2012年03月30日

大久保利通〜明治を創った男・維新の設計者〜

THEナンバー2。大久保利通です。

大久保ってNO,2?

私は私利私欲のないみなさんに人気のない大久保・・・。結構好きなのですが、NO,1じゃないの?なんて思って見ました。

冷徹なる政治家、維新の星・西郷隆盛を失脚させた男ですが。。。
この2人、同じ町で育った朋友であり、維新を戦った同志でした。

時代は尊王攘夷運動から討幕運動へ連なる激動の時代、大胆な行動力で討幕陣を率いた西郷が光なら、大久保は影。大胆な秘策をもって調停を動かし、討幕軍を官軍とすることで、鳥羽伏見の戦いを勝利に導きました。

しかし、明治政府のあり方を模索するうちに大久保が選んだのは、西郷との決別でした。
友を退けてまで上り詰めた頂点・・・。

大久保が描いた新国家とは?しっかりとした基盤の上に立った近代国家でした。

日本の礎を築いた男。。。
大久保が暗殺されたとき、イギリスのTHE TIMES紙には、

「His loss is a public misfortune for Japan」

と、書かれるほどの。。。世界が惜しんだ日本のNo,2の死でした。

今あの政治家にないものをすべて持っていたと思われる大久保利通。。。
剣の達人でもなく、頭のいい秀才でもない、それは気合の人・・・。
何事にも命を懸けるほどの凄味のある人でした。


西郷との出会いは・・・

鹿児島県加治屋町。大久保利通は・・・
1830年下級武士の子として生まれ育ちました。

同じ町に西郷が生まれたのは2年半前の事で、お互いの家は、100mほどしか離れていませんでした。

この町は、戸数70余りの下級武士の町でしたが。。。
大久保利通・西郷隆盛・東郷平八郎・吉井友実・伊地知正治・大山巌・山本権兵衛・村田新八・黒木為禎・篠原国幹・井上良馨・西郷従道・・・と、維新の立役者が揃っていました。

討幕も、維新も、ここから始まったと言えるでしょう。

「坂の上の雲」ファンにもウホウホな町です。黒ハート

どうしてこんなにもたくさん・・・
それは、郷中教育にあったと言われています。
それは、薩摩藩独特の教育制度で、6歳から20歳ぐらいまでが一緒に学問や武術を学ぶという教育制度です。

2人はそこで、実の兄弟のように育ったと言われています。
この勉強会が、後に精忠組・・・幕藩改革の政治結社となっていくわけですが。。。

大久保の家は、お由良騒動に巻き込まれます。
島津斉興の跡継ぎを巡って起きたお家騒動で、父の支持した方が負け、弾圧されます。ここで、薩摩隼人、腹を切るのが潔いのですが、父の大久保利世はあえて切腹しませんでした。それは、お家の行く末を見届けるため。。。あえて、流罪となったのです。


「切腹をしなかった」ことで、親戚づきあいもなくなり、孤立し、困窮します。
そんな時、唯一同じように接してくれたのが西郷でした。


これから!!という大久保29歳の時、西郷は奄美に潜伏させられます。
ということで、大久保は、権力者・島津久光に接近します。
しかし、下級武士の身。頭を使って、久光の碁の友達である寺の住職の元に通います。

なんとか島津久光に文を読んでもらえるようになり、「精忠を尽くしてくれ」と、声をかけてもらいます。
それが、精忠組の誕生となるのです。

これが、大久保が藩の中枢となる第一歩でしたが、住職の元に通い始めて2年の月日が経っていました。

1862年久光上洛にあたって、側近となって準備をしたのが大久保でした。
そこで、「西郷が必要だ!!」と、申し入れ、西郷を奄美から呼び戻します。

しかし、久光と西郷の相性は最悪。

というのも、もともと西郷は、斉彬のお庭方。お庭方とは、藩主のそばに仕えることの出来る秘書のようなもの。つまり斉彬の発掘した西郷、久光が発掘した大久保なのです。

西郷は、久光の上洛に反対した上に、初めて会った久光に対して言いたい放題。
上洛の日も単独行動をして久光の怒りをかってしまいます。

板挟みになる大久保。

西郷切腹の危機・・・。

そんな時に大久保は・・・
「刺し違えて、一緒に死のう!!」と、西郷に迫ります。反対に西郷に説得されて・・・。
西郷は久光により島流し。しかし、大久保の顔を立てて、反論はしませんでした。
遠島となった西郷と、薩摩藩の地位を上げようと奮闘する大久保・・・。
この2年後、いよいよ討幕の幕が上がります。

