2013年01月12日

源頼朝 夫婦げんかで築いた新たな日本

源頼朝像 沈黙の肖像画 (平凡社ライブラリー) [新書] / 米倉 迪夫 (著); 平凡社 (刊)
源頼朝像 沈黙の肖像画 (平凡社ライブラリー) [新書] / 米倉 迪夫 (著); 平凡社 (刊)

鎌倉は、本格的な武家政権発祥の地です。
それを切り開いた源頼朝は、First SAMURAI と呼ばれています。

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かつて平清盛が、京の公家社会に身を置いたのに対し、頼朝は全く後ろ盾のないところから武士の棟梁へと上り詰めます。

後ろ盾のなかった頼朝が、何故700年も続く武家政権の礎となることが出来たのでしょうか?
頼朝の人生のスタートは、伊豆での20年にも及ぶ流人生活でした。
運命の転換点は、北条政子との出会い・・・。


京都で生まれ育った頼朝は、京育ち。朝廷につかえていました。
ところが、父・義朝とともに平治の乱で敗れ清盛に敗北、伊豆に流されることになります。
頼る人もなく、身内からの仕送りで、細々と食いつないでいました。

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それから20年流人の生活が続きます。
転機は、関東で頭角を現していた北条時政の娘・政子。

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2人は時政の大反対を押し切って結婚します。

頼朝は政子を大切にしていたようです。
鶴岡八幡宮に向かって伸びる若宮大路の段葛と呼ばれる径は、頼朝が政子の安産を願って自ら石を運んだ道と言われています。

しかし、頼朝の女性関係をめぐって、政子とは激しい衝突が繰り返されていました。

政子に隠れて寵愛を得ていたのが、大進局。
1186年頼朝の子を出産。
これに激怒した政子・・・頼朝は、この子の出産時の儀式をすべて取りやめます。

頼朝の女性遍歴に関しては、京で育ったことが原因と思われます。
京都の文化の身についている頼朝は、こ洒落たラブレターを書きました。

頼朝と政子の大ゲンカ・・・この喧嘩には、京の頼朝と東国の政子、単なる夫婦げんかにとどまらない意味がありました。
公家社会は“自由恋愛”社会、東国は“家と家との結婚・軍事同盟”みたいなものでした。
頼朝との結婚=北条氏の影響力を高めるものだったので、他の女性との関係に怒ったのです。

そんな世界にも馴染んで、武家の棟梁として自覚し始めます。
政子との結婚から3年・・・20年の不遇の時代をのち・・・

1180年平家打倒の令旨が届きました。
頼朝が突如、歴史の表舞台へと押し上げられました。
満を持して、平家打倒の挙兵をします。
この時、頼朝に従ったのは・・・わずか40騎でした。

挙兵を目前にして・・・頼朝は、部下一人一人に対して“お前だけが頼りだ!!”
感激し、奮起した部下たち。かなりの人たらしだったようです。
しかし、石橋山の戦いで大敗・・・。
部下を失ってしまいました。

挙兵から11日後、房総半島に逃れた頼朝。
ピンチの連続に、命も風前の灯と思われたその時・・・

敗れた頼朝のもとに、東国武士が次々と集まりだしたのです。
そして・・・富士川の戦い。。。
この時頼朝軍は、20万にまで膨れ上がっていました。

どうしてこれほどまでに支持されたのでしょうか???
当時、土着の多くの武士は平氏に土地を脅かされていました。
これに対抗し・・・自分たちの土地支配を認めてくれる新しい武士の棟梁を探していたのです。自分の家・財産の存続・・・
地域と時代が頼朝を作り上げたと言っていいでしょう。

そして、武士たちの土地所有を保証・安堵しました。
これこそが、頼朝最大の発明で、700年続いた本当の発明品だったのです。


期待された頼朝・・・富士川の戦いで平氏に勝利します。
きっと、軍事指揮官としては駄目でしょうが、政治家としては天才的な人だったのです。
それこそが、東国武士たちとの確固した絆となったのです。
御家人ですね。

しかし、頼朝に許可なく朝廷の官職を得たものは厳しく罰しました。
武士たちとの一対一の絆を基に、武士の政権を盤石なものにしていった頼朝。棟梁として大きく飛躍していきます。

