2013年01月23日

紂王と太公望 〜王朝交代・古代最大の決戦〜

今から3000年前に起こった牧野の戦い・・・王朝を交代させた天下分け目の戦いです。
闘ったのは、殷と周。

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いやあ、懐かしいです。封神演義思い出しちゃいました。
私が好きだったのは哪吒と黄天化でした。黒ハート

時の王朝殷の軍を率いたのは最後の王・紂王。

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中国史上最悪の王と言われています。
酒池肉林・炮烙の刑・・・
紂王の悪事は数限りない・・・

そんな暴君に立ち向かったのは、周。率いたのは太公望。

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小さく弱い国に、彗星のように現れた太公望。策略の限りを尽くして殷を追い詰め・・・ついに牧野の戦いで勝利します。。。。

しかし、本当は、そう単純ではなかったようです。
本当に勧善懲悪なのでしょうか???
その秘密が明らかにされようとしています。

紂王と太公望の戦いは、史記に記されています。
史記は、牧野の戦いからおよそ1000年後の歴史家・司馬遷が記しました。
この中で殷王朝最後の王が紂王・周の軍師が太公望なのです。
2人の描写は対照的・・・
太公望は天才軍師ですが・・・紂王は悪役です。
中でも有名なのが、酒池肉林のエピソード。
紂王の命で作られたと言われています。
欲望をむき出しにしたこの庭で、宴に酔いしれていた紂王・・・。

牧野の戦いで・・・紂王軍70万という大軍でしたが、1日でやぶれ滅びてしまいます。。。

この勧善懲悪。。。しかし、司馬遷が参考にしたのは、殷を倒した周の資料でした。
紂王の資料は参考にされていません。


殷王朝の都跡は・・・河南省安陽市。
ここに紂王の君臨した殷の都がりました。
80年前に発見された殷墟には、発掘品がたくさんあります。
2006年世界遺産に登録され、年間50万人が訪れます。

甲骨文字・・・亀の甲羅や牛の骨に書かれている甲骨文字。
殷の実在が初めて証明されました。
史記に記された殷は、あまりにも残虐なので、疑われていたのです。
しかし、この甲骨文字には、祖丁・小乙と言った王の名前が刻まれています。

発掘の結果・・・殷が解明されてきました。
出土した武器は1万点以上。
殷の繁栄を支えたのは、圧倒的な軍事力でした。
殷王朝が活躍したのは紀元前16世紀から11世紀。中国大陸ではいろいろな部族が力を持っていました。
その多くが持っていた武器は・・・石を削ったもの。
しかし、殷が持っていたのは青銅の武器でした。大量に生産し、力で圧倒したのです。

牧野の戦いで紂王が率いたと言われる70万の軍勢・・・
その軍は、いくつもの新兵器を持っていたようです。
それは・・・戦車。馬も車も殷が初めに使っていました。2頭の馬によってひかれていたのです。
どうしてこのようなものが突然できたのでしょうか???
紅玉髄という石が発見されています。
これは、遠くインド西部やトルキスタンでしか取れませんでした。インダスと繋がっていたと言えます。
初めて戦車が造られたのはメソポタミア・・・
メソポタミアで生まれた戦車は・・・4大文明へと広まっていったようです。
しかし、中国の西部にはパミール高原があり・・・そのパミールを北にのぼって中国に入ってきたようです。
そして、殷が黄河から離れている理由。。。それは、西アジアとのつながりを持つためだったと推測できます。

殷は、当時中国で唯一西アジアと深く繋がっていました。
戦車が突然出てきたのも、西アジアの技術を学んだからなのです。

殷だけが持っている技術・・・改良を重ねます。
スポークの数は20本以上、大きな車体・・・二人の戦士を悠々と乗せることが出来ました。
この戦車を戦闘に投じることで・・・世界最強の戦車となりました。


