2012年01月22日

徳川慶喜将軍のナンバー2〜勝海舟〜

今日のナンバー2は・・・

日本が経験した未曽有の転換期、幕臣でありながら江戸無血開城をし幕府を崩壊させ、薩長同盟のキーマンとなった男、常に時代を先読みし、動乱を生き延びた行動力は、坂本龍馬や西郷隆盛に影響を与えました。

しかし、あまりにも先が読めすぎました。「もう政府はおしめえよ・・・。一度つぶれたほうが、日本の為になるってもんよ。」人々からは、裏切り者呼ばわりされます。

この男、英雄か?裏切り者か?徳川慶喜将軍のナンバー2、勝海舟です。

ちなみに、誠心誠意という言葉は、もともと勝海舟が、中國の古典から引用したものです。
彼は複雑な人で、言動がいつも疑われやすく、誰に狙われてもおかしくなかったにもかかわらず、77歳まで生きています。幕府でも要職に在りながら、新政府でも、参議という体制に参与した天皇を補佐する職に就いていました。

彼がいなければ、明治維新は変わっていたといっても過言ではなく「柔軟であり、日本全体を見る視野のある人」でした。

文政6年、江戸本所亀沢町に生まれました。幼名は、麟太郎。勝家の禄高、わずか41石の小普請組でした。仕事はほとんどなく、傘はりなどをして生計をたてていました。生活は困っていました。

海舟は、貧しい少年時代を送ります。性格は、短気でへそ曲がりでした。貧しさのはけ口となったのが、剣術でした。直心影流の師匠、男谷誠一郎に、「貧しさから目をそらせるな。幕臣として世に立つには、特殊な能力がなければいけない。それが、小普請組なんだ。」と説かれます。

この、男谷誠一郎江戸後期の幕臣で、剣客直心影流の達人だったといわれ、剣聖と呼ばれました。

23歳の時、これからは蘭学だ。。。と、蘭学修行をします。28歳の時、蘭学と兵法学を学ぶ私塾「氷解塾」を始めます。当時、蘭学といっても、医学であって、兵学に目をつけたのは海舟でした。

アヘン戦争以降、日本にも諸外国の圧力がかかってきていました。海防の強化と、蘭学の必要性を説きました。塾は大繁盛!!

時代は、黒船来航。日本列島は、蜂の巣をつついたようになった。老中筆頭の阿部正弘は、恐れをなし、幕臣はもとより町人にまで意見を求めました。その数、全国から700通。

その中で、特に異彩を放っていたのが・・・。

優れた人材を登用する。
軍艦を建造し、それによる交易で国防費を調達する
西洋式の兵制に改め、江戸の守りを固める

海舟の画期的な意見書でした。

この意見書が、幕臣・海防掛目付・大久保忠寛(江戸開城に尽力したのちの東京府知事)の目に止まり、海舟33歳にして、小十人組に昇進します。

海舟の負けじ魂の勝利でした。自分の不平不満をエネルギーとしてのし上がっていきます。

長崎の海軍伝習所でめきめきと頭角を現していう海舟。教頭にまで出世、貧乏でも出世できる!!有頂天となる海舟。そんな中、所長に木村善毅が就任、恵まれた家柄で、技能も経験もありませんでした。

1858年五島列島を巡り、下関・薩摩藩へ。そこで、島津斉彬と出会います。かれは、日本で一番最初に軍艦を作った国防の第一人者でした。

海舟の意見書を知っていた斉彬と意気投合。
「よの配下に西郷というものがおる。なかなかの利け者だ。勝殿にいつか引き合わせよう。」
「西郷殿ですか、その名前覚えておきましょう。」

島津斉彬に会ってから、海外を見なければ始まらない!!と、思った海舟。

日弁修好通商条約批准書交換のため、使節団を送ることになるが・・・その時の護衛の咸臨丸に、軍事頭取として抜擢されます。が、海舟は憤慨します。上司は、あの、木村善毅でした。「まだまだ封建制は終わっていない。。。」そうして、もう一人の天敵、福沢諭吉がやってきます。

太平洋は日本人の想像を絶する海で、連日の暴風雨で日本人水兵は役に立たず、アメリカ兵の力を借りました。海舟はひどい船酔いで士気も撮れず、このことを、諭吉が痛烈に批判しています。

「艦長室で寝てばっかりいやがって、なんだいあの男」

37日の航海の末、サンフランシスコへ入港。使節団に対し、日本人を祝うパレードが行われ、祝賀ムードが高まっていました。

先に帰っていた海舟は、全く別のことを考えていました。

「幕府に頼らずに、全国から人を集めよう・・・」=海軍学校創設。
それは、海舟を阻んでいたのは、門地、いわゆる家柄や家格でした。だからこそ、アメリカにはそんなモノのない、理想の国に見えたのです。
40歳にして、軍艦奉行並に昇進した海舟は、海軍学校構想を幕府官僚に訴えるも、官僚はこぞって反対、長州人はだめ!!とかを理由に、当時の幕府官僚には、「日本人」という感覚がなかったのです。

そこに、ぼさぼさ頭に汚い恰好の一人の男が・・・。
坂本竜馬でした。

竜馬に夢を語る海舟。藩だの身分など関係なく全国から人を集めたい!!日の本が一つにならなければいけない!!「日本のために尽力する」海舟の熱弁に圧倒された竜馬は、すぐに弟子入り。

