2012年10月19日

「伊能忠敬“日本”を知らしめた男」

東京江東区にある海上保安庁海洋情報部では・・・
人工衛星から最新の情報が集められ、海図が作られています。

今から8年前に古地図が見つかりました。
江戸時代、日本で初めて作られた伊能忠敬の実測地図の書き写しです。

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日本の姿を正確に表した巨大な地図でした。
しかし、明治初期に原本が紛失・・・。

その後、各地に残されてきた資料で穴埋めがされてきましたが、4か所が不明でしたが・・・。
この発見された資料で100数十年ぶりに伊能図の全貌が明らかになりました。

地図によって日本を知らしめた男・伊能忠敬。
彼が測量に出たのは隠居中の56歳のときでした。
足かけ17年、全国を測量しました。
それを終えたとき、彼は72歳になっていました。
自らの情熱と才覚で第2の人生を切り開いた伊能忠敬。

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しかし、彼の偉業の背景には、幕府の思惑があったと言われるようになりました。


今年の8月に行われた佐賀市での日本地図の復元。
214枚をつなぐと、縦35m横60mになりました。
伊能忠敬の第一の目的は、正しい海岸線を測量することでした。
そこには、遥か離れた屋久島の海岸線もありました。
どれも精密です。

この巨大な地図が初めて披露されたのが、1821年江戸城でした。
見事な出来栄えに、幕府の人も驚いたと言います。
そして、200年前にこれだけの精密な地図のあった国は、あまりないそうです。


日本では、太閤検地があって、測量大国だったようです。
これがバックグラウンドとなっていました。
その中で、“日本を図る”ということが、新しかったのです。


この時代、ヨーロッパの接近があり、日本の中にも“領土”という概念が出てきていました。
そんな中で、海辺をどう図っていくか???
国防という面でも必要でした。

その原動力は???
江戸時代中ごろ・・・伊能忠敬は、70人を抱える造り酒屋を営んでいました。
婿養子として仕事中心の生活の中で、唯一の息抜きは・・・子供のころから好きだった天文学の本を読むことでした。
家業を拡大し・・・資産は60億円。しかし、50歳になっていました。

ここで、一大決心をします。
江戸に出ることにしたのです。
当時、江戸には“幕府天文方”が置かれていました。
最大のミッションは・・・より確実な暦、カレンダーを作ることでした。
そこで、日夜、天体観測が行われていました。
その幕府天文方の高橋至時に弟子入りします。師匠は19歳も年下でした。

深川に住んだ忠敬・・・
天体観測の基礎を学びます。
毎晩熱心に天体観測をします。
それは、年寄りの道楽ではありませんでした。

当時の幕府の最大のミッションは、暦を正確にするために地球の大きさを知ることでした。
地球の1周はどれくらい???
方法は・・・
「緯度1度の距離×360=地球の大きさ」
でした。
これを使って・・・緯度0.025度は約2q半ということを突き止めました。
地球の外周は、35,200qとなりました。

しかし、師匠は・・・
「幕府の許可なく地形を測ってはいけません
 短い距離だと誤差が生じるので、せめて江戸から蝦夷地くらいの距離が必要です。」
と。。。

当時は、幕府は人々の自由な移動を禁じていました。
そこで忠敬は・・・蝦夷地の地図を作ることになりました。


これを、時代も後押しします。
このころ、蝦夷地には、ロシアが南下してきていました。
通商を求め、幕府に圧力をかけていたのです。
でも、幕府は蝦夷地のことを全く知りません・・・。
そこで、蝦夷地を正確に知るために・・・幕府は忠敬に蝦夷地測量を許可しました。


しかし・・・当時の忠敬は50歳を過ぎた老人・・・。
幕府としてはあまり期待をしていなかったようです。
幕府から頂いたお金は、出費の2割ほど。そのほとんどを自腹で蝦夷地測量に臨みます。
1800年4月19日江戸を出発します。忠敬は56歳でした。


遥か蝦夷地まで、一定の歩幅で歩き測量する・・・
1日平均40キロのペースです。
測量日記・・・そこには過酷な測量が書かれています。

往復3200q・180日間に及ぶ、過酷な旅でした。
江戸に帰り・・・長い時間をかけて地球の大きさを計算します。
緯度1度の差は、およそ111q。111×360度=39960q・・・ほぼ4万qとなります。

至時がオランダの書物と照らし合わせたところ・・・
数値はデータとほぼ一致したのです。
現在の最新のデータと比べても、1000分の1の誤差なのです。驚異的です。
そして、幕府の期待通りに蝦夷地の地図を作り上げました。
感心した幕府は、他の地域も地図にするように命令します。


当時・・・江戸時代の天文学とは・・・???
東アジアにとっては、天文学が大変重要で。
日本が暦を作れないとなると・・・
「中国の暦をもらうしかない」のです。
東アジアは中国が属国に年号と国を与えていました。
つまり、それは日本が朝貢国に転落するということなのです。

天皇が時を管理しなければいけないのに、それを代わりに幕府がやっていたのですが、それは幕府の正当性を主張し、日本を日本たらしめる・・・日本を独立たらしめることになるのでした。


幕府は、忠敬に東日本の地図作りを命じます。忠敬は3年間東日本を測量します。
そして地図を完成。
江戸城で、第11代将軍徳川家茂に披露されます。
そこには江戸湾周辺・伊豆半島・佐渡が島まで精密に描かれていました。
忠敬は、幕臣に取り立てられます。

これ以後、伊能測量は、幕府直轄の事業となって、西日本の測量が始まりました。
各地にいろいろな資料も残っています。
各地の人々がたくさん参加してくれたようです。

西日本の測量は、のべ12年間、3万キロにも及び、150の藩が協力しました。
個人で始めた伊能図の制作江戸後期最大の国家プロジェクトとなったのでした。
最後には大名行列もびっくりに人数になったようです。

では、どうして幕府は地図の制作を後押ししたのでしょうか???
そこには、幕府を立て直すための情報収集がありました。
測量時期と同じく、江戸幕府も日本の地理に様々な調査・情報収集を行っていました。
全国の街道を調査もしています。
宿場町も詳細に書かれ、逐一調べていました。

それは、伊能忠敬も同じ。
石高・家人・人口・・・を調べています。
幕府は自らの手で調査し、掌握しようとしていたようです。

国内ではコメ不足による物価上昇、打ちこわしが相次ぎました。
対外的には、ロシアだけでなくイギリスもやってきて、幕藩体制が揺らぎ始めていました。
内憂外患の中で・・・日本全体を測量しなおし掌握しようとしたのです。

一つの国・・・という国家意識も出来てきたのかもしれません。
外国対日本という観点が出てきたのです。


測量がすべて終了したとき、忠敬は72歳になっていました。
全行程の測量日程は、3727日、踏破した距離は4万キロ・・・
地球の大きさとほぼ同じになっていました。
1816年各地の地図を合わせ、日本地図をつなぎ合わせようとしますが、その直前に亡くなります。
享年74歳でした。

その後弟子たちは、忠敬の死を公表しないまま、地図の制作に励みます。 
「この地図は、伊能忠敬先生が作ったもの」としたかったからです。
1821年7月10日。大日本沿海與地全図が幕府に献上されました。
国家機密として厳重に保管されました。

幕末、ペリーもその正確さに驚いたと言います。

忠敬は晩年・・・「日本国中測量したことは、天命でした」と言っています。

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攻めてくるどの国よりもすばらしい地図を持っている。。。
日本は侍が多くて占領できない、貿易相手国にするのが得策だ・・・
日本を尊敬させた地図かも知れません。

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posted by ちゃーちゃん at 17:31| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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