2012年06月27日

炎の突撃!真田幸村 戦国最後の華〜菩提を超える勇気〜

今回は、真田幸村さんです。

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真田幸村と申しますと、楠木正成、諸葛孔明と並び称されるほどの名将です。
トレードマークは、真紅の鎧兜、「日本一の兵」と呼ばれています。
戦国武将でありながら、その死後400年間、英雄であり続けています。

そのイメージとは違い、生涯は謎に包まれています。
例えば生まれた年???名前は???

確かなことは、巨大な勢力に立ち向かう、最強一族のDNAが、そこにはありました。
家康が恐れた変幻自在な戦術。。。

そして、壮絶な最期・・・
戦国乱世が生んだ永遠のヒーロー・真田幸村。
その鮮烈な障害の魅力とは???


幸村は、謎だらけ・・・
歴史学者のいやがる研究材料だそうです。

しかし、この謎の男を・・・家康はとにかく嫌がっています。
家康を最も恐れさせた男であることは間違いありません。

その最初の活躍は・・・
大坂冬の陣。

関ヶ原の合戦から14年、天下を手中に入れた家康は、その総仕上げとして豊臣攻めを決定します。

秀頼と淀殿は、かつての臣下に挙兵を求めます。
しかし、それにこたえるものはありません・・・
仕方なく、金目当ての浪人を招集・・・その中に、幸村の姿がありました。

48歳での全国デビュー戦です。

1614年大坂冬の陣が始まりました。
徳川方20万が、大坂城を包囲。

幸村に与えられたのは、5000の寄せ集めの兵でした。
いかに強靭な軍団とするか・・・
武具を赤備えに統一します。
そして、城を守るために・・・
城の南側に、出城を作ります。

天下人・家康が驚愕した、謎の要塞・真田丸!!!
徳川軍は、その異様さに目を見張ります。

その半円形の砦には、10m以上の土塀の上に、防御と攻撃の櫓が交互に設置されています。起動防御・・・
防御と攻撃一体の要塞です。

この砦に、敵を集中させ、一網打尽にしようとします。

おびき寄せて襲撃!!
集中砲火にあった徳川軍・・・合戦全体の8割に及んだと言われています。


幸村の名は、轟きました。

「赤備え」は・・・目立ちすぎる・・・
逃げても目立つ赤で、逃がさないための兵を作ったのではないか???と言われています。


戦国有数のブランド「真田一族」
発祥の地は、長野県上田市です。

その強さの秘密は???

1567年 幸村誕生。
真田昌幸の二男として生まれます。父は、戦で有名な、武田信玄の重臣でした。
情報戦を得意とし、信玄に「我が目」と言わせた情報通でした。

16歳の頃、武田家滅亡。

真田は、織田家の傘下に入るものの、信長暗殺・・・
真田の領地が危なくなりました。

1582年北条氏直と同盟を結びます。
そこに割って入ったのは、徳川家康。
昌幸は、勢力の強くなってきていた徳川につきます。
しかし、家康は、上杉に対抗するために北条と手を結びます。
その時、真田の領地・沼田を勝手に北条に譲ると言い出しました。

昌幸は激怒・・・。
表向きは、家康に恭順を示し、上田城の建設にかかります。

その上田城築城のプロセスとは・・・
築城は、家康に命令させて作らせています。
そして、次の年に寝返ると、対徳川の上杉型の最前線として上田城を城築させているのです。

大勢力を巧みに使って自分の城を築城させたのです。

上田城完成の1585年上杉と同盟。その証に人質として送られたのが、19歳の幸村でした。

裏切られた家康は激怒。
「稀代の大嘘つき」と罵り、「眞田を皆殺しにせよ」と、7000もの軍を仕向けます。迎え撃つ真田軍2000人。
これが、第1次上田合戦です。

昌幸は、陽動戦術で、敵を自軍に引き込み襲撃し、勝利します。
これが、後に真田丸で行われる戦術でした。

ゲリラ戦に長けた真田軍。それは、真田家が持ち続けた土地制度にあります。
秀吉の検地・兵農分離の政策に従わず、中世以来の土地制度を守り続けていました。
武士でありながら、農民。その農民の自衛心。実戦能力を高く買っていました。

