2012年07月04日

長州藩討幕の立役者〜高杉晋作〜

毛利13万石の城下町、山口県萩市。。。
この日本海に面した小さな町に生まれ育った若者たちが、260年続いた徳川幕府を倒し、明治維新という大仕事を成し遂げました。

その彼らを討幕に導いた男・・・それは、吉田松陰でした。
彼の教えた松下村塾は、明治政府を支えた多くの政治家たちが学んでいました。

初代総理大臣伊藤博文、山縣有朋・・・松陰の薫陶を受けた若者はおよそ100人・・・。
その中に、特に目をかけて、松陰のNo,2と育てた男がいました。
それが、高杉晋作です。

高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫) [文庫] / 一坂 太郎 (著); 講談社 (刊)
高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫) [文庫] / 一坂 太郎 (著); 講談社 (刊)

どうして、高杉晋作をNo,2に選んだのでしょうか?

高杉を兄のように慕っていた伊藤博文は・・・
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。
 衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや。」
と、顕彰碑に表わしています。

討幕とは、吉田松陰が青図を描き、高杉が旗を振り、それに乗せられたようなものだ・・・。


松門の双璧と呼ばれたのが、高杉晋作と久坂玄瑞。
玄瑞は秀才で頭が良いことで有名です。
晋作は・・・頭も運動も今一つ、玄瑞にはかないません・・・

しかし、高杉晋作は、松下村塾・門下生の代表的な一人です。
その破天荒な討幕の風雲児・・・その登場には、吉田松陰は欠かせませんでした。

松下村塾、その大きさは、わずか15坪。
ここから勤皇の志士たちが生まれたのです。

松陰は24歳の時、アメリカ密航を企て失敗、萩の自宅へ幽閉されます。
そこで、近所の若者たちを集めて始めたのが松下村塾でした。

高杉晋作がこの門を叩いたのは、19歳の時。。。親には秘密のことでした。
というのも・・・晋作の家は、300年来毛利に仕えてきていた上士の出でした。
一人息子が罪人の塾に入るのを許さなかったのです。

常識にとらわれず、行動する力を持つが、学力が不足している・・・
松陰の第一印象はこうでした。

そこで、ライバルとしてあてがわれたのが、玄瑞でした。
玄瑞は、晋作の幼馴染、天才と言われていました。

晋作は、柳生新陰流に夢中で勉強熱心ではなかったのですが・・・

玄瑞とのライバル関係で、勉学に励みます。
2人は、松下村塾の龍虎と呼ばれるようになります。

「賢者は議論よりも行動を重んじる」
世の中を広く見よ・・・
玄瑞はその教え通り江戸へ・・・。晋作も、それを追って3か月後に江戸へ・・・。

安政5年、大老・井伊直弼は、後に不平等条約と言われる日米修好通商条約に調印。
吉田松陰は、こんな弱腰では日本を守れないと「攘夷」を叫びます。

井伊は、危機感を抱き攘夷論者の取り締まりにかかります。
多くの者が、獄に繋がれるのを見た松陰は、この取り締まりを指揮していた老中・間部詮勝の暗殺を企てました。

江戸にいる玄瑞・晋作にも参加の要請が・・・
しかし、2人は老中暗殺などできるわけがない・・・と、反対します。

松陰は、「私は、国に忠義を成すつもりであるが、君たちは、手柄を求めているのか。高杉だけは解ってくれると思っていた。」と、晋作に対して失望するのです。

弟子たちには、まだその覚悟がなかったのです。

老中暗殺計画は失敗、松陰は逮捕され、伝馬町の牢へ・・・。
晋作は、差し入れをするために奔走します。

が・・・この行動が父の反感を買い、萩へと帰ることとなります。
師とはこれが最後の別れになりました。

吉田松陰は斬首・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に
     朽ちるとも
    留置まし
        大和魂」

松陰は、29歳でこの世を去りました。
生き急いでしまった松陰・・・。

この時晋作は20歳、父の存在が大きくのしかかっていました。

松陰の考えは・・・藩などなくても良いというものでした。
草莽・・・いわゆる公職につかない民間の人物や団体で戦うしかない。と、思っていましたが・・・
晋作は、まだまだ部屋住み。。。藩の書生という立場・・・
その間で悩みます。

萩の城下町・・・そこには、今も武家屋敷が残っています。そこに、高杉晋作の家もありました。
江戸から帰ってきたのが、安政6年11月。

彼を待っていたのは縁談でした。
相手は、町奉行の井上平右衛門の娘・マサ。
萩城下一の美人と言われていました。

美しい娘と結婚すれば、落ち着くだろうと考えたのです。
しかし、結婚後、藩から江戸の軍艦教授所で航海術を学べと命令が下ります。

晋作が乗り込んだ船は、長州藩初の洋式軍艦とは名ばかりの丙進丸。
風頼みに未熟な航海術・・・江戸まで2か月かかりました。

あまりの航海の酷さに、玄瑞に漏らしています。航海術は学びたくない・・・と。
流石に手ぶらでは帰れないので、剣術修行をしながら旅を続けます。

そして萩に帰り、松陰の残した著作の編纂を始めます。

その頃長州藩を動かしていたのは、長州藩直目付長井雅樂。

長井は、開国を認め幕府と朝廷が一つになって国難にあたる・・・公武一和を提唱。
幕府の延命を図るこの策は、老中たちに取り上げられ、京都で朝廷工作に当たるまでになっていました。
つまり、この時期、朝廷と長州は仲が良かったのです。

