2012年02月15日

加藤清正〜虎と呼ばれた忠義の男〜

THEナンバー2、加藤清正です。揺れるハート

貧しい農家の倅から天下人へ・・・。破竹の勢いで戦乱を制した秀吉。その日本史上No,1の出世男の小姓となり、大名にまで登りつけた男です。

彼は、武勇で名をはせ、日本三大名城の熊本城を築城。

さらに地方行政の能力にも長け、今日でも清正公(せいしょうこう)さんと崇められています。
黒南風(くろはえ)の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞 [単行本] / 伊東 潤 (著); PHP研究所 (刊)
黒南風(くろはえ)の海 加藤清正「文禄・慶長の役」異聞 [単行本] / 伊東 潤 (著); P...

秀吉の遠縁の清正が、小姓となったのは11歳の頃。
21歳で迎えた「賤ヶ岳の戦い」では、「賤ヶ岳の七本槍」として名を馳せます。

26歳で肥後北半国を治める大名へとなります。

幼名は虎之助・・・。その名の通り、朝鮮出兵では虎退治伝説まで。。。

宿命のライバルは、堺の商人の子として育てられたキリシタン大名・小西行長。

武功派の清正 VS 頭脳派の行長。 どちらが真実のNO,2なのでしょうか?

江戸時代の学者、荻生徂徠に、
「近世にて人の手本となるべきは、加藤清正を超えたるはなし」
と言わしめた男です。

子供のいなかった秀吉にとっては、清正は大切に育てたNo,2の一人でした。

1537年秀吉誕生。その25年後
1562年清正誕生。清正の母「いと」は、おねのいとこでした。
子供の頃の清正は夜叉丸と言われたほどの暴れん坊でした。

そのうわさを聞いて、隣の村からケンカをしにやってきた力士と才八。コテンパンにやられてしまいます。
この二人、後の加藤家の三傑のうちの二人、森本義太夫と飯田角兵衛でした。

1573年浅井家滅亡。領地を手に入れた秀吉は、長浜城を築城します。
もともと農民上がりの秀吉。譜代の臣などいるはずもなく、人材集めに奔走します。

秀吉の人材登用法
@敵の家来だったもの・・・藤堂高虎

A地元近江や利害関係者の息子・・・石田三成

B親戚や縁者の若者・・・加藤清正・福島正則・浅野行長・・・

清正は、11歳で秀吉の小姓となります。日本一の男、秀吉を誰よりも近くで見て育ちました。

1583年賤ケ岳の戦い
21歳で、敵の鉄砲大将・戸波隼人を討ち取り賤ヶ岳の七本槍となります。

これが、勝利伝説の始まりでした。

秀吉は、戦術には長けていましたが、実践では強くはなかったので、自分の武断派の部分を補うために清正を使いました。

武断派・・・清正・・・尾張閥
文治派・・・三成・・・近江閥

そうして、この関係は、関ヶ原まで続くこととなります。

戦国時代も後半、島津久光が九州で勢力を拡大。大友宗麟は、秀吉に助けを求めます。
1587年九州の役、20万の大軍で押し寄せて、島津を南部に押し込めることに成功します。

その戦後処理で、佐々成政に肥後を与えますが、肥後の統治に失敗。その責任をとって、成政は切腹します。

1588年その後釜に、北半国の大名になったのが清正26歳でした。
これを見事に統治した清正。行政の手腕も優れていました。
秀吉ゆずりの細かい行政、河川の氾濫を鎮める土木技術も持っています。その人気は高まります。
本人も、秀吉の期待に応えたい!!

同じく1588年、南半国の大名となったのが小西行長でした。
堺の商人の子でキリシタン、26歳で家臣となり、船奉行をしていました。水軍や水運で活躍します。
秀吉の交渉人―キリシタン大名小西行長 (メディアワークス文庫 な 1-5) [文庫] / 永田 ガラ (著); アスキー・メディアワークス (刊)
秀吉の交渉人―キリシタン大名小西行長 (メディアワークス文庫 な 1-5) [文庫] / 永田...
この二人の配置、朝鮮・中国という、西を見据えてのものでした。
お互いのライバル心は燃え上がります。
しかし、秀吉は、キリスト教について・・・
ヨーロッパ列強は、キリスト教の布教を最初に、植民地化してきたことを知っていて、キリスト教に対しては必要以上に警戒心を持っていました。

キリシタンの行長。天草はキリスト教が盛んでしたが・・・

1587年7月24日 バテレン追放令発令。

天草一揆がおこります。武力で抑え込みたい清正、話し合いで解決したい行長。
しかし、秀吉は、あくまでも二人で解決するように・・・。
これは、清正が力でねじ伏せるという結果で終わります。
水と油の二人。。。そのピークは朝鮮征伐で!!