討幕の機運が高まる前の京都では、公武合体派と尊王攘夷派が対立していました。

1864年8月禁門の変。長州が出兵します。
これを撃退したのは島から帰ってきた西郷でした。

この後、西郷と大久保が、討幕の扉を叩きます。

大久保の一手・其の一
非義の勅命

薩摩に撃退された長州は、苦境に陥ります。
朝敵の上、外国船を砲撃し敗北。

そんな中、
1865年9月21日、長州再征伐の勅命が下ります。
大久保はこの勅命を、「非義の勅命は、勅命に非ず」と批判しました。これは、幕府と朝廷の両方を批判したもので、つまり、出した方も出させた方も悪いということですが・・・。

これで、事実上幕府と決裂することになりました。

「新しい政府を作らなければ・・・」
このことを、西郷に手紙で知らせます。それが龍馬の手を渡り長州の元へ・・・。

薩長が手を取って、国家を立て直す。。。
ここに、1866年1月薩長同盟が成立します。


其の二・討幕の密勅

1866年12月、徳川15代将軍に慶喜就任。幕府が威力を持ちかえします。
これに対し薩長は、武力衝突も辞さない考えでした。
大久保利通は、大義名分を得るために、岩倉具視の元へ。。。

1867年10月14日 討幕の密勅が下されます。
これは、偽物?岩倉具視が作らせたとか・・・。

しかし、同じ日、慶喜は大政奉還。将軍職を天皇に返上してしまいました。
つまり、討幕の密勅は無効になってしまったのです。


其の三・錦の御旗

1867年12月、王政復古のクーデターを決定。
慶喜に手を出させるために必死な薩摩藩は、江戸で強盗したり、火を放ったり。。。なりふり構っていられません。

そして慶喜は、再起のチャンスを狙っていました。薩摩を倒すため、京都へ・・・。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いの始まりでした。

始まった時は、新政府軍5000に対し徳川軍1万5000.徳川軍が圧倒的に優勢のはずでした。
そこに、「錦の御旗」が!!

慶喜は江戸に逃げ帰ります。これこそが、大久保の奥の手でした。
天皇から与えられる官軍の証。。。それが錦の御旗。しかし、その旗を今まで見た者は誰もおらず・・・?
その旗、岩倉具視が発案し、大久保が用意した幻の旗でした。

この誰も見たことのない錦の御旗。。。でも、当時の幕府軍はインテリばかり。錦の御旗の事は聞き知っていて、おまけにインテリが邪魔をして、「国賊にはなりたくない!!」という気持ちが働いたのです。

そんな錦の御旗効果で、戦いはわずか3日で終了します。

薩摩藩のことを考えて、久光のNo,2だった大久保、日本の事を考えて、西郷のNo,2となりました。

ここで、勘違いしそうですが幕府というか、武士の中でも上士たちは、幕府の存続を望んでいたということです。
下士階級の者が、討幕へと傾いていたのであって、お殿様たちは幕府があった方がいいに決まっています。
勝手に仕掛けた戦争。。。西郷や大久保は必死だったのです。

