2012年08月08日

開国に命を懸けた老中首座〜堀田正睦〜

ペリー来航で、260年に渡る太平の世から目を覚まされ、開国した日本。

井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結び、徳川の時代が軋みはじめました。。。

従来の開国の歴史はこうして始まります。

しかしペリー来航は1853年、日米修好通商条約は1858年。。。
その間に空白の5年があります。
この5年の間に一体何があったのでしょうか?

阿部正弘とペリーの日米和親条約、大老・井伊直弼とハリスの日米修好通商条約。。。
しかし、日本がこの時期に開国できたのは、もう一人の埋もれた宰相がいたからでした。

13代将軍家定の老中首座・堀田正睦です。

うつけと言われた家定を支えた堀田正睦。
昼行燈と呼ばれていましたが、本当は日本の将来を案ずる開国派で、
清国の様に海外列強の食い物にされないためには開国しかない!!と、思っていました。

その堀田の前の、三つの大きな壁が立ちはだかります。

@堀田を老中首座に据えた開国に否定的な阿部正弘

A条約交渉の相手・アメリカ行使タウンゼント・ハリス。
 商人上がりのハリスは、開国のみならず自らの利益に執着する男でした。

B最大の壁は、御三家・水戸の徳川斉昭でした。
 斉昭は、攘夷派として怖れられていました。

このままでは、アメリカとの条約交渉は進まない・・・
そこで、堀田は江戸幕府始まって以来の奇策に打って出ます。

京都御所の天皇の勅許を手に入れることで、反対派に有無を言わせないようにしようと考えたのです。
中央突破を図ります。

では、どうして堀田が老中首座となったのでしょうか?
当時堀田は、蘭癖大名と揶揄されるほどの西洋かぶれ、知識人でした。
今の順天堂・・・佐倉順天堂は、堀田の招きを受けた蘭医・佐藤泰然が1843年に開いた蘭医学の塾です。
そんな蘭学を、保護して、繋がりがあり発展に尽くした人でした。

当時の人々の常識としては・・・
開国=貿易=商売は、朱子学では卑しいものとされていたので、受け入れられにくかったのです。
「武士たるものが、卑しい商売とは・・・」
どうして開国の必要があるのか?という考え方でした。

1853年6月3日浦賀沖が一変します。
4隻の巨大な黒い船が・・・
ペリー率いる艦隊・黒船の来航です。
この4隻は、73門の大砲が臨戦態勢を取りながら投了します。
空砲を撃つと、江戸が大混乱となりました。

"太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず"

相対するときの将軍は12代家慶。
しかし、間もなく死去。あとを継いだのは、4男うつけものの家定でした。
その家定を支えるのは、超エリートの阿部正弘。
阿部は、ペリー来航に対し、御三家・水戸斉昭を幕閣に迎え、難局を乗り切ろうとしましたが、斉昭は評判とは違い、”烈公”として、誰とでも対立して期待はずれでした。

そんな中、阿部はしぶしぶ日米和親条約を締結。英・ロとも調印させられます。
おまけに斉昭は、意にそぐわない老中2人の罷免を強要します。

この難局に能力のある者を!!
白羽の矢が立ったのが、佐倉藩主堀田正睦でした。
安政の大地震のどさくさの中、堀田に登城の連絡が来ます。

「老中首座に!!」

阿部が堀田を老中首座にしたのは、実務能力にたけていたからです。
だから、老中筆頭に置いたものの、権力を渡す気など毛頭ありませんでした。
西洋の事情をよく知っている堀田をとりあえず風よけにし、自分が幕閣を仕切るつもりだったのです。

そして、その知らせは堀田にとっても青天の霹靂でした。

「西洋諸国は、次は交易を求めてやってくる!!
 その時我が国は、清国の様に戦うのか?
 戦いに敗れて言われるままに賠償金を支払い、領土までとられるのか!!
 それだけは絶対に避けなくては!!」
堀田は、アヘン戦争を知っていたのです。

攘夷鎖国のエリート老中・阿部正弘 VS 開国論者の実務派・堀田正睦

の始まりでした。

阿部は、現状を変えるのが嫌でした。
今まで何の支障もないのに、変える必要があるのか???
あえて、改革する必要があるのか???

日本=清らかな国。
外国人=肉を食らい、血のような酒を飲む。。。
今まで上手くいっていたのに、なぜ変える必要があるのか?と、危機感のないものでした。


そして、アメリカからは、嵐を巻き起こす男がやってきました。
アメリカ行使・タウンゼント・ハリス

1854年阿部が締結した日米和親条約には・・・
アメリカの文には、どちらかの国が望めば外交官を置ける。。。と。
日本の文には、双方の国が望めば。。。となっていました。

だから、日本側にとってハリスが来たことは、青天の霹靂だったのです。

そして、堀田が開国するには数々の高い壁がありました。
今と同じで幕府も官僚社会、思いのままになるわけではなく、役人にもそれぞれの管轄があり、それ以外のことには口出しできませんでした。

諸外国の通商条約は、海防掛の担当・・・
当時は外交掛は、交易反対を取っていました。
トップは宿敵・阿部正弘。
頑なに通商を避け、鎖国を保とうとします。

こんなことをしていては、清国のようになってしまう!!
海防掛に自分の考えを浸透させ、一気に通商にもっていこうとします。
しかし海防掛は、やはり阿部の息のかかったものばかりでどうしようもなりません。

