2012年01月19日

真珠湾攻撃への7日間・外交官たちの苦悩と誤算

久々のBS歴史館。「真珠湾への7日間・外交官たちの苦悩と誤算」です。
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1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が幕を開けます。そのぎりぎりまで戦争を阻止しようとしていた男たちがいました。

米・ワシントンの日本大使館で働いていた外交官たちです。緊迫する中行われた暗号解読合戦。大国アメリカとの決死の外交交渉が続きました。

「君には国賊になってもらいたい。それが唯一の戦争を防止しうる道だ。」
「万一この事件が外部に漏れれば、関係者をすべて殺すだろう」
「しかし、戦争を防いでたくさんの命を救えるならば、惜しくない命だ」

彼らが画策したのは、「ルーズベルトから天皇陛下に充てたメッセージ」でした。

しかし、戦争は始まってしまいました。”裏切り者の日本大使たち”という汚名を被ることになります。

ルーズベルトの演説には・・・。
「アメリカは、突然日本軍によって奇襲攻撃を受けました。この卑怯な行為に、アメリカは敢然と立ちあがり、必ず勝利するでしょう」と・・・。

なぜ食い止めることが出来なかったのでしようか?そして、なぜ、宣戦布告は遅れたのでしょうか?その真相は?

ワシントンDC大使館通りにある日本大使館、お仕事は、「文化の違い、考え方の違いをアメリカ人にわかってもらうこと。そして、日本の国益になることを・・・。」

当時の駐米特命全権大使は野村吉三郎。悪化する日米関係に奔走していました。

1941年11月、戦争回避に向けての最大の局面を迎え、折衝が行われていました。

交渉相手は、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと、国務長官コーデル・ハル。

日米が緊迫していた理由は、

1937年に勃発した日中戦争で、中国を支持したのがアメリカでした。大量の援助物資を中国に送り、日本に対して経済制裁をしていたのです。石油の対日全面禁輸を打ち出したアメリカ。当時8割をアメリカから輸入していた日本には致命的でした。

追い詰められた日本は、物資を求めて仏領インドシナへ進出、しかしそこにはアメリカやイギリスも近くに植民地を持っていました。

ジリ貧の日本。。。これを打開するためには・・・戦争・・・。という雰囲気になってきたのです。これに外務大臣東郷茂徳は反発、しかし、外交交渉までのタイムリミットは12月1日午前零時までと決定されます。

11月4日、対米交渉案「甲案」が野村の元へ。そこには戦争を打開するための情報がありました。
その第3条撤兵問題には、仏領インドシナからの撤退は、日中戦争解決後ただちに実行とありました。が、ハルは、日中戦争次第という点に引っ掛かり、首を縦にふりませんでした。

11月18日、その日まで2週間を切っていました。
アメリカ国務省でハルVS野村の話し合いが行われます。

野村は、野村試案といわれている独自の案を提示します。
それは、日本は南部仏領インドシナから兵を退くこと。アメリカは、資産凍結以前の状態に戻してひとまず緊張緩和を図ってはどうか?というものでした。

この野村試案にハルが関心を示します。
そこで、野村は、東郷外相に電報を打ちます。
「日本の政府首脳が平和政策を遂行するなら英・蘭を説得し、凍結令以前の状態に復帰することを考えてもよい」と、戦争回避のための妥協案への理解を求めました。
「支那事変も4年を超え、国力が疲弊しているときに、更に長期の大戦争をあえてするのは決して時期を得るものではない。私は一時的に局面を埋め合わせ、その百方努力した平和の間に交渉妥結という目的を達成したい。ここは、ギブ&テイクを以て、一時的な休止を図るのが、大きな理解の前提となると思う次第である。」と、必死の思いで訴えましたが・・・。

東郷からは、拒否と、叱責が。。。
「当方と事前の打ち合わせなく、試案を提示せられたるは、国内の機敏な事情にかんがみ、如何とするところにして、かえって交渉の遷延不成立に導くものというほかなし。」と。