それに対して、松下村塾の面々・・・
彼らは下級武士の出身なので、長州藩の中では全く実力はありません。
つまり藩を動かしていく立場の人間ではないのです。

しかし、吉田松陰が命を懸けて唱えた攘夷を遂行しようと久坂玄瑞が長井雅樂の暗殺を計画。
その暗殺の実行役を引き受けたのが晋作でした。

しかし、藩から上海視察に行かないか・・・と言われた晋作は上海へと行ってしまうのです。
この打診の裏には、桂小五郎がいました。

晋作の命をを惜しんだ桂が藩の重役・周布政之助を動かしたと言われています。
この上海視察が大きな影響を与えました。

この上海で・・・
1862年4月29日、高杉晋作上海到着。
その眼に飛び込んできたのは・・・
華やかな商船や公園・・・
しかしその裏には・・・アヘン戦争という厳しい現実がありました。

上海では、奴隷のように扱われる中国人たち・・・
外国に支配されるということの惨めさを目の当たりにしたのです。
文化やほこりまでも踏みにじる・・・攘夷をしなければ、日本も同じことになる・・・。

師である松陰の正しさを知った晋作。
日本に帰ってきた晋作は、オランダ商館に駆け込み、2万両で軍艦を買う契約をします。
独断で・・・
しかし、藩にはそんな金はなく、この話は立ち消えとなってしまいました。

行動はどんどん激しくなっていきます。
晋作を隊長、玄瑞を副隊長、火付役に伊藤博文、11名の若者が警備網を突破、英国公使館に火をつけます。
8万両の建造物を灰と化します。

また、京都に赴き、周布政之助に討幕を訴えます。
「10年待て。」と言われると、
「10年暇をもらいます。」と、髷を切り出家してしまいました。

出家した晋作に代わって攘夷を進めたのが玄瑞。
長州びいきの公家・三条実美と図って勅使による攘夷断行を幕府に約束させました。
その結果、幕府は各大名に5月10日攘夷の決行を命じます。

長州藩は、関門海峡のアメリカ船を攻撃しましたが・・・
報復攻撃が始まると。。。
武士たちは逃げ出し、ボロボロ・・・

この軍の立て直しを命じられたのが、高杉晋作でした。

晋作は、もともと武士には期待しておらず、土地に思い入れのある農民たちに武器を持たせた方が、よっぽど戦える・・・民兵に期待していました。
これが、奇兵隊です。
そこには、上海で見てきた太平天国の乱に立ち上がった一般の人々の攘夷運動を見た体験がありました。


そんな長州藩にまたもや京都で火種が・・・

1863年8月18日、薩摩藩が会津藩と手を結び、長州びいきの三条実美らを京都から追い出し、朝廷から長州の勢力を一掃したのです。世にいう八月十八日の政変・・・七卿落ちです。

7年後の7月19日・・・
起死回生を図った玄瑞は、蛤御門で連合軍に戦いを挑みましたが・・・
200名の死者を出して敗北・・・責任をとって玄瑞は自決してしまいました。
享年25歳でした。

そして・・・討幕という大仕事は、晋作の双肩にかかってきたのです。
吉田松陰の目指す攘夷に向かって走り始めました。


7月22日、英米蘭仏の連合艦隊が、下関を攻撃すべく、横浜を出発しました。
右往左往するも結論は出ず、和議に達した時にはすでに遅く・・・
この四国連隊によって下関は艦砲射撃されます。

長州藩の砲台は、わずか1時間で壊滅。
講和を求める使者に選ばれたのは、高杉晋作、通訳として伊藤博文が付きました。

300万ドルの賠償金に対して、非は攘夷を命令した幕府にあるといって一歩も引きませんでした。
当時、こんなふうに外国人に対抗できる人は、いませんでした。
結局、この請求は、幕府に回されることとなります。

一方幕府は、長州征伐軍の派遣を決定しました。
この長州藩滅亡の危機に息を吹き返したのが攘夷討幕を嫌い、幕府恭順を主張する俗論派=保守派でした。

藩を掌握した俗論派は、増田弾正・福原越後・国司信濃3人の家老を切腹させ幕府への恭順を表します。

これに憤慨した晋作は、奇兵隊に挙兵を訴えます。
しかし、その時の総監・赤禰武人は反乱を怖れて反対、晋作は、行先も告げずに飛び出しました。
行く先は、伊藤博文・・・
当時、伊藤は力士隊という民兵隊を任されていました。

この力士隊80名を味方とし、下関にある長州藩の海嘯を襲い、武器と食料・・・軍艦もを手に入れ、ついに、赤禰武人を追い出した奇兵隊・山縣有朋も合流・・・。

「俺についてこい!!」

晋作のもとに結集し、進軍する仲間たち。。。
クーデターを成功させます。

1866年幕府との四境戦争(第2次長州征伐の長州藩での呼び名)に勝利。
一大名に屈服した幕府は、その後。急速に力を落としていきます。。。

しかし、晋作は。。。小倉城攻めの最中、血を吐いて倒れます。
当時としては死の病・・・肺結核でした。

「おもしろき
   こともなき世を
       おもしろく・・・」

「すみなすものは
     心なりけり」
下の句を読んだのは、愛人の野村もと(望東尼)。

晋作は、「面白いのう・・・」と笑ったと言います。

風雲児は、長州藩を討幕へ導くと、生涯の幕を閉じました。
享年29歳、奇しくも師・松陰と同じ年でした。

しかし、晋作の死後も、その志は受け継がれ明治を迎えました。

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世に棲む日日〈1〉 (文春文庫) [文庫] / 司馬 遼太郎 (著); 文藝春秋 (刊)
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高杉晋作 [単行本(ソフトカバー)] / 古川 薫 (著); 新人物往来社 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 18:00| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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