そして、はじめは島津幕府ぐらいに思っていた大久保でしたが、西郷と共に、幕府を倒して近代国家の樹立という使命を担うことになります。

1868年明治が始まりました。
京都から東京に拠点を移します。
たくさんの新政策を打ち出しました。

1869年廃藩置県。天皇が支配する体制を敷き、近代国家を作る大きな一歩となりました。

ここから、第2の維新が始まります。

1871年12月〜73年9月、岩倉使節団を世界に派遣。海外視察をします。
ここで大久保は、人格が変わるほどの衝撃を受けるのです。

それは、鉄血宰相ビスマルクの演説でした。

「世界各国は、表向きでは親しく交流するが、陰では小国をいじめている。
 小国が自主の権利を守ろうとすれば、実力を培う以外に方法はない。」

国際社会の現実に大久保は、日本を強い近代国家に作り上げなければ!!と、思うようになるのですが・・・。

この時日本国内では、朝鮮と国交を開こうとしていました。しかし、朝鮮がこれを固辞。西郷を派遣するかどうかでもめていました。
そんな中大久保が帰国。

早期派遣の西郷と、それに反対し殖産興業をしようとする大久保。。。
海外問題は緊急課題ではなく、近代国家の基礎を固めることこそ今の課題だ!!

大久保の猛烈な反対にも西郷が支持され、閣議で挑戦派遣が決定します。
あとは、天皇の決定を仰ぐため上奏を待つだけ。。。
しかし、太政大臣・三条実美は病気を理由に上奏の日を見送ります。

その1日を大久保は見逃しませんでした。

”只一ノ秘策アリ”

「西郷参議独リ 速ニ使ヲ遣ルコトヲ主張ス」と、天皇に上奏した時に報告します。
そう、閣議決定と異なる報告をしていたのです。
そして、三条ではなく岩倉に上奏させました。

天皇は、西郷の派遣の無期延期を決定。
絶望した西郷は、辞表を提出。鹿児島へ帰ってしまいました。

「後のことはよか頼む おいはしらん」
2人の別れは、そっけないものでした。

別々の道を歩むことになってしまった西郷と大久保。。。そうまでして作った明治国家の姿とは・・・?
1873年11月ドイツに習って内務省創設。大久保は、自ら初代内務卿に就任します。

これは、当時警察や行政を握っていた江藤新平を政府から追い出すのが目的でした。
まさか、西郷までやめるとは思っていなかったのです。

日本史上最強の国家組織内務省を作った大久保、一気に国家を作ろうとします。

当時の新政府最大の悩みは士族。。。
1876年秩禄処分・・・禄を廃止します。

追い詰められた士族は、各地で反乱を起こします。
西郷のいる鹿児島も、例外ではありませんでした。

西郷は鹿児島に帰ってから、青年たちを集めて私塾を開いていました。
反乱の契機を作ったのは、その私塾の学生たちでした。

1877年1月末、私学生たちによる火薬庫襲撃事件が勃発します。
そんな中、西郷の耳には。。。
西郷暗殺計画が入ってきました。
首謀者は、川路利良と大久保利通・・・。

この疑惑が士族に火を付けました。

1877年2月5日会議が開かれ、反乱を起こすかどうか議論されます。
「西郷暗殺計画」は、出兵する大義名分に値するか?!

もう私学生を止めることは出来ない・・・。
鹿児島で暴動が勃発。
大久保は、西郷はそこまで軽率ではないと暴動を否定しました。

が・・・2月12日西郷と江藤が正式に出兵を発表。「政府への尋問の筋あり」
西郷の名で出された後も、大久保は西郷を信じようとしました。

大久保の願いもむなしく、2月15日1万3000の兵を率いて鹿児島を出発。
西郷を総帥とする西南戦争が勃発してしまいました。

2月17日西郷は鹿児島を去る時・・・。
「暗殺計画には大久保が関与していたらしい。
 大久保がなぜ自分を疑うに至ったか、訪問せざるを得ない。
 家族同然に育ってきただけに、疑いがあれば上京させるかこちらに来るか、
 手紙でもよこすべきではないか。」

