2012年06月11日

二つの名前・・・「諱」と通称。

実名のことを諱(いみな)と言います。
「いみな」というのは、実名を呼ぶことを忌み嫌うことから始まっています。

なぜ、実名を呼ぶことを忌み、憚ったかというと・・・

実名はその人間の人格を表すものであり、それを敬う気持ちから「呼ばないこと」を礼儀とする習わしがあります。

なので、武士は元服とともに実名をつけられましたが、同時に通称も与えられました。
その通称の方で呼ぶのが習わしとなったのです。

この通称、大別すると「輩行」と「官職名」に分かれます。

輩行は、太郎・次郎・三郎・四郎・・・と、長幼・続柄を示すつけ方です。
太郎に子供が生まれると、小太郎、小次郎・・・その孫は、孫太郎、孫次郎・・・そのまた孫は、彦太郎・彦次郎となりました。


官職名は、律令制で定められた官名を呼び名として用います。
信長は上総介、秀吉は筑前守、家康の三河守が有名です。

鎌倉時代までは、官職を私称することは禁じられていました。
が、室町時代に入ると朝廷への奏請抜きで、将軍や守護が自己の裁量によって許可するようになりました。

応仁の乱以降は、ルールは無視され、武将たちはわが身を飾り、貫録をつけるために官職名を勝手に使っていました。

信長は、18歳で上総介信長と名乗っています。
”上総介”は自称の官職名で、上総は現在の千葉県の一部にあたります。

地方官には4つのランクがあり、一番偉いのが”守”、次官クラスが”介”、三等官が”掾”四等官が”目”です。つまり信長は、上総国の次官を私称していたのです。

尾張一国を平定した後、33歳で尾張守信長、35歳ごろには弾正忠信長になりました。

この弾正忠は、中央官職の一つ弾正台の三等官のことです。
信長は、三等官にも関わらず、この役職が気に入っていたようです。
弾正台は、風俗の粛清、内外の非法の弾劾、上奏をする機関のことです。
この非法を糾弾するところがお気に入りだったのでしょうか???

また、実名より「号」で有名になった武将もいます。
有名なのは、細川幽斎(藤孝)、黒田如水(孝高)。。。
その他、北条早雲、武田信玄、上杉謙信も出家後の号です。

信玄は、なんでしょう???晴信です。
では謙信は・・・?はじめが景虎、次に政虎、最後に輝虎です。
この「輝」は、将軍・足利義輝が謙信に与えたものです。

こんなふうに、将軍や大名などが、功臣や元服を迎えるものに自分の一字を与えることを「偏諱(へんき)を賜う」と言います。

こう考えると、秀吉に貰った人がたくさんいるなあ・・・って、思いますね。揺れるハート

↓ランキングに参加しています。揺れるハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ
posted by ちゃーちゃん at 20:30| Comment(0) | 戦国の豆知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。