2012年06月25日

古田織部〜天下人に仕えた茶頭武将 へうげもの〜

天下一の茶人とは誰か???

多くの人は、千利休と言うでしょう。
秀吉の元で、詫びの茶を作り上げ、茶人の立場から政治にかかわった利休。
その利休の陰で、歴史に葬られた男・・・
昭和の初め、岐阜県で陶器の破片が数多く見つかりました。

それを見た昭和の陶芸家・加藤唐九郎は・・・
「一目見て、惹きつけられてしまった・・・」と驚き、

北大路魯山人も、
「千変万化して、実に立派である」と評しました。

その焼き物の名は「織部焼」

その織部焼の名の由来となったのが、古田織部です。

信長・秀吉・家康の三人の天下人に仕え、戦国の世を茶の湯と言う一芸で生き抜いた文科系戦国武将。

「へうげもの」と呼ばれた作品を数多く作り出しました。
今、この漫画が売れています。

【ポイント5倍】【新品/漫画】へうげもの [1~13巻 全巻 最新刊] (著)山田芳裕
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「へうげもの」とは、「ひょうきんもの」「ふざけたもの」「お調子者」と言う意味です。
利休の亡き後、秀吉・家康のNo,2となり、茶の湯で個性的な美を天下に知らしめました。

この織部、もともとは、織田信長の使い番でした。
織部の「使い番」の仕事とは、織田・豊臣時代に各地に命令を伝え、軍中を巡視し、情報を伝える役目のことです。
つまり、若手の幹部候補生でした。

1544年美濃に生まれます。200石の田舎大名でした。
17歳の頃、信長に仕えます。
これによって、織部の人生が変わるのです。

使い番として信長に仕え、信長を美の革命家として憧れていました。

「自分が気に入れば、それは美しい!!」
その考えが、織部を変えます。


当時最先端の文化だった茶の湯。二部長は、名物と呼ばれる茶道具が高価だったことに着目・・・
名物狩りとして、京都で買い上げ、武勲のあった者に与えました。

「美しい名物をわが手に!!」

みんな、一心不乱に頑張ります。

松永弾正久秀・・・この人は、戦国一悪い人で有名です。
13代将軍を殺し、主君を殺し、奈良の大仏を焼いた男です。
しかし、自分なりの美意識は持っていました。
この美意識、太平の世とはちょっと違うのです。


松永久秀が謀反の時は・・・
信長は、謀反を許す代わりに「平蜘蛛の茶釜」を献上せよと、引き換えにしようとしました。
しかし、久秀は断固拒否。
「平蜘蛛の茶釜」に火薬を詰めて、自爆します。


茶の湯大名・荒木村重謀反の時は・・・
武士としての名誉を捨て、城も正室も・・・家臣も何もかもの全てを捨てて、茶器とともに逃げ出す村重の姿がありました。
この荒木村重・・・のちに秀吉の茶人として生きたと言われています。

そんな中、古田織部も・・・
「武」か「茶」か・・・二つの道で悩んでいました。

どうして、この茶の湯が流行したのでしょう・・・。
茶の湯御政道と呼ばれます。これは、茶の湯を政治的に利用した信長の政策のことですが・・・。

茶の湯には二つの流れがあります。
美術として茶器を鑑賞する・・・室町様式と呼ばれ、鑑賞したり批評したりのためには、教養や知識を必要としました。
もう一つは・・・飲むという行為です。
「けっこうなおてまえでした。」教養のない武士でもできることでした。
そして、茶器の批評にしても・・・
利休好みと言うのが出てきます。そのまま、利休が良い!!と言えば良いもの!!と言うものです。

しかし、明智光秀の謀反によって、信長は死んでしまいました。

次にトップに立ったのは・・・
農民から天下を取った秀吉・堺の魚屋から天下の茶人となった利休。
2人は戦国の世に、新たな力を作ろうとしていました。

詫びの茶を考案します。
茶の湯をネットワークとし、全国の大名を把握、フィクサーとして秀吉のNo,2となった利休。

その利休の元で、武将茶人として生きることを選択します。
そんな利休に人生の教えを授かります。
「人と違うことをせよ」

利休の弟子は・・・「高弟七人」と呼ばれています。
蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山宗綱・瀬田正忠・高山長房・牧村利禎
その中でも、最高の弟子は、織部と言われています。

