
マリー・キュリー フラスコの中の闇と光
今から100年ほど前、放射能の研究で、女性で唯一、2度のノーベル賞に輝きました。
女性の社会進出がまだ少なかった時代に、どのようにして成功したのでしょうか?
ノーベル賞は、マリーが受賞したことで注目されだした賞でした。
ノーベル賞をここまで有名にしたのは、キュリーです。
マリーの直筆のノートには・・・
放射線が残っている物もあり、マイクロフィルムでしか閲覧できないものもあります。
実験ノートには・・・600ページに及ぶ記録があります。
もう一つは育児ノート。
実験と育児に追われた日々を、人生で最も幸せな時間だったと振り返っています。
早朝、朝食の支度をし家族一緒に食事をした後、仕事に取り掛かりました。
当時、マリーは無名の研究者、夫のピエールは将来を期待された科学者でした。
馬小屋と呼ばれる粗末な劣悪な実験場所で、しつこいまでに完璧な研究をしていたようです。
昼食もろくにとらずに研究します。
義父の協力もあり、家族の深いつながりの中、仕事に打ち込んでいました。
帰宅すると、晩御飯の用意をし、娘をお風呂に入れて・・・
育児日記をつけるのでした。
科学者としても母親としても完ぺきを求めたような感じがします。
この何でもこなそうとするプライド。
マリーが幼いころ、家には父の実験器具がありました。
父は、数学と物理の教師だったのです。
実際に器具に触れたのは21歳の時でした。
マリーは1867年、ポーランドのワルシャワに生まれます。
5人兄弟の末っ子で、両親は教師でした。
当時ポーランドは、ロシア・ドイツ・オーストリアに占領され、マリーの住むワルシャワはロシアの一部でした。
ロシアの命令で、ポーランド語や母国の歴史を学ぶことが禁止されました。
小学校のマリーは2学年も飛び級するほどの秀才でした。
監視にやってくるロシア人に授業内容のチェックのために答えさせられていました。
話したくもないロシア語で、尊敬もしていない歴代皇帝の名前を暗誦します。
強い自覚を持ったポーランド人だったマリー・・・
父のヴワディスワフも大きな侮辱を受けます。
物理と数学の教師でしたが、ロシア人の校長と対立し、逮捕されてしまいます。
家にあった実験器具・・・それが再び使われることはありませんでした。
そんな中、マリーを支えたのは、秘密のノートです。
ポーランドの詩人の詩集の写し・・・
ポーランドが大国として栄えたのは、16世紀から17世紀。
その礎を築いた人たちの叙事詩です。
このノートは、マリーが10歳の時に亡くなった母が書き写し、残したものでした。
マリーは、このノートから、ポーランド人としてのアイデンティティと伝統を学んだのです。
マリーは15歳で高校を首席で卒業します。
しかし、当時のワルシャワでは女性の大学進学は認められていませんでした。
マリーは、秘密の教育組織・移動大学で学び始めます。
移動大学とは、個人宅や集会所で女性に勉強を教える組織です。
そんなマリー、21歳の時に転機が訪れます。
移動大学だった工業農業博物館で初めて実験を体験します。
それは、“蒸留”です。
その驚くべき現象に、喜びを感じたのです。
もっと科学の勉強を極めたい!!家庭教師をしながら24歳でフランス・パリにあるソルボンヌ大学へと進学します。
最先端の科学を学ぶことで、祖国に貢献しようと研究に明け暮れる日々が始まりました。
ポーランドに戻って先生になるはずだったマリー・・・。
結婚してフランス国籍となってしまいます。
ピッチブレンド・・・黒い石です。ウランをはじめ、強い放射性物質が含まれています。
この石が、彼女の人生を変えていきます。
ソルボンヌ大学では、物理の学士試験1位・数学の学士試験2位という成績を修めます。
その頃であったのが、ピエール・キュリーです。8歳年上の新進気鋭の科学者でした。
1895年7月に結婚。
研究にまい進する2人は・・・この頃アンリ・ベクレルが発見した奇妙なエネルギーでした。
ウラン鉱石から見えないエネルギーが出ている!!
目をつけたのが、ピッチブレンドでした。
これまで発見されていない元素があるのではないか???
2人は元素を発見しようと、一つずつ分離していくのですが・・・できません。
そして、3年9か月・・・新たな元素を2つ発見しました。
一つはラジウム、もう一つはポロニウム。
2人の発見は、特定の元素がエネルギーを発するということを証明します。そして、放射性に伸びていくことから放射能と名付けたのです。
この放射能の発見で、1903年12月ノーベル物理学賞を受賞します。
2人は、世界に名をはせる科学者となりました。
1911年11月4日の新聞にマリーのスキャンダルが載りました。
“恋の物語 キュリー夫人とランジュバン教授”
マリーが、妻子ある男性と不倫にあるというものでした。
その5年前、マリーは悲劇に見舞われます。
1906年夫・ピエールが交通事故で死亡、それを引き継いで、女性初のソルボンヌの教授に就任しました。
ポール・ランジュバンは、ピエールの愛弟子でした。
きっかけは、ランジュバンからの身の上相談でした。
このランジュバン、「私がいなければ、ランジュバンが“相対性理論”を発見しただろう」と、アインシュタインに言わしめた男です。
その才能に惚れこんでしまったマリー・・・。
大学の近くのアパートで密会をする日々・・・。
スキャンダル発覚から3日後の11月7日、マリーに2度目のノーベル賞が決定します。
ところが・・・スキャンダル報道だけが過熱します。
そして、11月23日マリーに追い打ちをかけます。
2人の手紙の内容が盗まれ、掲載されてしまったのです。
12月1日、ノーベル賞を決定するアカデミーから手紙が来ました。
「不倫が事実と証明できないのであれば、ノーベル賞の受賞を辞退するように」と。
マリーは返事を書きます。
「賞は、ラジウムの発見とポロニウムの発見に対して授与されました。
科学的業績と、私生活との間には何の関係もないと思います。
科学的業績の評価が、個人の生活の中の中傷や誹謗の影響を受けるという考えには原則として承服いたしかねます。」
12月10日マリーは受賞式に参加、世界初の2度目のノーベル賞を受賞したのです。
3年後、第1次世界大戦が勃発。
フランスはポーランドを占領していたドイツ・オーストリアと戦い始めました。
負傷した兵士たちを放射線で治療できないだろうか???
と、思ったマリー。
目をつけたのがX線でした。
マリーは、X線を乗せた車を開発し、たくさんの人の治療に当たりました。
前線で展開した車や病院でX線治療した人は、100万人に上ると言われています。
1918年ドイツの敗北で第1次世界大戦が終結しました。
その後、ヴェルサイユ条約では、民族自決が詠われました。
その結果、123年ぶりにポーランドが独立します。
終戦後マリーは、研究を再開します。
しかし、この頃から放射線が人体に及ぼす危険性が明らかになっていきます。
しかし、マリーはそれを認めず・・・
放射線は人間の未来を切り開く・・・そう思いながら、1934年7月、マリー・キュリー死去。死因は、放射線被ばくによる白血病と言われています。
1934年7月6日マリーは、夫ピエールの墓地に埋葬。
亡骸はピエールと共に埋葬してほしいと、言っていたそうです。

放射線と現代生活 マリー・キュリーの夢を求めて

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