2012年04月04日

徳川最後の幕臣〜小栗上野介〜

今回のTHEナンバー2は、小栗上野介です。

小栗上野介 小説 [単行本] / 童門 冬二 (著); 集英社 (刊)
小栗上野介 小説 [単行本] / 童門 冬二 (著); 集英社 (刊)

名前は聞いたことありますが、この人も幕臣・・・。明治という時代に消されてしまった一人なのでしょうね。どんな人なのでしょうか?

司馬遼太郎が「彼こそが明治国家の父である」と呼んだと言われています。
勝海舟・西郷隆盛・・・幕末の英雄と比べると、知名度の低い彼を、なぜ明治国家の父と呼んだのでしょうか?

その答えは、横須賀にあります。
小栗上野介が人生を捧げて完成させた横須賀造船所です。
ここで小栗は、軍事や産業の近代化に貢献し、日露戦争・日本海海戦では連合艦隊の補修場となりました。
東郷平八郎は小栗の家族を招き、
「小栗さんが横須賀造船所を作っておいてくれたことが、どれ程役立ったかしれません。」(By 渡哲也)と、感謝の言葉を述べ、謝辞を贈っています。

しかし、小栗の貢献はこれだけではなく・・・。
1860年遣米使節として初めてアメリカへ渡り、帰国してからは、日本初の近代的ホテルを建設、外国語学校を創設・・・と、数々の近代化事業を成し遂げました。

日本の近代化は、幕末・小栗によって始められていました。徳川家の忠実な家臣として悲劇的な最期を遂げた小栗上野介。近代化の礎となり新たな時代を切り開きながら、古き徳川幕府に殉じた最後の武士・小栗上野介の真実とは?


この小栗上野介、お役御免となるまでは、徳川慶喜のNo,2、幕府における最高の人物でした。
当時の幕府は、徳川直属の旗本の数は・・・旗本8万騎と言われていましたが、実際はこれを大きく下回るものでした。おまけに幕末には全く働かなかったのです。

1827年2,500石の旗本の家に生まれます。この小栗の先祖には、家康の時代・姉川の合戦などの一番やり小栗又一がいました。
徳川譜代の旗本の家に育った小栗。忠義心を心に厚く育ちました。
と同時に、外国との貿易を重要性を唱えた漢学者・安積良斎に弟子入りするなどして学びました。

1853年将軍・家定の近習として取り立てられたものの、運命は一変します。
黒船が来航したのです。

1860年幕府は、前年に結ばれた日米修好通商条約の批准書交換の為に、アメリカに使節団を派遣することになりました。

大老井伊直弼は、2人の外国奉行以外に小栗上野介を抜擢します。
「アメリカはどういう国なのか?見て来よう!!」
米国軍艦ポウハタン号に乗ってアメリカへ出向します。
この時、勝の咸臨丸も護衛船として付きましたが、サンフランシスコで折り返し日本に帰国したので、勝は批准書の交換に立ち会っていません。

5月14日ワシントンに到着。
代表の3人は、ホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領に謁見、批准書を交換しました。
この時の小栗たちを見て・・・
NY TIMES 紙は、「日本人は非常に礼節を重んじ、厳粛にしていた」
LONDON TIMES 紙は、「日本人には落ち着きと知性がある」
と、表現しています。

次に行ったフィラデルフィア造幣局では、アメリカとの貿易でのお金の交換比率を改めさせるため、日本の小判の正確性を説き、正確な交換比率にしてもらえるように申し出ます。
なぜなら、条約は不平等条約だったため、2年間で10年分ぐらいの金が流出していました。
これを改めさせようとしたのが小栗でしたが、日本人の中にも「批准書の交換に来たのに余計なことはするな!!」と、反対する人もいました。が・・・

「どんなに時間がかかろうとも、全量分析してもらわなければ困ります!!」

小栗は、アメリカでNOと言った初めての日本人と言われています。

おまけに、そろばんで簡単に計算をし、日本の早くて正確な分析結果に、アメリカはびっくりしました。
小栗は日本人としての誇りを持っていたので、毅然とした態度をとれたのです。
日本は、欧米列強に負けていたわけではない。伝統、歴史、良いものはたくさんある。
ただ、産業革命に乗り遅れただけ・・・。

アメリカ人は、いうべきことはきちんというものの、小栗の日本人としてのフェアな態度に感心したそうです。

6月18日 ニューヨーク・ブロードウェーで、歓迎パレードが催され、50万人のアメリカ人が珍しい日本人を見に来ました。今日受け継がれている日本人のイメージは、ここで植え付けられたと言っても過言ではありません。

しかし、日本では、桜田門外の変で井伊直弼が攘夷派に暗殺されてしまっていました。

帰国して、日本の近代化に着手します。そんな中、井伊の後に老中となった安藤信正によって
1860年外国奉行に就任
1862年勘定奉行に就任。
幕府の財政改革に取り組みます。
自力で軍艦を作る造船所の建設を訴えたのです。
この背景には、アメリカで見学したワシントン海軍造船所が影響していました。
そこは船の本体だけではなく、あらゆる部品、ねじくぎひとつまですべてを作る総合工場だったのです。
日本でも、こんな工場を作れたら、軍事のみならず産業となるのでは?!

