徳川家康、ようやく自分に回ってきたかもしれない順番・・・

秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。

家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。


戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。

利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。

しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。


石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。

なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。

屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。

もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。

背中に母衣を纏った利家。

tosi2.png

若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。

21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。

そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、

周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。

激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。

そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。


戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。

天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!

天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。

これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。

恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。

友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。

利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。

そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
 おぬしの性格ではそれは出来まい。
 せめて明日の戦には加わらず
 中立を守ってもらいたい」

そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。

1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。

それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。

その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。

それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。

「私はここで秀吉軍を防ぎますから
 貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
と言って、新しい馬を差し出しました。

すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから 
 今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。

翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。

勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
 敵味方に分かれるのは武士の習い
 おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。

この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。

計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。

その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。

利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。


が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・

1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。

「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
 私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ
 お頼み申す」

この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。

8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。

秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。

秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。

病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」

と言ったところ、利家は、

「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
 だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。

「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・ 
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」

慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
念願の天下を掌中に納めるのです。

前田利家・・・大きなNo,2を失った豊臣政権は、大坂の陣で滅亡するのです。

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2012年09月28日

「ナンバー1の苦悩〜徳川慶喜〜」

なんと、THEナンバー2最終回になってしまいました。
まあ、思っていました。もうネタ切れになってきたのかなあ・・・って。


今回は、でも、No,1になった男、徳川慶喜さんです。


00019_l[1].jpg


慶喜が第15代将軍となったのは、慶応2年、時代は大きなうねりの中にいました。
日米修好通商条約、開国・・・国論が真っ二つに分かれる中、幕府は弱体化・・・

倒幕・尊皇攘夷が声高に叫ばれ始めました。
その中心には、公家の岩倉具視、薩摩・長州・土佐が出入りをし、天皇を中心とする政治を目論んでいました。

徳川幕府最大の危機・・・
自らの手で未曽有の決断をします。

慶喜には謎が2つあります。
@徳川家康から続いた260年に及ぶ天下を・・・大政奉還しようということ。
どうして自ら大政奉還したのか???
A戊辰戦争を・・・なぜ戦いを放棄したのか???


その時、慶喜は何を考えていたのでしょうか?

揺れ動く幕末の日本にあって、一番悩んだ人かも知れません。
徳川家茂のNo,2からNo,1へとなった男。
その男が描いた国のあるべき姿とは?


「なりたかった」将軍と、
「なりとうはなかった」将軍・・・


13代将軍家定が、頼りにならなくなった混迷の世・・・
@年長 A英明 B人望
を条件に将軍を選ぼうとします。

それは・・・
一橋慶喜(21歳)VS徳川慶福(13歳)でした。

慶喜は、20歳を超えてインテリ、将軍候補に擁立されますが、井伊大老が推薦したのが慶福でした。

慶喜ははNo,2として働き始めます。

慶喜は、天保8年徳川斉昭の7男として江戸・小石川に生まれます。
斉昭は烈公と呼ばれる攘夷派、慶喜が2歳になると水戸学を学ばせました。

11歳となった慶喜のもとに、一橋の養子になる話が持ち上がります。
御三卿は、将軍になれる血筋・・・息子が将軍になれるかもしれない!!

たびたび将軍候補に挙げられましたが、1862年家茂の将軍後見職となります。
この時から、ナンバー2として頭角を現します。

どうして大政奉還をしたのか???

それは、慶喜が水戸学を学んでいたから・・・
戊辰戦争を放棄したのは、江戸の人々を救いたかったから・・・


帝王学に基づいた、水戸学・・・

慶喜が将軍ではなく、天皇のNo,2となった瞬間でした。


今回で終わりになってしまいました。


この最終回に関しては今までTHEナンバー2でやった、岩倉具視・勝海舟・小栗上野介なんかを観るとよく解るのかなあ・・・って思います。

毎週楽しみにしていたので、とっても寂しいですが・・・
徳川慶喜が大政奉還したように、THEナンバー2も、粋な計らいをしてくれました。黒ハート

次回からの番組も、歴史物みたいです。黒ハート


楽しみにして1週間過ごします。るんるん



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posted by ちゃーちゃん at 13:38| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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