2012年08月03日

シリーズ世直しの夢A 武器よさらば!〜戦国を終わらせた島原の乱〜

1627年、関ヶ原から37年、時代は三代将軍家光・・・
九州で、日本史上最大の一揆が起こりました。

島原の乱です。

キリシタン弾圧に耐えかねた島原・天草地方の農民が武装決起しました。
3万7千人の一揆勢は、廃絶した城に立てこもり、幕府軍12万と対決、3か月の籠城の末、女子供に至るまで、3万7千人全員が犠牲になりました。

その陰惨な結末から、キリシタンたちの悲劇の殉教とされてきました。
しかし、最近の発掘や、古文書からは、違う姿が浮かび上がってきました。

一揆の総大将、伝説の美少年天草四郎は、なぜリーダーに選ばれたのでしょうか?
この乱の本当の目的とは???

戦国から太平の世へ、衝撃の4か月間、島原の乱の真相に迫ります。

島原の乱とは、一体どのようなものだったのでしょう?
あまりにも資料が多すぎて・・・よく解らないようです。
そこに当時の人々の、関心の強さが伺えます。

権力者が歴史を塗り替える・・・それは、世界の、いつの時代でも行われてきたことです。
そこでは、虐げられたキリシタンたちの悲劇と書かれてきました。

その、島原の乱の経緯は???
そこには、一揆勢の、強さと計画性が伺えます。
1637年10月24日、一揆の企ては、島原半島と天草諸島の中間にある小さな湯島(談合島)から始まりました。

その談合でリーダーが決定します。
総大将は、「益田四郎時貞」・・・天草四郎と呼ばれた美少年となります。

翌25日、有馬村で密かに開かれたキリシタンの集会で、取り締まりに来た代官を殺害したことから島原の乱が始まります。

村々でキリシタンの農民が一斉に蜂起、島原城を攻め城下を焼き払います。
これに呼応して、天草でも農民が蜂起、富岡城を落城寸前に追い込みます。

11月9日、一揆の知らせが江戸に届きます。
幕府は、軍司令官板倉重昌を任命し、幕府軍総勢4万人を向かわせました。

一揆勢は、それぞれ自分たちの村に戻ります。
それは、戦闘準備のためでした。
12月1日廃城となっていた原城に、3万7千人が集結、籠城に入る決意をします。

12月10日、幕府軍、正面から攻撃開始。
しかし、一揆軍は、ことごとくこれを叩きます。
幕府軍として参加した剣豪・宮本武蔵は・・・
一揆勢の投げた石で負傷し、命からがら逃げたと手紙に記しています。

焦った幕府は、1638年1月1日、総攻撃をかけます。
しかし、一揆勢は、これも撃退!!
この日の一揆勢の死者はわずか7人、それに比べて幕府側の死傷者4000人。。。
板倉も討ち死にします。

悲劇とはあまりにもかけ離れた圧倒的な強さがそこにはありました。


これまでは、20年前に廃城となった原城に追い詰められて・・・と、思われていました。
しかし、原城は、瓦葺の立派な建物で、高さ5メートルの石垣に囲まれ、海と沼に囲まれた天然の要害でした。

更なる強さの秘密は・・・
城の中の住居跡。
寒かったであろうに、暖を取ったり食事を煮炊きした痕跡がありません。
組織的な、規律正しい、統制された軍隊だったことが伺えます。

どうして統制されていたのでしょうか???
それは、農民たちに交じって、武士がいたからです。
かつて島原・天草を治めていたキリシタン大名・有馬晴信・小西行長たちです。

有馬直純は、松倉氏が藩主になる前、島原を納めていました。その家臣がたくさん残っていました。

当時、九州にいた福岡藩主・黒田氏、熊本藩主・細川氏、佐賀藩主鍋島氏、柳川藩主・立花氏は、関ケ原で西軍に参加した大大名でした。
関ケ原以後、幕府の処分で牢人となったものたち・・・この牢人こそ、強さの秘密でした。
残党たちは、技術・軍事力で農民を指導したのです。

牢人と農民が一体となり・・・普通の一揆とは違う、戦術的に優れた一揆だったのです。

幕府軍の想像を超える強さだったのです。

1588年、刀狩があったにもかかわらず、武器を持っていた農民たち・・・
丸腰ではなかったの???
最近の研究では、動物から作物を守るために、刀や鉄砲は、農具として残されていたと言われています。