彼らは自分たちの国を“商”と呼んでいました。そう、商人の町だったのです。

史記によると・・・紂王がたくさんの珍しい動物を飼っていたとありますが、それは紂王だけではなく、当時の王は皆そうだったようです。
青銅器も積極的に取り入れました。
殷は、青銅器の技術を最も高めたと言えます。
酒池肉林も・・・
殷では、青銅器でできた酒器に酒を入れ、温めて飲んでいたようです。
神と対峙するために酔う・・・それは神に近づくための陶酔だったのかもしれません。
この酒の文化は貴族だけではなく、一般住民たちも陶器で酒を飲んでいたようです。この陶器の数は100万点。。。中国で最多だそうです。

お墓でも、器は出なくとも酒器は出るそうで・・・酒は儀式的な意味合いを持つものだったと言えます。
これらの酒器は、埋葬するときにお酒を入れて埋葬したと考えられていて・・・生活の中心にお酒があったようです。


殷墟で見つかった骨は・・・?
牛を中心に、馬や豚を飼っていたようです。
食料を計画的に生産していました。
殷墟には、地下水道もありました。
牧畜も計画的に行われていました。
貴族から一般市民まで酒をたしなみ、食べるものも豊富。。。
酒池肉林は・・・酒に対する誤解や、食べ物が豊富にあるというやっかみから来たものかもしれません。


殷最大の発明・漢字
様々な新技術で歴史を塗り替えていった殷。。。
現代の生活に欠かせないのが、漢字です。
亀の甲羅や動物の骨に書いた甲骨文字・・・発見されたのは19世紀末のことでした。
清朝末期、漢方薬として売られていた甲羅や骨に文字が書いてあるのを発見したのです。

その骨が出土した場所こそが、殷の都・・・
発掘によって、大量の文字が発見されました。
今でも読める文字があります。
雨・衆・・・3000年以上途絶えることなく使われてきました。

しかし、殷の漢字の使い道は???
殆どが占いでした。
占いを取り仕切っていたのは殷王自身だったようです。
占いの文字・・・それが漢字の原点なのです。


軍事的にも、文化的にも比類なき国となっていた殷。
そんな殷の牧野の戦いを挑んだ周とは一体どんな国だったのでしょうか?
史記の後の作品は・・・周を殷に無理難題を持ちかけられる悲劇の国となっています。
最も有名なのが・・・殷の紂王の命令で・・・周の武王が自分の息子を刻んで作ったスープを飲ませるシーンです。
多くの物語は・・・こんな積年の思いを晴らすための牧野の戦いだったと書いています。

周の本当の姿とは???
陝西省周原・・・
周とは、田畑からの恵・・・農耕を続けていた民でした。
1960年代から発掘されている周原遺跡。紀元前16世紀から都としていました。
この遺跡の出土品は、“鬲(れき)”と呼ばれる素朴な陶器ばかりです。
青銅器は少ないのです。

殷が、軍事力で支配権を広げた拡大志向の国だったのに対し、周は基本的に、周原から動かず、濃厚に従事した安定志向の民でした。
発掘品も、300年以上の間あまり変わり映えのないものです。

しかし・・・紀元前13世紀ごろ・・・
周は殷と関係を持ち始めます。婚姻関係までも。。。
周の発掘品にも変化が現れます。玉・・・なども発掘され、進歩を遂げてきます。
そこに現れたのが、天才軍師・太公望です。

大国・殷と接近し力を伸ばした周・・・しかし、衰退の一途をたどり始めた殷。

牧野の戦いでは、周の王が自らに正義の有ることを宣言して戦いが始まります。
その悪事とは・・・
寵愛する妲己の言うままに行った炮烙の刑。
女性を政治に参加させたこと・・・
しかし、発掘からは女性が政治に参加したという証拠は見つかっていません。
ただ・・・女性の地位は高かったようです。
軍服を纏う“婦好”。彼女は紂王の八代前の王の妃です。
彼女は妃であると同時に殷の将軍でした。
1976年婦好の墓が発掘されました。
そこには、アクセサリーと共にトルコ石をふんだんに使った刀が治められていました。
甲骨の分析によると、婦好は二人の子供を持ちながら軍を率いて戦ったようです。

