2012年08月28日

小倉の城下町

今回は、福岡県北九州にある小倉の城下町です。
小倉城の城下町には、どんな不思議と秘密があるのでしょうか?

小倉のお殿様は、織田信長と徳川家康を曾祖父にもつ天下人の曾孫でした。
海賊を従えた殿様の城下町繁栄策はどんなものだったのでしょうか?


そして、宮本武蔵もう一つの顔とは???

今回もたくさんの秘密がありそうです。

福岡県北九州市は、人口97万2713人、面積488.78㎢、特産はふぐ・カキ・焼うどん。
小倉は、本州と九州の間の関門海峡に位置し、古来より、陸海の交通、軍事の要所として歴史上、幾度も戦いの舞台となってきました。

小倉城の初代藩主は、細川忠興。
関ヶ原の戦いののち、慶長7年に築城を開始し、城下町の基礎を築きました。
その細川氏が熊本に移封されたのちに藩主となったのが、譜代大名・小笠原忠真です。



幕府の信頼の厚かった忠真は、外様大名(福岡藩・黒田長政/佐賀藩・鍋島直茂/熊本藩・細川忠興/薩摩藩・島津忠恒)を監視するという九州探題の役目を負っていました。
それから10代232年にわたって小倉をおさめ、城下町を発展させた小笠原氏・・・
その小笠原氏ゆかりの城下町です。


小倉城は・・・
関ヶ原の戦いで幕府の信頼の厚かった細川忠興が1602年に築城しました。
唐造りの天守です。
当時としては、奇抜で斬新でしたが、これをモデルに全国に城ができました。


しかし、実際は、その後230年に及んで統治したのは小笠原氏。
中でも、小倉小笠原藩初代藩主・小笠原忠真は、小倉の繁栄に欠かせない人物です。

おじいさんは松平信康。
忠真は、19歳で信濃国松本藩七万石を拝領し、その後、播磨国明石藩十万石・・・めきめきと、頭角を現しました。

そして、九州の最重要地である豊前国小倉藩十五万石を治めることになりました。
当時の九州は、優秀な外様大名がひしめき合い、幕府に牙をむかんとも限らない火薬庫でした。

その地を九州探題として治めたのです。
その後ろには・・・もう一人の曾祖父・織田信長がいたのかもしれません。

家康の知恵と信長の革命精神をもって・・・そして、独自のアイデアをもって、小倉を治めました。

紫川の常盤橋・・・
そこは、九州の主要五街道の拠点となりました。
九州のほとんどの大名が、参勤交代の折にこの橋を渡りました。

さらに海上交通の起点として、九州の玄関だったのです。
そして、この紫川には小笠原公の船、50隻が・・・
大型船が常時停泊し、九州の大名たちを圧倒するのに十分な光景でした。
これが、幕府公認の小笠原水軍です。
当時は最強とうたわれ、その勢力は、関門海峡から瀬戸内まで・・・広く及びました。
参勤交代にも使われたそうです。
当時は軍用となる船は、所有することはもちろん、製造することもご禁制とされてきました。そんな中で、忠真は、1500石の当時最大級の軍用船を所有し、最高級の海の猛者たちが操りました。


塩飽水軍とは、古くは瀬戸内海で一大勢力となっていた海賊の末裔です。
塩飽諸島の海で馴らし、源平合戦の壇ノ浦の戦いでも活躍したといわれています。
戦国時代、この塩飽水軍に目をつけたのが織田信長でした。
天下取りを狙う信長の、大切な鉄砲を輸送する仕事を一手に引き受けました。
その航海術は、たいへん優れていました。

歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫) [文庫] / 高野 澄 (著); 祥伝社 (刊)
歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫) [文庫] / 高野 澄 (著); 祥伝社 (刊)


最強水軍は、戦のためだけではなく、巧みな航海術を身に着けて朝鮮貿易に着手。国内のみならず海外と、商船貿易を積極的に進め、小倉を反映させていきました。
国を強くするのは、兵力ではなく経済。。。時代を見据える忠真の先見の明でした。


城下町では・・・

ぬか味噌炊き(陣立煮)は、小倉のおふくろの味です。
命名したのは忠真で、「戦の時に陣を張ると差し入れられたから陣立煮だそうです。
差し入れしてもらえるほど親しまれていた殿様だということです。


小笠原といえば、礼儀作法の小笠原流・・・小笠原家は、小笠原流礼法の開祖です。
小倉城庭園は、そんな、小笠原下屋敷跡地に建てられました。

小笠原流礼法・・・
江戸時代、全国の武家作法の基本となった礼法です。
年中行事から橋の下げおろしまで、武士の“ふるまい”を体系化したものです。
美しくふるまうことによって、相手を思いやり気を遣うことが基本です。
日本のルーツがここにありました。