東郷からは、軍部を説得することは不可能と、「野村試案」は取り下げられます。

そこで、「乙案」が提示されます。
これは、「甲案」にプラス
「米国政府は、日支両国の和平に関する努力に支障を與うるがごとき行動に出ざるべし」と、日中問題に口出しさせないという条項がありました。
これには、アメリカが難色を示します。
11月26日、その「乙案」の回答が、有名な「ハルノート」でした。

それは、今まで積み重ねてきたもの、全てを台無しとする強硬なものでした。
@仏領インドシナからの即時撤退
A中国からの即時撤退
B三国同盟の空文化

ということで、日本方にも受け入れがたく・・・。タイムリミットまであと4日にして絶望的・・・。
日米は中立同士なのに、中国に援助している・・・「アメリカ憎し!!」は、高まっていました。

アメリカとの関係は・・・。野村試案はフライングのような形となり、アメリカを騙すという結果になってしまいました。南仏領インドシナからの撤退は、日本の”隠し玉”だったのに、大使はいきなり見せてしまったのです。駆け引きができていない、外交官の力量が発揮できなかったのです。

東郷は本省至上主義、野村には交渉の余地はありませんでした。

日本には、「ハルノート」の衝撃が・・・20億円をかけて作った土地を返せと言われてしまったのです。

アメリカは、パープルマシン・日本の外務省の暗号解読するために作られた機械で、外交暗号はすべて解読されていました。外交電報は、暗号化された後、アメリカ電信局を経由して日本大使館に送られていました。アメリカは、その電信局から入手し、当然のように暗号は筒抜けでした。

必ずしも日本が一枚岩でないことはばれていたのです。

日本は、情報戦では劣勢でした。

CIAでは、情報が、直接大統領に届けられましたが、日本では必ずしも首相には届けられていなかったのです。日本独特の行政システム・・・今と同様、縦割りなので、情報が統合されておらず、途中で止まってしまうこともしばしばでした。首相官邸がすべてを握っているわけではないのです。

「乙案」伝達の問題点は・・・。

@アメリカ側に傍受されている恐れがある、ということで、細切れの電文だったということ。
A日本の外務省電報が陸軍にとられている恐れがあったということ。

東郷は、迂闊なことが言えなかったのです。

1941年11月26日のハルノートで、日本は開戦へ大きく舵を切ることになります。
択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)から海軍機動部隊が出撃、そのことは、ワシントンには一切知らされていませんでした。

バージニア州、ノーフォース、マッカーサー記念館には、戦後のアメリカ軍人と日本外交官との手紙のやり取りが残っていました。寺崎英成一等書記官の手記です。そこには、ハルノート後の日本の外交官のやり取りが残っていました。

駐米特命全権大使来栖三郎より・・・
「君には国賊になってもらいたい」
「どういうことですか」
「こうなったら戦争を防ぎ得るのは天皇陛下しかいない。大統領から天皇陛下に御親電を打って戴くよう図ってもらいたい。それが唯一の防止得る路だ。」

この御親電とは、一国の元首がその名のもとに発する電報のことです。直接トップダウンして戦争を阻止しようとしたのです。

FBIは、アメリカ人の妻を持つ寺崎に目をつけていました。御親電工作を依頼された翌日、スタンレー・ジョーンズという牧師を通じてルーズベルトに会おうと試みます。

12月3日に会談します。
しかし、12月6日御親電が新聞報道されるのです。
その内容は・・・。
日本国天皇陛下(に対して・・・)
両国にとって重大な場合、(現在の)深刻で広範な非常事態、まさに今がその時、私と陛下が両国の友情を回復させる神聖な責務を負っている。
と・・・。

しかし、日本では、12月1日の御前会議の時点で、開戦が決定していました。
「ニイタカヤマノボレ1208」と、命令が下っていました。
12月7日正午、東京電信局にルーズベルトからの「御親電」が届きます。
真珠湾まであと15時間半・・・。この御親電は、10時間も電信局に留め置かれることになるのです。

