2012年10月10日

戦国武将・決戦のとき A  桶狭間の戦い「信長・27歳の一大挑戦」

1560年5月19日 桶狭間の戦い
この戦いの主人公は・・・
東海一の弓取りとうたわれた戦国武将であり大大名・今川義元。
もう一人は織田信長、尾張一国もまとめられない小大名にすぎませんでした。

今川軍4万5千に対し、信長軍2千・・・。
しかし、圧倒的な奇跡の完全勝利で信長が勝利します。
どうして勝利できたのでしょうか???


桶狭間には二人の像が立っています。


1560年5月13日、今川軍は、4万5千を尾張に向けて進軍していました。
対する信長軍は2千・・・。
そこには、伝説のう回奇襲作戦がありました。


桶狭間の戦いは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」で知られていました。
これをもとに、明治時代陸軍参謀本部によって編纂されました。
これによると・・・
今川義元が天下統一のために・・・将軍謁見のために進軍していたとあります。
主戦場となった場所は、田楽狭間。
激しい風雨の中、う回奇襲作戦で信長が勝利したとされていますが・・・


信長の家臣、太田牛一の「信長公記」によると・・・
う回奇襲作戦とは矛盾する点がいくつかあります。

@今川本陣の場所
御敵今川義元は、4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息をひそめてこれあり
田楽狭間という低地ではなく、「おけはざま」という山の上だというのです。
つまり、“桶狭間”という谷底に攻め入ることは出来ないのです。

A信長の進軍方法
脇は深田の足入れ 一騎打ちの道なり
無勢の様体 敵方より定かに相見え候
勿体無きの由
つまり、狭い一本道を進軍する信長軍は、敵から丸見えだったというのです。

新しい定説によると、う回奇襲説が成り立たなくなっています。


「信長記」は、歴史小説のようなもので、「信長公記」を脚色したものだということ・・・
陸軍がこの勝利が信じられなかったということと、「小さい日本が敵に勝つには奇襲」だということ・・・
それが、重なって、学校で教えられるようになってしまったというのです。
では“う回奇襲でないなら・・・何?”なんでしょうか?

“桶狭間”は誤解の多い合戦で・・・
どうして今川義元が出てきたのか?
戦国大名は、上洛して天下を取るというのが当たり前のように思われていますが・・・
上洛ではないとすれば・・・?

今川が出てきたのではなく・・・信長の領土回復戦争であるということ。
信長が仕掛けたのです。

遡ること7年前、大高城などが、今川のモノになります。それは、信長の家臣が寝返ったためでした。
それに対抗するために砦を作ります。
1560年5月17日、義元が大軍を率いて進軍してきました。
それは大高城の砦×2を武装解除するためでした。


5月18日信長方で軍議が開かれました。
清州城に情報が集められます。
今川軍が攻めてくる・・・
なのに、信長は何もせず。

翌日、今川軍の攻撃が始まりました。
信長は、「敦盛」を踊っています。

午前8時には、砦は陥落。
ようやく信長は前線の善照寺砦に到着。

その時・・・

「御敵今川義元は4万5千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」

という情報が入ります。

これを聞いた信長は、一本道を丸見え・・・命を捨てに行くかの行軍を開始します。
おけはざまに必死に行軍する信長を、家臣たちは必死に止めます。
それも聞かずに行軍!!

「勝も負けるも天が決める!!」

信長は、進軍を続け・・・
敵から丸見えの中、正面突破を図りました。

もし、正面突破だとしても、そこに義元がいるとどうして知りえたのでしょう???
そこにはまだまだ謎がたくさんあります。

では、信長は何を考えていたのでしょう?
いわゆるカウンター攻撃だったようです。
今川軍が攻撃してくるのを待っていたのです。
鷲津砦・丸根砦は捨て石にする!!

