2013年02月08日

不屈の英雄アテルイ 古代東北の底力

田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著); 吉川弘文館 (刊)
田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション) [単行本] / 新野 直吉 (著...

794ウグイス平安京・・・

西暦794年、日本の都が京都に定まりました。
このプロジェクトを推し進めたのは・・・時の天皇・桓武天皇です。
しかし・・・その桓武天皇をもってしても打ち負かすことのできなかったのが・・・アテルイ!!
東北不屈の英雄です。

aterui.png

アテルイが率いるのは太古から東北地方で生きてきた蝦夷と呼ばれる民でした。
桓武天皇は、自らの威信にかけて・・・東北地方の平定の為に20年間で3度の派兵をします。
しかし・・・アテルイ達の強烈な抵抗の前に、一度も成功を治めることはありませんでした。
このアテルイの記載は、歴史書にはわずか数行。。。
そんな良く知られていない1200年前の壮絶な戦いが、発掘によって明らかになってきました。


当時の蝦夷社会・・・朝廷側の支配は宮城ぐらいまでで・・・中央の支配に従わず独自の文化を形成していました。
20年の戦いは・・・蝦夷の方にしてみると、朝廷側が一方的に攻め込んできた戦いでした。
中央政権の東北侵攻に対し、果敢に立ち向かった蝦夷のリーダー・アテルイ。
朝廷軍との激突はおよそ20年間に3回。
アテルイ達は、そのたびに強大な敵をはねつけました。

そもそも、アテルイ達蝦夷は、どうして中央政権と戦わなければならなかったのでしょうか?
7世紀半ば、蝦夷たちは朝廷の支配を受け入れていませんでした。
そこで、朝廷側が一方的に城柵と呼ばれる拠点を作り、移民を開始します。
城柵建設と同時に・・・支配範囲は北上していきました。

朝廷支配下の陸奥の国が654年に、出羽の国が712年に成立します。
しかし、蝦夷たちはまだ支配下に入ってはいませんでした。

宮城県の城柵・多賀城。朝廷はここを拠点に蝦夷の支配を目指します。
此処には役人と軍隊が常駐、大宰府と並んで「遠の朝廷」として偏狭支配の最重要地点でした。これに対して蝦夷たちが大反乱を起こしました。
それは、激しく焼け焦げた瓦が証明しています。

今から1200年前に、朝廷の拠点が蝦夷によって焼き払われていたのです。
この一連の戦いで中央の役人が焼き殺されたと言います。
780年伊治公呰麻呂の乱です。
桓武天皇は、5万の軍勢を東北に派兵します。
それを迎え討ったのが、アテルイだったのです。
789年巣伏の戦いから始まります。

この時朝廷軍4000に対し、アテルイ軍1500人。。。数に劣るアテルイ達は、地形を巧みに利用。見事な戦いを展開したと言われています。
溺死した朝廷軍は1000人以上、アテルイ軍のゲリラ戦の前に惨敗です。

油断もあったのかもしれません。。。
政府が派遣する兵は農民兵です。しかし、アテルイやモレの持っていた兵は、縄文時代以来持っていた採集経済・・・いつも獣・イノシシ、クマなど・・・狩猟をしていたので、戦闘能力が培われていました。
東北の地で鍛えられた戦闘力で大勝利を治めました。

強さの秘密・・・
@弓矢・・・縄文時代から続く。
A馬・・・もともと産地だった。
B稲作・・・それを支えていたのが稲作。
でした。

もともと蝦夷とは・・・この蝦夷は自分たちが言い出したのではなく、まつろわぬ野蛮な人たちという意味で朝廷から蝦夷と言われていたようです。だから、蝦夷と言っても、いろいろな人たちがいたようです。

794年桓武天皇は、再び大軍を送り込みます。
その数10万以上・・・。
東北遠征にかける並々ならぬ思いの朝廷は・・・秋田方面の城柵を強固なものに改修していきます。
防備を強固なものにしていったようで・・・またあ、革製の鎧も見つかっています。
しかし、アテルイ軍は朝廷を寄せ付けません。