現代の私たちの生活にもその名残があります。
箸の持ち方について・・・
「あれこれと 思い定めず うろつくを
   まどいの箸と 嫌うものなり」
“迷い橋は不作法”としています。
他にも、差し箸、立箸、拾い箸、涙箸は相手を不快にさせるので、不作法です。

水引も、もともと小笠原流が発祥です。

他にも、刀が当たらないように“左側通行の作法”。それも、小笠原流です。
車が左側通行なのも、その影響とも言われています。

「小笠原流」はじめての礼法 [ 前田紀美子 ]
「小笠原流」はじめての礼法 [ 前田紀美子 ]

小倉の伝統文化・・・小倉織。

もともとは、武士の袴でした。
これは、忠真が信州から伝えたといわれています。
独特の縦じまは、2000本にも及ぶ経糸から作られています。
最大の特徴は、その頑丈さ。
槍で刺されてもかすり傷一つ負わなかったといわれています。
使えば使うほど滑らかになる・・・武士たちが愛した伝統工芸です。


小倉といえば、剣豪・宮本武蔵。
江戸時代に活躍した、二天一流の開祖です。
武蔵といえば、巌流島での佐々木小次郎との決闘ですが・・・

手向山公園は、宮本武蔵顕彰碑が建っています。
これには、宮本武蔵が実在の人物だということが書かれています。
7年間、小倉で過ごしたこともあるのですが、その武蔵の弟子であり養子・宮本伊織は、小笠原忠真の家老でした。
そして・・・
巌流島の決闘も、ここで行われていました。


巌流島・・・
古くは、舟島と呼ばれた旧小倉藩領の島です。
決闘に負けた佐々木小次郎の号“巌流”が島の名前となりました。

巌流島の決闘。
1612年4月13日。
関門海峡に浮かぶ小島で、会い見えた二人の剣豪・・・
天才剣士・佐々木小次郎18歳、対するは無敗の剣豪・宮本武蔵29歳。
剣の天才同士、その勝負は一瞬でした。

勝負に遅れてきた武蔵に対し、しびれを切らした自慢の長刀を振り下ろす・・・
武蔵、それをかいくぐり、木刀を一閃。
小次郎の眉間をとらえ、勝負あり!!

佐々木小次郎―出自・つばめ返し・巌流島の真実 [単行本] / 川口 素生 (著); アーツアンドクラフツ (刊)
佐々木小次郎―出自・つばめ返し・巌流島の真実 [単行本] / 川口 素生 (著); アーツアン...

今に語り伝えられる巌流島の決闘には、たくさんの疑問があります。
なぜ、決闘に遅れたのか???
一般的には、2時間遅れてきたといわれていますが、実は遅れてきてはいませんでした。
それは、小倉碑文にもあります。
「両雄同時相会」と。
小次郎と同じ時間に来て戦ったというのです。

五輪書 [ 宮本武蔵 ]
五輪書 [ 宮本武蔵 ]

一方、武蔵が書いたといわれている五輪書には・・・
この決闘の記述が一言も書かれていません。
戦いに勝ったにもかかわらず、口をつぐんだ武蔵。
その理由は。。。

実は、武蔵には、剣豪以外に裏の顔があったといわれています。
諸国を行脚し、60以上の決闘をしたといわれる武蔵・・・
それは、ただの剣術修行ではなく、地方の情報を探る隠密ではなかったか?というのです。

宮本武蔵は、名君小笠原忠真の「隠密」だった [単行本] / 濱田 昭生 (著); 東洋出版 (刊)
宮本武蔵は、名君小笠原忠真の「隠密」だった [単行本] / 濱田 昭生 (著); 東洋出版 (刊)

武蔵は、その生涯において・・・
譜代大名の水野勝成、本田忠政、小笠原忠真・・・徳川家に近しい譜代大名につかえていました。
しかし、巌流島の決闘ののちは、なぜか外様大名の細川忠興に仕えています。
それが、巌流島の決闘の最大の目的だったのかもしれません。

つまり、細川家の剣術指南役だった小次郎を倒し、自分が細川家に入るために・・・
巌流島の戦いが、武蔵の隠密作戦だったとすれば、五輪書に書けなかったのかもしれません。

いろいろな説がありますが、いつまでも人々を魅了する・・・それは、武蔵の魅力なのです。


郷土料理は・・・
関門海峡たこの“たこしゃぶ”です。
他にも、フグ刺しのような“タコ刺し・タコの薄造り”。


伝統文化には・・・
江戸時代初期に始まった小倉祇園太鼓。
無病息災を願うとともに、城下町繁栄のひとつとして行われました。

名君が反映させた九州の要・小倉。
そこは今でも、人々に息づく武家文化や、賑しくも奥ゆかしい城下町でした。


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posted by ちゃーちゃん at 15:51| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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