そのあと疲れている義元軍を叩く!!というのが作戦でした。

信長は、義元の首を取るつもりだったのかは不明ですが・・・
結果的にそうなったということは確かでした。

27歳信長の、型破りな発想は・・・
故郷・尾張の莫大な経済力にありました。

1534年勝幡城で生まれました。
津島湊は東国と西国の中間に位置し、物流の拠点でした。
当時は関所がたくさんあって、物流を阻んでいました。
そこで、信長の父・信秀は、港・・・海運ルートに目をつけます。

戦国時代といえば、殺伐とした時代と思いがちですが・・・
戦国時代は高度成長期で、お金があれば何でもできる時代だったようです。


関税などで莫大な利益を得。。。
伊勢外宮 仮設造営費・700貫文、皇居修理費・4000貫文、寄付しています。

のちの楽市楽座につながります。
そして信長は、人々の安全・自由、利益を保護する代わりに、莫大な献金を受けていたといわれています。

その一方で・・・「大うつけ」と言われていました。
しかし、その非凡さを斉藤道三も認めています。

信長軍は・・・三間半(6.3m)の槍を持ち、訓練された兵を指揮できる・・・近代的な軍隊でした。きわめて統率のとれた軍・・・それが、最強の証でした。

今川軍は土地に縛られた農民兵、しかし、信長軍は土豪の次男・三男を集め、お金で雇い常備軍としていたのです。のちの兵農分離を始めていたのです。

まだまだ城下町が形成されていなかった時代・・・
清州城下には、多くの武家屋敷が並んでいたようです。
その人々が、桶狭間の戦いで活躍したのです。

侍が侍として生き、侍が主人となる世界・・・信長は、そのトップは自分であるという武士の考え方を・・・侍の時代を作った人だったのです。

信長は、血縁・地縁・宗教縁を断ち切ったので、日本では宗教戦争がない世の中になっていくのです。

天才とは時代の通念にとらわれないこと・・・その天才が信長だったのです。


桶狭間の戦いにはもう一つ、秘密がありました。
今川軍は、鷲津砦・丸根砦を落としたことに大変満足したと言います。
そこには、旧体制・・・義元の“戦争目的”である少ずづつ国を広げていく・・・そして恩賞を与える。。。
当時の武士たちの恩賞は土地でした。
地点の占領奪取です。
家来たちも首の奪取。
その恩賞の証としての“首”は、取って、持って次の戦いに参加していました。

しかし、信長の戦争目的は・・・

「分捕をなすべからず
    打捨たるべし!!」

首を取らずにすぐまた次の敵と戦えということでした。


少ない軍勢で、効率よく攻撃する!!
義元ひとりの首を狙うために!!

敵戦力の無力化奪取です。

そして・・・
「軍に勝ちぬれば 此場へ乗ったる者は家の面目
  末代の高名たるべし  只励むべし」

この戦は、全ての兵の名誉であり、語り継がれることだろうと鼓舞したのです。

義元に一番槍を突きつけたのは、服部小平太、首を取った毛利新介も、地侍の次男坊。

IY_HK[1].jpg

若者たちは“名誉”のために戦ったのが・・・桶狭間の戦いでした。

戦争はアートに似ている。。。
人には解らない・・・信長にしか解らない戦いでした。

信長の“求心力”・・・
戦争を起こして自分が勝つ、自分が頂点に立った国を作る!!
というのがはっきり見えていました。


この“桶狭間”と同じ物語・・・
それが明智光秀・・・。


「天下布武」を掲げて走り出した信長。
しかし、“天下統一”は、結果論でしかありません。
朝廷や幕府が弱体化し・・・
地方分権の進んだ時代でした。
農民たちが力を持ち、“加賀の一向一揆”などがありました。
武士は、自治的な民衆の動きとタイアップし、うまく国を治めようとしていました。

しかし、信長は・・・
その流れに抗うように、天下統一を進めます。
楽市楽座・関所の撤廃・街道整備・・・中央集権的な政策を推し進めます。

しかし・・・それは、多くの犠牲を払いました。
延暦寺の焼き討ち・長島一向一揆制圧・・・

天下統一に命を懸ける・・・
“桶狭間”で独裁者・信長が幕を開け、独裁者らしく暗殺されて終わるのです。

天下統一の道半ばで命を失ってしまう信長・・・

権威の世界を武威の世界に変えた信長でした。

もう一つの桶狭間―偉大なる従軍記者が語る織田信長の戦略と行動
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二つの桶狭間の合戦 武田信虎と織田信長
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posted by ちゃーちゃん at 08:11| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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