特別展「よみがえる軍艦〜エルトゥールル号の記憶」をしています。
和歌山の歴史なので、観てきました。
1889年7月14日、エルトゥールル号は、イスタンブルを出港。
11ヶ月をかけて翌1890年6月7日にようやく日本に到着しました。
横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けたのです。
その時に、陛下からいただいた菊の紋章入り陶器も展示されています。
エルトゥールル号は出港以来蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達して。。。
おまけに、多くの乗員がコレラに見舞われたため9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけました。
このような状況から遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が、台風の時期をやり過ごすように勧告したのですが、トルコ側はその制止を振り切って帰路に。。。
遭難事件はその帰途に起こりました。
9月16日22時ごろに、台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没しました。
これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となったのです。
しかし、地元住民の献身的な救助活動によって、69名が救出され生還することができました。
悲劇の遭難事故ではありましたが、この出来事は、日本とトルコとで広く語り継がれ両国の絆の象徴とされています。
例えば・・・
イラン・イラク戦争開戦時に。。。
当時、イラクはイラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行いました。
各国は期限までにイラン在住の国民を軍用機や旅客機で救出したものの、アメリカなどが優先され、ドイツ人や日本人は残されていました。
おまけに日本は、自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機による救援が出来なかったうえ、日本航空はイランとイラクによる航行安全の保証がされない限り臨時便は出さないとしたのです。
在イラン邦人は危機的状況に陥りました。
野村豊イラン駐在大使がトルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ・・・
ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」
と答え、大使の要請を受けて派遣されたトルコ航空機によって215名の日本人全員が救出され、トルコ経由で無事に帰国できたという美談もあります。
2008年より、エルトゥールル号遭難海域の水中で、発掘調査が行われました。
![photo1[1].jpg](https://chachacha-mama.up.seesaa.net/image/photo15B15D-thumbnail2.jpg)
特別展では120年もの時を経て引き揚げられた遺物を展示するとともに、発掘調査・脱塩処理・保存処理・復元・写真記録・遺物の研究など、水中考古学を取り巻く様々な活動も紹介してくれていました。
本当に、日本のニュースは今、反日!反日!という世界の情報がたくさんにぎやかに踊っています。
でも、親日国もたくさんあるわけで・・・

そんなニュースもいろいろ聞きたいなあ・・・
なんて、思ってしまいました。

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