2012年02月07日

私は雑賀衆?

日曜日は、あーこの作品が展示されている(と言っても、たくさんの子供たちも展示されています揺れるハート。)というので、和歌山マリーナシティへ。るんるん

まだまだ寒いのでポルトヨーロッパはお休みでした。

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でも、黒潮市場はたくさんの人がいました。DVC00484.JPG

みなさん、和歌山に来てくれて有難う。揺れるハート
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で、この辺で育った私、「こんな建物が出来て、きっと雑賀衆もびっくりしているだろうなあ・・・。」なんて、思ってしまいました。

雑賀衆と言えば、雑賀孫一です。この人、苗字が雑賀ではなく、雑賀の鈴木孫一です。で、和歌山には、鈴木さんが沢山います。

もともと、鈴木を名字とする家の多くは、熊野三山信仰と関係が深いです。

穂積姓鈴木氏は熊野本宮の出身で、蟻の熊野詣でで知られる熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師の筆頭として、神官を受け継ぐ家系です。

穂積姓の子孫ではなくても、当時苗字を持つことを許されていた武家、源姓や平姓などの中で、熊野本宮へ信仰心の深い武家には、神姓である鈴木姓を与えてきました。

そのため鈴木姓のほとんどが、神姓穂積姓または源姓・平姓を含む武家の子孫と考えられます。

鈴木氏が用いた家紋は「八咫烏紋」

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これです。


雑賀衆の鈴木氏は、戦国時代に紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の平井(和歌山市平井)あたりを本拠地としていた土豪です。

鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の5土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆の有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった。


雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは、「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、16世紀の半ばには鉄砲で武装した、ある程度の規模の傭兵的集団として活動していたのです。

そう、「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」泣く子も黙る、「雑賀衆」ですが、戦国時代の雑賀衆は大きく分けて5つの、土地ごとの組合のようなものに分かれており、それぞれが独自に行動していました。

各地で戦乱が起こっていた戦国時代、他の勢力に援軍を求める事はよくある事で、雑賀衆 も鉄砲が伝わる以前から、要請を受けて軍を派遣する傭兵的な役割を受けていました。

「鉄砲」を持っていた、その戦力を目当てに各地の大名家から頻繁に援軍を依頼されるようになります。
雑賀衆は 「鉄砲傭兵集団」 を持つ勢力となっていき、「雑賀を制すものは全国を制す」とさえ言われるようになりました。

地元のくせに、まだまだ勉強不足な私、石山合戦ですが。。。

雑賀衆には一向宗の門徒が多く、石山本願寺を支持、雑賀衆と密接な関係にあった根来衆は真言宗だったので信長を支持・・・。

これって、「私VSパパ」
ってことexclamation&question

いろいろ面白くなってきました。黒ハートまたいろいろ調べなければ。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 11:11| Comment(0) | 和歌山探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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