2012年08月16日

鎌倉ミステリー・北条一族の陰謀〜史上最大のNo,2〜つづき。

昨日の続きです。黒ハート

北条一族最大の危機は・・・
北条VS朝廷の”承久の乱”です。

これは、3代将軍・実朝を巡る朝廷との微妙な関係が始まりでした。

実朝は、和歌などに明るく、朝廷と友好関係を結ぼうとしたのです。
この時、権勢をふるっていたのが、後鳥羽上皇でした。
武闘派で知られる上皇で、朝廷の権威を高めようと思っており、公武に君臨する絶対の存在として、武家を調教しようと考えていました。

後鳥羽上皇は、実朝を手なづけようとして、右大臣の地位を与えます。
しかし、その実朝が、1219年に暗殺されてしまいました。

実朝を暗殺したのは、2代将軍の息子・公暁。
その公暁も、何者かによって暗殺されてしまいます。
この事件で、源氏将軍家が断絶してしまいました。
幕府の大問題となってしまいます。

幕府と朝廷、どちらにも混乱を招いたこの事件・・・
将軍を失った幕府・北条義時は、朝廷に使者を送ります。

「後鳥羽上皇の子供(親王)を将軍に迎えたい」

しかし、後鳥羽上皇からは条件が・・・

守護・地頭の廃止。
この守護・地頭、はじめは平氏の残党処理のために、臨時に置かれていました。
しかし、領主の地位を脅かし、年貢にまで口出しするようになっていました。
その結果、朝廷に入る年貢が激減していたのです。

後鳥羽上皇は、朝廷領の地頭罷免の院宣を発します。

これを飲めば・・・どんどんエスカレートして、幕府存続の危機になるかもしれません。
・・・やんわりと拒否をします。
「頼朝公が、平氏騒乱の恩賞として任命された地頭には、何の罪もごさいません。
 解任せよとの命令に、従うことは私にはできません。」

絶対命令の院宣に刃向った義時。
後鳥羽上皇の怒りは、絶頂に!!

1221年5月15日、義時追討の院宣発令。
「義時は、思うままに政務を執り、権勢をふるい、まるで天皇の権威を忘れたかのようである。
 これはもはや、謀反というべき暴挙だ。」

後白河は、一枚岩ではない幕府の内部分裂を狙います。
     ⇓
承久の乱勃発!!!

この承久の乱、日本史上稀に見る事件です。
朝廷に弓を引くのは、後にも先にもこれだけなのです。

武闘派の後鳥羽上皇でなければ、承久の乱は起こっていなかったかもしれません。
文武両道の後鳥羽上皇は、幕府の解体を狙っていたのです。
だって、将軍が居なければ、幕府なんて存在そのものがないのだから・・・


こんな場合、普通なら幕府は滅びてしまいます。
もちろんNoと言った義時は、恐れ多いと思っていて・・・
でも、東国で生まれ育ったせいか、王権が解っておらず、西よりはありがたみが薄かったのも事実です。

この武士と朝廷との関係は、平清盛が政権を取ろうとしてから始まった物語です。

元々武士は、開拓農民でした。
なのに、所有権が認められない!!
なぜ、自分の土地なのに権利が認められないのか???

頼朝は、所領の安堵・土地の権利を認めていました。
ここに、一所懸命・本当の御家人の本質があるのです。
「原始状態はまっぴらだ!!」

しかし、朝廷・神社仏閣にしてみれば、「武士は朝廷の番犬だ!」「牛車がわり」文句を言うことに納得できなかったのです。

当時、鎌倉幕府は全国を制覇しているわけではなく、その支配地は1/5ほどでした。
守護・地頭を増やして武士の権益を広げたいと思っていました。

そして朝廷は取り上げたいと・・・。

義時は、たくさんの御家人の手前、Noと言わざるをえなかったのかもしれません。
背水の陣に見えた義時・・・

朝廷に反旗を翻し、日本史上始まって以来の内乱。。。
大逆転できたのには、政子の演説があったのかもしれません。

吾妻鏡には・・・

「みな、心を一つにして承るべし。
 これ最後の言葉なり。
 なき頼朝公が鎌倉を作りあげてこの方、与えられた冠位や俸禄など、
 頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い。
 しかし今、偽りの讒言により、朝廷は非義の綸旨を下された。
 名を惜しむものは、院の逆臣を討つべきである!」