1585年秀吉より3万5000石を拝領し、大名へ。
織部十作を選定。

そして、織部のチャンスとなった北野大茶の湯。
唯一無二の茶の湯が発表できる!!
才能を開花させていく織部。。。

その頃から、師が秀吉と対立し始めていました。
それは、美意識の違いから始まったものでした。
利休のわびさびの極致を具現化したものは、「黒楽茶碗」でした。
しかし、秀吉は黒は陰気だとして、派手な「楽茶碗」を使い始めました。

それを見ていた三成は、利休を苦々しく思っていました。

そして・・・大徳寺山門の2階にある利休像に対して・・・いちゃもんをつけだしました。
もし、秀吉が大徳寺に参る際は、利休の下をくぐるのか!!と。。。

そして、もう一つは、価値のない茶器に法外な値段をつけて儲けていると・・・。

これによって、利休は切腹に追い込まれました。

人生の師を失った織部に対し、秀吉は。。。
「織部よ
   そなたが利休の 
      あとを継げ」

新たに武家流の茶をつくるように命令します。
それに呼応して、一新する織部。

小宇宙だった3畳に・・・窓を8個作り明るくし、相伴席をつくることで、身分に差をつけました。

いろいろなデザインの椀を作ります。
それは、町人の噂にまでなり、量産をしました。
それは全国に広まり、初の流行を生み出しました。
「織部焼」です。

昭和に入って再現された織部焼はこんな感じ。
織部焼 抹茶茶碗 手造り織部 【箱入り】 ギフト 内祝い 引出物 結婚祝い 美濃焼
織部焼 抹茶茶碗 手造り黒織部 【箱入り】 ギフト 内祝い 引出物 結婚祝い 美濃焼
蚊遣り 蚊とり線香入れ 陶器 織部豚 小 敷板付 ブタ 美濃焼 / 【美濃焼】四季彩-陶器ONLINE-
それは、戦国とは違う新しい時代を織部に造ってほしかったのかもしれません。
茶道としての秀吉のNo,2となりました。


そんな秀吉も亡くなり・・・
利休がそうであったように、家康は、織部を無視できない存在になっていました。
そこで、秀忠の茶道指南役とします。

関ヶ原では東軍についていた織部。徳川との関係は、上手くいっているかのように見えました。
しかし家康は、織部の美に対して恐怖を抱き始めます。

秩序に収まらない・・・とらわれない自由な発想。。。
それは、下剋上の精神を煽るのでは???

豊臣・徳川、どちらからも信望のある織部。。。彼は、もろ刃の剣でした。

家康は、方広寺の「君臣豊楽」「国家安康」に目をつけました。
いちゃもんをつけ、それを書いた清韓禅師は蟄居となりました。

その清韓禅師を、織部は茶会に呼びます。
そこに、かつての利休を見てしまった家康・・・

家康に切腹の名を受けた織部は・・・

1615年 自害 享年72歳でした。

死後徳川家は、古田の存在を抹殺しようとしました。
20年で織部焼は失われてしまったのです。

織部の何を怖れたのでしょう。
「織部好み」は、家康の理解を越えていました。
解らないからこそ怖い!!

これから築こうとする泰平に対して、反逆しかねないと思ったのかもしれません。

そして、織部は、師である利休同様、死ぬことによって、自分の茶道を守ろうとしたのでした。

家康から、この織部の後を命じられた弟子の小堀遠州は、3代将軍家光に仕え、天下泰平の世に相応しい、「綺麗さび」の手法に一新しました。茶の湯だけではなく、庭など・・・総合芸術家となりました。

織部焼 (NHK美の壺) [単行本] / NHK「美の壺」制作班 (編集); 日本放送出版協会 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 20:25| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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