そこで、外圧を利用しようとします。
ハリスです。
しかし、ハリスも一筋縄ではいきません。
自分の利にならないことははぐらかし、通常の3倍の貨幣の交換レートをねじ込ませようとしていました。

対応した下田奉行は・・・
「憤怒募らせ候。
 趣意も通りかね候に付き
 対話相止め申し候。」
興奮して怒り狂ったと言います。

こんな強気の態度に出ることが出来たのは、もちろんバックにアメリカの艦隊がいたからです。
そして、そんなに本を英・ロも狙っていました。


しかし、反目し合っていた阿部は、病で幕閣を去ります。
阿部に代わり、ついに堀田正睦がNo,2となったのです。
自分の思うように歴史を動かし始めます。

1856年10月21日ハリスは江戸城に登城し、家定に謁見します。

堀田はハリスに手を焼きながらも条約締結に向けて歩みを進めていました。
そこに強敵・徳川斉昭が!!

条約締結については、御三家と諸大名に説明し、質疑応答し、協議を尽くさなければなりません。
その為にも、根回しは必要でした。

そんなころ、水戸ではお家騒動で斉昭が評判を落としました。
斉昭は幕府の使いに対して・・・
「備中(堀田)は腹を切らせ、ハリスは首を刎ねる!!」と、言い放ちます。

「烈公」斉昭が、条約調印に断固反対!!
これが広まったら、これまでのハリスの交渉も、諸大名への根回しも、吹っ飛んでしまう!!
頓挫してしまいます。
何かいい方法は?!

1857年1月堀田正睦は京都御所にいました。
朝廷から直々に天皇の勅許をもらうために!!

家康が徳川幕府を開いて以来、天皇の勅許は形だけのものになっていました。
事実天皇が、幕府に逆らったことは一度もありません。

理由は・・・
斉昭は、尊王攘夷を美とする水戸学の総帥・・・天皇の言葉には反対できない!!ということだったのです。
しかし、それは思わぬ方向に・・・
朝廷は、御三家・諸大名をまとめてから勅許をもらいに来いという不許可の連絡でした。

これまでの幕府は、朝廷には全て事後報告でした。
しかし、今回初めて事前に勅許だったので、政治に敏感な孝明天皇に、政治介入の野心を抱かせてしまったのです。孝明天皇は、攘夷鎖国派でした。

堀田は納得できずに粘り強く公家たちに揺さぶりをかけます。

朝廷では、天皇に決定権はない・・・
全ては、太閤・鷹司政通と関白・九条尚忠がにぎり、2人は常にケンカ争いをしていました。
今回の勅許は関白がまとめていました。

そこに絡んできたのが、将軍跡継問題です
慶喜か慶福か???
公家たちもどちらにつくか、激しい綱引きをしていました。

関白は、元々藤原氏が天皇を抑えるために作った地位なので、幕府寄り。将軍家は常に、関白の力を以てして天皇を抑えてもらっていました。
九条にたどり着いた堀田は、天皇に反目させることに成功、一度は勅許をいただけることが決まりましたが・・・
そこに下級公家の反乱が。。。
裏で糸を引いていたのは九条の政敵、太閤・鷹司でした。
権力奪取と慶喜まき返しの為、岩倉具視ら88人の公家が九条のもとに押しかけて勅許を書き換えさせます。88卿列参事件です。

勅許は一夜にして差し戻し不許可。
堀田の最善のアイデアは最悪な結果に・・・

その最大の理由は、この時代が関白と対抗・・・二大勢力時代だったことがあげられます。

勅許に失敗した堀田に、
「苦労をかける。」
と、将軍からの手紙が届きます。

「上様に信頼してもらえれば大丈夫」
と、条約締結に向けて邁進します。

次なる一手は将軍お世継ぎ問題を利用して、斉昭を味方につけること。
慶喜と慶福ですが・・・。
慶喜は実は斉昭の7男でした。
将軍職をエサに、黙らせようとします。
そこで、松平越前守慶永を将軍補佐役にしようとします。

家定は、「さようせい」・・・
とは言わずに、井伊を大老に任じてしまいました。
家定は、紀州・慶福を推していたのです。
家定、本当はうつけものではなく冷静だったようです。

そして、将軍職跡継ぎ問題に対して一度も相談がないことを理由に遠ざけるようになりました。

No,1の家定をおろそかにしていた堀田、気づいたときはすでに時遅し。。。
No,2の座から転げ落ちます。

堀田にしては、自分の行っていることが正しいから、将軍も支持してくれるだろう!と、思っていたのでした。
まさか、足元をすくわれるとは思っていませんでした。

井伊が大老となっても、堀田が老中首座を持することはありませんでした。
在任中に条約締結を!!

1858年6月15日神奈川県小柴沖・・・
日米修好通商条約は、御三家・天皇の勅許ももらえないまま、井伊の独断で締結されてしまいます。

翌日堀田は罷免。

そして、歴史書に、最も開国と向き合った、この堀田正睦の名はありません。。。


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posted by ちゃーちゃん at 15:00| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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