京都とは違う国家デザイン・・・清盛は、貴族世界に入って武士の地位をあげていきましたが、貴族の力、天皇の力には全くかないませんでした。

これを見ていた頼朝は、鎌倉に腰を据えることにします。
そこでも二人は、武家政権の根幹を揺るがす大ゲンカをします。

それは・・・長女・大姫の結婚をめぐっての喧嘩でした。
頼朝は、木曽義仲の息子・義高と婚約させて義仲と同盟しようと思っていました。しかし、義仲と対立、滅ぼし、息子の義高をも密かに殺してしまいました。

リーダーの頼朝としては当然のことでした。が、このことを知った大姫は病気に・・・。
それを知った政子は怒ります。自分や大姫に相談がなかったことに・・・
そして、義高を殺したものを打ち首にさせてしまいました。

政子は、女が武家の“家の中”を統括する存在であるという考えに立っていたのです。
この頃、“家”が出来てきます。
今でいうと、会社のような組織です。
夫=社長・妻=副社長といった感じです。

1186年義経の側室・静御前が鎌倉に連れてこられました。
義経は、頼朝に無断で官位を授かったために逃亡していたのです。

舞の名士として舞を披露する静御前。
見事な舞でした。が・・・歌詞を聞いた頼朝は憤慨します。
「鎌倉幕府の安泰をたたえるべき場で、反逆者・義経を慕う舞を舞うとは何事か!!」

武士たちの前で、威厳を守ろうとした頼朝から発した言葉でしたが、政子は・・・
「夫を慕う静御前こそ、女性の鑑です。 
 私も愛するあなたを思い、周囲の反対を押し切って、あなたのもとに嫁いだではないですか」

頼朝は怒りを治め、武士たちは政子に感嘆したそうです。
リーダーとしての頼朝、武士の妻としての政子・・・二人三脚でした。
吾妻鏡の記述には、この頃から夫婦喧嘩はなくなっていきます。


壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源氏・・・この年、頼朝は守護地頭を設置する権限を朝廷に認めさせました。ここに、実質的な鎌倉幕府が成立します。

しかし、全国にはまだ力の及ばない地域があり・・・その一つが、奥州藤原氏でした。豊富な金をだし、力もあった奥州藤原氏・・・ここを治めない限り安泰とは言えません。

頼朝最後の闘い、奥州合戦が始まります。
頼朝に反逆したとみなされ逃亡していた義経は、この時奥州藤原氏を頼って落ち延びていました。そう仕向けられたのかもしれません。

この義経の東下りは、頼朝にとっては絶好のチャンスだったのです。
合戦の準備を始めます。
九州の武士にまで、参加要請をしました。
義経は追い詰められて自害・・・
頼朝の率いた兵の数は、28万ともいわれています。
敵の本陣平泉に到着したものの・・・藤原泰衡は北へ・・・
その泰衡を追ってまた北へ・・・。泰衡は、部下の裏切りにあい、会えなく敗れます。

そのまま終わると思っていた戦い・・・
さらに北へ・・・ようやく軍を止めたのは、厨川でした。
ここでようやく勝利宣言しました。
9月17日・厨川というのは、頼朝のこだわりです。
奥州合戦をさかのぼること130年、頼朝から5代前の頼義が奥州で勝利した戦いがありました。前九年合戦です。
これによって頼義は、関東・東北まで勢いを伸ばし、地位を確かなものにしていました。
9月17日に勝利宣言をし、その場所が厨川だったのです。
このことが、武家の棟梁を確立することにつながる!!
そして、奥州総奉行を置きます。

これによって、1192年頼朝は征夷大将軍に任命され、公にも武士の棟梁として認められたのでした。
国家デザインとして、初めて大陸とは全く違うオリジナルの国家を作ったのが、頼朝と政子だったのです。

源頼朝(一) (吉川英治歴史時代文庫) [文庫] / 吉川 英治 (著); 講談社 (刊)
源頼朝(一) (吉川英治歴史時代文庫) [文庫] / 吉川 英治 (著); 講談社 (刊)
源頼朝(1) (山岡荘八歴史文庫) [文庫] / 山岡 荘八 (著); 講談社 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 21:52| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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