2012年01月11日

天保の改革に命を捧げた男〜水野忠邦〜

水野忠邦は、十二代将軍家慶の元、天保の改革を行い、飢饉と放漫政治でぼろぼろの経済を立て直すため厳しく取り締まった人物です。

彼は、人々に悪魔外道とまで呼ばれることとなります。しかし、外国に対する危機感を持っており、いち早く改革を訴えた人物でもありました。

かれは、本当に悪魔外道だったのでしょうか?それとも、究極の正義の政治家だったのでしょうか?
出世のためには手段を選ばない人もいます。誤解されても自分の政治道を貫く人がいます。そこには強い意志がありました。


当時の幕府は、たくさんの難題を抱えていました。いつも抱えているような気もしますが、今回は、難題です。赤字財政の上、外国の南下が始まっていました。

水野忠邦は、今の佐賀県、唐津藩・唐津城で19歳にして家督を継ぎました。
唐津藩とは、代々長崎の警護が主な仕事でおまけにその仕事はたくさんあって・・・中枢に行くこと、出世することはありませんでした。

そこで忠邦は、自ら浜松へのお国替えを願い出ました。 この二つの藩、同じ6万石でしたが本当は大違い。唐津藩は外国と商売していたので実は20万石もありました。家臣たちは大反発!!切腹を覚悟している家臣たちを横目に、賄賂を使い浜松城に転封となります。

そこまでして、なぜ?それは、浜松城には14代いたことになるのですが、老中など幕閣への登竜門だったのです。水野忠邦には、強烈な野心がありました。

その後、寺社奉行→32歳で大坂上代→33歳で京都所司代→35歳で江戸城西の丸老中→41歳で本丸老中・・・と、まさにとんとん拍子。なりふり構わずの出世でした。藩の財政は、8600両の赤字となりましたが、半分は賄賂でした。ただ、当時の賄賂は今の賄賂とは違い、公然と当たり前のように行われ、本人も、やる気があると思ってもらえるというものでした。

十二代将軍の家慶には全く力がありませんでした。というのも、11代将軍の家斉が、大御所として権威を振るっていたからです。そうして中国では、アヘン戦争が始まりました。

諸外国は、次は日本にやってくる!!しかし、家斉がいる限り、水野は権力を振るえません・・・。が、天保12年大御所家斉が死去、それは水野が本丸老中になって7年目のことでした。

天保の改革が始まります。

当時の日本は、内憂外患、財政の悪化と諸外国の南下とのダブルパンチ!!


徹底した倹約を行います。500件あった寄席を閉鎖、15件となりました。江戸三座は郊外に移転、おまけに政策に批判する者は摘発しました。
その手先は、当時の南町奉行・鳥居耀三(名前の耀三と役職の甲斐守から耀怪といわれる)、物申したのが北町奉行・遠山景元(金四郎)でした。
この鳥居耀三、町奉行として天保の改革を推進し、強権政治で江戸市民から恐れられました。特に有名なのが、「蛮社の獄」。この蛮社とは、洋学仲間の意味で、「蛮学社中」のこと。天保10年に行われ、渡辺崋山、高野長英ら蘭学者を投獄し、迫害した思想弾圧事件のことです。

庶民は、おおっぴらに批判できないので、絵などにして風刺しました。ここから悪魔外道となってしまったのです。その結果、江戸中が倹約、江戸中が活気がなくなります。

水野忠邦は、倹約して再建し、国防に回したかったので。。。
上知令を出します。これは、江戸近隣にある大名、旗本の領地を返上させ、幕領に編入し、大名や旗本には代地を与えようとしたものです。これは、国の財政ために、直轄地を増やそうとしたものです。

日本近海には欧米列強が・・・。アジアに進出して来ています。

1840〜42年中国のアヘン戦争。忠邦は、次は日本が狙われる!!と思っていました。

1837年、モリソン号事件が起こります。これは、日本人漂流者を送り届けるために来航した米国商船を幕府が無二打払令に基づいて砲撃した事件です。
こんなことがたびたび起こって、江戸湾を封鎖されたらどうなる?

江戸は消費の町。。。町人も武士も餓死してしまいます。
そこで、今まで無二打払令(見つけ次第砲撃)を、薪水給与令(薪や水を与えて穏便に帰らせる)に変えました。

1838年から台場を構想していましたが、1841年武州徳丸ヶ原での西洋砲術演習をはじめ、水害対策と水運の確保から印旛沼の開発を構想していましたこれは、江戸が孤立しないように水上ルートを作ろうというものでした。これには、のべ100万人が参加したといわれています。


TOPは危機意識を持っているのに、下は他人事のように思っている。。。おまけにお金がない。だから、上知令をだし、天領を作ってお金を作りたかったのに・・・。

このままでは、諸外国の植民地になってしまう・・・。


しかし、今も昔も、日本人は、総論賛成、国論反対、結局は体制に負けてしまって、将軍により上知令は撤回されます。その結果、水野忠邦は天保14年に罷免。流されてきた江戸市民が暴徒と化し、屋敷を襲撃します。


忠邦以上に国家の危機意識を感じている人はいませんでした。国を救うためには開国しかなかったのに・・・。気が付いたら、ペリーが来てしまっていました。
日本の国内の改革は、ことごとく失敗しています。

外圧のかかった改革
大化の改新
明治維新
太平洋戦争後  のみ成功しています。

日本人は、既得権益を放棄しての改革が苦手なようです。ゼロからではなく、マイナスからの出発からしかできないのかもしれません。

失脚を余儀なくされた水野忠邦。しかし、考えた方向、目指したものは間違っていませんでした。

1853年ペリーが来航し、幕府は慌てます。忠邦の死後お台場は建設されることになりました。。。

開国の時・・・江戸幕府の終わりは近づいていました。

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posted by ちゃーちゃん at 13:14| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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