と。。。言い放ちました。

本当は、朝廷は義時だけを追放したかったのですが、政子は「義時追討ではなく鎌倉追討」にすり替えたのでした。
朝廷に対し、頼朝の名を出すことで、御家人たちを奮い立たせました。

朝廷は、神話の時代から続く絶対的なもの・・・。
幕府は武士を守ろうとしている!!
”義時を守ることは、自分たちを守ること”と、変化していきました。

自分達が守るべきものは何か?自覚できた御家人たち。
義時、わずか18機で鎌倉を出発。
そこに東国武士団が次々に合流し・・・ついには19万の大軍となりました。
この19万は、マユツバものかもしれません。
でも、政子の起死回生の大演説が、御家人を一つにしたのは間違いありません。

また、朝廷の中にも反後鳥羽派がいました。
西園寺公経は、幕府派として活躍しています。

義時にとって、朝廷を相手に戦うという恐怖・・・
しかし、圧倒的な勢力に勝る幕府軍は、6月15日、京都に侵攻します。
わずか1か月で幕を閉じました。

戦いに敗れた後鳥羽上皇は、京をはるか離れ、壱岐に配流となりました。
北条は、戦いで犠牲になった人を弔うため鎮魂の寺院を建立します。

この承久の乱は、虐げられてきた武士が、朝廷に刃向った類を見ない戦いでした。
たとえ神聖な権威であっても立ち向かっていった北条一族が、後の戦国・江戸の武士の礎となったのです。

退くということは滅亡するということ・・・
究極の選択でしたが、この後、武士の時代が始まるのです。

この承久の乱の位置づけは・・・
日本の特殊な成り立ちを作った戦いとも言えます。

王権と地方の軍事政権が統治機関となること・・・。
流刑地(東国)のそばに都が出来る・・・
これは、世界に類を見ない状態です。

ここにきて初めて東と西が互角に戦う時代が始まったのです。


承久の乱で地位を確固たるものとした北条一族。
御成敗式目を制定します。
これは、御家人の土地所有権を規定し、紛争解決のルールを示したもので、日本初の武家の法典です。

第7条には・・・
「源氏3代将軍と、北条政子が与えた御家人の所領の権利を保障する」とあり、これは江戸時代まで受け継がれることになります。

しかし、そんな北条一族にも繁栄の歴史に終焉が・・・
きっかけは、2度の蒙古襲来。

日本の膳武力を以て戦わなければ!!!
第8代執権・北条時宗が、強固な中央集権をひきます。
武士・神社仏閣も一丸となって戦います。
日本国としての戦いでした。

蒙古を撃退!!


しかし、外国との戦いのために、恩賞となる土地を与えることが出来ません。
そして、北条一族の中央集権体制だけが残ってしまいました。

御家人たちの反感が募り・・・そのことが北条一族を滅亡へと向かわせます。

1333年5月22日、北条高時700人あまりの家臣とともに切腹。
後醍醐天皇の命を受けた新田義貞の軍が鎌倉に攻め込んだのです。

No,2だった北条一族・・・
No,1となり、策を考えなくなってしまった時・・・
実質的に権力を持ってしまった時に、孤立が始まりました。

No,2がNo,1になってはいけないのかもしれません。
そう、日本には、No,2は絶対必要です。

北条一族は政治家としても優秀な一族で、根回しや、根回しや、根回しや、謀・・・
困難極まりない時代の政治家でした。


それから700年。
鎌倉では、北条高時の命日には、法要が行われています。
北条氏の生き様は、鎌倉で受け継がれています。


NHK大河ドラマ 総集編 北条時宗
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北条時宗とその時代/工藤敬一
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posted by ちゃーちゃん at 10:58| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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