2012年02月10日

聖徳太子は実在したのか?

BS歴史館、聖徳太子は実在したのか?〜古代史の巨大な謎に迫る〜です。

聖徳太子と言えば・・・
「日本史最強の外交の英雄」第1位
「女性が彼氏にしたい歴史上の人物」第5位
です。

実力と人格の両面で人を引き付ける聖徳太子。
彼は、今から1400年ほど前に推古天皇の補佐役であった厩戸皇子とされています。
厩戸皇子は、古代日本にとって大切な役割をしたといわれています。

しかし、聖徳太子架空説が出るほど、その人となりは解っていません。

憲法十七条は本当に太子が作ったのか?
本当に、聖徳太子は時代の先端で政治を動かしていたのでしょうか?

架空なのか、実在なのか、何者なのか?それは、古代史の大きな謎です。

日本史を大きく動かした乙巳の変、大化の改新、日本書紀成立の謎について・・・。
日本が自立しようとしてもがいていた7世紀。
その英雄伝説と、知られざる謎とは一体何なのでしょうか?


沢山の偉大な業績が現代まで語り継がれている聖徳太子。そもそも、574年から622年に生きた厩戸皇子とされています。

当時の日本は、はっきりとした法律や制度がなく、国の基礎がなっていない状態でした。政治の方針は、天皇や皇族、有力豪族との合議で決められていました。

豪族は、それぞれ民や領地を抱えていたので、権力争いが絶えませんでした。
そんな時代に現れた、厩戸皇子は、推古天皇の補佐役として、後世聖徳太子と讃えられる活躍をするのです。

では、どんな活躍をしたのでしょうか?その人物像と業績に迫ります。

同時に10人の話を聞きわけた
未来を予言した
万能の天才・・・

古墳時代と奈良時代の間の飛鳥時代・・・。皇族の力関係で国が左右される時代。592年には崇峻天皇が暗殺されています。天皇を中心とする政治への過渡期・・・。まだ混沌とした世界に、国家の基礎を築いた人でした。

憲法十七条の制定
冠位十二階の制定
仏教(当時の最先端の学問)の導入
遣隋使

いろいろあります。

この憲法十七条、聖徳太子が亡くなってから100年後の歴史書日本書紀に記されています。

その決定的な記述は・・・。
「厩戸皇子は、推古天皇の皇太子になり、政治の全てをつかさどった」と、全ての業績を認めています。
この、一人で偉大な業績を成し遂げたという、超人的な人物像が、後世になって聖徳太子と呼ばれるようなった所以なのです。

しかし、根拠となっている「日本書紀」には、厩戸皇子が皇太子(天皇存命中に選ばれる唯一の後継者)になったとありますが、当時皇太子という制度はありませんでした。亡くなってから、次の天皇を決めていたのです。

ここには、100年後の常識が載っていました。つまり、全面的には信用しがたいのです。

厩戸皇子は聖徳太子だったのでしょうか?もし、この業績が一人のものでないならば、特別な存在として、集合代名詞として使った名前なのかもしれません。


業績の中で、厩戸皇子がしたとされているのは、斑鳩宮を作り、斑鳩寺を作り、そこに移り住んだとされています。
そこでは、飛鳥時代の建物の柱の跡が、たくさん出土しています。宮殿と寺が記述通り、隣接しています。斑鳩で宮殿に住む人物の記録は厩戸皇子のみ。この宮殿遺構は、厩戸皇子のものと特定されました。

飛鳥から大和川を下ること20キロの地点、それをさらに下ると難波の海へ・・・。この、斑鳩を拠点に選んだことが、さらに大きな業績へと繋がります。

日本書紀によると、
601年斑鳩宮を造営開始
605年完成となっています。
この頃は、国際外交の転換期でした。

随書・倭国伝によると・・・
600年、日本から使者が来たと記録されています。
この遣隋使、日本にとって切実な問題を抱えていました。
朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が勢力争いをしていました。日本はそれぞれと国交を結んでいたので、巻き込まれそうです。
そこで、直接隋と国交を結び、安定を図ろうとしていたのです。

しかし、長安で待ち受けていたのは厳しい現実でした。
遣隋使は、日本の政治の仕組みを満足に説明できず、おまけに正式な国書も持っていません。
隋は、未熟な国と判断し、国交を結んでくれませんでした。

この失敗が、厩戸皇子を斑鳩宮建設に向かわせました。
厩戸皇子読本
厩戸皇子読本
厩戸皇子の役割は外交だったと思われます。外交問題の解消に目を付けたのが、渡来人でした。
滋賀県西教寺には、厩戸皇子に影響を与えたといわれる渡来人が祭られています。
慧慈、厩戸皇子の師匠と言われる高句麗の僧です。その人に学び、文化の交流・外交の情報を仕入れ、国際知識を学びました。
厩戸皇子は、たくさんの渡来人を集め、斑鳩に最先端の文化と技術を集積させました。
斑鳩に流れる大和川は、難波津とつながっていて、その川を上って渡来人たちはやってきたのです。

607年第2回遣隋使
国書は、日本外交史上に残る書き出しです。
「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す」

これを読んで、隋の皇帝は国交を結びます。
大国隋との対等外交は、厩戸皇子の業績かも?