しかし、それは周の人びとは快く思っていなかったようです。
女は家にいて、男が外に任せるべきだ・・・と、記されています。
史記は、そんな時代の文化。
だから、戦う女性は好ましく思わなかったのでしょう。

青銅器はどのようにして作られたのでしょうか?
造りたい形のモデルを作成→型の作成→型に青銅を流し込む(950℃)→冷やして完成
殷の青銅器のレベルはかなり高く、誰もが造れるものではありません。
細かな陰陽は殷の青銅器の特徴です。
同時期のメソポタミアでもこのような技術はなく、当時の最高峰だと言われています。

豊かな国家だった殷王朝。
酒池肉林も、炮烙の刑も、豊かな個性の表れなのかもしれません。
紂王は・・・太公望の為の悪の権化にされたのでしょうか?

祭祀坑には・・・
首のない遺体が埋葬されていました。
それは、人の生贄でした。
首は、意図的に切り落とされ・・・
これまで発見された生贄は1万4000体にも及びます。
神にささげられた生贄。
牛と同じように生贄として捧げられていたのです。
というのも、殷の神は人の頭を食べると言われていました。
神の意志を聞くには、それなりの代償が必要だったのです。

殷の王・・・紂王は悪なのでしょうか???

この生贄にされていた人々(羌)は、・・・
@罪人説
A奴隷説
B捕虜説
今まではこの3つでした。

歯を調査してみると・・・
放射線物質の量が殷の人とは違います。
捕虜なのでしょうか???
中国全土のサンプルと比較すると、甘粛省の部族とだけ一致しました。
つまり、特定の部族だったのです。
その距離800q・・・生贄が連れてこられたのは国外だったようです。
殷にどうしても従わない人たちに・・・見せしめとしてこの部族の人たちが使われたのかもしれません。

羌の故郷・甘粛省には遺跡がありました。
が羌の人びとは、定住せず、遊牧生活を送っていたようです。
定住農耕生活をしていた殷にとっては、自国に受け入れることが出来なかったのです。
文化の違う人々を生贄にしていたのでした。

周も逆らえば・・・そうなるかもしれない・・・???
殷の配下だった周に、天下をとれ・・・そういったのが太公望でした。

ある日、周の王・文王が天のお告げを受けます。
「貴方の待ち望んだ人が、川のほとりで待っている。」
お告げに従うと・・・

そこには釣り糸を垂れた男がいました。
「何を釣っているのですか?」
「私が釣っているのは覇王への道です。」

糸の先には針がなく・・・文王を待っていたかのようです。
天下の政とはこうあるべきだ・・・と説いた太公望に感銘し、宰相に迎えました。

しかし・・・太公望の資料は一つもなく、その存在を疑う部分もありました。
2009年殷を倒した直後に作られた青銅器には・・・
「文祖斉公」の文字が・・・文祖=開祖、斉公=太公望のことです。
太公望の文字が、初めて見つかりました。
太公望が実在する可能性が高まってきました。

天才軍師と言われた太公望・・・そこには周到な準備がありました。
当時の殷と周の国力には大きな差がありました。
それを埋めるために、様々な部族に働きかけます。
太公望の謀略の証拠も発見されました。

周の拠点にあった周原のはずれ・・・鳳雛村で・・・奇妙な甲骨文字が発見されました。
見つかったのは、殷に比べるとごく小さいものでした。
文字の大きさは、1ミリ・・・紂王の父を祀るものと同じに、殷に逆らって独立している微という部族と密接な関係にあったものも発見されました。
殷を倒す準備を行っていたのです。
甲骨には周のしたたかさが伺えます。

