龍馬は国民的ヒーローとして名を残しましたが、中岡慎太郎はナンバー2として活動しながらも、ひっそりと隠れていました。
しかし、中岡慎太郎がいなければ、薩長同盟は締結しませんでした。
![幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊) 幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51ifnMCKYjL._SL160_.jpg)
幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
土佐の田舎で農民のように暮らしてきた男が、武士や公家たちと渡り歩くことになります。
討幕を考えている人はいたものの、当時はまだまだ幕府の力も強く、協力しないと討幕は無理でした。
おまけに、公家も一枚岩ではなく、2,3に分かれていたのです。
犬猿の仲だった薩摩と長州と・・・岩倉と三条を・・・中岡慎太郎が走り回ってまとめ上げました。
中岡慎太郎の原点は、高知県安芸郡北川村、26歳までここで過ごしました。
北上郷14カ村を抱えた大庄屋・中岡小傳次の長男として1838年に誕生。
58才で長男が生まれたということもあり、熱心に教育されました。
7歳になると、徒歩で往復3時間の山道を、塾に通わせました。
14歳で慎太郎は田野学館へ。。。
そこに先生としていたのが、武市半平太でした。
公武合体を支持する山内容堂に対して、下級武士・郷士は勤皇思想・尊王攘夷に目覚めていました。
これからというときに、父が病に倒れます。
20歳で妻をめとり、庄屋見習いのように村長となります。
村では地震や災害、飢饉を体験します。
民衆が安心して生活できる世の中に!!
時代は・・・
長州⇒尊王攘夷
薩摩⇒公武合体
土佐の武市半平太は、尊王攘夷を目的として「土佐勤皇党」を結成します。
賛同した192名、そのほとんどが、郷士や下級武士でした。
公武合体派の吉田東洋は、勤皇党によって暗殺。
土佐藩は尊王攘夷となります。
1862年、土佐勤皇党は、江戸に出発。それに洩れた慎太郎は50人組を結成し、自費で参加します。
江戸では、多くの若き志士に出会います。そして、佐久間象山とも・・・。
次の年には土佐藩の徒目付となり、警護や探索の任務に就きました。それは、山内容堂による大抜擢でした。
そんな時、1863年8月18日の政変により、「七卿落ち」がありました。
当時、龍馬は脱藩していました。
七卿落ちの知らせを聞いた慎太郎は、日本を立て直すために立ち上がります。
向かったのは、長州・巳田尻。ここは、尊王攘夷のアジトのようなものでした。
そこには、三条実美が都落ちをしてきていました。そして、土佐勤皇党の人間も、三条を守ってついてきています。
復権のチャンスを狙っている三条実美。
この三条実美と容堂の仲を取り持ったのが、慎太郎です。
三条実美の母は土佐藩主山内豊策の三女・紀子。
つまり、三条家と土佐藩には繋がりがあったのです。
勤皇党のバックには三条実美がいたということです。
三条に会うことで、慎太郎の視野が格段に広がります。
上級武士のシンボルは幕府。下級武士のシンボルは朝廷になっていきます。
朝廷とのつながりの出来た慎太郎。。。しかし、危機が迫っていました。
土佐藩では大混乱が起こっていました。
山内容堂による弾圧です。吉田東洋の暗殺を理由に武市半平太らを投獄。
危険を感じた慎太郎は、26歳で脱藩の決意をします。
巳田尻に戻り、偽名を使って、三条のNo,2としての生活が始まります。
石川清之助、大山彦太郎、横山勘蔵、寺下貫夫。
とにかく説得の上手だった慎太郎。各藩の有志達に三条の意向を訴え、返事を持ち帰ります。
京都・九州、飛び回る生活が続きます。しかし、それはいつも危険と隣り合わせの生活でした。
1864年6月5日池田屋事件で尊王攘夷派が多数死にました。
その中には、たくさんの長州藩の志士が。。。
憤慨し、戦いを決意する長州藩。
1864年7月禁門の変。
2000の長州に対し、会津・薩摩・幕府軍はその10倍。
御所に向かって発砲したために、朝敵となってしまった長州。
敗れた長州を追うように、長州征討令が出されました。
長州は、3家老の切腹と、4人の参謀の斬首を持って降伏します。
四面楚歌の長州に、更なる処分が。。。
三条ら五卿を長州の外に移動させることが言い渡されます。
しかし、三条らを失うということは、尊王攘夷のための大義名分を失うということでした。
この危機を乗り越えるために、慎太郎は、長州征伐の参謀・西郷隆盛に目をつけました。
何故西郷に目を付けたのか・・・
それは、禁門の変の時・・・。
西郷が言っていたのです。
「薩摩は 長州の敵ではなか
禁門の変では長州が御門を攻撃したので
お守りしただけのこと。」
と。
交渉の結果、
三条らを安全に太宰府に脱出させることと引き換えに、幕府軍を撤退してもらいます。
この対面で、西郷の本心を垣間見ることになりました。
すでに西郷は、勝海舟の主張する列藩同盟に興味を持っていました。
「西郷は、長州をやみくもに叩こうとしているのではない。」
薩摩と長州が手を組めば、幕府に対抗できる勢力になる!!