大久保も、まだ西郷を信じていて話したいと思っていたものの、願いはついに叶いませんでした。

2月19日鹿児島討伐の命が下ります。
大久保は、政府のTOPとして、この反乱を鎮圧する最高責任者となってしまいました。

決別から4年・・・対決することになってしまいました。
開戦から7か月後、ついに終わりを迎えます。9月24日城山を攻め西南戦争は西郷の死と共に幕を閉じるのです。

「おはんの死と共に、新しい日本が始まる。強か日本が!!」

最後まで西郷がいるとは思っていなかった大久保。。。
冷徹と言われた男が、鴨居に頭をぶつけて泣いたと言います。
自分の宰相としての地位を呪ったことでしょう。


「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」

島津久光⇒西郷隆盛⇒明治天皇のNo,2として活躍し、富国強兵・殖産興業の道を付けよう!!と、意気揚々としていた時、暗殺されます。

1878年5月14日午前8時過ぎ。。。紀尾井坂にて暗殺。。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中のことでした。

西郷を敬愛する石川県士族・島田一郎らの犯行でした。

暗殺されると分かった時動じることなく、自らが生みだした士族の恨みを一命に引き受け亡くなったと言われています。

国家のためにならいつ死んでもいい。。。
亡くなった時、懐には2通の手紙がありました。
それは、2通とも西郷からもらった手紙だったと言います。


あまり人気のない大久保さんですが、私は結構好きです。
というのも、彼がなくなった時、私財というものはほとんどなかったとか。
他の人たちは、強欲になってきていたのに。。。です。
日本の為に、天下国家の為に、いろいろと汚いこともしたかもしれませんが、それもみな、近代国家の為だったのでしょうか?

とりあえず、日本は植民地となることなく。。。でも、この内務卿のせいで。。。帝国主義へとまっしぐらに進んでいきます。

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posted by ちゃーちゃん at 16:19| Comment(2) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ブログを拝見しましたが、確かに、大久保利通は、政治家としての能力や考え方に加えて、「為政清明」という言葉をスローガンにしていたように、私利私欲の気持ちはなかったようですが、それでも、利通が暗殺されたのは、加害者である、島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族が、利通に対して、どうしても我慢できなかったほど、怒りと憎しみと政治への不満を募らせた上に、一郎が、西郷隆盛に対して異常過ぎるほどの尊敬の気持ちがあったから、最終的には、牙を剥いた結果だと認識しています。仮に、一郎らが、利通に対して、話し合いや直訴を持ちかけたとしても、利通が拒否をすれば、結局は、一郎らは暗殺事件が引き起こしたのではないかと思ってます。一番良いのは、利通と一郎らが、お互いに理解しあうことができれば、紀尾井坂の変が起きる可能性は低かったような気がします。あと、見方を変えれば、一郎らは、時代から捨てられてしまった被害者だったのではないでしょうか。もちろん、暗殺する事自体は、テロ行為ゆえに、絶対且つ決して許されませんが、一郎らを、単なる加害者として扱うのはいかがなものかと思います。
Posted by トト at 2015年07月09日 10:08
ブログを拝見しましたが、確かに、大久保利通は、政治家としての能力や考え方が優れていたことに加えて、「為政清明」という言葉をスローガンにしていたように、私利私欲の気持ちはなかったようですが、それでも、利通が暗殺されたのは、加害者である、島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族が、利通に対して、どうしても我慢できなかったほど、怒りと憎しみと政治への不満を募らせた上に、一郎が、西郷隆盛に対して異常過ぎるほどの尊敬の気持ちがあったから、最終的には、牙を剥いた結果だと認識しています。仮に、一郎らが、利通に対して、話し合いや直訴を持ちかけたとしても、利通が拒否をすれば、結局は、一郎らは暗殺事件が引き起こしたのではないかと思ってます。一番良いのは、利通と一郎らが、お互いに理解しあうことができれば、紀尾井坂の変が起きる可能性は低かったような気がします。あと、見方を変えれば、一郎らは、時代から捨てられてしまった被害者だったのではないでしょうか。もちろん、暗殺する事自体は、テロ行為ゆえに、絶対且つ決して許されませんが、一郎らを、単なる加害者として扱うのはいかがなものかと思います。
Posted by トト at 2015年07月09日 10:10
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