そして、原城には、追い込まれたわけではなく、幕府軍から避難するためのもので、どうしようもなく殉教のための籠城ではなかったということでした。
原城は廃城というほど廃れていたわけではなく、要塞だったのです。
そして、この地域は、キリシタンが多く、身分の差がなく、運命共同体だったのです。

1月4日、新しくやってきた司令官は、老中・松平伊豆守信綱”知恵伊豆”でした。
”知恵伊豆”のもと、幕府軍総勢12万人が原城を包囲します。

しかし、無理に攻めずに、兵糧攻めにします。食料・弾薬が尽きるのを待つ作戦です。

信綱は、矢文を放ちます。
「この度のことは、幕府か領主に恨みがあってのことか?」
返された矢文には・・・
「幕府や領主に恨みはありません。
 私たちが願っているのはキリシタン信仰を
 認めていただくことだけです」

一揆の目的は、キリシタン信仰でした。

1613年にキリスト教は禁止されていました。
その結果、キリシタンたちは宗教を捨てること、棄教を強制されていたのです。
一揆の理由は、キリシタン弾圧⇒これが理由・・・

しかし、これと異なる矢文が香川県小豆島で発見されました。
そこには・・・
「今の領主が島原を治めるようになって以来、
 むごい仕打ちを受けてきました。
 全ての米を召し上げるばかりでなく、
 払えないと咎人のように縄をかけられ
 目・鼻・口から血が噴き出るほどの
 拷問を加えられます。」

この矢文によると、一揆の理由は過酷な年貢の取り立てだというのです。


原城内には、一枚岩ではなく、いろいろな考え方の人がいたということです。

乱を遡ること3年、大飢饉が続いていました。
それにもかかわらず、島原藩は、農民に重税をかけてていました。
領主の苛政に耐えかねて参加した農民もたくさんいたのです。

幕府軍総司令官松平信綱は、それを見抜いていて切り崩しにかかります。

「無理に勧められてキリシタンになったものは
 投降すれば助けよう。
 降伏して村に帰り、仕事に精を出すなら
 今年の年貢を一切免除する」

これに対して・・・

「キリシタンでないものを無理やり仲間に引き込んだことはありません。
 我々はみな、神に身命を捧げる覚悟です。」

信綱は、何度も内部分裂を画策するも、籠城戦は激しい心理戦となります。


この残された矢文については、キリシタン問題と領主の苛政・・・本物かどうかはわかりません。
幕府の体裁上、苛政の矢文は公表されなかった可能性があるのです。


では、そもそもなぜ幕府はキリシタンを禁止したのでしょうか?
世界の覇権争いのキリスト教団からの精鋭部隊・・・。
宣教師はスパイのようなものでした。
キリスト教を以て国を支配しようとしていました。

そこで、
1613年禁教令が出されます。

外国にとっては、島原が玄関となったのです。
この禁教令の最、宣教師パードレが追放されますが。。。預言書を残していました。

「25年後に天才的な少年が現れる」と。

リーダーの天草四郎は、15,6歳と言われています。
彼がリーダーとなったのには、この預言書が大きく関わっているのです。

「今から25年後に”天の使い”が現れる
 人々は首にクルスをかけるようになり、
 神はキリシタンをお救いになる」

四郎による「奇跡の噂」も後押しします。

この噂は、牢人たちが四郎をリーダーにでっち上げるための策か家もしれません。
小西牢人と、有馬牢人によって担ぎ上げられた可能性もあります。
四郎の父、益田甚兵衛は小西行長に仕えていました。
しかし・・・実際に見たという人も???