この日出づる・・・を読んで、煬帝が激怒したという説もありますが・・・
摩訶般若波羅蜜多心経の注釈書「大智度論」に、
「日出づる処は東方なり」
「日没する処は西方なり」という件があり、これを採用したのでは?とも言われています。聖徳太子の教養に、煬帝も一目置いたかもしれません。

それよりも、天子、中華思想では天子が二人もいてはいけないので、激怒するならばそこかもしれません。

慧慈をはじめ、たくさんのブレーンを抱え、多くの情報を持っていた厩戸皇子、海外に文化的な国であるとアピールできます。


憲法十七条は、604年の制定。
「和をもって貴しとなす」これは、日本最初の成文法です。内容は、国の役人に、仕事や生活の基本的な心構えを説いたものです。

この憲法十七条にも謎があります。
憲法十七条、日本書紀にのみ書かれています。
日本書紀の完成は、720年、奈良時代の初めのことです。
歴代天皇ごとに、巻が分かれていて、全30巻からなります。

そこの、22巻推古紀に記されています。
推古天皇12年(604年)4月30日
皇太子自ら憲法十七条を書き記した
第1条「和をもって貴しとなす」
第2条「あつく三宝(仏教)を敬え」・・・
全てが記されています。

最古の写しがあります。それは、厩戸皇子が定めた条文を、そのまま写したものと、考えられていました。
しかし、不自然な点が・・・

十七条の憲法には、文法上の誤りが19か所もあります。しかし、それは、推古紀全文にある、規則的な誤りなのです。=推古紀は、全て一人の執筆者が書いたものなのでは?という疑問です。

厩戸皇子の書いたものを書き写したのではなく、新たに作り出された可能性があるのです。
誰が書いたのか?高校の教科書にも、主語が書かれていません。。。。
どうであれ、十七条の憲法は、儒教・仏教・道教が満ち溢れ、賢い頭の持ち主が作ったことには間違いありません。

冠位十二階の方は、「隋書」にも記載されているので、間違いはないでしょう。

この十七条の憲法は、国家公務員法のようなもの。はじめは一人の人が書いていたとしても、固定されたまま伝わるのではない・・・最初は一人が書いても、いろんな人の議論が加わっていく。。。

歴史とは、たゆたうもの・・・。


では、「日本書紀」は何のために作られたのでしょうか?他にもたくさん編纂されていたのに・・・。
この日本書紀は天皇を教育する”帝王学”に資するための歴史書なのです。

そこに、一人の主人公としての聖徳太子が必要だったのではないでしょうか?
しかし、そこで考えなければいけないのは、歴史とは、勝者の記録であるということ。

厩戸皇子が622年に死去、日本書紀の完成は720年。
この100年の間には、乙巳の変、大化の改新がありました。

厩戸皇子には、有力豪族の協力者がいました。
蘇我氏、馬子です。

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子は、非常にいい関係が続いていました。馬子は、天皇から信頼を得て、政治の場で中心的な役割を果たしていたと思われます。

馬子の死から20年、蝦夷・入鹿の時代。天皇一族と蘇我氏は決裂します。

そこで起こったのが
645年乙巳の変が起こります。中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺。蝦夷はそれを知って自害します。蘇我氏本家の滅亡でした。強大な権力が滅びたのです。

この大改革、天皇と豪族が並び立つ構造から、天皇を中心とする三角ピラミッドへ・・・。これが、大化の改新です。これが行われなければ、今の日本はありません。新しい日本のために!!

では、なぜ蘇我氏は排除されなければならなかったのでしょう?

ああ、時間が無くなってきたので、あとはまた今度・・・週明けにでも。揺れるハート

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posted by ちゃーちゃん at 20:14| Comment(2) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 @実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 A貴重な金石文を正確に読みましょう。
 B地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記@ABを 徹底的に、探究しました。 
@古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
A七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
B地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
@草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
A発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
B稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
C少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
@箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)   
A渋谷向山古墳−410年頃
B行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
C五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
D中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
E石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
F誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
G大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
H見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
I太子西山古墳−585年頃
J石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
K天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
L持統陵(旧)−645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
@箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
A渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【@の子】
B行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【Aの子】
C五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【Bの弟】
D中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【Bの孫】
E石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【Dの子】
F誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【Dの子の婿】
G大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【Dの子の婿。Fの弟】
H見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【Fの子】
I太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【Hの子】
J石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【Hの子】
K旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【Jの子】
L旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【Kの子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

で、アメノタリシホコは
蘇我馬子であり
用明天皇でもあり
聖徳太子でもあります。

この4名は 実は たった一人の実在人物です。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
Posted by むらかみからむ at 2012年07月03日 09:15
貴重なお話をありがとうございます。(^O^)

私も高校生の頃、先生に、「いろいろな人の本を読んで研究してみたら、目の前が広がっていろんな解釈が出来るようになるよ。」って、言われたことを思い出しました。

いろいろ考えるのは楽しいですよね。
Posted by ちゃーちゃん at 2012年07月03日 16:40
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