1592年文禄の役が始まります。
一番隊隊長 小西行長 釜山に上陸し、漢城を目指して北上します。
二番隊隊長 加藤清正 5日遅れで釜山に上陸。強行突破で忠州で小西隊に追いつきます。

そして、自分を待たずに進撃した行長に対して怒ります。

しかし、行長には急ぐ理由がありました。それは、和平交渉をして、早く勝利したいということでした。

それに引き替え清正は、あくまでも軍事強硬派。秀吉の考え通り、戦って勝ちたかったのです。

つまり、どちらも一番乗りしたかったのです。

そんな中、朝鮮王は平壌に逃亡、これは行長が追い、清正は方向違いの「オランカイ」征伐に向かいます。
なぜなら、清正を主力から外すことは大都督石田三成も了解の事だったのです。

しかし、思いもよらぬことが・・・。清正が、朝鮮の二皇子を捕縛するのです。別ルートで交渉を始めてしまいます。

朝鮮出兵は、「朝鮮の南半分を手に入れて、中国とは戦わない」と、清正のいないところで方向転換していました。その交渉役が小西だったのでたまりません。。。。TOPシークレットのことで、現場の大名たちは知りませんでした。

この平和交渉工作の主要人物は小西行長と石田三成。もう、国内に土地がなかったので、暴発するエネルギーを止められず朝鮮征伐に向かったものの、突っ込んだけれどもどこかで手を引かなければ・・・
政権に傷のつく前に帰ってこなければ、政治が空中分解してしまう!!

行長には最前線に行く必要があったのです。

1596年4月清正に、日本への召還命令が来ました。
1596年9月5日、慶長伏見地震がありました。謹慎していた清正が、真っ先に秀吉の下に駆けつけます。
申し開きをして誤解を解くことのできた清正は、再び前線へ・・・。


しかし、行長との確執は悪化の一途を辿っていました。
1598年秀吉没。人々は、朝鮮征伐の責任を三成になすりつけます。
土地をとることが出来なければ部下に恩賞を与えることもできません。やりくりのできない三成・・・。

この体制のまま関ヶ原へ・・・。

関ヶ原直前に使い出した加藤清正の書状の刻印には、「履道応乾」とあります。自分の信じる道を進んで天命に応える」というものです。

1600年関ヶ原の戦い。で、石田三成・小西行長は打ち首に・・・。
清正は肥後52万石の大名になります。

1607年熊本城完成。
武者返しという石垣、実戦配備の城でした。
この熊本城は、豊臣の最後の砦と言われています。
というのも、本丸御殿・照君の間(将軍の間の隠語か?)には、万が一の時に秀頼を迎えるための部屋が用意されていたのです。

1611年3月26日 京都二条城で・・・
秀頼は、清正に支えられながら家康と会見します。
しかし、この時、秀頼は思っていたバカボンではなく、背の高い聡明な若者であることが家康の癪に障ります。
きっと、名君になる!!

当時はまだ、「天下はまわりもの」という時代。一番強いものが一番強い!!
徳川政権になっても、盤石なものにしなければ!!

秀頼はつぶしておかなければ!!!

この会見を引き金に、大坂の陣へと突き進んでいくのです。

1611年6月24日、加藤清正は、肥後に帰る船の中で死去してしまいます。
自分の使命は、秀頼の生を全うすることだったのに。。。

時は明治時代・・・。
西南戦争でも落ちなかった熊本城。

軍国主義の朝鮮出兵。そんな時、加藤清正に白羽の矢が立ち、再び伝説化するのです。


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posted by ちゃーちゃん at 13:48| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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