史記には、牧野の戦いには8つの部族が加わったと言われています。
それが「牧誓八国」です。
この中に、考古学上明らかになった国に蜀があります。
黄河と並ぶ長江。蜀は、この長江流域に栄えた国でした。
1980年代まで長江流域に、発達した文明はなかったのでは?と、思われていました。
この蜀の遺跡には。。。
誰も見たことのない青銅器がありました。“突目仮面”。独特の仮面文化があったようです。
殷とは、まったく異なる文化を持っていました。
蜀の人びとは、太陽が9つあるという独特な信仰を持っていたのです。
蜀の都は強大で、殷の都に匹敵するものでした。

周と手を結び、牧野の戦いに参加したのは、未開の地の部族などではなく、高度な文明を持っていたのです。

史記には、太公望の策謀の結果、世界の2/3の部族が周の味方に付き、殷が孤立したとあります。
殷に対する包囲網は、本当にあったのでしょうか?
殷の末期になると、青銅器だった装飾品などが陶器に。青銅器の代替品として使用されるようになりました。
これは、青銅が不足してきたからです。
そして・・・同じ時期に、周で青銅器の生産が盛んになってきたのです。

国の繁栄を支えてきた青銅を、周に抑えられ・・・
武器も不足・・・軍事行動にも出にくくなりました。

生贄という習慣を辞められなかった紂王と、生贄になる可能性のあった人々に呼びかけた太公望。。。戦の前から結果は決まっていたのかもしれません。

今の牧野公園で行われたと言われる牧野の戦い。
それは、武王11年2月甲子の日
何故この時を選んだのでしょうか?
甲骨文字によると・・・
この頃、殷の領土の東側で反乱が勃発していました。
だから、東を重点的に武装していました。
そこで・・・周がその隙に攻めたのです。

「甲子の日の朝、武王は殷に攻め込んだ
 夕方には殷を支配していた」

史記は、戦いは1日で終わったということが、青銅器によって裏付けされました。

周が反旗を翻したと聞き、すぐさま兵を出した紂王。
しかし、そこで彼が目にしたものは・・・
敵陣には、予想をはるかに超える軍勢が待ち受けていました。

共に殷を倒そうとしていた“微”。
南の長江流域からやってきていた“蜀”
牧野の地に集まった部族の連合軍が・・・決戦のときが迫ります。

史記に記されている殷の正規軍は70万、しかし、周の軍も・・・殷に劣らない数になっていました。
かつてない兵力と対峙した殷の軍は・・・
戦いを放棄してしまいました。正規軍は東へ行っていて・・・弱い者たちばかりだったから・・・という説もあります。

殷の軍は、戦わずして崩壊しました。
500年間も軍事大国として君臨していた殷王朝は、わずか1日で崩壊してしまいました。
史記は、紂王の最期を・・・
王宮に向かった紂王は、王宮に火をつけて命を絶った・・・
としています。

戦いに勝った周の軍師・太公望。
周が治めるようになってからは、山東省に領土を授かります。
ここに、斉という国を開きました。
太公望は、独自に塩を生産し、国を豊かにしたと言われています。

周の統治とは・・・?
土地を保証する代わりに税や兵役を納める・・・
他の部族と契約し、様々な部族を緩やかに治めようとしました
これが、封建制度という周独特の制度でした。

周は、この後300年後に衰退し、最後は新に滅ぼされます。
しかし、封建政府度を用いた王朝として美化され、太公望は天才軍師として高められ・・・反対に殷の紂王は、奈落の底に落ちていったのでした。

周の視点からの歴史。。。歴史は勝者の歴史・・・それが、歴史の真実なのです。

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posted by ちゃーちゃん at 13:46| Comment(2) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Posted by ルイヴィトンコピー at 2014年02月12日 12:05
しかし、殷の漢字の使い道は???
殆どが占いでした。
占いを取り仕切っていたのは殷王自身だったようです。
占いの文字・・・それが漢字の原点なのです。
Posted by ゴルフクラブセット at 2014年02月22日 15:03
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