やっぱりこれかしら?
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鎌倉時代から江戸時代にかけて活躍した戦闘集団、忍者。
各地の大名は、戦国時代に傭兵部隊として利用しました。
その傭兵部隊を、正社員としたのは家康、そのリーダーを託されたのが、服部半蔵でした。
その名は、読物や映画などで語り継がれています。しかし、その本人は、生粋の三河武士でした。
その三河武士が、どのようにして忍者軍団の棟梁となったのでしょうか?
その前に・・・
忍者はどのような活動をしていたのでしょうか?
実際に、忍者がいたかどうかはわかりません。が、忍びの者はいました。情報収集や、情報攪乱、火を付けたり、噂を流す。。。といったかく乱工作を主な任務としていました。
伊賀も甲賀も山深く、生活のしにくい土地柄でした。
その生業として・・・
修験者となり、作った薬草を売ったり、お札を売って回る。。。寺社のお守りを売る。。。と、土地々々を転々とするので、情報交換がしやすく、その情報なども売っていました。
服部半蔵は、家康にかわいがられた武将で、武将としてはきわめて強く、5本の指に入ったと言われています。
そのあだ名は、鬼の半蔵・槍の半蔵などと言われています。
家康からの感状(武功のあったものに、主君から与えられる賞状)が、18あったと言われています。
本人も、死んだと思ったことが、3回あったとか。
では、半蔵はどのような経緯で家康に仕えるようになったのでしょうか?
服部家は、百地(ももち)、藤林家と共に、御三家として伊賀のリーダー役でした。
しかし、父は長でありながら、三河・松平家に仕官します。
1542年、松平家に竹千代が生まれました。奇しくも同年、半蔵が生まれます。
生まれつき頑丈な半蔵、しかし、忍としてではなく槍などの武術を教えられます。
「忍である限り、高い地位は得られない・・・武士として名をあげよ!!」
父の教えでした。
桶狭間で今川義元が討ち死にし、家康が岡崎城へ帰還します。
家康は、織田と同盟を組むことにしました。
1568年武田と連名して遠江へ侵攻・・・この時、掛川城攻めに参戦。
人馬の区別なくあまたなぎ伏せて、勝利に貢献します。
「服部半蔵、鬼槍半蔵」と言われ、みな恐れおののきます。
その半蔵の槍は、全長4mあったと言われています。
その時、数十名の伊賀忍者を指揮していたという記録も残っています。
忍の修業もしていないのに、なぜ指揮が出来たのか?
それは、父・保長より一子相伝の伊賀忍術秘伝書「忍秘傳」を授けられていたからでした。
武士となっても、知識は伝承されていたのです。
「これからは、武将として伊賀を率いるのだ!!」
家康は、土地を巡る争いから武田と対立します。
そして、徳川領への侵攻が始まりました。
諜報活動の重要性を説いた孫子の兵法を学んでいた信玄の常套手段は・・・
戦の前に、情報収集、情報攪乱操作を忍にさせることでした。
家康は、これに対する秘密警察を半蔵に託します。
半蔵が伊賀者を使って捜査すると、武田の忍が、30名は潜んでいました。
彼等を捕縛します。
半蔵は、武田の間者であった茶坊主の竹庵を斬り伏せ危機を未然に防ぎます。
1572年武田軍は、徳川領の侵攻を始めます。
ここで、三方が原の戦いです。
ここで、家康は、桶狭間を再現しようとしていました。
信長が、今川を打ち破ったことで名をあげたように・・・自分も武田を破ることによって名を成そうとしました。
半蔵は、三方が原の戦いで一番槍・・・奮闘するも、徳川軍は大敗を喫します。
この時は、武田軍にニセ情報を流されての大失態だったのです。
情報の大切さを身に沁みます。
浜松城に帰るところを追いかけてくる信玄、家康は脱糞する大ピンチ!!
半蔵は主君を守るために獅子奮迅!!
その功労に対し、槍を拝受しています。
そうして、半蔵は、情報戦の最前線へ!!!
勝頼が徳川に向かってきました。
1575年信康が治める岡崎城に!!
そこには、大賀弥四郎という武田に内通した者がいました。
部屋の中から勝頼の密書が出てきました。
信康を岡崎城から出陣させ、その隙に弥四郎が勝頼軍を引き入れ乗っ取ろう!!という内容でした。
弥四郎は捕縛され、生き埋めにし、農民にのこぎりで引かせて処刑したと言います。
長篠の戦で敗れた勝頼は、まだまだ諜報大作戦!!
武田の間者が、信康の母・築山殿と接触。
武田方に内通するように依頼します。これが、家康の耳にも!!
信長は、信康の切腹を命じます。
泣く泣くそれを受け入れた家康は、介錯人として半蔵を指名・・・。
切腹後の介錯にもかかわらず、
「主君に刃を向けることは出来ません・・・。」
と号泣し、務めを果たせなかったといいます。
家康は、「鬼の半蔵でも主君は斬れぬか・・・。」と漏らしたとか。
後に半蔵は、信康を弔う西念寺を建立。
1579年織田信雄が、武功を焦り、独断で一万の兵で伊賀に攻め入ります。
「天正伊賀の乱」の勃発です。進言したのは、伊賀忍の下山甲斐。
もともとは、傭兵なので、バラバラの伊賀衆です。戦場で会えば、敵になることもあるのですから。。。
しかし、里の危機に、バラバラだった伊賀忍が、一つになったのです。
しかし、信雄惨敗!!