「真田の七本槍と言わしめた勇者達は、当家の足軽、百姓なり」
兵農一体の総力戦こそが、真田の強さの秘密でした。

そして幸村は、20歳ごろ、豊臣家へ人質として送られます。
幸村を巧みな外交に使うこと、兵農一体のゲリラ戦、それが、真田ブランドの秘密でした。


父の背中を見て育った幸村・・・。
三大勢力の狭間の地でしぶとく生き残ります。
領地も拡大します。
真田一族を守るために・・・
情報収集をし、戦略戦術の天才だったのです。

そう、この状況下では、強くならなければ生きていけなかったのです。

また、政略結婚も一つの生き残り策です。
兄・信之は、本田忠勝の娘である小松姫を正室に・・・
弟・幸村の側室は、大谷吉継の娘竹姫。。。
つまり、豊臣と徳川とも縁を結んでいました。

そこに深い亀裂が生じます。
「関ヶ原の戦い」です。

天下分け目の合戦前夜、真田兄弟・犬伏の別れです。

1598年幸村が32歳の頃秀吉が亡くなります。
徳川家康が、天下の覇権を握るために・・・

1600年6月上杉征伐に号令をかけます。
7月21日、下野国犬伏に駐屯していた真田に手紙が・・・

「家康が太閤様の掟に背き、秀頼さまをないがしろにしている」

今こそ、家康を討つべき!!石田三成らが挙兵するという内容のものでした。

このまま、家康陣営に残るのか、三成陣営につくのか?

選択を間違えられない・・・

父の出した結論は・・・

「信之は徳川に忠義を尽くせ
 我らは豊臣秀頼様に味方する 
 父子 兄弟が
 敵味方になること
 決して恨みに思うまいぞ」

互いの忠義を尽くそうというものでした。

「豊臣家の御恩は
 浅からぬものがあります
 家の滅ぶべき時
 死すべき時が来たら
 潔く身を捨てることこそ
 武士の本意」

と、幸村が言ったとか・・・。

一族を残すことの大変さを知っている幸村・・・
真田家を滅亡させないために・・・
一族存続をの為の選択かも知れません。


上田城へ帰還した真田親子を待っていたのは、四面楚歌でした。
信濃周辺国は、全て徳川についたのです。
そして、真田が豊臣につくことも、いち早く家康の元へ送られました。

家康は、関ヶ原に向かう途中の秀忠を真田討伐に差し向けます。
秀忠軍は、徳川本隊3万8000。迎え撃つは2500の真田軍。

しかし、ここでも撃退!!
そして、足止めを食らった秀忠本隊は、関ヶ原の戦いに遅れてしまったのです。
家康の怒り、秀忠の恥・・・
秀忠の軍は、徳川の切り込み隊だったのです。
それが使えなくなってしまった・・・
このため、豊臣恩顧の大名・・・黒田長政などの力でようやく勝つことが出来たので・・・
関ヶ原の戦いの論功行賞、没収高の80%を豊臣系の外様大名に与えることになってしまいました。
明治維新にも影響出たかもしれません。。。

このトラウマは、一生残ったと言います。


幸村は勝ったものの、西軍は敗北。
高野山へ流刑となりました。
昌幸は、領地は取りあげられましたが、兄・信幸が継ぎ、真田領は9万5000石となり、一族存続が達成されました。

でも、どうして殺さなかったのでしょう・・・
殺せなかったのでしょうか???

戦国時代の価値観の中で、勇士は殺せなかったことと。
兄・信之の正妻が、本田の娘であったこと。
それが生き残れる道だということを昌幸は知っていたのです。
あらゆる情報を鑑みながら・・・


高野山へ流刑となった昌幸・幸村親子・・・
そんな苦難の中から伝説が生まれました。

高野山の麓にある、和歌山県九度山町・・・
1600年12月34歳の頃に九度山に流刑になります。

それから14年、、、ここで暮らします。
親族に送った手紙には・・・
「長年の山住まいでいろいろ不自由しております
 私なども大草臥れ者になり果てました」

1611年幸村45歳ごろ、父・昌幸65歳で死去。
生活はますます困窮します。

「去年より急に年をとり
 ことのほか病気になりました
 歯も抜け ひげなども 黒いところがあまりありません」

しかし、全く違う幸村の姿も伝えられています。

それは、紀の川で、馬に乗って演習し、体を鍛えたというものです。
頭が禿げて、歯も抜けたというのは、カモフラージュだったのかもしれません。
地元の漁師と鉄砲の訓練をします。

さらに・・・大砲を研究???