この地は、ポルトガルとの南蛮貿易を行っており、繁栄を極めていました。
キリシタン大名たちは、貿易による利潤を得ていました。
家臣団も裕福でした。
裕福だったキリシタン大名・・・その時代を取り戻したい牢人たち・・・
それを奪っていったのは幕府・・・。

夢をもう一度&今の幕府に対する不満、キリシタン信仰と領主の苛政に対する反発・・・
それらを統合するシンボルが天草四郎だったのです。


では、どのようにして戦ったのでしょうか?
籠城するも。。。終焉の地ではなく、次の展開を考えていたようです。

それは・・・ポルトガルの援軍でした。カトリックの国を期待していたのです。

しかし、幕府は、乗っ取られることを怖れ、貿易のみに興味のあるプロテスタント=オランダとの関係を深めていました。だから、鎖国令が出た後も、オランダだけは貿易OKだったのです。


これを、信綱に見抜かれます。

「キリシタンどもは、南蛮より見方が来るなどと言っているらしい
 異国人に攻撃させれば彼らに衝撃を与えることが出来る!!」

1638年1月12日、オランダ船が、原城を砲撃。
心理戦に追い詰められます。
半月で400発以上の砲弾が撃ち込まれました。

原城内では、「四郎法度」が出されます。

「祈祷や断食などの善行だけでなく、
 武器を以て戦いに精を出すことも
 ご褒美となるのです。」

団結心は蘇えります。

棄教をさせられたキリシタン農民たち・・・
飢饉が続き、棄教を後悔していました。
それをいやしてくれるのが、天草四郎。
人々の不満や異議申し立てを集約するカリスマでした。


この乱をどう終わらせるのか???
信綱の作戦は???

それを担ったのは、かつての領主・有馬直純でした。

1638年2月1日とりなしたいと、矢文を放ちます。

2日後、一揆の代表であり副将・山田右衛門作と会見します。
家族を捕えられ、一揆への参加を余儀なくされていた右衛門作は、幕府に寝返ります。

密かに天草四郎を捕えて差し出す計画を立てました。

2月22日、幕府は23日に原城を総攻撃にする予定でしたが・・・
内通の矢文が露見し、右衛門作は捕えられ、実現しませんでした。

この計画が成功していたら、2月23日で乱は終わっていたのです。


キリシタン弾圧にしたかった信綱。。。
最後の決断をします。
一揆勢の殲滅・・・。

2月27日、12万の幕府軍が総攻撃をかけます。
一揆軍にもはや抵抗する力なし・・・
2月28日原城陥落。
女性や子供に至るまで、3万7千人の死を以て終わりました。


そして四郎は・・・
本丸で、一揆勢の象徴として短い生涯を遂げました。


そう、信綱は、全てキリシタンの一揆として終わらせたかったのです。
「咎無きものを討ち果たすことは
 天下のお仕置きにも相違する」

非キリシタンを殺すことを怖れていました。
一揆勢の棄教を求めていたのです。
3万7千人の労働力も、勿体ない・・・
鎮圧に参加した幕府の死傷者1万2千人。
さらに年貢を免除して人々をこの地に集め、50年かけてこの地を復興します。
それは幕府にとっても膨大な負担でした。

皆殺ししたのでは、キリシタンのせいだけにはできなくなる・・・


しかし、殲滅後は、その恐ろしさからか、霊が蘇えらないように殺しています。
例えば、頭と胴は違うところに埋めるとか・・・


そこには、このままでは下剋上の復活になってしまうという危機感がありました。

乱の責任者の処分は???
1638年7月19日、島原藩主松倉勝家斬首。
一揆を招いた罪で裁かれました。
江戸時代、武士が切腹ではなく、斬首されたのは、これ一度きりです。


島原の乱は、幕藩体制に大きな影響を与え、藩主たちは仁政に努めはじめました。

この乱は、武断政治から文治政治への大きな転換点だったと言えるでしょう。
民衆の生活を考えた政治をしなければ、安定しないということを植え付けたのです。
武力が過去のものになります。
徳川260年の平和が保たれるようになります。。。

民を重んじる政治へ。。。
一揆という形の民衆運動もなくなり、直訴という形へと変化していくのです。
戦闘的な民衆運動の最後となりました。

1805年、5000人以上の隠れキリシタンが発見されました。
それは、その村の半分以上でした。

隠れキリシタンがいたものの。。。
江戸時代、それ以上の罪を問うこともなく、幕府も穏便策を取ったようです。
島原の乱を警戒し、あんな悲劇を二度と繰り返さないように・・・。

天草四郎時貞
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posted by ちゃーちゃん at 16:12| Comment(1) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とてもわかりやすいお話でした。

キリスト教徒の殉教ということだけではなく、

圧政に苦しめられていた農民たちの一揆でも
あったんですね。
Posted by きのこ at 2014年07月04日 10:00
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