最強タッグの誕生でした。
二人はまさに、日本を「Washing」しようとしていました。

勝は幕府のためではなく、日本のためになんとかしようとしていました。出世していく中で、海舟は、幕府の要人がいかに姑息か、足の引っ張り合いをしているのか、を痛感していました。総論賛成、各論反対、ぐだぐだと何も決まらない・・・。いまと同じような気もしますが・・・。

とにかく、日本の国のすべてを変えなければいけない!!という考え方に変わってきていました。

神戸に海軍操練所を開設した海舟。全国から多くの学生が押し寄せました。尊王攘夷・開国・倒幕、様々な思想をもった人間が、勝のもとで海軍となりました。

日本の夜明けは、そこまで来ていました。しかし、1864年6月5日池田屋事件が・・・。志士の中に、海軍操練所の望月亀弥太が加わっていたのです。これを契機に、長州が蛤御門を襲います。前代未聞の禁門の変が起こるのです。

もはや、海軍どころではありませんでした。その後、長州軍に安岡金馬が参加していたことが発覚、海舟は、幕府の反感を買ってしまうのです。「反幕府の巣窟だ!!」と。

海舟になすすべなし。海軍奉行を罷免、神戸海軍操練所の閉鎖が決まります。

「これで幕府もおしめえだ!!一度つぶれたほうが日本のためだ!!」

海舟の後を継いだのは、西郷隆盛でした。このときはまだ、薩摩は幕府側だったのです。
西郷は、海舟によって、新国家の青写真を見せられます。
この夜に、西郷が大久保にあてた手紙には、「海舟に惚れた」と書いているくらいで、薩摩藩の考え方が、藩同士が組んで協力するべきだという考え方に・・・日本国とするための方向転換した瞬間でした。
それが、やがて、薩長同盟へと繋がっていくのです。

逆に西郷は、あることを思いつきます。
「あいつらを西郷に託そう。」それは、坂本龍馬たちのことでした。
海軍の知識のある龍馬たちは、薩摩藩に抱えられ、亀山社中を立ち上げるのです。
亀山社中、実際にお金を出したのは、小松帯刀が、全権を持って当たりました。

龍馬と西郷、この二人が、薩長同盟を成し遂げて、明治維新へと進んでいったのです。
海舟の予想通り、幕府の威信は失墜し、第二次長州征伐失敗。その調停を図ったのが海舟でしたが、それを受け入れられない慶喜はこれを無視。慶喜は、倒幕に近い考えを持った海舟を信用していませんでした。

その後、海舟の唱えていた大政奉還によって、250年続いた徳川の時代が終わります。
さらに、愛弟子の龍馬が暗殺されてしまいました。

しかし、この後まだ、海舟一世一代の大勝負が待っているのでした。

薩長が望んでいたのは、武力による倒幕でした。西郷隆盛と岩倉具視は、徳川慶喜に大打撃を与えたのです。それは、慶喜を朝敵に追い落とす、王政復古のクーデターです。

錦の御旗を持った薩長と幕府軍の戦いが始まります。「鳥羽伏見の戦い」です。
最新兵器を要する薩長軍に、幕府軍は大敗。

慶喜は、江戸に退却。官軍の勢いは止まらず、江戸城総攻撃が始まろうとしていました。

追い詰められた慶喜は、苦渋の決断をします。「勝つしかいない!!」
海舟は、46歳にして海軍奉行並、陸軍総裁に昇進、幕府のNo,2に躍り出たのです。
「江戸を火の海にするわけにはいかない!!」
徹底抗戦を望む幕臣たちを封じ込め、江戸城無血開城へ官軍と交渉するのです。

その相手は、西郷隆盛でした。
西郷は、どうしても戦いたかったのです。それは、江戸までの間、華々しい戦果がありませんでした。ここで止めたとなると、どちらが勝ったのかさえわからない・・・。

これは、新政府を樹立した時に致命的でした。
だから、どうしても戦争がしたかったのです。

しかし、海舟は、イギリス公使のパークスに、「江戸が火の海になったら、イギリスとしても困るのでは?!」と、利害を持って圧力をかけました。
そして、戦争になったら、「江戸に自ら火をつける」それを西郷たちに収束させる力があるのか?と詰め寄ったのです。江戸の町民を逃がすための船まで用意していました。

また、慶喜は、もしもの時はイギリスに亡命させることになっていました。それだけの準備をして、海舟はこの会談に臨んだのです。

江戸城総攻撃二日前、西郷と交渉を開始。交渉は二日間にわたり・・・。
武器の購入先であるイギリスからの圧力もあり、海舟の通りに。西郷は交渉を飲むしかありませんでした。

先に手を打った海舟の勝利でした。江戸100万人の命を救ったのでした。

勝海舟が一番輝いていたのは、やはり、無血開城の時だったのです。

最悪の武力衝突を避け、明治維新へ・・・。自らの手で、幕府をつぶした海舟は・・・。

旧幕臣として、数々の役職を歴任、福沢諭吉は、幕府を見捨てた海舟を批判しています。「両親が病気で死のうとしているとき、看護の限りを尽くすのが子というものではないか」と。

しかし、海舟は、旧幕臣の就労を30年にわたり最後までみたといいます。

勝海舟の一刀両断!
勝海舟の一刀両断!

勝海舟(上)
勝海舟(上)


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posted by ちゃーちゃん at 23:51| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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