第二次世界大戦が終わっても、世界は平和になったわけではありませんでした。ドイツにはベルリンの壁が築かれ、冷戦の時代に入っていきました。
と同時に、世界各地で紛争が起こりました。
1965年〜75年ベトナム戦争、1982年フォークランド紛争・・・。いろいろなものが博物館に展示されていましたが、イラク進攻についての展示はありません。それは、「現在進行形だから」という理由からでした。
今から30年前。。。日本もイラクとは親交があり、およそ1万人の日本人が住んでいました。
しかし、1980年イラン・イラク戦争が勃発。
国境を挟んだ戦争は、8年にもおよび、当時はイライラ戦争と呼ばれていました。当時、アメリカはイラクを支援しました。
1991年、湾岸戦争勃発。クウェートに侵攻したイラクに対し、アメリカ・イギリスを中心とした多国籍軍・34か国が戦争に参加しました。
2001年同時多発テロ、2003年イラク戦争、アメリカはイラクをテロ支援国家とし、大量破壊慶喜所持疑惑を理由に攻撃しました。
戦争開始からわずか3週間でフセイン政権は崩壊、しかし、反米武装勢力によるテロが激化、7年にも及びました。
しかし、2010年8月31日、オバマ大統領がイラク戦争終結を宣言。
公式には、イラク戦争は終わった・・・。
ところが。。。
今でもテロは頻発。数は減ってはきているものの、去年のテロによる民間人犠牲者は2500人に上ります。
イラクの戦後復興と日本の関係はどうなっているのでしょうか?
イラクの首都バクダッドでは。。。
念のために外出するときは防弾チョッキ着用。車は防弾車。車一台に警備員が2人つけることを義務付けられています。
空には、ロケット弾を熱探知する飛行船がありました。
バグダッド中心部・グリーンゾーンと呼ばれる安全地帯では。。。
チグリス川が見えます。
この中には、首相官邸やアメリカ大使館などがあります。高い壁と鉄条網で守られています。
しかし、ロケット弾が撃ち込まれたりしていて、防空壕もあります。
民間警備会社は200社以上。その宿舎がホテルです。
看板には、危険度を示すパネルがありました。
危険度1 防弾チョッキとヘルメットを10分以内に着用できるようにしておく
危険度4 防弾チョッキとヘルメットを常に着用すること
バグダッドでは、今も緊張が続いています。
バグダッドには、フセインの残したモニュメントが残っています。
サダム・フセインとは、イラクの元大統領で、イランイラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争、この三度の戦争を指揮した独裁者です。
イランイラク戦争の勝利のモニュメント、その足元にはイラン兵士のヘルメットが埋められています。
治安状態が良くなったとはいえ、テロの危険と隣り合わせです。
クルド人自治区のハラブジャでは・・・。
目的地はハラブジャミュージアム。
イランイラク戦争の悲劇を今に伝えています。
フセイン政権下には、毒ガスによる悲劇も起きました。1988年無差別爆撃が行われ、この地区の住民5000人が亡くなったのです。ハラブジャ事件です。その悲劇を後世に伝えるために出来たミュージアムなのです。
クルド人が反乱を起こすかもしれない・・・というだけで虐殺したのです。その当時のままに展示がありました。生き残った人々も、後遺症に悩まされることになります。
同じくクルド人自治区エルビルでは・・・。
他の街と違って、治安がいい街です。
街には海外メーカーの看板がありました。
広大なショッピングセンターもありました。
経済状況が急速に活発化しています。
イラクの戦後復興・・・日本の関わり方が注目されています。
日本は石炭で復興しました。イラクの復興のカギは石油。
イラクの石油埋蔵量は世界第3位、にもかかわらず、ガソリンは輸入に頼っています。
精製設備が整っていないためです。
第二の都市バスラでは。。。製油所が。。。ここは、30年以上前に、日本の新潟鉄工が作ったプラントがありました。
日本とイラクの関係。
日本の戦後復興の経験が大変役に立つのでは?ということで、日本に学びたい、支援を受けたいという声が沢山あります。
日本の役割としては、基礎的なインフラ、生活をするための施設を作ることが必要です。
イラクの復興支援で原油生産、あるいは原油の積み出しが増えていくと、日本にとっても良いことです。イラクのようなエネルギーの豊富な国と友好関係をしっかりと結んで共存していくということが、必要なのです。
バスラ製油所の改良事業の設計段階までで、日本は21億円を援助、新プラントの建設も予定されています。
日本も頑張っていますね。

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イラクと日本経済の関係は?