この御親電が遅れた理由は・・・。
「もう今更御親電を届けても、かえって現場が混乱をきたす。したがって、御親電は10時間以上遅らせる処置をした。そうすることによって、陛下も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考える」軍部の人たちの考えでした。

この御親電が天皇陛下に渡ったのは12月8日午前3時、攻撃の20分前でした。この時、すでにハワイ上空には日本軍が・・・。外交官たちの最後の切り札は実を結ぶことはなかったのです。

この親電、もし天皇陛下の手に渡っていれば効力はあったのでしょうか?たぶんなかったでしょう。しかしそこには「二・二六事件」を抑えた昭和天皇への期待があったあのです。

しかし、今回は”総帥と国務”一致での開戦決定だったので天皇といえど覆すことは難しかったのです。

が、現場の外交官たちには真珠湾攻撃を全く知らされていませんでした。

アメリカは開戦したかったのでしょうか?
それはわかりませんが、日本に対して不満を持っていたのは事実です。アメリカは、真珠湾攻撃の翌日、攻撃から1時間後に日本の駐米大使が外交交渉の公式返答を提出した。と、発表、そこには、日本からの軍事攻撃による戦争への警告は一切示唆されていないと発表します。

その行為を、日本の裏切りであり、卑怯と罵りました。

なぜ通告は遅れたのでしょうか?

日本と在米外交官の間には、情報を巡って認識のずれがありました。
12月6日、ワシントンの在米外交官の元にハルノートの回答通知が送られてきます。そこには、「アメリカ側に提示する時期は追って知らせる」と、ありました。

長文なので、前文の受け取りは明日になるかもしれない・・・。

アメリカに対する最後通牒・・・「対米覚書」そこにはアメリカに対する非難が書かれていましたが・・・。14部に分割され、時間をずらし2時間かけて13部が到着、最後の1部がなかなか届かず、来たのは朝9時でした。

そこには「今後交渉を継続するも、妥協に達することを得ず」と書かれており・・・あわせて送られてきた指示にびっくりします。「午後1時にハル国務長官に手交せよ」

この時、10時30分、手交時刻まであと2時間30分のことでした。これを正式な文書に・・・。外交官は、これを「最後通牒」と気づいておらず、野村が国務省に到着したのは2時20分。すでに、1時間前に真珠湾攻撃は始まっていました。

ハルは、50年の公的生活を通じて自分はこれほど不名誉な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない!!と、言い放ちました。

その時点では、「なぜ?」と、気づいていませんでした。大使館に帰ってすべてを知ることになるのです。すでに開戦を知っていたハルに対して、外交交渉通知という意味のない通知をしたのですから。

どうして「外交交渉打ち切り」という最後通牒になったのでしょうか?それは、軍部が「一切の事態」というのは戦争する意図を表明することになるから困る。この際は、外交も軍事戦略に協力せよ!!どうしても真珠湾を成功させたい!!ということで、「外交交渉打ち切り」という文書になったのです。

開戦の意図を表明するものは一切削除するべし、それが軍部の意向でした。しかし、これが、リメンバー・パールハーバーへとつながっていき、アメリカの繊維を向上させる結果となりました。大義名分を与えてしまったのです。

当時は・・・宣戦布告は必ずしも必要ではありませんでしたが、日米のアピール合戦に負けた結果といえるでしょう。

ここで日本人が学ばなければいけないのは・・・国が情報を扱うことのむずかしさです。失敗から学ぶという冷静な検証が大切ですが、真珠湾攻撃の教訓はなんだったのでしょうか?

写真集 真珠湾攻撃
写真集 真珠湾攻撃

はめられた真珠湾攻撃 ルーズベルトに仕組まれた恐るべき伏線
はめられた真珠湾攻撃 ルーズベルトに仕組まれた恐るべき伏線


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posted by ちゃーちゃん at 12:49| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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