秋田県仙北市人口2万9684人・面積1093.64㎢・特産品はあきたこまち、いぶりがっこ。
陸奥の小京都と呼ばれています。
慶長七年秋田藩角館所預り・芦名義勝がこの地へやってきて・・・。
古城山にあった角館城を中心に、城下町を築きました。
芦名氏三代ののち、佐竹北家・・・明治時代に至るまで、この佐竹北家が治めることとなります。
しかし、芦名義勝が作り上げた城下町は、400年もの間、変わることはありませんでした。
古城山城跡(角館城址)・・。
標高168mある古城山にあった城です。
しかし、1620年の“一国一城令”によって廃城となりました。
山頂から見ると・・・その城下町を眺めることが出来ます。
城下町は・・・
武家屋敷で有名で、武家屋敷通りは・・・角館を象徴する黒板塀が連なります。
400年の時を経てなお、変わらないその町は、とても趣があります。
どうして変わらないのか???
昔から11m・・・六間の幅がありました。
そこには、江戸・京都と張り合った街づくりがありました。
当時、徳川家康が、東海道を整備するために申し付けた幅が六間でした。
でも、この道、東北には必要だったのでしょうか?
芦名義勝は、かつて会津70万石を治めた大大名でしたが、関ヶ原で中立の立場をとったことから徳川家康によって角館1万5000石に転封。。。
再び大大名へとのし上がるために・・・作ったのが、この六間幅の道だったのです。
そして、400年間この城下町を守ったのは、この六間幅の大通りでした。
大通りのおかげで無防備なその作りは、徳川幕府に従う印。。。
現在まで戦火に見舞われることなく続いてきました。
町にはモミの木が植わっています。
このモミの木が、雪国の厳しい環境から町を守りました。
殿様のプライドと知恵が、400年もの間この城下町を守ってきたのです。
石黒家は今も唯一、人が住んでいる武家屋敷です。
秋田県は、美人の宝庫と言われています。
地元では“秋田おばこ”と呼ばれています。
江戸時代、日本を襲った大飢饉・・・東北地方の被害は凄まじく、餓死する人もたくさんいたとか・・・
そんな飢饉から角館の人を守ったのが第八代所預り・佐竹義術です。
義術は、米の備蓄政策をいち早く行い、飢饉の影響をほとんど受けなかったと言います。
他国の女性や子供たちがやせ細っていく中で、ふくよかな秋田の女性・・・
そんな女性たちを秋田美人というのです。
いぶりがっこは、この地方のお漬物です。
その歴史は江戸時代と、とても古いです。
青柳家も武家屋敷として有名で、いろいろな展示を見ることが出来ます。
そこには主以外は入れなかった400年間開かない蔵“不開の蔵”があります。
一般公開されていないこの蔵には・・・
陶器類・絵画・古文書などが収納されています。
この蔵からは、他藩の諜報活動をした報告書など・・・機密文書がいくつも発見されています。
その中には、「解体新書」の初版本もありました。
![蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (著); 一穂社 (刊) 蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (著); 一穂社 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/515VMZW0WYL._SL160_.jpg)
蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (...
この解体新書の附図を書いたのが、角館出身の武士・小野田直武だったからです。
他にも、明治維新の人たちを使った「カルタ写真」、蓄音機・・・いろいろなものがありました。
ちなみに、角館は、日本で初めて西洋画ブームが起こった町でした。
第六代佐竹義躬は、武道より学問・芸術を好みました。
自らも絵を描いたほどです。
新しい文化の情報収集を積極的に行ったそうです。
秋田のきりたんぽ鍋、その歴史は古く、その昔、猟師がかりをして獲物と持参したご飯を煮炊きしたことに始まるそうです。
400年変わらない城下町・角館。殿様のプライドが作り上げたのは、陸奥の小京都・400年変わらない美しい街並みでした。
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