しかし、その道は甘くはありませんでした。
ここまで慎太郎は。。。
土佐勤皇党⇒山内容堂⇒三条実美⇒西郷隆盛
と、No,1を切り替えてきています。しかし、変節しても、みんなから信用されていました。
それは・・・
@私心がない
A金儲け・名誉欲がない
目の前の人に、忠実に仕える筋の通った男だったからです。
そんな慎太郎が、薩長同盟締結に向けて奔走します。
1865年下関。
薩摩の西郷と、長州の桂小五郎を引き合わせようとします。
が、失敗。半年近くの工作がパーになりました。
そこで、龍馬が亀山社中を使って、長州の為に薩摩が武器を購入することを思いつきます。
翌年1月22日、京都・薩摩藩・小松帯刀・坂本龍馬の下、西郷と桂の薩長同盟が成立しました。
しかし、そこには慎太郎の姿はなく。。。次の仕事にかかっていました。
三条実美と岩倉具視を協力させること。。。です。
この対立するふたりの間を書簡を持って奔走します。
この二人は、犬猿の仲。。。
岩倉は、薩摩に協力を仰ぎ、大久保と親しくなっていたことを利用して説得します。
中岡慎太郎の説はこうです。
「攘夷のための開国をしましょう。
力をつけて、武器を手に入れることによって、外国に手を出させないようにする」
これが、攘夷である!!
しかし、この頃から慎太郎は龍馬と対立する道を歩むことになります。
1867年4月維新の真っただ中、脱藩の罪を解かれ、土佐藩からそれぞれ海援隊、陸援隊を作るように命じられます。
この頃から二人の違いが表面化します。
慎太郎は、武力で幕府を倒し、新政府を作ること。
龍馬は、あくまでも平和的に・・・。
龍馬が求めたのは、国を超えた自由な貿易でした。
慎太郎の書「時勢論」には、新しい国家が生まれるときには、戦いが必要だ・・・的なことが書かれています。
時代は・・・。
岩倉具視が大政奉還の建白書を提出し、討幕の密勅を画策し、武力討幕の準備が整ったとき、コ川慶喜は大政奉還をします。
そんな激動の時代のさなかに、2人の人生は幕を閉じます。
龍馬33歳、慎太郎30歳。
11月15日夜9時ごろに突然刺客が二人を襲います。
それは、王政復古の大号令で明治が始まる1か月前のことでした。
この近江屋事件、犯人は、京都見廻組とも、新選組とも、(加治将一さんは)中岡慎太郎自身とも言われています。
龍馬の理想と慎太郎の現実が、ともに歪を生み、引き裂いたのです。
2人はまるで、明治維新、近代日本の矛盾を象徴するかのように共に倒れました。
加治将一さんの作品では、慎太郎が龍馬を殺したという説になっています。
![龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊) 龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51O3G3vXJTL._SL160_.jpg)
龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将...
それは、慎太郎が死ぬ半年間、岩倉具視・大久保利通ら薩摩藩と、討幕に向けて会談していました。
土佐藩も決起しようとしていたのです。
それは、板垣退助がトップとなって立とうとしましたが、龍馬や後藤象二郎らによって止められたのです。
岩倉と大久保に約束した以上は決起する!!
この近江屋事件に関しては、陸援隊や薩摩藩が暗殺現場に急行していること、「調べない・語らない・長所がない」と、不思議なことがありすぎるのです。
生きていれば、大久保・西郷・桂と共に、明治新政府を担うことになっていたであろう慎太郎。
命を懸けて奔走したその距離1万2000km。
この、中岡慎太郎の根底にあったものは、貧しく低い身分ながらのリアリズムだったのかもしれません。
![あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊) あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31DSMMFBV4L._SL160_.jpg)
あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著...
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加治将一の説はあくまで根拠のない妄想にすぎないもので
ちゃんとした研究者には相手されていません。
ただ本が売れたらいいと思ってるだけなのです。
作品として楽しむだけならいいけど
実際の可能性(暗殺)の選択肢に入れられるのはおかしいです。
またブログで慎太郎のことをいっぱい書いてますんで
よろしければおこしください!
そうなのですね。
ナンバー2、基本は逸脱していなさそうなところがヒストリアと違って好きなのですが。
あと、おちゃらけていないところが・・・。
でも、加治さんはあくまでのフィクションなのですね。
歴史は妄想が多いものだけれど、やはり突飛なものはドラマに限るということでしょうかね???