アテルイとはどんな人だったのでしょうか?
もしかすると・・・本当の名前ではないのかもしれません。
岩手県に跡呂井(アトロイ)という地名があります。
そして、田茂山(タモヤマ)も・・・。
大墓公阿弓流為(たものきみあてるい)・・・つまり、アトロイという地域を支配した権力者ということなのかもしれません。
一方、続日本紀によると、北上川の東岸に・・・日上乃湊という港があったとされています。
その場所は、アテルイの勢力範囲にあったと思われます。
アテルイは、朝廷と蝦夷の貿易の中間管理者だったのかもしれません。

軍を率いて勇敢に戦ったアテルイは、盛んに交易を行っていたのかもしれません。
当時、東北からの貿易の品としては、毛皮・馬・金・鷹の羽・昆布・琥珀・・・豊富な幸が、京の雅な文化を支えていました。
アテルイは、まさにその中心にあったようです。

秋田城には、渤海の使者が来たという記録もあります。
771年にも、325人が来航しました。
出土したのは鉄釜・寄生虫の卵・・・これは、当時日本にはなかった豚などにつく寄生虫で秋田城と大宰府からしか出土していません。
この地が、いかに大陸と繋がっていたのかがわかります。

そして、蝦夷たちの交易ネットワーク・・・
蕨手刀から見てとれます。
蕨をかたどった柄の形が特徴です。
東北の人びとが力の象徴として使っていました。
その蕨手刀が、遥か北の北海道網走で発見されています。
そのことから、東北とオホーツク文化が密接に関係していたことがわかります。
この交易から、毛皮やアザラシを送っていたようです。
東北は寒くて閉ざされた土地ではなく、北の文化と南の文化の交わる交易の拠点だったのです。

797年桓武天皇は、最後の闘いに打って出ます。
東北制圧の切り札・・・征夷大将軍・坂上田村麻呂・・・最終決戦の始まりでした。

田村麻呂は戦いだけの人ではなく、人間味もあったようです。
そんな田村麻呂の蝦夷戦略は、構想5年のしたたかで用意周到なものでした。
田村麻呂は、東北に数多くの寺を建立しています。
仏教を使って、蝦夷の同化政策を行おうとしていたようです。
現に、梵鐘・高炉の鋳造所が発見されています。

最先端の農業技術を使って蝦夷懐柔に打って出ます。
切り崩し工作のよって、やがて蝦夷の族長たちが戦線を離脱し・・・
アテルイは孤立していったと思われます。
そして・・・胆沢城を建設します。
役人と兵士2000人を常駐させるのです。
国家権力と地方部族・・・
圧倒的な力の差を見せつけられました。
そして、これを契機に・・・
アテルイと副将モレは、500人の兵を連れて降伏を宣言。
アテルイ降伏を聞いた桓武天皇は大いに喜んで、蝦夷平定を祝う儀式を盛大に開催しました。
そして・・・アテルイとモレは都に護送・・・。
田村麻呂は、この二人の助命嘆願をしたそうです。
それはアテルイに、他の蝦夷を説得させようとしたからだと言われています。
しかし・・・都の貴族たちは聞き入れずに・・・

「殺してしまえ!!」

どうして、突然降伏したのでしょうか???
未だに論議が絶えません。
ただ・・・田村麻呂という男を信用したとか・・・
長い戦いで東北地方が荒廃してしまった・・・
内部から崩壊していった・・・


アテルイの処刑は、京から遠く離れた河内の国でひっそりと行われました。
そこには現在首塚が建てられています。

802年アテルイとモレ処刑

20年も続いた蝦夷の戦いは、二人の命と引き換えに終わりを告げたのでした。
彼らの戦いは・・・「蝦夷が何であるのか」を学ぶ戦いだったのかもしれません。
残照はるかに 阿弖流為別伝
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蝦夷水沫 阿弖流為の叫び 上巻
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posted by ちゃーちゃん at 22:39| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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