1864年軍艦奉行に就任し、造船所建設へと動き出しますが、幕府内でもお金がかかる。とか、船は外国から買えばいい。とか、反対意見が相次ぎます。その急先鋒は、勝海舟でした。

しかし、外国から船を買っても、修理が出来ない・・・。修理をするためには、やはり造船所が必要だ。。。

この時小栗は・・・
「徳川幕府が家屋敷を売り渡すことになっても、土蔵付きの売り家の名誉が残せる」と言いました。
つまり、日本の国は今行き詰っている。いずれ新しい家主になろうとも。。。
日本の将来の為に、造船所建設の覚悟を決めていました。

1865年1月横須賀に造船所を作ることが認可され、建設が開始されました。
ここには、工場だけではなく、官舎や学校までありました。

造船所、まずは製鉄所としてスタートします。
3tスチームハンマーを購入。このハンマーは、これ以後130年使われることになります。
そしてこの製鉄所が日本の近代化の礎となります。
海軍専用施設となり、日露・日本海海戦に重要な役割を持つことになるのです。

この施設、軍事、工業以外でも、近代化の先駆けとなりました。
西欧式、近代型の労務管理制・マネジメント制を導入。また、会社経営の理念を導入します。
・就業規則を設定
・年功給制度の採用
・1865年には、横浜仏語伝習所開設・・・幕府陸軍の兵士たちに学ばせました。
・製鉄所内では、部長・課長などの役職が出来ました。
現在ドックは、アメリカ海軍横須賀基地内の施設として現役で活動。まさに、日本の大切な土蔵となったのです。
横須賀製鉄所は1865年に起工され、1871年に横須賀造船所と改称。

1867年、慶喜に、日本の貿易力を上げるため、株式会社の設立を提案、認可されました。
株式会社の制度を使って、
・築地ホテル建設(水洗トイレあり)
ちなみに、坂本龍馬の亀山社中は、厳密には株式会社ではなく、下請けのようなもの。
初めては、1867年小栗の建議にて設立された兵庫商社です。

・全国諸藩を解体し、郡県制の構想を提案。
郡県制とは、全国をいくつかの郡に分け、さらに県に分け、中央で統治する中央集権的な行政制度のことです。
この郡県制により、全国から税をとることが可能となり、それを国家予算に当てようとしました。
つまり、明治維新をも先駆けていたのです。


徳川幕府を再生させようとしていたのです。

時代は15代将軍慶喜・・・歴史が大きな転換期を迎えます。
1867年 京都二条城にて大政奉還。しかし、王政復古の大号令によって、徳川による新政権樹立は不可能となり、朝廷・薩長による新政府が誕生してしまいます。

小栗はこれを不当として、徹底抗戦を始めます。
しかし、慶喜との間に亀裂が・・・。

慶喜はもともと水戸学。
水戸学とは、朱子学を中心に、天皇制の思想的源流と、その正当性を表す学問のことです。当時の尊王攘夷運動に大きな影響を与えたことは言わずもがなですが。。。

「国賊になりたくない!!」という気持ちが大きくありました。

西・政府軍VS東・幕府軍の膠着状態の中、西郷の挑発が始まります。

薩摩藩士が江戸城下で放火、騒動を起こします。
小栗は激怒し、薩摩藩邸を砲撃・・・西郷の思うつぼでした。
1868年戊辰戦争に突入。小栗にとっては、倒れかけた徳川幕府を守る最後の戦いでした。

戦いの渦中、錦の御旗に動揺した慶喜は、大坂城を出て江戸に帰還・・・。
1868年1月12日〜江戸城にて評定が開かれます。
恭順派の勝、徹底抗戦派の小栗。共に近代化を推進していましたが、2人の想いは違っていました。

「新政府軍を箱根で迎え撃ち、足止めして、榎本武揚率いる幕府艦隊が駿河湾から艦砲射撃で一掃しましょう!!」

小栗は訴えましたが、尊王思想の強い水戸に育った慶喜は新政府軍に恭順することを選びました。
「もしこれが実行されていたら・・・我々の首はなかった」とは、大村益次郎の談。

その後、小栗は上州・権田村・東善寺に移り住みます。
殿さまのしない戦争には、参加しない。「大義名分」はないのだ。

しかし、小栗を怖れた新政府によって・・・
4月6日企てありと捕縛され、取り調べもなく水沼河原で斬首されてしまいました。
享年41歳でした。

まだまだやりたいことはたくさんあった、無念だったことでしょう。

造船所は新政府に引き継がれ完成。
アメリカ海軍横須賀基地司令部には、アメリカ軍歴代の司令官と共に写真が飾られています。

志半ばであったにしても、小栗の思った通り、幕府の為にしたことが、日本の為となった。
徳川幕府のしたことが、後の為になればよいではないか?

懸命を尽くし、日本の国を良くすること、その覚悟を持っていた真の侍だったと言えます。

なんだか新政府によって功績を消されたひとりだということは、間違いないですね。
こんなふうに見てくると、どちら側にも同じような考え方があって、何が正しくて、何が間違っていたかなんて、本当に「勝てば官軍」なんだなあ。。。と、思ってしまいます。

小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 小説 (集英社文庫) [文庫] / 童門 冬二 (著); 集英社 (刊)
小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 小説 (集英社文庫) [文庫] / 童門 冬二 (著);...

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posted by ちゃーちゃん at 11:33| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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