この敗戦に怒った信長は、信長軍の総力をかけて伊賀攻めをすることになります。
伊賀の7つの出入り口を封鎖、伊賀には9万人の人しかいないところに、5万人で攻めたのです。
窮地に陥った伊賀は、家康に助けを求めます。
が、信長と同盟を結んでいる家康に助力は出来ません。
1581年第二次伊賀の乱勃発。
5万もの大軍を投じます。これに対して伊賀衆5000名。
さしもの伊賀衆も、10倍の敵には太刀打ちできず、多くが討ち死に、里も焼き払われ伊賀忍者は壊滅の危機に陥ります。
かろうじて助かった人は、国内に潜伏したり、国外に逃げるほかはありません。
かくまえる人数も限られる、我慢の半蔵です。
そして、更なる試練が半蔵を襲います。
1582年、織田・徳川連合軍が、ついに武田を滅ぼしました。
5月、駿河を拝領した家康、安土城へ赴きます。
信長は、光秀を接待役に歓待します。その際の不手際で光秀が信長に叱責されます。
信長は、案内役をつけて、家康を京都・堺見物に向かわせました。
6月2日早朝、堺で茶会をする家康に半蔵の部下が知らせをもたらしました。
本能寺の変です。
明智の謀反により、信長死亡。
さしもの家康も、動揺します。
わずかな手勢の家康、今、光秀に攻められたら・・・
「家康を討ったものには、一万石の褒美を・・・」
そんな御触れが各地に回っていました。
生涯最大の危機です!!
一行は、敵の眼をかいくぐり、伊賀の山中を!!脱出を図ろうとします。
しかし、そこには賞金目当ての山賊や土豪、農民がいます。
半蔵は、道案内を買って出ました。
「それがしの仲間を護衛に!!」
伊賀の乱のときに、見殺しにしたのに。。。
味方に付いてくれるだろうか???
「それがしの一命に懸けましても説得いたします!!」
堺を出発し、茶屋四郎次郎が金を捲き、どうにか近江・信楽まで。。。
先んじて伊賀入りしていた半蔵。
御斎峠で狼煙を揚げ、服部一族の忍に合図を送ります。
説得します。
「決して無駄な働きにはしない!!」
ここで、200人の伊賀者を味方につけることに成功し、伊賀越えが有利に運んでいきます。
彼らの必死の護衛と道案内で、家康は伊賀から伊勢へと・・・そして船で岡崎へ・・・
山賊や農民たちから守ってくれたのは伊賀者でした。
「我らの護衛をしてくれた伊賀衆を徳川家の家臣として召し抱えたい。
彼等には、”伊賀同心”の名を与える。
そなたは彼らを率い、棟梁となるのだ。」
信長によって、滅びの危機に瀕していた伊賀者が、一転、徳川の家臣として再建されました。
半蔵は、伊賀越えによって主君の命を守るとともに、伊賀一族の危機を乗り越えました。
まさに、奇跡でした。
徳川実記には・・・。
「御生涯、御危難の第一とす」
とあります。
同じように危機にあった穴山梅雪は、本能寺の変の後、家康と別行動をし、帰国途中で殺害されています。
当時は農民と武士の区別がなく、誰が敵か味方か分からない中での旅・・・
その移動距離は、3日間で144kmにも及びました。
このことで、自分の背中を任せられるのは、半蔵!!と、思うようになります。
半蔵は、大名クラスの8000石を与えられ、伊賀を任せています。
慎重な家康が、大名クラスの力と、伊賀という戦力を与えているのです。
1590年秀吉に、江戸に転封された家康。
江戸城の裏門警護は半蔵率いる半蔵門・・・そこにいは伊賀同心がいました。
家康は、慎重な人です。
半蔵門の位置は、甲州街道に直結しています。
もし江戸城に何かがあった場合、半蔵門を通って、伊賀同心の護衛によって逃げる段取りがなされていました。
そして、甲州街道には、寺がたくさんあって、その寺を城郭に、一筋入ると「同心長屋」となって、「いざ鎌倉!!」と、戦う段取りになっていました。
その門に、感謝と期待を込めて、半蔵門としたのです。
江戸に転封して6年後、半蔵は、55歳で亡くなります。
しかし、半蔵の死後も、伊賀同心は重用されます。
関ヶ原、大坂の陣でも伊賀忍は、情報収集、捜査の任に当たります。
平和が確立されると、大奥の警備などに当たるようになります。
そして、この情報収集・情報操作が重要視され、組織的になっていきます。
各地の大名を探る隠密。。。
柳生宗矩を大目付とし、各地に目付をおいて、幕府として制度化しました。
その諜報ネットワークの充実の原型は、半蔵と伊賀忍が作り上げ、後に柳生宗矩が公儀隠密に継承されたものです。
平和な時代・安定した時代となっても徳川に仕えた伊賀同心たち。
一方、伊賀に残った人たちは、藤堂藩の下俸禄をもらわず武士待遇の無足人として仕えました。
1853年、澤村甚三郎に藤堂和泉守から密命が下ります。
浦賀に来航した黒船を探索せよ!!と。
ペリー艦に潜入し、機密書類を盗み出すことに成功。
これが、250年にわたって徳川に仕えた最後の仕事となりました。

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