謎の14年です。

そこから様々な伝説が生まれました。
江戸時代は、家康を苦しめた事実から、反権力、反権威の象徴とされました。

幸村にはあまりエピソードがないので、作りやすかったのでしょう。
勝手に物語が膨らんでいきます。

そして・・・
この九度山時代の伝説から生まれたのが・・・。

「忍者・猿飛佐助」・・・真田十勇士の一人です。
真田十勇士は、幸村が九度山を抜け出して、諸国漫遊するお話。
来たるべき徳川との決戦の為に・・・

これが、家康をタヌキおやじに定着させたとも言えます。

十勇士は4つのグループからなります。

@ウルトラ忍者・・・猿飛佐助・霧隠才蔵
A強力軍団・・・・・三好伊三・三好清海・由利鎌之助
Bはぐれ者・・・・・筧十蔵・穴山小助
C側近・影武者・・・根津甚八・望月六郎・海野六郎

十勇士こそ、実際の真田軍団を示していると言います。
真田一族のゲリラ戦術に必要な忍者。調略やゲリラ戦に巧みな家臣を育てたのです。

上田市・角間渓谷には、猿飛佐助が技の習得に励んだ岩が残っています。
それは、夢のあるお話です。

1614年48歳ごろ・・・豊臣秀頼より招集されます。
参陣を促されます。
この14年の間に培った力と人脈を持って参戦します。

大坂夏の陣、決死の覚悟で臨んだこの戦いで、家康を恐怖に陥れます。
その戦いぶりは、「日本一の兵」「古今これなき大手柄」と言われました。

1614年12月大坂冬の陣和睦成立・・・。

幸村の真田丸が不利だったと気付いた家康は、手立てを考えます。
大坂城内にたびたび文を送り、幸村を寝返らそうとします。

「誠におしい武人だ 
 信濃一国を与えるから 味方にならぬかと 訪ねてまいれ」

幸村は返します。

「たとえ天下を添えて下されようとも 
 秀頼様へそむくような 不義は出来ません」

幸村調略に失敗した家康は、和睦条件として、大坂城の外堀を埋め立て、敵対意思のないことを表すようにと強引な作戦に出ました。

大坂城は丸裸。。。
徳川軍を相手に勝ち目はほとんどありません。

しかし、一縷の望みにかける幸村がそこにはいました。
その執念は・・・
幸村がいつも肌身離さず持っていた小銃・・・最新鋭の武器で、家康暗殺を狙っていました。
火縄銃は、発射までに30秒かかるのですが、8連発できました。

狙撃の危険を感じた家康は、鉄の板を用意したと言われています。

5月7日大坂夏の陣最後の決戦の日。。。
茶臼山に先鋒として構えた真田隊・・・
それを見た家康軍は・・・
「眞田が赤備え つつじの花咲きたるが如く 堂々の陣をはる」

豊臣方の作戦は、真田・毛利隊が家康軍を引き付けて、その隙に別動隊が奇襲攻撃をかける!!!
しかし、布陣が混乱・・・
幸村は、この混乱に乗じて、一気にかたをつけようとします。
幾重もの部隊が重なる家康軍に、無謀とも思える正面突破を繰り返します。

それは、一瞬の勝機に懸けた・・・家康のみを狙った作戦でした。

徳川方は、逃げ出します。

「家康様を守る者は、一人だけにて
 他は散り散りに逃げた・・・」

狙うは家康の首ただ一つ!!
家康の馬印を倒します!!

しかし、家康の援軍に押されて退却します。

ついに、徳川方の西尾という兵士に討たれたと言います。

真田幸村享年49歳。。。

一方、兄・信之は、93歳の天寿を全うします。
真田家は、幕末まで続きました。

晩年兄は・・・

「いわば左衛門左(幸村)は、”本当の侍”であり
 それに比べ我らは 作り髭をして肩を怒らせている
 ”道具持ち”というほどの差がある

 誠に物腰柔らかな男であり
 口数は少なく 日頃いきり立つこともなかった。」

と語ったのでした。


真田幸村の魅力。。。
それは自分を貫くところの痛快さがあるからだと思います。
上田市の山あいに、菩提寺があります。
そこには、祖父幸隆、父・昌幸が葬られています。
しかし、幸村公は、徳川の世にあって、故郷には葬られなかったようです。
墓もなく。。。その死さえも謎のままです。

本当に大人気ですね。黒ハート
カッコいいから仕方ないです。るんるん


「上田の城下町」はこちら

豊臣家のNo,2 真田幸村〜家康を震撼させた伝説の武将〜はこちら



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posted by ちゃーちゃん at 18:31| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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